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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第10番 長谷山 蔵春院(ぞうしゅんいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報サイト
伊豆の国市田京949-1
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡



第10番蔵春院は、第9番澄楽寺からほど近い田京(たきょう)の地にあります。
寺伝には、「関東管領足利持氏は、時の将軍足利義教公に反抗し自ら鎌倉将軍と名乗ったため幕府は追討を計り、持氏の家臣である上杉憲実に討伐の命を下した。憲実はやむなく持氏を鎌倉永安寺に攻めて自害させたが、憲実は主君を死に追いやったことを悔い管領職を譲って出家。主君の菩提を弔うため寺院建立を決意し、多福院(大仁町白山堂)に止錫中の春屋宗能禅師を尋ねて懇請し、白山堂の豪氏宮内五左ヱ門の協力を得て今の地に(永享十一年(1439年))長谷山蔵春院を建立」とあります。
↑の出来事は「永享の乱」と思われるので、Wikipediaなどで「永享の乱」をひくと、やや異なった内容があるのでとりまとめてみます。↓

永享十年(1438年)、第四代鎌倉公方足利持氏は前関東管領上杉憲実と対立し、憲実を支持した将軍足利義教公は足利満直、駿河守護今川範忠、上杉持房・教朝らを出兵させた。
持氏軍は敗れ、持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政に憲実・義教との折衝を依頼、鎌倉称名寺で出家し永安寺に幽閉された。
憲実は持氏の助命を懇願したが義教公は許さず、憲実に持氏の追討を命じたため憲実はやむなく永安寺を攻撃、持氏は自害した。(永享の乱)。

寺伝とWikipedia等で持氏と憲実の関係は若干異なりますが、「憲実は持氏の助命を懇願したもののやむなく持氏を追討」という点では符合し、憲実が持氏の菩提を弔うために蔵春院を建立、という趣意は同じかと思います。
山号、寺号は持氏の法名蔵春院殿陽山継公大禅定門によるものとされます。

憲実から寺院建立を懇請された宗能禅師が造立の際、この地に棲んでいた悪龍を鎮めたという龍神伝説が残ります。
宗能禅師は自らは開山を称せず、本師である大綱明宗大和尚を勧請して開山とし、後事を実山永秀に託して小田原最乗寺に住され第五世となりました。

『豆州志稿』には「田京村 下總州國府臺總寧寺末 本尊釋迦如 永享十一年(1439年)、上杉安房守憲実持氏
将軍ヲ追薦シ施地建寺開基トス 寺伝曰上杉憲実白山堂ノ処士宮内氏ニ●リテ創建シ足利持氏ヲ開基トスト 憲実当国ニ遁栖ノ事諸書ニ見ユ 開山大綱和尚二世春屋和尚三世実山和尚因テ三古佛道場ト称ス 実山此ニ住ム事数年  長享丁未歳(元年/1487年)示寂 実山ノ時持氏の子成氏ヨリ寺領ヲ寄スト云 持氏の古碑 法名長春院殿陽山継公大禅定門 及守佛(地蔵ノ木像長六寸手ニ寶珠ヲ持ツ)ヲ置ク 有佛殿祖師堂衆寮庫裏浴室鐘楼門 元末寺八十余ヶ寺アリ 今四十七ヶ寺ヲ有シ中本寺格也」とあり、おおむね寺伝と合致しています。

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瓦葺の楼門は三間一戸の八脚門で、上層に鐘楼を置いています。
本堂は昭和53年落慶。入母屋造桟瓦葺で降棟に照りのある勢いを感じるつくり。
向拝柱はなく向拝正面は桟唐戸で左右に花頭窓、上部に「長谷山」の山号扁額を掲げています。
本堂向かって右手前の観音堂に御座す観世音菩薩は、従前は山中にあって「長谷観音」(ちょうこくかんのん)と呼ばれ、歴代住職が石仏観音を中心に西国観音霊場より請来した三十三観音を参拝路に安置していることもあって多くの信者を集めていたそうですが、堂宇焼失により、現在はこの場所に御座されているそうです。

