関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)から
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へ
9.荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)
公式Web
神奈川県神社庁Web
鎌倉市二階堂74
御祭神:菅原道真公
旧社格:村社、旧二階堂村鎮守
元別当:一乗院(真言宗)
古くは荏柄山天満宮とも呼ばれ、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに「三古天神社」と称される名社です。
公式Webの社伝などによると、「長治元年(1104年)、一天俄かにかきくもり、雷雨とともに黒袍の束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が降臨の地に社殿を建てその画像を納め祀った」ことが縁起と伝わります。
治承四年(1180年)、大蔵の地に幕府を開いた頼朝公は鬼門に位置する当社を崇敬し社殿を造立。
以後、歴代将軍家をはじめ幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には将軍頼家公が大江広元を奉幣使として派遣し、菅公御神忌三百年祭が盛大に催されたことなどが記されています。
また、建保元年(1212年)、渋河兼守が冤罪を訴え当社に献じた和歌十首が源實朝公の知るところとなり罪を許された逸話は、和歌の徳を語るもの、天神信仰の一端を示すものとして広く知られています。
『新編相模國風土記稿』には「勧請ノ年代ヲ伝ヘス。頼朝初メテ大蔵ノ地ニ舘造営ノ時。当社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トス。」「本社中央ニ菅公束帯ノ座像ヲ置キ 右方ニ天拝山祈誓ノ立像。左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ置ク」とあります。
また、『新編鎌倉志』には「当社は頼朝卿の時より有なり。しかれども祝融の災ひ度々にて、記録不伝、文献微とすべきなし。別当を一乗院と云ふ。真言宗、洛の東寺の末寺なり。(略)天神自画像【大日記】に、長享元年(1487年)、荏柄天神、駿河より還座、自筆の書画とあり。是ならん。」とあり、中世は神仏習合の天神社として信仰を集めたことがうかがわれます。
↑の「荏柄天神、駿河より還座」については、「神奈川県神社庁Web」に記載がありました。
康正元年(1455年)、今川範忠が公方足利成氏を攻めて鎌倉へ入った際、当社の社壇は破られ御神体は駿河へ持ち去られましたが、その後御神体は自ら当社へ戻られたと伝わります。
中世~江戸期には足利、北条、豊臣、徳川各武家の尊崇篤く、維新後の明治6年には村内の熊野社を合祀し二階堂村の鎮守として村社に列格。
学問の神、努力を重ねるものを助ける神として、人々の尊崇を集めて今日に至ります。
境内は国指定史跡、本殿は国指定重要文化財に指定されており、弘長元年(1261年)銘の「木造天神坐像及び木造天神立像」も国重要文化財に指定されるほか、多くの社宝を所蔵します。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 社号標
金沢街道大御堂橋あたりに一之鳥居があり、ここから長い参道がはじまります。
途中、2本の松が交差するところに社号標とその先に鳥居。
そこからはもう、境内下の急な参道階段が見えています。
階段上のちょっとかわった様式の門は、不勉強につき名称はわかりません。
門扉に天満宮の神紋「星梅鉢紋」と頭上には「天満宮」の扁額。
門をくぐると正面が朱塗りの拝殿。向かって左に授与所、社務所、かっぱ筆塚、絵筆塚。
右手には手水舎と御輿庫、そして樹齢900年とも伝わる御神木の大銀杏がならびます。
拝殿は入母屋造銅板葺平入りで朱塗りの身舎や斗栱があざやか。
拝殿扉にも「星梅鉢紋」が彫りこまれています。
国の重要文化財の本殿は、拝殿裏手に回り込めないので詳細不明ですが、「文化遺産オンライン」によると、「寛永元年(1624年)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い若宮の旧本殿を移築して再興されたもの」で、「若宮は正和五年(1315年)再建後維持されていることから、この本殿(の造営)は14世紀に遡る可能性がある」とのこと。
