8月22日は、サイトウキネン・オーケストラAプログラム、即ち、前半にファビオ・ルイージがオネゲル:交響曲第3番「典礼風」を振り、後半を小澤征爾がベートーヴェン:交響曲第7番を振るというコンサートの第2夜である。周知の通り、いま、小澤征爾はひとつのコンサートを振り通すだけの体力を持ち合わせていない。それどころか、当初発表されていたブラームスの第4交響曲ですら負担が大きいということでベートーヴェンに変更になったほどである。初日であった18日のコンサートにも「果たして登場できるか?」との心配の声もあったと聞く。
コンサート前半のオネゲルは、第二次世界大戦の悲惨が描かれ、平和への痛切な祈りの込められた作品だが、この作品がいま選ばれた意味は小さくなかろう。
ファビオ・ルイージの指揮は、そうした凄惨と祈りを余すことなく描ききる。応えるオーケストラの音楽性、能力、共感は申し分なく、オネゲルが書き上
げた精緻な音の設計図が透けるように見えるばかりでなく、そこに熱い血が通っていた。
いよいよ後半。小澤征爾は、初日と同じくオーケストラの楽員と一緒に登場する。指揮台には背もたれのないピアノ椅子風のベンチが置かれ、さらに指揮台の右手、ヴィオラ・セクションの前にパイプ椅子が置かれているのは、演奏前のチューニングの間、そして楽章間に小澤が休むためのものである。
演奏の美しさ、神々しさはどうだったであろう。
第1楽章序奏から、その音の軽やかさ、自由さは現実離れしており、小澤征爾はすでに解脱の境地になるのではと思わせた。肉体が不自由になったからこその精神の無限なる自由とでも呼ぶべきなのか。
二十余年昔の我が桐朋学園時代、遠山一行先生がその講義の中で仰られた言葉を思い出す。
「小澤征爾が巨匠と呼ばれる指揮者になるか否か、それは我が国の音楽界の将来にとって、きわめて重要なことです」(つづく)