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■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)

■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)から
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)


5.(浄明寺)熊野神社
神奈川県神社庁資料
鎌倉市浄明寺3-8-55
御祭神:天宇須女命、伊弉諾命、伊弉册命
旧社格:村社、浄明寺(村)の鎮守
元別当:

浄妙寺の西北に御鎮座の熊野神社。
朝比奈切通しそばにも熊野神社がありますがこちらは横浜市金沢区の所在で、当社とは別のお社です。

境内由来書などになると、応永年間(1394-1427年)および永正年間(1504-1520年)に社殿を再建したと伝えられ、明治6年、国より正式に浄明寺地区の鎮守として公認されています。
7月の祭礼(夏祭り)には「湯花神楽」「鎌倉神楽」といわれる神楽が数年おきに奏され、「火の神水の神を招神して感謝し、除災招福を祈り弓矢の威力で悪魔調伏を行います。」(境内由来書)とのこと。

『新編鎌倉志』の大休寺の項に「熊野山と号す。此西の方に熊野の祠あり。大休寺の跡には石垣の跡あり。古き井二つあり。源直義の菩提所なり。此辺直義の旧宅なり。」とあり、位置的にこちらとの関連を連想しましたが、境内由来書には「相模風土記稿に『熊野神社は村の鎮守なり』と記録されてあります。」「このお宮は古くから浄明寺地区の氏神様として信仰されてきました。」とあるので、『新編相模國風土記稿』の熊野社「泉水ヶ谷字東之澤。寶生庵跡ノ東ニアリ。此谷ヲ御坊ト云フ。村ノ鎮守ナリ。」がこちらに比定されているようです。
神奈川県神社庁資料も上記『新編相模國風土記稿』の記事を引用されています。)

ただし、下の『新編鎌倉志』の浄妙寺山内図(出所:国立国会図書館DC/保護期間満了)をみると、あきらかに熊野神社は大休寺の西に位置しているので、大休寺の項の「此西の方に熊野の祠あり。」の”祠”もまた、熊野神社をさしているのかもしれません。


1.十二社神社の記事でも書きましたが、「熊野三所権現」とは、ふつうスサノオ、イザナギ、イザナミをさし、「熊野十二所権現」とはこちらの三柱に五所王子(天照大神、天忍穂耳命、瓊々杵尊命、彦火々出見尊、鸕鶿草葺不合命)と四所明神(軻遇突智命、埴山姫命、彌都波能賣命、稚産霊命)を加えた尊格群とされます。

これに対してこちらの御祭神は境内由来書に「天宇須女命、伊弉諾命、伊弉册命」とあり、天宇須女命(アメノウズメ)が筆頭に記されています。
天宇須女命は瓊々杵尊命(瓊瓊杵尊)の天孫降臨の際に従われた五伴緒(いつとものお・天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命)の一柱で、天照大神の岩戸隠れの際に活躍された神様です。

天照大神、瓊々杵尊命ともに「熊野十二所権現」にあらわれておわすので、その所縁で天宇須女命が御祭神になられているのかもしれませんが、もっとふかい所縁があるのかもしれず、よくわかりません。

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【写真 上(左)】 浄妙寺山門下からのアプローチ
【写真 下(右)】 参道手前

浄妙寺の山門下を左手にまわり込む路地に入ります。
道幅は狭く、この先に神社があるとは思えない道です。
しばらく行くと左手に鳥居が見えてきて、この先のゲートで道は行き止まりになっています。(この先は「石窯ガーデンテラス」(浄妙寺)の敷地。)


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道1

社頭に社号標と木製の神明鳥居で、ここから熊野神社の長い階段が始まります。
お隣の民家との境には風流な光悦垣が結われています。
途中いくつかの踊り場を設けながら、参道階段は山肌を急角度でのぼっていきます。


【写真 上(左)】 参道2
【写真 下(右)】 手水舎


【写真 上(左)】 参道からの社殿
【写真 下(右)】 社殿

しばらく行くと屋根付きの手水舎。そこから数段でようやく拝殿です。
石灯籠二対の先に、切妻造桟瓦葺流れ向拝の拝殿。
そのよこに隣接する切妻造桟瓦葺の建物は社務所でしょうか。

アプローチルートが行き止まりということもあり、辺りは静寂につつまれています。
周囲はうっそうと茂る社叢で、神々しい空気が感じられます。
拝殿側面(妻部)に大きな開口部があり、ここは神楽殿になるのかも。