三間社流造銅板葺。「三間社としては大型で,内外ともに細部の意匠も優れ,中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構」とのことです。
御朱印は授与所にて拝受。御朱印帳も頒布されています。
〔 荏柄天神社の御朱印 〕
10.鎌倉宮(かまくらぐう)
公式Web
鎌倉市Web
鎌倉市二階堂154
御祭神:護良親王
旧社格:官幣中社
元別当:
近代社格制度で官幣中社に列格した、すこぶる社格の高い神社です。
一般に官幣社は天皇・皇族を祀るなど朝廷にご縁のある神社が多く列格していますが、こちらも御祭神を大塔宮護良親王とし、明治2年に明治天皇の勅命をうけて創設されています。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、6歳の頃、尊雲法親王として天台宗三門跡の梶井門跡(三千院門跡)に入られました。
幼少より英邁の才をあらわされて衆徒の尊崇を集め、20歳の若さで天台座主に就かれて「大塔宮」と呼ばれ、のちに還俗され「護良親王」となられました。
その優れた機知や武芸については、数々の逸話が伝わります。
元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の元弘の乱を起こされますが、事前に漏洩し大塔宮は逮捕され死罪が申し渡されました。
その後脱出され、山城国鷲峰山~奈良・般若寺~吉野郡十津川村~吉野と潜伏・転戦、元弘三年(1333年)のはじめ、吉野金峯山城にて千早城の楠木正成と呼応して挙兵されました。
吉野山で二階堂道蘊率いる幕府軍と戦い、劣勢となった護良親王が自害されようとしたとき、村上義光公が身代わりとなり、親王は高野山へ落ちられました。
その後も護良親王は鎌倉が敵であることを示す令旨を撒布され、倒幕をうながされました。
元弘三年(1333年)4月、隠岐島を脱出された後醍醐天皇は船上山で挙兵され、同年5月後醍醐天皇の綸旨に呼応した足利、赤松、千種らの軍勢が京の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を攻めて、ここに鎌倉幕府は倒れました。
倒幕後の建武の新政のなか、後醍醐天皇と護良親王は確執を生じ、護良親王は政治の表舞台には立たれませんでした。
その理由についてはいろいろと推測されていますが、ここでは触れません。
護良親王はははやくから足利高氏(尊氏)の野心を見抜かれ、度々高氏(尊氏)を牽制されて、御自らを「将軍宮」と称されました。
後醍醐帝も一旦は護良親王の主張を容れられ、元弘三年(1333年)6月護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任ぜられました。
護良親王は征夷大将軍任命後も足利勢への警戒を解かれず、北畠親房・顕家と連携して足利勢に備えました。
一方、後醍醐天皇の側室・阿野廉子は子の義良親王(後の後村上天皇)を帝にするため、護良親王とは一貫して対立関係にあり、足利勢とは利害が一致していました。
護良親王は後醍醐帝に対して帝位簒奪の誤解を釈明され、尊氏追討の勅語を願うも容れられず、ついに征夷大将軍を解かれて、建武元年(1334年)11月鎌倉へ送られ、尊氏の弟直義の監視のもと、二階堂の東光寺内の土牢に幽閉の御身となられたといいます。
(現在の鎌倉宮の社地は、当時は東光寺の山内でした。)
建武二年(1335年)、北条高時の遺児、時行を奉じた中先代の乱が勃発し、勢力を増しました。
前征夷大将軍の護良親王と北条執権高時の遺児・時行が結べば、護良宮将軍と執権・時行の名分が整ってしまうため、これをおそれた直義の命を受けた淵辺義博により襲われ、護良親王は格闘の末にその生涯を閉じられました。
享年は数え28歳と伝わります。
護良親王が予想された通り、その後足利尊氏は勢力を拡大し、朝廷を圧倒して足利(室町)幕府を開くことになりました。
護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南御方に弔われたと伝わります。
護良親王と南御方の子は鎌倉の妙法寺を開いた日叡で、父母の菩提を弔いました。
また、護良親王の妹が後醍醐帝の命を受け東慶寺五代目の尼僧として入られ、用堂尼と呼ばれました。
東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られているといいます。
護良親王の公式の墓所は、鎌倉宮から少しはなれた二階堂の理智光寺跡とみられています。
『新編相模國風土記稿』の東光寺蹟の項に「覚園寺南東ノ山麓ニアリテ。醫王山ト号セシ。一宇ノ禅刹ナリ。
