関東大震災から98年。今日までさまざまな教訓が伝えられている。震災直後のデマで、多くの朝鮮人たちが殺害された痛ましい事件もその一つ。
現代の話。そんな事はなかった事にしようという歴史修正の動きが小池百合子都知事の追悼文中止問題です。
明治の文豪徳富蘆花は「みみずのたわごと(青空文庫)」に、村人から聞いた烏山の朝鮮人虐殺を書いていました。
>鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。<
♫ 新宿から京王線の急行に20分乗って 四つ目の駅が千歳烏山 南口に出て10分程歩けば 村の鎮守様の烏山神社 その正面の鳥居を くぐって見れば 烏山神社の鳥居をくぐった参道の両脇に 四本の椎の木が 高く聳え立っている ♫
中川五郎 ♫ トーキング 烏山神社の椎の木ブルース
管理人はこのフォークソングを聞いて世田谷区千歳烏山で起きた事件の事をはじめて知りました。
流言飛語による朝鮮人虐殺は何となく下町の方で起きた事だろうと思っていましたが、起きたのは本当に住んでいる身近な所、京王線千歳烏山駅からまさに目と鼻の先です。音楽の力に動かされ加藤直樹「九月、東京の路上で」を図書館で借りて読んでみました。
烏山在住の東京の大学に通う英語の教師、いわば社会的エリートも襲撃に加わっていたという話が出て来ます。
何とあの【追跡検証レポートIWJ】が、「著者の加藤直樹氏に岩上安身氏がインタビュー。関東大震災に際し、朝鮮人への虐殺が行われた東京各所でロケを敢行しました。」
旧甲州街道「大橋場跡」(下山地蔵尊)が、朝鮮人虐殺現場です。
1923年9月2日 日曜日 午後8時 千歳烏山(東京都世田谷区)
椎の木は誰のために
『東京日日新聞』(1923年10月21日)
「烏山の惨行」
9月2日午後8時頃北多摩郡千歳村字烏山地先甲州街道を新宿方面に向って疾走する1台の貨物自動車があった。折柄同村へ世田谷方面から暴徒来襲すと伝えたので同村青年団在郷軍人団消防隊は手に手に竹槍、棍棒、鳶口、刀などをかつぎ出して村の要所々々を厳重に警戒した。
この自動車も忽ち警戒団の取調べを受けたが車内には米俵、土工用具等と共に内地人1名に伴われた鮮人17名がひそんでいた。これは北多摩郡府中町字下河原土工親分二階堂友次郎方に止宿して労働に従事していた鮮人で、この日京王電気会社から二階堂方へ「土工を派遣されたい」との依頼がありそれに赴く途中であった。
鮮人と見るや警戒団の約20名ばかりは自動車を取巻き2、3押問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩れるように手にする兇器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ怯むと見るや手足を縛して路傍の空地へ投げ出してかえりみるものもなかった。
時経てこれを知った駐在巡査は府中署へ急報し、本署から係官急行して被害者に手当を加えると共に一方加害者の取調べに着手したが、被害者の1名はロ3日朝遂に絶命した。なお2日夜警戒団の刃を遁れて一時姿をくらました2名の鮮人中、1名は3日再びその付近に現われ軽傷を受けて捕われ、他の1名は調布町の警戒団のために同日これまた捕えられた。被害者は3日府中署に収容されたが、同署の行為に対し当時村民等には激昂するものさえあり「敵に味方する警察官はやつつけろ」などの声さえ聞いた。
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加藤直樹氏が引用した「大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞」
そこには、1923年9月2日、大橋場で起きたことが、古老からの聞き取りをもとに詳く書かれていた。烏山神社の椎の木については次のように説明されている。
関東大震災と大橋場
〇震災まえの政情。(略)
〇大震火災。(略)
〇大橋場は知っていた。ここ烏山川が甲州街道を南へ横切る大橋場には石橋が架けられ古くから危険防止のため手摺と笠木がつけてあった。しかしこの大地震のため石橋の一部が川に落下したり一部は斜めになるなっのため、人と大八車、牛馬車などが注意しつつそくそくと渡る状態であった。当時はまだ自動車などの台数は少ないのでこんな状況でもとくに不自由はなかったと伝えている。やむをえず自動車が通るときは頑丈な補助板を架けるか、多人数の後押しでやっと通過する状態だったという。さて、こうしたなか、一日の夜は大地震の地割れやその割れ目から水を噴きあげるなど恐ろしい体験におののきながら屋敷の竹藪に蚊帳を吊って一夜を明かした。竹薮は地表につよい横根をはりつめることから地震から身をまもるため、竹藪に逃げ込んで難を避けることは現代でも同じ。このような天災や事変についてまわるのが流言、デマである。だれかれとなくささやき関東地方のひめい範囲にながされたデマは、大地震の再来津波の襲来、山間部では山津波。ここまでは可能性のあることで一層注意して備える面から必ずしもデマとして一笑するわけにはいかないだろう。社会主義者の暴行、解放囚人、不逞の徒和泉村の火薬庫爆発仕掛説第三国人による放火、井戸に毒薬投入説老幼婦女子に暴行など、と愚にもつかない馬鹿々々しいような発想の流言蜚語であった。なかでも第三国人の関係については村単位の消防組が中心となって自警団が急速に組織された。烏山村は大きな村であることから三宿に分かれ、上町で粉屋横丁入口と西ノ谷入口の角。中町では当時知識者の住んでいた和田住宅入口、松葉横丁角、烏山神社入ロの大門に、下町では千駄山入口とオタケ横丁(芦花公園駅前通り)角に。そして見知らぬ人への検問、合言葉は山といえぼ川、川といえば山とかたく守られていた。村人のうち戦争経験者などで元気よき者は日本刀を背にかけ、おおくの者は手製の竹槍の先端にあぶらをつけたなど、はじめての大きな出来事に非常にセッパつまったそして厳しく悲壮な興奮と反面、恐ろしさと憂うつが交錯するなか、九月三日は、何事もなかったかのように、太陽もしづかに西にしづんだ午後七時をすぎたころ、西から東京方面へむかう一台のトラックがあった。上町の検問そして中町のニヵ所も無視するかのように突破したが、大橋場の石橋落下部分に車輪がはまり進退きわまった。このとき一説には、ふきん地元の人々がトラックを押し出そうとしたところ、車の貨物台に蚊張をかぶって人間が低い姿勢でいたともいう。また一説には、貨物台の人間が数人降りてきて後から押そうとしていたともいう。これらの状況はともかくとして、警固の者たちは瞬間、これは一大事であると脳裡をかすめたという。この石橋落下が何と烏山の善良なる住民にとって大災難の渦中に巻き込まれようとはだれも予期し得なかったことは言うまでもない。
