大山の「大雲庵」の森さんご夫婦と農業体験・視察に同行した敏さんと食べた、手作りの野菜をふんだんに使った心温まる美味しい夕食の時。
大山の神社のお話を聞いた。
男たちが山にある神社を目指しひた走るのが十二月二十五日という。
この日は神道にとっても、冬至的な、時の変わり目を指す日であるようで面白く思いつつ。
山の神は女性であることが多いためか、身の清らかな男しか山の池の中には入れないという習わしがあるという。
その話を聞き、以前、夢野久作の朗読会の時に聞いた童話の一つに同じような話があったことを思い出していた。
その話には続きがあり、女の子が水に入ると、確か水が濁ってしまったというようなものであったと記憶していたが。
女性には月のものがあり、そこから来る、赤い濁りを象徴しているとも思われるが、もしかして久作はここから霊感のようなものを得たのかもしれないなどと思うと、繰り返し語られることで土と地の記憶もまた形を恣意的に変えながらも伝えられるということを思う。
レヴィ・ストロースの言うところの神話的プロセスを経ることで、物語は生き延びるのである。
音もまた同じように、生き延びていくために、同じモチーフとフレーズを音階や切り取り方やつなげ方を変えながらも繰り返されていくのだ。
良かれ悪しかれ、そうやって繋がっていったのだ。
ところで、この大山には、最近、アニメーション化も実写化もされた巨人のでてくる漫画の城壁のモチーフがあるという。
この大きな山々が、ある意味、人々を巨人から守る城壁なのだと。
漫画の原作者が生まれ育ったのが、この山に囲まれたほとんど坂道ではあるが盆地とも言える、この村なのであった。
彼にとって、巨人とはなんだったのか。いつか聞いてみたくもある。
夫と話したのが、あの山の向こうから攻めてきたという細川軍の話を森さんに聞いた後だったので、山々を見ていると、あそこから何かが出てきたらという漠然とした恐怖であろうと想像したと同時に、もしかして、そこに住む人の潜在意識に登るまで恐怖化されたものは、細川という巨人だったのかもしれないなどということであったが。
その土地の物語は、後の世に、形を変えて伝わるということは、大なり小なり、ありうることであると思わずにはおれないのであった。
そうして、悩みも苦闘もおおき我が倅たちにもこの景色を見せたいと、心から思った。
大山の神社のお話を聞いた。
男たちが山にある神社を目指しひた走るのが十二月二十五日という。
この日は神道にとっても、冬至的な、時の変わり目を指す日であるようで面白く思いつつ。
山の神は女性であることが多いためか、身の清らかな男しか山の池の中には入れないという習わしがあるという。
その話を聞き、以前、夢野久作の朗読会の時に聞いた童話の一つに同じような話があったことを思い出していた。
その話には続きがあり、女の子が水に入ると、確か水が濁ってしまったというようなものであったと記憶していたが。
女性には月のものがあり、そこから来る、赤い濁りを象徴しているとも思われるが、もしかして久作はここから霊感のようなものを得たのかもしれないなどと思うと、繰り返し語られることで土と地の記憶もまた形を恣意的に変えながらも伝えられるということを思う。
レヴィ・ストロースの言うところの神話的プロセスを経ることで、物語は生き延びるのである。
音もまた同じように、生き延びていくために、同じモチーフとフレーズを音階や切り取り方やつなげ方を変えながらも繰り返されていくのだ。
良かれ悪しかれ、そうやって繋がっていったのだ。
ところで、この大山には、最近、アニメーション化も実写化もされた巨人のでてくる漫画の城壁のモチーフがあるという。
この大きな山々が、ある意味、人々を巨人から守る城壁なのだと。
漫画の原作者が生まれ育ったのが、この山に囲まれたほとんど坂道ではあるが盆地とも言える、この村なのであった。
彼にとって、巨人とはなんだったのか。いつか聞いてみたくもある。
夫と話したのが、あの山の向こうから攻めてきたという細川軍の話を森さんに聞いた後だったので、山々を見ていると、あそこから何かが出てきたらという漠然とした恐怖であろうと想像したと同時に、もしかして、そこに住む人の潜在意識に登るまで恐怖化されたものは、細川という巨人だったのかもしれないなどということであったが。
その土地の物語は、後の世に、形を変えて伝わるということは、大なり小なり、ありうることであると思わずにはおれないのであった。
そうして、悩みも苦闘もおおき我が倅たちにもこの景色を見せたいと、心から思った。