蚤 (はや)ク廃シテ。(略)建武二年五月。足利直義。大塔宮ヲ東國ニ下シ。土牢ヲ構ヘテ禁獄セシハ即此所ナリ。淵邊伊賀守義博直義ノ内命ヲ承ケ。爰(ここ)に来タリテ宮ヲ弑ス。」「大塔宮土籠跡 前(東光寺)寺廃跡北方ノ山腹ニアリ。窟中二段ニ穿テリ。是建武二年直義大塔宮ヲ禁獄セシ所ト」とあります。
『新編相模國風土記稿』の理智光寺の項には「護良親王石塔。山上ニアリ。建武二年当寺住僧宮ノ屍ヲ埋葬セシ所ナリ。佛壇ニ碑アリ。没故兵部卿親王尊霊ト記シ。寺伝ニ此位牌始浄光明寺ノ慈恩院ニアリシヲ。当寺ニアルヘキモノナリトテ。慈恩院ヨリ送レリト云フ。」とあります。
また、『新編鎌倉志』には「大塔宮の土籠は、覚園寺の南東、二階堂村山の麓に有。(略)【太平記】に、建武元年5月3日、大塔宮を、足利直義うけ取、鎌倉ヘ下し奉て、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参せける。後に●起に及て直義、淵邊伊賀守義博直義に命じて云、始終●とならせらるべきは、兵部卿親王也。御邊は急ぎ薬師谷馳帰て、宮を刺殺し●せよと下知せられければ、義博畏て承候とて建武二年七月二十三日に弑し奉る。(略)理致光院の長老、葬禮の事営むとあり。則ち此所なり。石塔は理智光寺の山上にあり。」とあります。
護良親王には、雛鶴姫という寵姫がおられたと伝わります。
雛鶴姫についてはいろいろな説があり、都留市資料では「北畠親房の娘」とされています。
雛鶴姫は護良親王の首級を奉じて京(十津川村とも)に向かう途中、山梨県上野原市無生野で哀しい最後を遂げられたという伝承があります。
冨士山下宮小室浅間神社にも護良親王所縁の伝承があり、郡内~富士五湖地方には親王所縁の史跡や神社がいくつか存在します。
山梨県上野原市無生野の「無生野の大念仏」は、護良親王と雛鶴姫を追善供養するために始まったと伝えられています。
なお、「大塔宮」の読みですが、鎌倉宮では「おおとうのみや」としているようですが、地元の通称は「だいとうのみや」のようです。
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(以下「左」「右」はすべて「本殿に向かって左・右」を示します。)
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 露天
金沢街道「岐れ道」交差点から北東に入る道の正面に御鎮座です。
この道は鎌倉宮社頭に向けて一直線に伸び、さながら参道のようです。
大がかりな鳥居を構える堂々たる社頭は、さすがに官幣中社の風格。
鳥居はおそらく外宮宗鳥居系で、貫の突き抜けがなく、柱の転び(傾斜)もほとんどなく、笠木は反増。
笠木・島木ともに両端が斜下となる襷墨(たすきずみ)で、島木に花菱紋らしき紋所を3つ置いています。
特徴的なのは鳥居の色で、笠木のみ朱であとは白色です。
Webでひいたところ、社務所で質問された奇特な方がおられました。(→ こちらの記事(ブログ「歩きましょ」様))
こちらの記事によると「赤は『赤誠』(せきせい)といって、『誠』を表し、白は『純粋』を表している」(以上引用)とのことです。
また、このブログには「岐れ道」からの直線道について「明治天皇が行幸するために作られ、ぴったり400mとのこと。」という貴重な情報も載せられていました。
Web情報おそるべし。
鳥居前右に「官幣中社鎌倉宮」の社号標と灯籠一対。鳥居の先の境内には玉垣がめぐらされ、鳥居傍の河津桜はかなり有名なようです。
こちらは鎌倉にはめずらしく広い駐車場があります。
大型バスも停められ、歴史的にも重要な名社なので、秋など修学旅行生がたくさん入り込みます。
参道はゆるい左カーブを描き、階段先右手に立派な手水舎。
そこからさらに階段をのぼって社頭の鳥居と同系の鳥居があります。
社域の左右と社殿の背後に整った社叢を配し、おごそかな境内。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水舎から鳥居
手水舎の右手には、厄を落とす「厄割り石」があります。
境内のあちこちに、護良親王が兜のなかに忍ばせ御身の無事を祈られた「獅子頭守」が飾られています。
手水舎のそばには、護良親王の弟宮、征西大将軍懐良親王が「筑後川の戦い」(正平十四年(1359年))に勝利された際、両軍の犠牲者への手向けとしてお手植えされ、のちに九州から移植された「将軍梅」が植えられています。
【写真 上(左)】 将軍梅-1
【写真 下(右)】 将軍梅-2
拝殿はおそらく入母屋造銅板葺妻入で向拝を付設、身舎はなく柱のみで向拝から相の間と本殿を拝せます。
拝殿は舞台のようで舞殿を兼ねているのかもしれません。