【写真 上(左)】 左手からの社殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

向拝は水引虹梁両端にシンプルな木鼻、頭貫上に斗栱、中備に彫刻。
向拝正面は桟唐戸。向拝上には「熊野神社」の社号扁額が掲げられています。
本殿は拝殿おくに隣接し、切妻屋根瓦葺の覆屋は大棟に経の巻獅子口、妻部に蕪懸魚を置いています。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 御朱印

通常非常駐のようで、御朱印は大町の八雲神社にて授与されています。


6.長盛山 松久寺
鎌倉市浄明寺5-9-36
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:東京二十五社天神霊場第6番(花城天神)

金沢街道沿いに案内看板が出ていて以前から気になっていた、鎌倉市内では稀少な曹洞宗寺院です。
先般、Web検索してみると、なんと御朱印授与されているとのことで急遽参拝しました。

由緒書も公式情報も得られていませんが、複数のWeb情報はほぼ下記の内容で一致しています。
「明暦元年(1655年)、心霊牛道(暉山吐光禅師)が開かれ、もとは東京都港区高輪一丁目(以前の白金丹波町)にあったが首都高建設の予定地となったため、昭和41年に現在地に移転。平成28年から一般開放されている模様。」
御本尊は、御朱印拝受時のヒアリングによると地蔵菩薩とのことです。

江戸時代前期の白金の寺院であれば、名所図会類に載っている可能性があるので辿っていくと、たしかに見つかりました。
たとえば、『江戸切絵図』うち『目黒白金絵図』(人文学オープンデータ共同利用センターWeb)に、「松久寺」の文字が見えます。高輪清正公覚林寺のそばです。
いくつかの絵図類で辿れましたが、いずれも天満宮との関連で紹介されています。

『新撰 東京名所図会 第三十四編』のP.28に、つぎの記載があります。
「白金丹波町三番地即ち樹木谷なる松久寺といへる禅刹に菅公の祠あり。もと花城天満宮といひ。俗に厄除天満宮と称せり。新編江戸志に。社伝を載せていふ。仁和二年(886年)菅家御年四十二歳。正月十六日。讃岐守に任し給ふ折から。手つから刻ませ給ふ。同御腹こもり本地十一面観世音。一刀三禮の御同作なり。其の後(延喜元年(901年))、太宰府へ流遷の比。河内國土師里御叔母君覺壽院の所へ立より給ひ。此尊像をかたみに進せらる。文禄の比故りて加藤家山田氏の家にむかへ奉り。其後檀家の因縁に依て当寺に安置し奉ると。」

『江戸名所図会』にも同様の記載があり、挿絵も載せられています。

かつて、江戸ないし東京二十五社天神(霊場)という天神さま巡りがあり、第6番に「花城天神」がリストされているので、江戸でも有名な天神さまであったとみられます。(出所:「ニッポンの霊場」様

そういうことであれば、当然参拝時に「花城天神」の所在についてお訊きしていたはずですが、なんにせよこれを調べたのが参拝後なので後の祭り。
ただし、いくつかのWeb情報には「本堂内に御鎮座」とあります。

なお、開山の心霊牛道(暉山吐光禅師)についてはコトバンクに記載があります。港区・愛宕の名刹青松寺の住持であられたようです。

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【写真 上(左)】 駐車場手前の入口
【写真 下(右)】 駐車場奥の入口

金沢街道、泉水橋信号から南の路地に入ります。鎌倉には幾度となく来ていますが、この路地に入るのはこれが初めてです。
民家が密集したかなり入り組んだ路地で、この先にお寺があるのか不安になりますが、案内看板が出ているのでこれに従い進みます。
路地を右に曲がって少し行くといきなり視界が広がって、鎌倉の寺院とは思えない広い駐車場があります。

駐車場の手前に寺号標と門柱があり、こちらが三門かと思いましたが、駐車場先にも寺号標と掲示板のある入口があって山内入口の構成がよくわかりません。


【写真 上(左)】 坂道の参道-1
【写真 下(右)】 坂道の参道-2

ここから石敷きの坂道を登っていきます。
紅葉が綺麗な時季でしたが、観光客のすがたはまったく見当たらない静かな山内。

坂の途中にはベンチが置かれ、おだやかな表情の石仏が御座す道の両辺もすっきりとして整備が行き届いた印象です。
さらに行くと階段があり、その上に近代建築の瀟洒な建物が見えてきます。
登り切ると門が開け放たれ、その先に受付らしきものがあります。