奇なるかな人の運命の支配はまことの人智のほかである。トラックの人員は全部で十二人。だれかが大きなかすれ声で叫び怒鳴った。たちまち中町の松葉横丁と和田住宅の自警団が飯けつけ、同時に下町の千駄山入口の団員があつまった。ときすでにトラックは完全に包囲された。両宿によって挟み込まれた状況だったという。陽は西にトップリと暮れた中、提灯のわずかな明かりをたよりに、だれも恐ろしさと不安のなか、日本刀をもってたつ正義感にもえた若者が抜身をかざしてトラックに乗り込むや否や、或る者が銃を一発そして二発とブッ放してしまった。殺気だった団員は……中略……まことに不幸な出来事だった、こんなことをだれが望むものか、だれが好むものか、いやこんなことはお互いに避けてとおりたい、偽わらない烏山の人々の気持だった。しかし一番お気の毒なのは丸裸ともいえる無防備の被害者だ。古老はつぶやいておられた。二度とこんな不幸の事件が起こらないために後世の人々のため敢えてお話申し上げるとの事だった。古老は先年他界された。生涯を通じ、これほどの不幸は脳裡にやきついて忘れたことがなかったという。神仏にお願いして何とか避けられ得る術がなかったろうかと。智者は厳然として惑わず、勇者は泰然として彼等を目的地の作業場まで通してあげたかったろう。烏山の住民とくに婦女子は烏山から北へ北へと難を逃がれるため急ぎ避難した。こうして悪夢からさめ冷静の我にかえった自警団員の心は複雑だった。翌朝、官憲が現場など視察に訪れた。町の衆に何か得心のいかない言葉をのこして立去ったという。賞めるような、叱るようなどちらとも云えない 数日後、まづ責任者であった団長さんが署にゆき事情調査を受けている。しかしこの方こそ真に被害者をかばい涙ながらに、止めてくれ止めてくれと大声で叫んだ方であった。つぎつぎと世話人らを含めて二十人が調査をうけている。結局、十二人の被害者に対して十二人の加害者が出てご苦労されている。このとき千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として十二人にあたたかい援助の手をさしのべている。
千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ないそして十二人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木十二本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく七十年をむかえようとしている。ここで大切なことはやはり十二人の怪我人である。うち お一人は重態であられた、町の医師は身命をかけて最大の手あつい介護をされたことを特に伝えている。
〇このような光景を無言で見守ったのは大橋場そして石橋であろう。また下山地蔵と庚申さんも、みんな犯してねならない罪ふかい一面をじっと見ていたことだろう。この一件について関係文書は当時ガリ版刷りで烏山小学校の書庫(金庫)に納めてあると現存の方々が異口同音にいう。しかし小学校……には見当たらないとのご返事だった。なにはともあれ、情報網の貧困さと行政面の不行届きを今さら問うても詮かたない。向後ふたたび、こんな悲惨で理不尽な事件は絶対にあってはならない、このことを敢えて後世の人々に伝えんためにも古老は語って下さったのだ。日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない、すべては未曽有の大震災と行政の不行屆と情報の不十分さがおおきく作用したことは厳粛な事実だ。
我々は再びこのようなことのないよう謙虚に反省し世界の人々と仲よく平和に生き永えるよう二十一世紀にむけて進もう。
ここに犠牲となられた方々のご冥福を心から念じ申しあげる。合掌
悪夢よ? 飛んで去って行け?ニ度と来るなよ?有志一同 記
(注)……中略……の部分には、凄惨な虐殺行為が生々しく書かれていたのだろう。
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この一文から分かるのは、椎の木が朝鮮人犠牲者の供養のためではく、被告の苦労をぬぎらうたに植えられた可能性が濃厚であるということだ。何とも苦い真相だった。
この文章には、殺された朝鮮人への同情言葉も盛り込まれてはいるが、それ以上に殺人罪で起訴された被告たちの「ご苦労」への同情が強調されている。そこにはまるで、1923年9月の気分がそのまま封じ込られているようで、リアルだ。烏山神社は、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえている。90年前、この街で惨劇があった。沈黙のうちに閉じ込められた様々思いが、確かにそこ存在ていた。
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この朝鮮人虐殺を知らない時に、烏山神社の「椎の木」二本を描きました。
水彩画F8号「烏山神社」
(つづく)
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