御朱印は庫裡にて拝受。鎌倉の影響が強い由緒を受けてか、御本尊、札所本尊ともに釈迦牟尼佛となっています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第11番 天與山 長源寺(ちょうげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市観光ガイド
伊豆の国市中492-2
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡



第11番長源寺は第10番蔵春院からほど近く、韮山反射炉のそばにあります。

創建年代などは不詳ですが当初真言宗であったようです。
北條早雲が榛原の石雲院より当寺に虚庵玄充を招き、当初は石雲院末でしたが虚庵が修禅寺第二世として普住したため以降は修禅寺末になったと伝わります。
『霊場めぐり』には、「信濃国の真田家の分家真田河内守信豊を開基とし、下田鵜島城主清水河内守正令唐の尽力により伽藍が整備された」とあります。

また、『豆州志稿』には「中村 修善寺修禅寺末 本尊釋迦如 開山虚庵和尚天文元年(1532年)化ス 修禅寺中興僧隆渓ヨリ開山虚庵ニ贈レル書ニ 文龜四年(1504年)三月トアリ 当時ノ創立歟」とあります。

境内には東司(トイレ)の不浄を清める烏枢沙摩明王が祀られるお堂もあり、毎年8月に例祭も執り行われています。
なお、こちらでは烏枢沙摩明王の御朱印は授与されていない模様です。
烏枢沙摩明王の御朱印はすこぶるめずらしく、筆者が拝受した範囲では伊豆市市山の金龍山 明徳寺のみです。ただし、明徳寺でもメインの御朱印は大黒天(伊豆天城七福神)と御本尊の釈迦如来で、烏枢沙摩明王の御朱印を常時授与されているかは不明です。

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山門は切妻屋根銅板葺の四脚門で、その先で直角に向きを変えて本堂に向かいます。
車両の出入りが不便な旧地から昭和40年、当地に移転したため堂宇は新しいもの。
近代建築ながら、入母屋造本瓦葺に付設の向拝を張り出す堂々たる構えです。
蔵造りの別堂には烏枢沙摩明王が祀られています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
・主印は三寶印と御寶印。御寶印の種子は「キャ」にも見えます。
【写真 下(右)】 御朱印帳
・主印は三寶印

■ 韮山温泉 「天城荘」の入湯レポ


■ 第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(ちょうおんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市古奈13
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:伊豆長岡温泉七福神(福禄寿)
授与所:庫裡



第12番長温寺は、古奈温泉のほぼ中心にあり、めずらしい林号を号すお寺です。
古奈温泉といってもピンとこない方も多いかと思いますが、もともと伊豆長岡温泉の発祥は源氏山の東側の古奈温泉で、西側の伊豆長岡温泉は新興温泉地とされます。

伊豆の国市観光協会発行の「古奈温泉ものがたり」(PDF)には「古奈温泉は、平安・鎌倉時代に遡り、弘法大師が伊豆を訪れた頃の発祥と言われ、(中略)源頼朝も湯浴みをしたと伝えられています。修善寺温泉・伊豆山温泉とともに伊豆三大古湯と言われ、『吾妻鏡』には、伊豆国小名温泉や、北条古那温泉などの表記があり、南北朝時代に「古奈湯」と記されています。明治40年に西隣りの長岡地区に温泉が発見され次々に宿屋ができ、合わせて伊豆長岡温泉として発展してきました。」とあります。


【写真 上(左)】 古奈の温泉街
【写真 下(右)】 湯谷神社


【写真 上(左)】 古奈の元湯-1
【写真 下(右)】 古奈の元湯-2

長温寺のそばに御鎮座の湯谷神社は、ここから温泉が湧き出たという由緒から古奈温泉の産土神とされています。
御祭神は大己貴命、少彦名命と、温泉地の湯元神社に多く祀られる御祭神です。
湯谷神社参道脇の「古奈の元湯」はいまは枯渇してしまいましたが、いまでも遺構を残しています。
なお、長温寺は位置関係、および山号「湯谷山」から湯谷神社の元別当とも思いましたが、確実な史料は確認できておりません。