【写真 上(左)】 石仏-1
【写真 下(右)】 石仏-2


【写真 上(左)】 階段下から
【写真 下(右)】 受付

情報が少なく、以前は拝観不可だったという話もあって、正直おそるおそるの参拝でしたが、予想以上に開かれたイメージがありました。

受付に女性の方がいらしたので、素通りするのもどうかと思ってお声がけし、ついでに御朱印についてお伺いすると、本日は書置ですがお出しできます、との快いお返事。
御朱印の見本があったので1種選んでお願いし、正面の本堂に向かいます。
前庭左手に「三郎地蔵尊」と十三重石宝塔。右手の建物は客殿でしょうか。


【写真 上(左)】 三郎地蔵尊
【写真 下(右)】 本堂

うっそうと茂る木々を背に、寄棟造本瓦葺と思われる堂々たる本堂。
向拝扉は開け放たれ、五色の向拝幕が張り巡らされて華々しい印象です。
堂内はすこぶる整備された空間で、正面に黄金に輝く地蔵菩薩が御座します。

受付手前を左に進むと赤い鳥居のお稲荷様が御鎮座。こちらは地主神でしょうか。



御朱印は数種あるようでいずれも尊格は地蔵菩薩。
豪快な筆致の絵御朱印で、これは絵御朱印マニアに人気がありそうです。
書置を用意されているようなので、ご住職ご不在時でも拝受できそうです。


7.功臣山 報国寺(報国建忠禅寺)
公式Web
鎌倉市浄明寺2-7-4
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第10番、鎌倉十三仏霊場第8番、東国花の寺百ヶ寺霊場第97番(鎌倉5番)

「竹の寺」として人気の高い臨済宗建長寺派の寺院です。
公式Webなどから、由緒をまとめてみます。

建武元年(1334年)、仏乗禅師天岸慧広(てんがん えこう)により開山。
天岸慧広は南宋出身の臨済宗の高僧・無学祖元(仏光国師)に師事し、高峰顕日(仏国禅師)の法を嗣ぐとされる禅師です。
元応二年(1320年)元に渡られ、元徳元年(1329年)帰国。自筆の作とされる『東帰集』は「五山文学」の代表作として知られています。
『東帰集』(伝仏乗禅師筆)は、国の重要文化財に指定され、『絹本著色佛乗禅師像』および『堆朱印櫃入木印』(「天岸」「慧広」の木印)が附指定されています。
また、当寺は運朝作とされる開山仏乗禅師坐像(鎌倉市指定文化財)を所蔵されています。

開基は足利尊氏公の祖父家時公(報国寺殿義恩)とされていますが、宅間上杉家の祖、上杉重兼が開基という説もみられます。
なお、このあたりは”宅間谷戸”と呼ばれ、鎌倉幕府の絵師、宅間為行や宅間法眼一派(宅磨派)の絵仏師達が住していました。(宅間上杉家と宅間法眼一派の関係は不明。)

『新編鎌倉志』には「本尊、釋迦・文殊・普賢・迦葉・阿難、迦葉は、詫間法眼が作也。詫間の迦葉と云伝へて名佛也。此辺を詫間が谷と云なり。詫間が旧居か。」とあります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門

永享十年(1438年)、第四代鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立などから永享の乱がおこり、室町幕府の援護を受けた上杉憲実が足利持氏を破りました。
足利持氏勢は鎌倉の永安寺(現・世田谷区大蔵)に入り、憲実は幕府に持氏の助命と嫡子義久の関東公方就任を再三嘆願したものの将軍義教公は許さず憲実に持氏殺害を厳命、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏は永安寺、義久は報国寺において自害したとされます。

関東管領の憲実にとって、鎌倉府の長官である鎌倉公方の持氏は主筋にあたり、主筋を討ったことを憂いた憲実は、乱後伊豆国清寺に退き出家、後年は諸国遍歴の旅に出て長門国大寧寺で逝去と伝わります。

足利義久は関東公方・足利持氏の嫡男で、「大若君」と尊称されました。
永享十年(1438年)鶴岡八幡宮で加冠元服。源義家公の先例にならい八幡太郎を称したとされる、押しも押されぬ源氏の御曹司です。

