1923年関東大震災 ジェノサイドの現場「大橋場の跡」で献花し、手を合わせ頭を下げて殺害された朝鮮人へ追悼の意を表してきました。
加藤直樹著「九月、東京の路上で」の挿絵より
「大橋場の跡」石柱碑が設立された経緯を「記念の栞」から転載します。
はじめに
このたび武州烏山村大橋場の跡、石柱碑建立のご案内を申しあげましたところ、定員一〇〇名にもかかわりませず一四五名の入会申込みをいただきまして世話人一同心からあつく御礼申しあげます。さきに立帖場の碑建立のあと、有志の方々から地域の歴史を後世に伝えるため、早急に残存する史跡を公的文献に基づき碑としてのこそうと昨年来いろいろ検討してまいりました。そのなかで甲州街道(注)は徳川時代を通じ、明治、大正、昭和の戦前まで区内唯一の国道で、さらには烏山村の大橋場は歴史的にも由緒あることから今回はこの名にふさわしい石柱碑を建立することに相なりました。建立場所について地主の下山権三様のご承認いただきました。ついで世話人ご推せん申しあげ発足いたしましたが、さきの立帖場の碑建立協賛会の名誉会長をお願い申しあげました世田谷区長大場啓二先生には、本回も是非名誉会長にご就任方ご相談申しあげますと、前回と同様に、今回もご快諾いただきました次第です。こうしたご関係者皆さまの郷土を愛するお心掛けの成果が竣工となりました石柱碑でございます。非常に格調のたかい貴重な石柱碑とご専門の方々から注目いただいております。なお会の運営上、多大の助言とご指導いただきましたことに深謝申しあげます。
昭和六十二年四月吉日
武州烏山村「大橋場の跡」石柱碑建立協賛会
大橋場の碑建立ご案内
みなさまにはご清祥の御事とお喜び申し上げます。日頃、地域の文化財関係につきまして格別のご高援をいただきあつく御礼申し上げます。就而、近来町内の発展は著しく変ぼうし、このような環境のもとで残存する史跡を有志の方々と何とか後世に伝えようととの話合いから、今回は大橋場の跡に石柱碑を建立することになりました。大橋場とは旧甲州街道から烏山神社への参道、大門ぎわの石橋の呼名です。村内を東西に走る街道は約十二町余、その間に中小七つの川がありますので橋も七か所にありました。そのなかで最大の川が亀の子出井池と諸々からの湧水を合流する烏山川です。ここに架かる石橋を大橋場と呼び、橋番の家を橋場と愛称したことはご存じのとおりです。この里名は烏山村の知行の一人、山本喜内関係の検地帳(上知)に大橋場耕地と明確に記載され公的文献として歴史的根拠のありますことと地元、旧来からの伝承と合致する貴重な史跡の一つであります。この大橋場は徳川時代そして明治初年の甲武鉄道開通まで往還旅人の目安でもあったそうです。間もなく高井戸の宿駅そして江戸日本橋まで四里半、また此処からの景色は風光明眉で烏山村八景の名もこの地からと古老は伝えています。(一)下田甫、疱瘡神の小島に繁るしだれの黒松が田面をはう樹形 (二)千駄山とお伊勢さんの森 (三)粕谷村から泉沢寺あと傾斜地の杉林 (四)烏山神社の老杉老松の森は南画の景観と伝えます (五)天神社の老松と霊峰富士山の眺望 (六)松葉山の松林と土蔵の建ちならぶ屋敷構え(七)北浦、亀の子出井池とふきんの杉林 (八)割烹、豊倉屋の林泉と店構え。また近年では大正十二年九月一日の関東大震災によりこの石橋が損壊したところ、災害地の跡片付け人夫を輸送するトラックが脱輪停車したため、彼の悲哀な事件が発生し善良な烏山村民には天から降ってわいたような不運の渦中にまき込まれたことなど悪夢として記憶に生々しい次第です。このような歴史秘める大橋場を後世に伝承し保存致したく存じます。
何卒、趣旨にご賛同の方はご入会下さいますようご案内申し上げます。
〇石柱碑の仕様について
石質 黒御影石
高さ 地上二米四十糎約三十六醒
円柱の直径 約三十六糎
円柱の上部 擬宝珠の形
〇建立場所大門沿い地蔵尊の北端で地主の下山権三様のご快諾済みです。
〇協賛者のご厚志に、ご芳名を石柱碑に刻字、末永く記念とさせて頂きます。
〇記念の栞に協賛者名簿を印刷発行ご送附申し上げます。
〇予 算約壱百万円
〇会員数約壱百名
〇締切日(定員となり次第)三月上旬
〇建立予定日 昭和六十二年四月四日
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(注)江戸五街道の一つ甲州街道は、江戸城に敵が攻めてきた時、将軍らは半蔵門から甲府の幕府直轄地に避難することになっていました。街道筋の八王子村には「千人同心」が配置されました。半蔵門から尾根筋となっている麹町、四ッ谷から内藤新宿の「追分」までは、ほぼ一直線となっており、新宿伊勢丹本店前の交差点から甲州街道と青梅街道に別れますので「追分」という地名になりました。
(了)