前回は、赤ちゃんを育てることが、赤ちゃん=人の自分自身を育てる上で、とてつもなく大事なことを、エリクソンは教えてくれていましたね。今日は、それがうまくできない時の、そら恐ろしい部分が語られています。
では、翻訳です。
しかし、私どもは一人の人の生育歴に従って進んでいく時、陽気な儀式化すべての影の部分である、人を欺きもすれば、自分自身をも欺く傾向についても意識していきましょう。私は広範な社会病理の一つの要素を、それぞれの発達段階において名付けようと思います。その社会病理の要素ために、儀式化は、あらゆる現実(議論してきたように三つの意味において)に対する整然とした関係において、「偽りの儀式化」、あるいは、もっと単純に「儀式主義」と呼びうるものにねじ曲がってしまいます。この「偽りの儀式化」ないしは「儀式主義」には、いろんな形があります。日常的な規則を強迫的に守ることから、ごまかしでしかない熱狂的な幻を、強迫的に繰り返し言い立てることまで様々です。こういった儀式主義の最初のものは、「偶像崇拝」と呼んでいいでしょう。それは、ヌミノースに対する畏敬の念を歪めてしまいます。このような「○○主義」は、もちろん、支配的な性格の形や重要な社会的傾向にふさわしいことが多いのですけれども、しかし、事実に対しても基本方針に対しても、遊びのある関係を失って、「今までもそうしているから」等と言って強迫的になる傾向があります。このようにして、ヌミノースは、赤ちゃんの世話をする時になくなってしまう可能性があります。世話をする態度(ここが肝心なところなのに)が、言葉の真の意味で、尊敬と深い愛情がある時に受け継がれる、心理的に世代間を結びつけることを成し得なくなってしまいます。「完璧でなければならない」という幻は、「自分は完全でなければならない」という幻想を含むものですし、偶像崇拝をする人と偶像との関係において現れるものですが、自己愛と呼ばれる自分に対する衝動的なこだわりの強さゆえに、歪められてしまうのです。自己愛(ナルシズム)とは、山上の池に映った自分の顔(自分の顔であると同時に、死んだ双子の妹の顔でもある)を捨て去るのではなく、自身が死んでしまった神話上の青年になぞらえたものです。すなわち、その青年は、二重の鏡に映った、永遠に続く自分の幻をずっと追い続けたのであって、目の前に生きている愛する相手に、命がけで賭けてみることをしなかったわけです。
以上が翻訳です。
ちょっと怖い内容ではなかったですか?そうでもなかったでしょうか?
最近は、小さいときに自分を大事にされなかったために、自己愛が過剰な人がとても多いでしょう。このエリクソンの指摘は、実に生き生きとしていて、私はちょっと背筋がゾクッとします。特に、二重鏡の部分など、本当に「良くできている」と感じます。鏡に映った自分を、別の鏡に映した時に現れる、次第に小さくはなるけれども、無限に続く自分の顔。それが二重鏡(a double mirroring)です。自己愛は、終わりがない幻を追うものだ、とのエリクソンの教えは、実に見事でしょう。そんなことはさっさとケリをつけて、目の前の、隣の、すぐ近くにいる人(赤ちゃん、子ども、旦那、奥様、兄弟、ご近所の人…)を、自分が大事にされたように、“意識して”大事にしたいものですね。
本日ここまで。
では、翻訳です。
しかし、私どもは一人の人の生育歴に従って進んでいく時、陽気な儀式化すべての影の部分である、人を欺きもすれば、自分自身をも欺く傾向についても意識していきましょう。私は広範な社会病理の一つの要素を、それぞれの発達段階において名付けようと思います。その社会病理の要素ために、儀式化は、あらゆる現実(議論してきたように三つの意味において)に対する整然とした関係において、「偽りの儀式化」、あるいは、もっと単純に「儀式主義」と呼びうるものにねじ曲がってしまいます。この「偽りの儀式化」ないしは「儀式主義」には、いろんな形があります。日常的な規則を強迫的に守ることから、ごまかしでしかない熱狂的な幻を、強迫的に繰り返し言い立てることまで様々です。こういった儀式主義の最初のものは、「偶像崇拝」と呼んでいいでしょう。それは、ヌミノースに対する畏敬の念を歪めてしまいます。このような「○○主義」は、もちろん、支配的な性格の形や重要な社会的傾向にふさわしいことが多いのですけれども、しかし、事実に対しても基本方針に対しても、遊びのある関係を失って、「今までもそうしているから」等と言って強迫的になる傾向があります。このようにして、ヌミノースは、赤ちゃんの世話をする時になくなってしまう可能性があります。世話をする態度(ここが肝心なところなのに)が、言葉の真の意味で、尊敬と深い愛情がある時に受け継がれる、心理的に世代間を結びつけることを成し得なくなってしまいます。「完璧でなければならない」という幻は、「自分は完全でなければならない」という幻想を含むものですし、偶像崇拝をする人と偶像との関係において現れるものですが、自己愛と呼ばれる自分に対する衝動的なこだわりの強さゆえに、歪められてしまうのです。自己愛(ナルシズム)とは、山上の池に映った自分の顔(自分の顔であると同時に、死んだ双子の妹の顔でもある)を捨て去るのではなく、自身が死んでしまった神話上の青年になぞらえたものです。すなわち、その青年は、二重の鏡に映った、永遠に続く自分の幻をずっと追い続けたのであって、目の前に生きている愛する相手に、命がけで賭けてみることをしなかったわけです。
以上が翻訳です。
ちょっと怖い内容ではなかったですか?そうでもなかったでしょうか?
最近は、小さいときに自分を大事にされなかったために、自己愛が過剰な人がとても多いでしょう。このエリクソンの指摘は、実に生き生きとしていて、私はちょっと背筋がゾクッとします。特に、二重鏡の部分など、本当に「良くできている」と感じます。鏡に映った自分を、別の鏡に映した時に現れる、次第に小さくはなるけれども、無限に続く自分の顔。それが二重鏡(a double mirroring)です。自己愛は、終わりがない幻を追うものだ、とのエリクソンの教えは、実に見事でしょう。そんなことはさっさとケリをつけて、目の前の、隣の、すぐ近くにいる人(赤ちゃん、子ども、旦那、奥様、兄弟、ご近所の人…)を、自分が大事にされたように、“意識して”大事にしたいものですね。
本日ここまで。
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