享年は17とされますが、諸説あるようです。
没後、報国寺は義久の菩提を弔い、菩提寺となりました。

『新編相模國風土記稿』には、以下のとおりあります。
「永享ノ乱ニ。持氏ノ息義久。十歳ナリシカ。当寺ニ在テ自害セリ。永享十一年二月十日。持氏御自害同廿八日若君義久十歳ニナラセ給ヒケルヲ。奉討ヘキ由聞エケレハ。報国寺ニ御座セシカ。」
「佛殿 本尊釋迦 長二尺二寸余定朝作 文殊普賢迦葉。阿難 各長三尺五寸許等ノ像ヲ安ス。共ニ詫間法眼カ作ニテ。迦葉ノ像。最其名高シ故ニ世俗当寺ヲ詫間寺又迦葉寺ナト呼ヘリ 開基伊豫守家時ノ像ヲモ置ケリ。是ハ旧休耕庵ニ安セシ像ナリ。」
「地蔵堂・出世地蔵ト云フ 諏訪社。稲荷社。八幡宮。三峯社 以上境内四方ノ鎮守トス。足利家時墓 祖塔休耕庵 開山塔・本堂ノ西ニアリ。太子堂・泉水谷ニアリ。」

足利持氏・義久の没後鎌倉公方は一旦断絶、後に持氏の遺児成氏が幕府から鎌倉公方就任を許されて鎌倉公方は復活するものの、享徳三年(1455年)からの享徳の乱を受け、以降は下総国古河を本拠とし「古河公方」を名乗りました。

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金沢街道「報国寺入口」信号から南側に入ってすぐ。あたりは閑静な住宅地です。
宅間派の芸術家が住んだという歴史があるためか、家々の佇まいにもどこか瀟洒な風があります。
こちらのお寺はとくに女性に人気が高く、週末などは着物姿の女子も多くみられます。


【写真 上(左)】 参道から山門
【写真 下(右)】 山門

山門前からすでに整備された参道が延びています。
山門は切妻屋根本瓦葺で、重厚な大棟・降棟を備えた本柱二、控柱二の薬医門。
山門脇の寺号標は「報国建忠禅寺」と正式寺号が刻まれています。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道と庭園

山門をくぐると左手に美しく砂紋が描かれた枯山水が広がります。
地表をおおう緑の苔と枯山水の対比があざやか。
枯山水のむこうの石上に御座す半跏思惟像は弥勒菩薩ではなく、観音さまのような感じがします。


【写真 上(左)】 砂紋
【写真 下(右)】 半跏思惟像

ゆるやかにカーブを描く石敷きの参道を進み石段をのぼると、やにわに視界が開けて正面が本堂。左手に鐘楼、右手には迦葉堂。


【写真 上(左)】 本堂下の階段-1
【写真 下(右)】 本堂下の階段-2


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

 
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 観音霊場札所板

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に二連の海老虹梁(?)、中備に龍の彫刻。
向拝正面の障子戸は開け放たれ、上部には寺号扁額が掲げられています。
両側の細かな連子が意匠的に効いて引き締まった印象の向拝。
御本尊の釈迦牟尼佛は鎌倉時代作とされ、鎌倉市指定文化財です。


【写真 上(左)】 迦葉堂-1
【写真 下(右)】 迦葉堂-2 

迦葉堂はおそらく入母屋造銅板葺妻入り、階段をのぼっての参拝です。
こちらにはおそらく伝・詫間法眼作の迦葉尊者像が奉安。
迦葉(摩訶迦葉)はインド僧で、釈尊が悟りを開かれてから弟子となった十大弟子の一人です。
また詫間法眼は、鎌倉時代末から室町時代前半の鎌倉地方造仏界で主流を担った「詫間派仏所」を代表する仏師とされ、その精妙巧緻な表現には宋元美術の影響が認められ、南北朝時代の制作と推定されています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 石塔群