巡礼ガイドによると、仁安二年(1167年)、古奈治郎義光、同五郎義定の両将は敗戦しこの地に逃れて天野原で討死、義光が守護仏として護持していた薬師如来をこの地に祭祀したとのこと。
永禄五年(1562年)、僧・瓶山により開創、元和六年(1620年)には梅原源左衛門が再興し、真珠院第九世柳岩玄絮を請して開山し曹洞宗となったとあります。

『豆州志稿』には「古奈村 中條眞珠院末 本尊薬師 永禄五年(1562年)瓶山開林 寺伝曰初真言宗ニシテ長御寺ト号ス 御元和中梅原源左衛門再興 眞珠院九世柳岩ヲ祖トシ改宗ス 此時ヨリ長温寺ト更ムト」とあります。

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温泉街の路地のおく、こぢんまりとした境内ですが、しっとりと落ち着いた趣きがあります。
本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、木鼻、蟇股、海老虹梁を備え、「薬王山」の扁額を掲げています。
御本尊、札所本尊は温泉地のお寺にふさわしく薬師如来です。

御朱印は庫裡にて拝受しました。こちらは伊豆長岡温泉(源氏山)七福神の福禄寿ですが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 伊豆長岡温泉 「湯らっくすのゆ」(旧 長岡北浴場)の入湯レポ


■ 第13番 巨徳山 北條寺(ほうじょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市観光協会Web
伊豆の国市南江間862-1
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第16番、駿豆両国横道三十三観音霊場第8番、中伊豆観音札所第20番
授与所:庫裡



北条氏の館(北条氏邸・円成寺跡)にもほど近い、源頼朝公の正室・北条政子の弟である北条義時(江間小四郎)が創建した寺院です。
義時の嫡子安千代が領内の大池で大蛇に襲われ命を落とした際に、この北條寺を墓所とし七堂伽藍を建立、運慶に仏像を作らせたといいます。

この運慶作の祈願仏が「木造阿弥陀如来座像」(桧材寄木造、国重要美術品、県文化財)として知られており、仏殿の御本尊です。
御本尊の聖観世音菩薩は南北朝期の作とされ、中国宋風の像容で県文化財に指定されています。
鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が奉納したとも伝わります。

『豆州志稿』には「南江間村 鎌倉建長寺末 本尊観世音 本観音堂也相伝フ観音ハ天竺ヨリ唐ニ渡リ 智證大師(円珍)東帰ノ時齋来ル其佛 鎌倉(極楽寺ニ安置セシ也)ニ在リシヲ二位禅尼命シテ此ニ贈ル佛造 黒色ニシテ油ノ浮カ如シ伽羅木也ト云(略)北條義時ノ草創ニシテ観音ノ像長一尺余ト有リ 曆應貞和ノ頃(1338-1350年)寺ヲ建立ス 建長寺七十九世大雲ヲ開山トス 初実成寺ト称ス(略)境内ニ北條義時夫妻ノ墓ト云アリ 義時法名北條寺殿寛海大禅定門ト云 当村ハ其郷里ナリ」とあり、北条政子や北条義時ゆかりの名刹であることがわかります。

境内の「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、義時夫妻の墓所があります。
ロウバイと白いヒガンバナが有名な花の寺でもあります。

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本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、大棟両端に金色の鴟尾を置いています。
朱塗りの柱が効いて引き締まった印象の仏堂で、向拝に水引虹梁を置き、正面サッシュ扉の上に「北條寺」の寺号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受。伊豆中道三十三観音霊場第16番の御朱印も拝受しています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


〔 伊豆中道三十三観音霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印は三寶印

御朱印帳


■ 第14番 龍泉山 慈光院(じこういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市韮山多田937
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第11番、中伊豆観音札所第16番
授与所:庫裡



第14番慈光院は韮山市街の東の山ぎわにあります。
当初は光明遍照金剛楳(梅)林寺 槑(梅)香院と号した真言宗寺院でしたが、永正七年(1510年)曹洞宗に改宗、再興されたといいます。

