明鏡   

鏡のごとく

詩のボクシングタイトルマッチと選抜戦と熱田さん

2015-10-25 17:52:59 | 日記
詩のボクシングタイトルマッチと選抜戦

に、行ってきた。

天馬さんとささりんさんのタイトルマッチは、言葉と身体のあわさった声となった格闘であった。

二人は、三分間にきっちりとおさまるような時間感覚・間隔を体で覚えているよねという話をあしゅりんさん、マキちゃんと話していたのだが、やはり、鍛錬のなせる技だなと思ふ。

声に出すということは、つまり、言葉に肉質をもたせ、そこにいることで、身体性を取り戻す行為であり、それを、繰り返すことに因って、体の声になるということであろう。

戦争の詩を朗読された方もおり、ご自分の声をレコーダーにとり、何度も繰り返し聴いて、自分のものにしていた。

歌を歌う人も、そのような感じなのであろう。

自分は、声に出すことよりも、書くほうが向いているとつくづく思ふ。

が、ここで立ち止まりたくはないので、今よりも進化していきたいとは思ふ。


選抜式も、色々な方の声が聞けて、堪能できた。

聞いてみたかったつっちーさんの紙ちぎりながらのビリビリ詩?も聞けてよかった。

あれは、特別な間と空間をもたらす。

紙の落ちる行先を見ながら、目でも動作でもきかされる感がある。

日めくりカレンダーみたいなビリビリ感だったが、てすとも、ああやってぴりぴりやぶって記憶をきりすてながらも、刻み残していったのではないかとおもわれるぐらい、自然なながれだった。


他の方々も、ういういしい手紙のような人間味もあり。

熟練された伝統芸能的声もあり。

繰り返し、毎回、同じ詩を聞くと、もう、持ち歌になっている感があり、なんか、ライブ感、はんぱなかった。

あの歌がまた聞けた。ような安定感。

自分は、毎回、違う詩を読むことを自身に課しているようなところがあるので、いつまでも慣れない、なれあえない、緊張感ばかりである。


しかし、その後、集まった方々との交流は相変わらず、おもろいものであった。

マキちゃんがわざわざ、はるばるやってきたからかご褒美のようにおみやげをくださって、うれしかったのをはじめ。

子牛をそだてていたというめぐみちゃんや、それをほほえましくみているみんなの?おとーさんのようにもみえる(失敬!)おおらかないけがみさん。あしゅりんさんの野球賭博からの野球と獏につらなる言葉遊び。

優しい旦那さんも詩ボクで出会ったという新婚さんのばばちゃんと北海道からはるばるやってきた短歌人つきはらさんのじもとのとらんくすのぱんくのはなしやら、なんとか祭りみたいな愛知の商店街的?な場所でのお笑い芸人さんとかの充実ぶり、しかもフリー!感、はんぱないというはなしやら。

旅して、人に合うのはおもしろし。

詩を聞いて、人と話すということは、宝でもあり、いい刺激でもあり。



次の日、昼には帰らないといけなかったので、途中下車してなんとか行けた、最近「国史」を読みはじめたところの、草薙の剣のあるという「熱田さん」に行ってきた。

七五三でにぎやかであった道の裏通りに、ひっそりと開かずの扉があった。

どうも草薙の剣関係で閉じられたままらしいのだが、故あって。とぼかされていた。

その昔、外国人が草薙の剣を盗もうとしたという話を知ったばかりだったので、ぎらぎらした千年万年?昔が今に繋がるようで、今、まいぶーむの「国史」が熱い。

宮きしめんもほどよく熱かった。