鐘楼の左にある石塔群は、新田義貞鎌倉攻めの際の北條勢新田勢両軍戦死者の供養塔といわれています。


【写真 上(左)】 賑わう山内
【写真 下(右)】 本堂と迦葉堂

本堂左手に「竹の庭」の拝観受付があり、本堂裏手を回り込むと庭園。庭園は、開山の天岸慧広禅師作と伝わるもの。春先に咲くサンシュユが有名です。

 
【写真 上(左)】 「竹の庭」への道すじ
【写真 下(右)】 庭園

竹林右手の岩肌にはやぐらが掘られて、たくさんの五輪塔が並びます。
開基の家時公と、この地で自刃した足利義久の墓があるとされます。


【写真 上(左)】 庭園とサンシュユ
【写真 下(右)】 お地蔵さまとやぐら


【写真 上(左)】 苔庭のお地蔵さま
【写真 下(右)】 苔庭と竹林

苔庭の向こうが竹林。みごとな孟宗竹が空に向かってすくすくと伸びています。
その中を小道が通っているので、竹林の絶好の撮影ポイントです。


【写真 上(左)】 竹林-1
【写真 下(右)】 竹林-2


【写真 上(左)】 竹林-3
【写真 下(右)】 竹林-4

そして竹林のおくに人気の茶席「休耕庵」。


【写真 上(左)】 休耕庵-1
【写真 下(右)】 休耕庵-2

孟宗竹の竹林「竹の庭」と茶席「休耕庵」は鎌倉観光のハイライトのひとつで、Web記事があふれんばかりにあるので、こまかい説明は省略します。
なお、「休耕庵」は、慧広禅師の塔頭の号からとられたものとみられます。


こちらの札所は、鎌倉三十三観音霊場第10番、鎌倉十三仏霊場第8番、東国花の寺百ヶ寺霊場第97番(鎌倉5番)の3つ。
別に御本尊の御朱印を授与されているので御朱印は4種となります。
御本尊、釈迦如来の御朱印はおそらく申告制で、Webの画像検索からすると無申告ではおそらく鎌倉観音霊場の「聖大悲殿」の授与になるかと思います。

〔 御本尊・釈迦如来の御朱印 〕




鎌倉三十三観音霊場第10番の札所本尊は本堂別間に御座す聖観世音菩薩です。
本堂向拝には、観音霊場の札所板が掲げられています。

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

鎌倉十三仏霊場第8番(釈迦如来)も観音霊場札所本尊の観音さまとみられます。

〔 鎌倉十三仏霊場の御朱印 〕


●主印は聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
十三仏霊場の御朱印は種子の御寶印が多く、こちらもその様式です。

こちらは、東国花の寺百ヶ寺霊場第97番(鎌倉5番)の札所でもあります。
札所本尊は聖観世音菩薩で、おそらく鎌倉観音霊場、鎌倉十三仏霊場と同じ観音さまかと思われます。
花種はサンシュユで花期は2月~3月。
春のボケ・バラ、夏のイワタバコ、冬のフユザクラ・ツバキも見どころの花の寺です。

〔 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 〕


●主印は三寶印、揮毫は「聖大悲殿」で「鎌倉第五番」の揮毫があります。

繊細かつ風雅な趣きをもつ女性ごのみのお寺さまで、明るく開けた4.浄妙寺とは対照的。
鎌倉デートで、浄妙寺のつぎに報国寺をセッティングすれば、さらにポイントを稼げるのでは(笑)


8.大蔵山 観音院 杉本寺
公式Web
鎌倉市二階堂903
天台宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第1番、鎌倉二十四地蔵霊場第4番・第6番、相州二十一ヶ所霊場第2番、坂東三十三箇所(観音霊場)第1番

鎌倉最古の寺ともいわれる鎌倉を代表する古刹で、坂東三十三箇所(観音霊場)第1番(発願)を務められるメジャー寺院です。

天平三年(731年)、東国巡錫中の行基菩薩が当地にて観音様の霊感を感得し自ら一刀三礼で十一面観世音菩薩を刻され、本尊として奉安したのが草創とされます。
天平六年(734年)、聖武天皇后の光明皇后の発願により、藤原北家の祖、右大臣藤原房前公と行基菩薩が本堂を建立して創建。開山は行基菩薩と伝わります。

仁寿元年(851年)、慈覚大師円仁が参詣され、自ら十一面観世音菩薩を刻まれて安置。
寛和二年(986年)には花山法皇の命を受けた恵心僧都源信が熊野権現のお導きにより十一面観世音菩薩を刻して奉安し、そののち花山法皇も巡礼されたといいます。

『新編鎌倉志』には「杉本観音堂は街道より北にあり。(略)坂東巡礼札所の第一なり。開山は行基なり。此寺は天台宗にて、叡山の末寺なり。中比衰微して(略)本尊十一面観音慈覚作。右も十一面行基作。左も十一面慧心作。前にも又十一面あり運慶作。釋迦天竺佛。毘沙門宅間作。」とあります。

山内掲示には「鎌倉、室町時代の大火、兵火に遭い、江戸期に於いては、一時期無住の時もあり、後の明治の排仏毀釈、又震災等により寺運も衰微し、七堂伽藍も観音堂等を除き、悉く焼失倒壊してしまいました。(略)昭和四十八年より伽藍復興大勧進(略)多くの皆様のご協力、ご協賛により浄財を得まして左記のごとく円成の運びと相成りました。」とあり、観音堂以外の堂宇はおおむね昭和の円成とみられます。