永正七年の再興に際しての逸話が伝わります。
往時、このあたりに村人から恐れられた龍が住んでおり、多田入道実正(日下部乃梅原入道伊豆乃真実正とも)が、五人張の強弓をもってこれを退治しましたが、それ以来村内に悪疫が流行して村人を悩ませました。
これを龍の祟りとみた実正は龍の霊を祭り供養するために龍の戒名をつけ、弘法大師の御作と伝わる延命地蔵尊を御本尊とし、昌渓院二世菅谷宋儔を開山として請し、龍の戒名から龍泉山 慈光院と号したといいます。

『豆州志稿』には「韮山多田 南條昌渓院末 本尊阿彌陀 昌渓院二世曹谷和尚(永正十三年(1516年)取滅)應請卓錫ス 二世密栄ノ時寺号トス 此村梅原氏ノ先祖(梅原内膳実正法名牛鍬院殿弓兵多田大膳定門)蛇ヲ)射殺ス因テ寺ニ蛇足ト蛇鱗トヲ蔵ム 廃正法寺本尊観世音当寺ニ安ス」とあり、こちらでは蛇にかかわる所縁が記されています。

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本堂は入母屋造桟瓦葺で、大がかりな唐破風を張り出した向拝を置いています。
水引虹梁端部に雲形の木鼻、中備に板蟇股、身舎方に海老虹梁を配し、向拝見上げに「慈光院」の寺号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受。こちらは伊豆中道三十三観音霊場第11番でもあり、札所本尊聖観世音菩薩の御朱印も拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


〔 伊豆中道三十三観音霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印は三寶印

御朱印帳

■ 畑毛温泉 「富士見館」の入湯レポ


■ 第15番 華頂峰 高岩院(こうがんいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市奈古谷68
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡(要事前連絡?)

かつて五山十刹のひとつにも数えられた名刹、国清寺の78を数えた塔頭のひとつです。
国清寺は慶安二年(1362年)、仏真禅師を開山に律宗寺院として修善寺城主畠山国清が創建、応安元年(1368年)には関東管領上杉憲顕が開基中興、無礙妙謙師(円覚寺第三十六世)を開山に請じて臨済宗寺院になったと伝わる名刹です。

全盛期には末寺300を擁し、足利義満公の時代には関東十刹の六番目に加えられたともいわれます。
関東十刹(じっせつ)とは、五山制度に基づく臨済宗の寺格で、五山に次ぎ、諸山の上に位置します。
時代により変遷し、その総数は中世末までに60に達したとみられています。
『禅宗寺院の官寺機構』(今枝愛真氏著/PDF)によると、康暦二年(1380年)、足利義満公は十刹および準十刹の16ヶ寺を定めています。

〔十刹〕
・等持寺(等持院) 京都市北区 天龍寺派 足利氏菩提寺
・禅興寺 鎌倉市山ノ内/廃寺 臨済宗 執権北条時頼私邸の最明寺を再興
・聖福寺 福岡市博多区 妙心寺派 「扶桑最初禅窟」
・東勝寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条氏菩提寺
・(鎌倉)万寿寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条貞時の創建
・長楽寺 群馬県太田市 天台宗 世良田義季(得川義季)の創建
・真如寺 京都市北区 相国寺派 開山は無学祖元
・北禅寺(山城国安国寺) 京都市四条大宮 臨済宗 足利直義の開基
・(豊後)万寿寺 大分市 妙心寺派 開山は直翁智侃和尚(足利泰氏の子)
・清見寺 静岡市清水区 妙心寺派

〔準十刹〕
・臨川寺 京都市右京区 天龍寺派 開山は夢窓疎石
・寶幢寺 京都市嵯峨北堀町/廃寺 臨済宗 足利義満の開基
・瑞泉寺 鎌倉市二階堂 円覚寺派 開山は夢窓疎石
・普門寺 京都市東山区/廃寺 臨済宗
・寶林寺 兵庫県上郡町 真言宗 赤松則祐の開基
・国清寺 静岡県伊豆の国市韮山町 円覚寺派 上杉憲顕の開基

