明鏡   

鏡のごとく

「月が近づくごとに」

2016-11-14 22:38:01 | 詩小説
月が近くなった。

35年くらい前も70年前も同じような月だったらしい。

戦いは終わった。

目の前の月が黒い闇に隠されているように。

向こうにはある月の光が朧に映る。

私の血はとっくに流されていた。

あの月の手前。

戦いは終わっていなかった。

月が遠のくように、血が薄くなる。

一滴の檸檬を丸いガラスのコップに絞りだすように。

ぼんやりと見ていた。

血が流れていくように、うすらぼけた空に落とされた赤い爆弾。

月が近づくごとに流される血の濁りは私の中の戦いの後。

月が近づくごとに剥がされていく私の血の名残。

内から死んでいく私の皮膜。

いらんこと言うな。

戦いがあったのはあそこでのこと。

見えないところで起こされた戦いはニュースにもならん。

黙っておればいいのだ。

内での戦いと空から落とされた爆撃機の爆弾はあそこでのこと。

ここにはないのだ。

楽しんでおればいいのだ。

内でのこと。内でのこと。

あなたには関係のないことなのだ。

歌えばいいのだ。

思い切り愛と調和というものを。






三島由紀夫「処女作」幻の生原稿を独占入手

2016-11-14 07:53:46 | 日記


http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4291515&media_id=125 より

「処女作にはその作家のすべてがある」という。作家・三島由紀夫にとっては、16歳の時に書いた短編「花ざかりの森」がそれにあたる。だが、長らくその生原稿の所在は不明であり、研究者の間では失われたものと思われていた。

 1970年11月に自決してから46年の時を経た今、三島研究で知られる文芸評論家・西法太郎氏の手により、その生原稿が発掘された。そこに記されていたのは、まさに作家・三島由紀夫の誕生の瞬間だった。西氏がレポートする。

 * * *

 平岡公威という名前をご存じだろうか。作家・三島由紀夫の本名である。

 まだ一六歳の平岡少年が、はじめて三島由紀夫のペンネームで書いた作品が「花ざかりの森」だった。原稿用紙七〇枚ほどの短編で、これが処女作となった。

 処女作というだけでなく、そこにはすでに後年の“三島文学”の文体の装飾性、作品構成、展開の仕方の萌芽が見られる。さらに遺作となった長編『豊饒の海』のモチーフまで含まれているのだからおどろかされる。

 これが書かれたのは先の大戦に突入する直前の昭和一六年の初夏だった。しかし記念すべきこの作品の原稿を戦後見たものはいなかった。戦災などで失われたものと思われていた。もし誰かが所持していれば、年月を経て相続した親族が古書市場に出すものなのに、それもないからだ。

 しかし、じつは三島と所縁のあった人物の親族によりずっと秘蔵されていたのだ。

 三島は「序の巻」と「その一」については「定稿」としているが、「その二」以降については「意にみたない点が多く」あると述べている(『赤絵』昭和一七年)。

 たしかに、後半部を書きあぐねたのだろう、書き直している箇所がいくつかある。反故だろう和紙を貼って書き換えている箇所もあった。紙が貴重な時代だったことがうかがえる。

「その三」には今回発見された掲載時のものとは違う異稿が残っていて(三島由紀夫文学館蔵)、そこには「昭和十六年七月十九日擱筆(編集部注・書き終わること)」とある。

 それが清水たちが修善寺の編集会議で廻し読みしたものの一部なのだろう。三島は清水に七月二八日付の手紙で「扨突然ではございますが、先日完成した小説をお送り申し上げます故、御高覧下さいませ」と書き送っているからだ。

 異稿の二一枚が、掲載時に五割増しの三〇枚ほどのボリュームになっている。「その三」の掲載までにあちこち書き直し、かなり書き足していたことも分かった。しかしそれでも「意にみたない点が多く」あったのだ。

 おもしろい発見もあった。

 いまなら「ちょうど」と書くところを旧仮名遣いで「てうど」と書いている。それが計五所あるのだが、「て」に斜線がうすく入れられ、その横に「ちや」と書きこまれ、「ちやうど」と直されているのだ。

 三島自身が直したのなら黒く塗りつぶすのだが、それは控えめに直されていた。おそらく編集長で国文学者の蓮田が手を入れたのだろう。ちなみに三島は後年、『仮面の告白』にもあるこの表記を誤りだと指摘した北杜夫に激怒し、江戸時代の能にあると反駁したという(『小説新潮』平成七年一月号)。しかし国文学者にも馴染めない表記だったのだ。ふつう古語で「てうど」は、調度を意味する名詞である。江戸期のひらがな表記はかなりみだれていた。それを文学少年は鵜呑みにおぼえてしまったのだろうか。

◆三島は所在を知っていた

 さて、そろそろ私が戦前に書かれた原稿の在りかにたどりついた経緯を述べよう。

 今年の初夏、熊本で出されていた文芸誌『日本談義』の昭和四二年七月号に、「「花ざかりの森」の原稿は今も(熊本市)植木町の蓮田未亡人の手許にある筈である」というくだりを見つけたのだ。これを書いた人物は、蓮田とは中学と師範学校の学友だった。時あたかも三島はノーベル賞の最有力候補にあがっていたから、受賞したら直筆原稿の価値はいやがうえにもあがる。そんな思いがこんな憶測を書かせたのだろうか。いや、しかと知っていながら断定を避けたのだろう。

 私は可能性は低いと思いながらこれを確かめようと今夏、蓮田善明の長男・晶一に連絡をとった。蓮田と三島との関係について調べていた私は、かねてやり取りをしていたのだ。久々連絡をとったのだが、なんと晶一は数日前に心不全で亡くなっていた。そして代わりに善明の次男・太二が応対してくれた。彼は通称“赤ちゃんポスト(*)”の主宰者である。

【*親が育てられない乳幼児を匿名で受け入れる窓口。熊本市にある慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」という名前で設置している】

 太二によると、善明が出征時に東京から熊本に送った荷物は、蔵書、受けとったあまたの書簡、それらすべてをかなり大きな容器に入れて梱包したものだった。その中に夫人が夫から、日本が敗戦したら焼却するよう言われた文書があった。それは善明が士官として一回目に出征したときの軍の機密書類だったようだ。戦後夫人はそれを竈で長い時間をかけて燃やしていたという。おそらくそのときに「花ざかりの森」の原稿を見つけたのだろう。

 三島の文名が九州熊本に届いたのは『潮騒』や『金閣寺』の書かれた昭和三〇年前後以降だったろう。その三島は今からちょうど半世紀前の昭和四一年、『奔馬』の取材で熊本を訪れていた。そのとき三島に会った夫人は原稿のことを話さなかったのだろうか。いや話したら三島が「そのまま持っていてかまいません」と言ったのだろうか。太二はこたえてくれた。

「母は原稿がこちらにあることは知っていました。三島さんが熊本に来られたとき、もし原稿返還のお話があればお返ししていたと思います。原稿が私どものところにあることは三島さんも当然ご存じのはずで、そのときに返還のことはお話しにならなかったと推察します。兄が亡くなるまえに、今後原稿をどうすべきか話し合いました。話し合いましたが結論が出ないまま亡くなりました」

 三島由紀夫の「花ざかりの森」の直筆原稿が3四半世紀、七五年ものあいだ、蓮田善明の親族によって所蔵されていた。それには、両者のあいだに以上のような縁があったのである。(敬称略)

※週刊ポスト2016年11月25日号