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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

金沢街道に面した山内入口。街道の歩道からすぐに参道階段がはじまります。
右手に寺号標、参道階段両脇には「十一面杉本観音」の幟が立ち並び、はやくも霊場札所の趣きゆたか。
左の石標には「坂東第一番杉本寺観世音菩薩」、右の石標には「本尊十一面観世音菩薩」とあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝観受付と参道


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 仁王門扁額


【写真 上(左)】 仁王尊
【写真 下(右)】 仁王尊

しばらく登ると左手に拝観受付、その先の階段上には仁王門がそびえています。
江戸時代中期の築とされる切妻造茅葺両脇間一戸の八脚門で、左右に運慶作とも伝わる金剛力士(仁王)像を安置し、見上げに「大蔵山」の山号扁額。


【写真 上(左)】 仁王門から「苔の階段」
【写真 下(右)】 「苔の階段」

仁王門を抜けると見どころのひとつ、すり減って苔むした鎌倉石の石段参道(通称「苔の階段」)ですが、現在は通行禁止となっています。


【写真 上(左)】 大蔵辯財天-1
【写真 下(右)】 大蔵辯財天-2

右手には大蔵辯財天が御座します。
鳥居があるので「ここって神社?、お寺?」状態になりますが、当寺は中世~江戸期に神仏習合したともみられ、厳密な区別はむずかしいかもしれません。
「大蔵辯財天」の扁額が掛かった石造台輪鳥居の正面に大きな石の香炉。そのおくに銅板葺一間社流造のお社(堂宇)。
左手の池は洞窟を構えて、いかにも弁天様の境内らしい雰囲気を醸しています。
『新編相模國風土記稿』の観音堂の項に「辨天社 巌穴ニ安置ス。」とあるので、もともとはこの洞窟に祀られていたのかもしれません。
公式Webによると、「大蔵辯財天」をお参りすると大きな蔵が建つ程富に恵まれるという言い伝えがあるそうです。

「苔の階段」は登れないので、これを左の階段からまわりこむかたちでのアプローチ。
天台宗の寺院らしく、階段の途中に伝教大師童形像が御座します。

もうひと登りでT字路になり、左は小道、右手が本堂。
小道をすこし行った高みからは鎌倉の名山、衣張山(きぬはりやま)がよく見えます。


【写真 上(左)】 衣張山
【写真 下(右)】 左手からの本堂

本堂(観音堂)は、寄棟造茅葺方五間(桁行・梁間ともに五間)、身舎の四面に庇を廻らす密教仏堂です。
棟札から、延宝六年(1678年)の建立とみられ、県指定文化財に指定されています。

方五間なので堂内は外陣、内陣にわかれ、通常は内陣に上がって参拝できますが、新型コロナ禍では外陣からの参拝となります。


【写真 上(左)】 右手からの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

堂内は撮影禁止ですが、公式Webに詳細の本堂内配置図があるので、こちらに沿ってご案内します。

堂内手前右手は納経所。数多い御朱印はすべてこちらでの授与となります。

格子戸の奥の内陣向かって左は行基菩薩御作(素木一木造、平安)、中央が円仁慈覚大師御作(寄木造漆箔、鎌倉)、向かって右は源信恵心僧都御作(寄木造漆箔、鎌倉)の十一面観世音菩薩の秘仏本尊三体(三尊同殿)で、慈覚大師御作源信恵心僧都御作は国の重要文化財に指定されています。
毎月1日と18日に秘仏本尊御開帳のWeb情報もありますが、現況は定かではありません。

鎌倉時代の火災の折、御本尊三体は自ら山内の大杉の下に火を避けられたので、それより「杉(の)本(の)観音」と呼ばれたと伝わります。
また、礼を欠き、信心なき者が門前を乗馬のまま通り過ぎると落馬するというので、建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)が祈願され、自らの袈裟で行基菩薩御作の十一面観世音菩薩のお顔を覆ったところ、以降落馬する者がなくなったといいます。
このため行基菩薩御作のお像は「覆面観音」「下馬観音」とも呼ばれて市の指定文化財となっています。