同書の国清寺の項には「応安二年(1369年)以前諸山(空華集十九疏) 至徳元年(1387年)春十刹か(鎌倉五山記)」とあります。

国清寺の本尊聖観世音菩薩は、平安時代末に伊豆に流されてきた文覚が承安三年(1173年)籠居したという奈古屋寺の本尊だったとも伝わります。
また、奈古屋寺の鎮守・毘沙門堂(授福寺)の本尊毘沙門天・金剛力士像は運慶の作ともいわれます。

北面武士の遠藤盛遠は出家して文覚となり、神護寺再興を後白河天皇に強訴したため伊豆国に配流。奈古屋寺に住持して、蛭ヶ島に配流の身であった源頼朝に源氏再興を説いたとされ、その荒法師ぶりは平家物語をはじめ数々の作品にとり上げられています。

国清寺には天狗にまつわる伝説がいくつか残されています。
「天狗にさらわれた一兆さん」はとくに有名で、一兆和尚は高岩院住職となりました。

なお、国清寺は円覚寺百観音霊場第30番、伊豆中道三十三観音霊場第10番の札所ですが、伊豆八十八ヶ所の札所ではありません。


【写真 上(左)】 国清寺の寺号標
【写真 下(右)】 国清寺本堂


【写真 上(左)】 国清寺の扁額
【写真 下(右)】 国清寺の御朱印

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高岩院について、『霊場めぐり』には下記のとおりあります。
・高岩院は国清寺の塔中として代々奉行職を司っていた。
・創建は、国清寺とおなじ貞治元年(1362年)、開基は畠山道譽夫人(松寿院殿)、上杉憲顕夫人(華頂院殿)の両名、開山は亀州妙智禅師。

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国清寺の参道左手、塔頭らしい位置に一堂を構えています。
寄棟造桟瓦葺、向拝柱のないシンプルな本堂で、向拝見上げには「華頂峰」の山号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受しましたが(国清寺の庫裡だったかも?)、ご不在気味のようで、要事前連絡かもしれません。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第16番 金寶山 興聖寺(こうしょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
函南町塚本431
臨済宗円覚寺派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:-
授与所:庫裡



『豆州志稿』に「塚本村 奈古谷國清寺末 本尊地蔵 亦創始ヲ知ラス或日明應文亀(1501-1504年)ノ頃南渓和尚建ツト」とあり、ガイド2冊にも延徳元年(1489年)、南渓によって創建された寺院という以外の沿革は記されていません。

冠の中にクルス(十字架)が付けられ、江戸時代の隠れ切支丹との関係も論じられる「マリア観音像」、琳派絵師の作とされる雌雄一対の鹿ともみじが描かれた杉戸襖絵は、ともに函南町有形文化財に指定されています。

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山内入口に伊豆八十八所霊場の札所碑。その先の石標は達筆すぎて読めません(笑)
背後にこんもりと小山を背負った本堂で、手前に聖観世音菩薩の立像が御座。
寄棟造桟瓦葺で向拝を付設し、水引虹梁まわりは比較的シンプル。格子扉のうえに寺号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 竹倉温泉 「錦昌館」の入湯レポ


■ 第17番 明王山 泉福寺(せんぷくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市長伏66
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:-
授与所:庫裡



第17番泉福寺から三島市内に入ります。
『霊場めぐり』などによると、創立年代等不明ですが僧快任を中興祖とし、初めは元屋敷にあったものを元久八年(元久四年とも)に中ノ坪に遷し、さらに寛保二年(1742年)に現在地へ移転とあります。

『豆州志稿』にも「長伏村 紀州高野山金剛峯寺末 本尊不動 創立不詳 僧快任ヲ中興トス 初字元屋舗ニ在リキ元久四年(1207年)字中ノ坪ニ遷シ寛保二年(1742年)復現地ニ転ス」とあります。

