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戦死者でない韓国人60人、靖国神社が無断で合祀 中には生存者も(東亜日報)::「〈不逞鮮人〉とは誰か(6)」

2022年01月30日 | 韓国・北朝鮮問題

友人の川口重雄さんからのメールを転載します。

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各位                    1月30日〔本日第2信〕
第2信は、友人から届いた下記の注目の新刊情報と「〈不逞鮮人〉とは誰か」、
講演会2つ、新聞記事4点です。
新刊の『靖国神社「韓国人」合祀経緯・合祀名簿の真相調査』ご希望の方は、友人に取り次ぎます。
送り先の名前・住所・電話番号をお知らせください(2月4日(金)まで)。
送料込み870円、振替用紙同封で発送していただきます。
【講演会】添付ファイルをご参照ください。
1.JCJオンライン講演会「日本の政治はどこへ」
日時:2022年2月19日(土)14:00~
演者:辻本清美
参加ご希望の方は、ネットPeatixで参加費を払って申し込んでください。
https://seijinoyukue.peatix.com/
上記をクリックしてください。
2.「見直しの声強まる!「リニア新幹線」
日時:2022年2月26日(土)13:00~17:00
演者:天野捷一(リニア新幹線沿線住民ネットワーク共同代表)
会場:かながわ労働プラザ(Lプラザ)4F第6・7会議室)
交通:JR石川町駅から徒歩3分(横浜市中区寿町1-4)
参加費:500円
主催:日本ジャーナリスト会議神奈川支部
【新聞記事】
1.「首相 突き上げられた末」『朝日新聞』2022年1月29日号
文中下段の「産業遺産情報センター」、見学をお勧めします。
以下に日本政府が過去と向き合わないか、その証拠となる展示がいっぱいです。
2.「「君が代」強制訴訟 大阪高裁「違法」」『東京新聞』2022年1月30日号
3.前川喜平「本音のコラムー命どぅ宝」『東京新聞』同上
偶然ですが、前川氏も『命どぅ宝』を取り上げています。
4.篠田博之「宮内庁 怒濤の反論攻勢」『東京新聞』同上
それでは。川口重雄拝

-----Original Message-----
[新刊]『靖国神社「韓国人」合祀経緯・合祀名簿の真相調査』(調査責任者:南相九・日帝強制動員被害者支援団体・211220)韓国語版(2007.04.30)の日本語版。翻訳叢所1報告書。靖国神社祭神に関して、考えるときの必読資料の一冊になるでしょう。
一般書店での販売はありません。
[参考]
戦死者でない韓国人60人、靖国神社が無断で合祀 中には生存者も(東亜日報)070812
https://www.donga.com/jp/article/all/20071024/301237/1
第2次世界大戦期間中、日本軍に強制に連れて行かれた韓国人の軍人や軍属のうち、戦死者として間違って処理され、靖国神社に合祀された人が計60人の上ることが明らかになった。
日帝強占下強制動員被害真相究明委員会(真相究明委)は23日、「靖国神社の韓国人合祀の経緯や合祀者名簿の真相調査」と題した報告書を通じて、靖国神社が合祀した韓国人2万1181人のうち、13人が現在まで生存しており、47人が戦後に死亡したことを明らかにした。
このうち軍人として強制徴用されたのは8人で、軍属は52人だった。軍別では、陸軍所属が10人で、残りは海軍所属だった。
韓国政府が、靖国神社に合祀された韓国人関連の総合調査報告書をまとめたのは初めてだ。
●「生存」証明されても合祀者名簿から削除せず
戦争中の死亡者でない人が60人も靖国神社の合祀者名簿に記録されたことについて、真相究明委は、戦後補償から除外された韓国人たちへの死亡確認作業がまともに行われなかったためだと分析した。
真相究明委・調査総括課のオ・イルファン遺骸チーム長は、「日本政府は日本人戦死者の遺族には補償金や靖国神社への訪問用の交通費の割引券を支給しながら、一つ一つ確認の手続きを経て、生存者を確認した」とし、「しかし、韓国人に対してはこのような検証をする意思がまったくなかった」と話した。
報告書によると、60人のうち、これまで本人や遺族の同意を踏まえて、合祀者名簿から名前の削除要求があったのは38人(生存者=9人、遺族=29人)。しかし靖国神社側は、生存者や遺族たちが「名簿削除」や「合祀取り下げ」の判定を要求しても「生存確認」の通知をするだけで名簿からの削除には応じなかったという。
とくに神社側が保有している名簿のうち、もっとも重要な名簿とされていいる「霊璽本」は神の領域なので、いかなる表記も新たにすることは出来ない、という反応を示している。
オ遺骸チーム長は、「靖国神社側は合祀者の分祀はないという原則を主張してきた」として、「名簿からの削除や合祀の取り下げの代わりに生存確認というあいまいな表現を使い、霊璽本は修正できないと言うのは、神社側が合祀者の名簿に間違って掲載された人たちを除外する意思がないという意味だ」と解釈した。
●「当時、韓国人は日本人だった」
報告書は、遺族の同意なしで「無断合祀」をするのが伝統だと主張してきた靖国神社側の論理に反ばくする事例も盛り込んでいる。
これまで靖国神社側は、「合祀は明治以来の伝統を引き継ぐもので、事前に遺族の承諾を得て祭ることはない」と主張した。
しかし報告書によると、日露戦争中だった1904年、歩兵を輸送した陸軍の輸送船「常陸丸」が、ロシア艦隊の攻撃を受けて沈没した時、死亡した船長など3人の英国人については、靖国神社が遺族たちの同意を得て合祀した。
これについて、オ遺骸チーム長は、「靖国神社は英国人は外国人なので、遺族の同意を求めたが、韓国人は当時日本人の身分だったので、同意を求める必要がなかったと主張している」と話した。