頼朝公寄進の御前立の十一面観世音菩薩(伝・運慶作)は、常時御開扉されています。

このほか、本堂時計まわり、御本尊に向かって左手におびんづるさま、伝・運慶作の地蔵菩薩立像、伝・安阿弥(快慶)作の地蔵菩薩立像、新十一面観音。
御本尊に向かって右手に毘沙門天(宅間法眼作)、不動明王と伝・運慶作の観音三十三応現身。
本尊御前立は十一面観世音菩薩像、不動明王と毘沙門天は脇立の位置づけのようで、これは密教寺院の十一面観世音の堂宇でよくみられる様式です。

ほの暗い堂内には焼香の煙が絶えず、ときおり参拝団の読経の声が聞こえたりして、さすがに坂東霊場発願所らしい趣きがあります。


【写真 上(左)】 鐘楼堂
【写真 下(右)】 本堂右手

本堂向かって右手には鐘楼堂、五輪塔群、地蔵尊、右手おくの権現堂には白山、熊野両権現尊が祀られています。

中世、杉本寺および背後の大蔵山には杉本城が築かれていました。
三浦氏嫡流三浦義明の長子で杉本氏の祖・杉本義宗が六浦道(金沢街道)・朝比奈口を抑える要衝のこの地に築城し、次男の義茂が入城。
源頼朝公が挙兵すると、三浦一族は源氏方につき居城の衣笠城を出立して石橋山に向かいましたが頼朝公の敗戦を聞いて衣笠城に篭城。攻め寄せた平家方の畠山重忠軍勢と衣笠城攻防戦を繰り広げ三浦義明は戦死しました。
三浦(杉本)義茂はこの戦の際、杉本城内から繰り出し畠山勢に攻めかかったと伝わります。

その後杉本城は継続しましたが、南北朝時代の建武四年(1337年)、この城に拠った北朝方の鎌倉府執事斯波家長が、朝比奈口から攻め入った南朝方の北畠顕家軍に攻められて破れ(杉本城の戦い)、杉本城は落城・破却されたとみられています。
本堂右手の五輪塔群は、杉本城の戦いで戦死した斯波家長と家臣の供養塔ともいわれています。


【写真 上(左)】 五輪塔群
【写真 下(右)】 覆屋の地蔵尊

そのお隣の覆屋のなかに地蔵尊が七体、覆屋の外にも一体が御座します。


【写真 上(左)】 身代地蔵尊御前立
【写真 下(右)】 権現社

本堂向かって右奥のやぐらを背にした権現堂には白山、熊野両権現尊が祀られています。
石造の両部鳥居のおくに入母屋造銅板葺妻入りのお社(堂宇)。
恵心僧都源信は熊野権現のお導きにより御本尊十一面観世音菩薩を刻まれたとされるので、そちらとのゆかりがあるのかもしれません。

さて、ようやく御朱印です。
こちらの御朱印はたいへんに込み入っているので、丁寧に(笑)いきます。
札所としては鎌倉三十三観音霊場第1番、鎌倉二十四地蔵霊場第4番・第6番、相州二十一ヶ所霊場第2番、坂東三十三箇所(観音霊場)第1番の5札所、いずれも現役霊場です。

こちらの納経所(授与所)ですが、基本、お一人で書かれているようでグループ客が入ると一気に行列となります。(とくに行楽シーズンの週末)
いただける御朱印の種類は多いですが、発願札所がふたつもあるのでここは欲張らずに都度参拝がベターかも。

なお、新型コロナ禍のなかでは原則紙御朱印対応となり、授与時間も短くなるので要注意です。
とくに、発願参拝でどうしても御朱印帳に直書きいただきたい場合は、平日に事前確認のうえ参拝されたほうがいいかもしれません。
(今年は新型コロナ禍再燃のマイナス効果と、「鎌倉殿の13人」のプラス効果のせめぎ合いで、鎌倉観光の人出がまったく読めません。先日参拝したときはメジャー寺院もがらがらで無人の写真撮り放題でしたが、新型コロナ禍が首尾よく収まってリベンジ観光客が一気に吹き出すと、たいへんなことになるかもしれません。)


鎌倉三十三観音霊場第1番(発願)の札所本尊は、御本尊の十一面観世音菩薩です。
発願印は申告すればいただけますが、御朱印帳の途中の頁にいただけるかは定かではありません。
御朱印帳の最初の頁ならば大丈夫かと思いますが、導入編でも書いたとおり、鎌倉三十三観音霊場は専用納経帳での巡拝をおすすめします。(いまはどうかわかりませんが、専用納経帳でないと御朱印拝受がむずかしい札所があります。)
こちらでは数種類の紐綴じ型の納経帳を頒布されており、こちらで納経帳を入手すればスムーズに発願印を拝受できます。