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山内入口に寺号標と伊豆八十八所霊場の札所碑。
その先にどっしりとした大棟、降棟、掛瓦を置いた桟瓦葺の山門。
本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。向拝サッシュ扉の上に寺号扁額を掲げています。

境内左手の観音堂は、三島の楽寿園(元小松宮別邸)内の愛染院(三島大社別当)に御座の千手観世音菩薩を遷して奉安とのことです。(町内にあった旧法覚寺の御本尊を安置という説もあり。)

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 不動明王 /主印はいずれも不動明王の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第18番 龍泰山 宗徳院(そうとくいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市資料
三島市松本414
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:-
授与所:庫裡



山内由緒書などによると、延喜年間(901-902年)、真言宗の僧(弘法大師空海とも)がこの地に霊感を得て、地蔵菩薩を御本尊として奉安し真言宗寺院として創建。
源頼朝公が挙兵後、鎌倉に入るまでの百日間、三島大社に日参するとともに、当寺御本尊の延命地蔵菩薩を源氏旗揚げの祈願佛として詣でたといわれています。

天正(1573-1592年)の初期、武田の残党道乗、道吉の2名がこの地で開墾に当たりましたが、追手が迫り同寺境内にて自刃。両名菩提のため、天正三年(1575年)韮山町南條昌渓院六世麒庵東麟禅師を請し曹洞宗寺院として開山。

『豆州志稿』には「松本村 田方郡南條昌渓院末 本尊地蔵 天正三年(1575年)創立僧東麟ヲ開山トス 松本村廃萬年寺ノ本尊観世音当寺に安ス」とあります。

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門前の川に架かる橋は「駒爪橋」といい、頼朝公が乗った馬の爪痕が残されたことに由来するそうです。
山内に頼朝公の祠があるようですが、うかつにも写真を撮りわすれました。

入口手前に寺号標。寄棟屋根銅板葺の山門には山号扁額。
相輪を備えた宝形造銅板葺の本堂で、向拝上に院号扁額を置いています。
本堂には御本尊の地蔵菩薩を奉安。明治初年に廃寺となった旧萬年寺の御本尊聖観世音菩薩を御本尊脇仏として併祀。
弘法大師のお像と頼朝公の木造も奉安されているようです。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第19番 君澤山 連馨寺(れんけいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市観光ガイド
三島市資料
三島市広小路町1-39
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第3番、中伊豆観音札所第2番、駿河一国百地蔵尊霊場第96番
授与所:庫裡



三島の街なか、広小路にある名刹。順打ちでいくとはじめての浄土宗寺院になります。
正應二年(1289年)、浄土宗の僧星誉上人により開創。
豊臣秀吉の小田原征伐の際の三島焼き払いで焼失した他、類焼や震災などにより寺伝等が焼失し沿革は不明となっています。
昔、寺の裏に蓮沼池という池があり、蓮の花の香りが漂ったことから蓮馨寺と号したといいます。

『豆州志稿』には「三島町六反田 本尊阿彌陀 西京知恩院末 享禄天文ノ間明譽上人建ツ 観音堂在門前」とあります。

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繁華街に面した参道入口から本堂にかけて参道が延びています。
山門入って右手には松尾芭蕉の墓があり、「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」の芭蕉の句が刻まれています。当寺の住職が芭蕉の弟子だったという縁で建てられたとのことです。

参道に沿って左手に日限地蔵尊、観音堂などが並びます。
日限地蔵尊は聖徳太子御作とも伝わり、毎年8月23日には日限地蔵尊大祭が営まれます。

こちらの日限地蔵尊にはつぎのような縁起が伝わっています。
江戸の昔、三島宿に向かう一人の旅人が物盗りに襲われ、刀で斬りつけられて気を失ってしまいました。翌朝気がつくと傍らに袈裟懸けに斬られた石のお地蔵さまが横たわっていました。旅人はこのお地蔵さまが身代わりになってくれたと悟り、近くの連馨寺に運び手厚くお祀りしました。
当初は「身代わり地蔵」といわれたこのお地蔵さまは、いつしか日を限ってお願いすると願いが叶うという「日限地蔵尊」として信仰を集め、横浜・日限山の福徳院、長野・岡谷の平福寺に御分身されお祀りされています。
この三体の地蔵尊は「三大日限地蔵尊」と称され多くの信仰を集めたとのこと。
こちらの日限地蔵尊は、駿河一国百地蔵尊霊場第96番の札所となっています。