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<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(6)

「十五円五十銭」の闇その4…「朝鮮人識別法」(アジアプレス)220125
https://news.yahoo.co.jp/articles/d5f4db2e44d81017b3fa462cb39c13098fd0ae51
1/25(火) 11:32配信
「三・一独立運動」のレリーフ(ソウル・タプコル公園。筆者撮影)
「十五円五十銭」という謎の言葉は、外見上日本人と区別できない朝鮮人を見つけ出すための識別法だった。1919年の三・一独立運動の衝撃から、朝鮮総督府は「武断政治」を「文化政治」に改め、朝鮮人の抵抗心を抑え込もうとした。しかしその一方で、〈不逞鮮人〉追及の手を緩めることはなかった。(劉永昇)
◆朝鮮人識別法
関東大震災が起きた1923年当時、日本には約8万人の朝鮮人が在住していた。第一次大戦時、戦時好況に湧いた産業界は、一方で深刻な労働者不足に直面していた。そこで着目されたのが、安価な労働力である朝鮮人であった。
1919年朝鮮全土に湧き起こった大規模な独立運動である「三・一独立運動」時には一時的に渡航制限(1922には廃止)がかけられたが、「内地」日本に渡る朝鮮人の数は年々増えていた。
しかし、治安当局は取締りの手を緩めたわけではなかった。大戦後の不況に陥ると、失業した朝鮮人が労働運動に身を投じて社会主義者と結びつくのではないか――、そうしたおそれから〈不逞鮮人〉への警戒はよりいっそう強められていった。
必要なのは「識別」することだった。日本人か朝鮮人かの識別、そして〈不逞〉朝鮮人か〈善良〉な朝鮮人かを官憲は区別する必要があった。
「身長内地人ト差異ナキモ、姿勢直シク腰ノ屈ムモノ及ビ猫背少ナシ」「顔貌亦(また)内地人ト異ナラズモ、毛髪軟ニシテ且(かつ)少ナク髪ハ下向ニ生ズルモノ多シ。顔面ニ毛少ナク俗ニノッペリ顔多シ」「発言ニ抑揚頓挫アリ流暢ナリ」
「発音ニ濁音ガギグゲゴハ最モ困難トス」「発音ノ際ラ行ラリルレロハ判明セズ。例エバ「ラ」ハ「ナ」、「リ」ハ「イ」」これは日韓併合から3年後の1913年、内務省警保局が配布した文書「朝鮮人識別資料ニ関スル件」の一部である。日本人と朝鮮人を識別する方法が列挙されているが、両者の外見の差異は微妙で識別が困難なことがうかがわれる。重要なのは後半に挙げられた発音上の特徴である。
◆「ジュウゴエンゴジッセン」の謎解き
小説『十五円五十銭』は、列車内での兵士による点検のくだり以後、小説的な表現を離れて、作家自身の憤慨がそのまま記されていくが、その中で「ジュウゴエンゴジッセン」の謎解きに触れている。
朝鮮人であるかないかを調べるためには、必ず濁音のある言葉を言わせたそうだ。例えば座布団、ザブトンをサフトンと発音して、その場で自警団のために惨殺された鮮人もある。私が汽車の中で目撃した出来事。「ジュウゴエンゴジッセン」と云う濁音の多い言葉を、若(も)し満足に発音できなかったとしたら、恐らくあの労働者もどんな目に遭わされたかも知れない。
朝鮮語の特徴である、語頭の最初の音が濁らないという規則を逆手に取ったのが、この「十五円五十銭」という識別法だった。軍人がこの識別法を利用していることに、壺井は権力の意図を嗅ぎ取っている。
十五円五十銭。一人の兵士の口を借りて云わせたこの奇異なる言葉の裏に、我々は支配階級の死物狂いの姿を見逃す訳には行かない。
◆「武断政治」から「文化政治」へ
内務省の「朝鮮人識別法」は、相手が「日本人」か、「朝鮮人」かを見分けるためのものだ。外見上の識別が困難な両国人の混在が、日本国内の治安維持の妨げとなることを危惧してのことである。朝鮮人は、内地においては異邦人であることをくっきりと印付けられねばならなかった。