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は十一面観世音菩薩の種子「キャ」の御寶印(蓮華座)。

鎌倉二十四地蔵霊場第4番の札所本尊「身代地蔵尊」は、本堂向かって左奥の伝・運慶作の地蔵菩薩立像で、本堂右手の覆屋内の七体並ぶ地蔵尊の一番右のおおぶりのお地蔵さまがお前立ちとされているようです。
杉本城を築城したとされる杉本(三浦)義宗に向けて放たれた矢がこちらの地蔵尊に当たり、地蔵尊の傷跡から血がにじみでたという伝承があり、地蔵尊が義宗の身代わりになられたことから「身代地蔵尊」と呼ばれるようです。

『新編相模國風土記稿』には、仁王門の左手に地蔵堂が描かれ、「地蔵堂 或伝ニ。此石佛ヲ。杉本太郎義宗カ。身代ノ地蔵トモ云フ。按スルニ。延元二年(1337年)斯波三郎。此ニテ自●セシ。斯波家長等カ為ニ。造建セシ。石佛ナルヘシ」とあるので、もともと「身代地蔵尊」は仁王門横の地蔵堂に御座していたのかもしれません。

〔 鎌倉二十四地蔵霊場第4番(身代地蔵尊)の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座)。

鎌倉二十四地蔵霊場第6番の札所本尊「尼将軍地蔵尊」は、本堂向かって左奥、「身代地蔵尊」の右隣の伝・安阿弥(快慶)作の地蔵菩薩立像です。
「身代地蔵尊」が第4番、第5番光触寺の「塩嘗地蔵尊」をはさんで第6番がこちらで、順打ち巡拝をむずかしいものにしています。
「尼将軍」といえば北条政子ですが、どうやら北条政子とのゆかりは不明のようです。
しかし、御朱印揮毫はしっかり「尼将軍地蔵尊」で、鎌倉らしい御朱印のひとつといえましょう。

〔 鎌倉二十四地蔵霊場第6番(尼将軍地蔵尊)の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座)。

相州二十一ヶ所霊場は、鎌倉の弘法大師霊場です。
鎌倉のかなりの観光寺院が札所となっていますが、御朱印見本に掲示されることはほとんどなく、鎌倉の御朱印ガイド類にもほとんど載っていません。
いわば「知る人ぞ知る鎌倉の霊場」で、しかも弘法大師霊場でありながら真言宗以外の札所も多くなっています。
どうしてこういう霊場が成立したのかは、いわく経緯がありそうですがここでは省略し、発願寺の宝戒寺で書きます。(丁寧にいきます。とかいいながらとりあえず逃げる(笑))

〔 相州二十一ヶ所霊場第2番の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は「阿字印」にも見えますが、違うかもしれません。

超メジャー霊場、坂東三十三箇所(観音霊場)第1番(発願)の札所で、札所本尊は御本尊の十一面観世音菩薩です。
坂東三十三箇所(観音霊場)は超メジャー霊場なので、こちらについてのご説明は省略です。(丁寧にいきます。とかいいながらまたしても逃げる(笑))

こちらも発願印をいただけますが、鎌倉観音霊場と同様申告制だと思います。
なお、霊場無申告の場合の御朱印ですが、Web画像検索の結果からすると、おそらく鎌倉観音霊場のものになるのでは?(坂東三十三箇所かもしれぬ。)
いずれにしても、御本尊十一面観世音菩薩の御朱印になります。

〔 坂東三十三箇所(観音霊場)第1番の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は十一面観世音菩薩の種子「キャ」の御寶印(蓮華座)。

本堂内に御座す毘沙門天(大蔵毘沙門天)の御朱印も授与されていますが、こちらは申告する人は少ないと思われ書置もないので、混乱回避のため混雑時の拝受は避けた方がベターかもしれません。

〔 大蔵毘沙門天の御朱印 〕


●主印は毘沙門天の種子「バイ・ベイ」の御寶印(蓮華座)とみられます。

仁王門右手の「大蔵辯財天」の御朱印も授与されていますが、こちらも申告する人は少ないと思われ書置もないので、混乱回避のため混雑時の拝受は避けた方がベターかもしれません。

〔 大蔵辯財天の御朱印 〕


●主印は弁財天の種子「ソ」の御寶印(蓮華座)と思われます。


■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)へつづく。


【 BGM 】
■ One Reason - milet


■ 最高の片想い - Sachi Tainaka


■ symphonia - kalafina



■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
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