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本堂は階段の上に入母屋造本瓦葺、重厚な向拝を備えた堂々たる伽藍で、向拝に寺号扁額を掲げています。

本堂右手の聖徳太子堂は、大正11年、地元技術諸職48名の発起により大和法隆寺より御分身を勧請し建立されたもの。
由緒書きにはありませんが、その背景には日限地蔵尊が聖徳太子御作と伝わっていることもあるのだと思われます。

・御朱印は庫裡にて拝受しましたが、観音霊場の御朱印は授与されていないとのことです。(地蔵尊霊場については訊きわすれました。)

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ (湯郷)三島温泉 「湯郷三島温泉」の入湯レポ


■ 第20番 福翁山 養徳寺(ようとくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市資料
函南町平井1126
臨済宗円覚寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:円覚寺百観音霊場第27番、中伊豆観音札所第13番
授与所:庫裡



嘉應元年(1387年)、用固という僧によって開創。 寛政元年(1789年)の火災により堂塔、寺伝などをすべて焼失したため、詳細な沿革は不明となっていますが、寛政元年(1789年)牛窓和尚が本堂庫裡再建と伝わります。

『円覚寺百観音霊場 御納経帳』には、「開創以来過去数百年、その間幾多の盛衰、興廃あり、後人の亀鑑となるべき歴代の法躅、先哲の遺芳等多くあったと思われるがその記録のないのが惜しまれる」とあります。

『豆州志稿』には「平井村 奈古谷國清寺末 本尊十一面観世音 本養徳院ト云 天正(1573-1592)の頃ヨリ寺号ヲナシテ國清寺ニ隷ス 嘉應中僧用固創立ス後 享保七年(1722年)僧一渓中興ス 廃薬王寺ノ本尊当寺ニ安す」とあります。

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畑毛温泉にもほど近い、函南の山里にあります。
参道入口に寺号標。その先に切妻屋根銅板葺の薬医門。
山門を抜けると右手に枯山水の石庭が広がりそのおくに本堂。
入母屋造銅板葺で桁行きのある端正な伽藍です。

御朱印は庫裡にて拝受。円覚寺百観音霊場の御朱印も拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 円覚寺百観音霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第21番 圓通山 龍澤寺(りゅうたくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市観光ガイド
三島市資料
三島市沢地326
臨済宗妙心寺派
御本尊:子安観世音菩薩
札所本尊:子安観世音菩薩
他札所:中伊豆観音札所第6番
授与所:庫裡



宝暦十一年(1761年)、白隠禅師により開山されたという臨済宗妙心寺派の名刹。
当寺住職は代々老師として称えられ、開山白隠老師をはじめ、東嶺老師、明治の星定老師、大正昭和の玄峰老師はわけても名声高く、各界の名士が参禅しました。
「今白隠」とも賞された山本玄峰老師の大正期の復興により、国内有数の禅道場として名を高めたとされます。

『豆州志稿』には「澤地村 西京妙心寺末 本尊子安観世音 舊愛宕山下ニ在リテ弘法大師開基ノ由 國初ノ頃三島心経寺ノ天外和尚済門ヲ開ク 寶暦十年今ノ地ニ移シ駿州原驛松隠寺ノ白隠禅師ヲ祖トシ妙心寺に隷ス」とあります。

山内には本堂、庫裏、禅堂、経堂、鐘楼、不動堂、開山堂などが軒を連ね、開山堂内には白隠、東嶺、星定、玄峰の4老師像が安置されています。
星定老師像は鏝細工の名工、入江長八の作として知られ、白隠禅師が83歳の時に自ら描かれたという「紙本著色白隠自画像」は県指定文化財となっています。
毎年11月23日の観楓祭には所蔵の宝物が一般公開され、多くの拝観客が訪れます。