留学生や労働者は内偵を付けられて監視され、ときに拘引され拷問を受けた。併合により韓国民を日本国籍に組み入れた後、日本政府は「内鮮一体」のスローガンを掲げて融和を説いたが、それは上辺の言葉に過ぎなかった。
一方、「外地」朝鮮を統治する朝鮮総督府が取り組まねばならなかったのは、〈不逞〉と〈善良〉の識別だった。併合10年を前に勃発した三・一独立運動は総督府の統治方針を転換させた。兵力を背景にした「武断政治」から、より融和的な「文化政治」に改め、朝鮮人の抵抗心を慰撫しようと考えたのである。
◆「善導」主義の逆輸入
総督府の政務総監・水野錬太郎はこの改革の任にあたり、朝鮮人に対する警察の接遇態度を和らげるよう改めさせた。「善導」主義と言われるこのやり方について、当時の警察官僚・田中武雄は、民族の反抗心は到底抑えきれるものではなく「朝鮮人を本にした、最大限朝鮮人が満足する」ように統治しなければならなかったと後年回顧している。
日本人官憲の態度は、三・一独立運動を境に「呵罵叱責を事としていた」ものから「温言和気」に変化したと『東亜日報』の社説も書いている。
この「善導」主義は内地に逆輸入された。朝鮮人留学生が多い西神田署の加々尾橙太郎所長は、総督府政務総監・水野錬太郎との会合の中で、「鮮人を愛撫し充分に彼等に優しい親しみを有する方針」を唱え(『時事新報』1919年11月19日)、「朝鮮人相談部」を署内に新設している。
1921年になると特別高等警察課内に「内鮮高等係」が設けられ、朝鮮人の就業・就学、住居、医療、結婚などの相談窓口となった。初代係長の薦田定保は、「常習的不逞鮮人に強烈なる取締と圧迫を加え」、そうでない朝鮮人には「善導を与える」方針を述べている(『朝鮮警察新聞』1921年9月10日)。
「善導」主義の挫折
しかし、「善導」主義が必ずしも朝鮮人統治の主流方針となったわけではなかった。「厳罰」主義を志向する司法省の方針とのせめぎ合いもあったし、かえって朝鮮人の民族心を育成するのではないかという疑念を持つ者も少なくなかった。
朝鮮の武断統治政策を再三批判した吉野作造もまた、「(「善導」主義は)本人の要求、本人の必要を深く考えない、余計な御世話」であるとした。侵略者に一方的に与えられた「括弧付きの自由」を、被支配者が心から喜んで受け容れるはずがないということだ。
また一見すると融和的に見え、理性的に思えるこの「善導」主義には、大きな矛盾が内在していた。〈善良〉の中の〈不逞〉を見つけ出すためには、つねに〈善良〉を警戒し、監視していなければならないからである。
〈不逞〉と〈善良〉を区別するために水野らが画策した植民地支配の論理は挫折する。
結果として両者の境界線が曖昧になり、識別がより一層困難と思わせる状況が後に遺されることになった。(続く)

劉 永昇(りゅう・えいしょう) 「風媒社」編集長。雑誌『追伸』同人。1963年、名古屋市生まれの在日コリアン3世。早稲田大学卒。雑誌編集者、フリー編集者を経て95年に同社へ。98年より現職。著作に『日本を滅ぼす原発大災害』(共著)など。

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ウィキペディアより「タプコル公園のレリーフの1枚」

March 1st movement.jpg

靖国神社は、1945年11月19日の夜「臨時招魂祭」に於いて氏名不詳のママ、全ての戦死者・戦病死者・戦傷死者を合祀した。

<裁判資料>「祭神名簿」には「生存確認」と記入したが、「霊璽簿」はそのママである。

 

(了)

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