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三島市街の北東の山裾にあり、龍澤禅寺とも呼ばれます。
伊豆八十八ヶ所霊場はこの龍澤寺がもっとも北の札所で、ここで方向を転じ東海岸沿いを南伊豆に向かって南下していきます。

山内は石垣の上に築かれ、さながら城郭のよう。
うっそうと古木の茂る階段をのぼると、獅子・貘の木鼻と中備に龍の彫刻を置いた二軒垂木の風格ある山門。
山内には鐘楼、経堂、開山堂、本堂、禅堂、庫裏などが整然と並びます。
どこを切りとっても絵になり、これはインバウンド客にも人気が高そう。

御朱印は庫裡にて拝受しました。
いまも禅道場として修行僧の修行の場となっており、接心修行時にはお遍路であっても境内に入場できなくなるので要注意です。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 子安観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第22番 龍泉山 宗福寺(そうふくじ)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
三島市塚原新田69-1
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡



天正十八年(1590年)豊臣秀吉が小田原を攻めた際、出城となった山中城で出た戦没者を追悼するため、延寶元年(1673年)、法華寺三世橘庵明洲により創建された曹洞宗寺院です。

『豆州志稿』には「塚原新田 三島法華寺末 本尊阿彌陀 当地ハ天正十八年(1590年)ノ古戦場ナレハ戦死者追福ノ為ニ延寶元年(1673年)法華寺三世明洲創立ス」とあります。

山中城は永禄年間(1558-1570年)に北条氏康により小田原の西の防衛を担うため、箱根山中腹の標高580mの地に、東海道を取り込む形で構えられたといいます。
「山中城合戦 戦国時代最大の攻城戦」(三島市資料)によると、天正十八年(1590年)、全国制覇を目論む豊臣秀吉は後北条氏の征伐(小田原征伐)に向かいました。

3月29日早朝、山中城を豊臣軍約七万の軍勢が取り囲みました。
右翼に池田輝正勢、左翼に徳川家康勢、中央に総大将の豊臣秀次以下、中村一氏、一柳直末、山内一豊、堀尾吉晴などが三手に分かれて布陣したといいます。

後北条方は城主の松田康長、援将の北条氏勝、間宮康敏、松田康郷、蔭山氏広以下約四千で迎え撃ったとされます。

後北条方は善戦したものの衆寡敵せず、正午過ぎには山中城は落城したとされ、激戦を物語るように、両軍の戦死者は二千にも達したと伝わります。
「戦国時代最大の攻城戦」といわれる所以です。
北条氏滅亡とともに山中城は廃城となりました。

秀吉はここまで力攻めを嫌った武将でしたが、このような激しい城攻めとなったのは、天下人たる実力を世に示す必要があったこと、秀吉に対して戦功をあげるため、武将達が奮戦したことによるとみられています。

宗福寺のある塚原新田は東海道の箱根越えの登り口に当たっているため、この地に創建されたと考えられます。

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東海道から1本北側に入った道沿いにあります。
山門は切妻屋根銅板葺でおそらく薬医門
正面に入母屋造銅板葺流れ向拝の本堂。照りむくりがなく、直線的な屋根勾配。
水引虹梁まわりもスクエアでシンプル。向拝見上げに山号扁額を掲げています。

御朱印は本堂よこの庫裡にて拝受しました。

ここから札所は伊豆東海岸に移ります。
続行の場合は、伊豆縦貫自動車道~熱函道路~熱海峠のルートがとれますが、第23番東光寺まではかなり距離があり熱海峠~東光寺は悪路のうえに、東光寺の御朱印は伊豆山の般若院(第24番)での拝受となるので、ひとまず区切りとするタイミングかもしれません。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3へ。



【 BGM 】
■ One Reason - milet


■ 春に落ちて - 鹿乃 / Kano


■ 最高の片想い - Sachi Tainaka
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