(ちなみに秋に催される有名な薪能(たきぎのう)では、別に舞台が設けられるようです。)
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 本殿
本殿は銅板葺神明造の堂々たる社殿。棟には千木、鰹木を置いています。
拝殿右手が拝観受付で、入場すると土牢、宝物殿、御神苑などを拝観できますが、今後は社務所(授与所)が拝観受付になるかもしれません。
【写真 上(左)】 宝物殿
【写真 下(右)】 南方社と本殿
【写真 上(左)】 南方社遙拝所から土牢への道
【写真 下(右)】 土牢
拝殿右手おくに村上社が御鎮座。拝殿左手には南方社が御鎮座で、こちらはつぎにご案内します。
有料拝観ゾーンには土牢や宝物殿などがあり、護良親王所縁の史跡や宝物などを拝観できます。
御朱印は境内右手の授与所にて拝受しました。
こちらは月替わり御朱印を授与され、書置御朱印の紙質にもこだわられるなど御朱印授与に積極的です。
授与所のご対応もとても親切です。
通常御朱印はすべて両面見開きで、現在下記3パターンとなっているようです。
番号つきの見本があるので、お願いしやすいです。
1.鎌倉宮と南方社・村上社
右に「鎌倉宮」の揮毫と社印、左に「大塔宮鎌倉宮」・「摂社村上社」・「摂社南方社」の印判の御朱印。
2.南方社と村上社
鎌倉宮拝殿の向かって左右のおくに御鎮座の二社の御朱印です。
こちらの二社については、つぎでご紹介しています。
3.明治大帝と神鹿さん
かつて鎌倉宮では鹿が「神鹿」(しんろく)として飼われていたそうで、3頭の剥製が参拝者無料休憩所に残っています。
社務所前広場の紅葉の枝などにも神鹿さんのフィギュアがいます。
「明治大帝」(明治天皇)と「神鹿」の御朱印がセットとなっている理由はわかりませんが、明治天皇の勅命により創設という由緒からの授与かと思います。
明治天皇は官幣大社で勅祭社でもある明治神宮の御祭神ですから、当然このセット御朱印の主尊格は「明治大帝」ということになるのかと。
【写真 上(左)】 神鹿さん-1
【写真 下(右)】 神鹿さん-2
【写真 上(左)】 授与所前の紅葉
【写真 下(右)】 獅子頭守
11.南方社・村上社
鎌倉市二階堂154
御祭神:持明院南御方(南方社)・村上義日(義光)公(村上社)
旧社格:鎌倉宮境内社(摂社)
【南方社】(みなみのかたしゃ)
鎌倉宮の摂社で、鎌倉宮拝殿向かって左手おくの玉垣内に御鎮座です。
護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南御方に弔われたと伝わります。
護良親王と南御方の子は鎌倉の妙法寺を開かれた日叡で、父母の菩提を弔いました。
南御方については史料が少ないようですが、いただいた由緒書によると、持明院藤原保藤卿の息女で「新按察使典待(しんあぜちのすけ)」と呼ばれ、鎌倉では常に親王の側にあって身の回りの世話をされながら、親王のお気持ちをなぐさめられたとの由。
由緒書には「別名の『鶴舞姫』にもちなみ」とあり、南御方と鶴舞姫を同一人物とされています。
また、境内掲示の由緒書には「親王のご最期にあたっては、理智光寺の長老と共に、丁寧に弔いをされました後、上洛し後醍醐天皇へ親王のご最期の仔細を報告されました。」とあります。
鎌倉宮では3月3日に「南方祭」を斉行しています。
なお、静岡県駿東郡清水町長沢の智方神社の御祭神は護良親王で、南御方所縁の神社でもあるようです。
鎌倉宮本殿よこの玉垣内に御鎮座なので、有料拝観ゾーン内の玉垣外遙拝所からの遙拝となります。
銅板葺神明造の端正な社殿です。
【写真 上(左)】 南方社遙拝所
【写真 下(右)】 南方社社殿
【村上社】(むらかみしゃ)
村上義光公は村上義日ともいい、出自は信濃源氏村上氏の流れとされ大塔宮護良親王に仕え、元弘の乱の吉野城の戦いで親王の身代わりとなり壮絶な討死を遂げられました。
左馬権頭。明治時代に従三位を追贈。
元弘三年(1333年)、二階堂勢六万の攻撃を受けて護良親王軍が拠る吉野城が落城した際、義光公とその次男の義隆は力闘ののち討死しました。
その奮戦ぶりが境内由緒書に記されているので引用します。
「村上義満公は、護良親王の忠臣にして元弘三年(1333年)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は別れの酒宴をされました。そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して『天照大御神の子孫、神武天皇より九十五代の後醍醐天皇の皇子兵部卿親王護良、逆臣の為に只今自害する有様を見て、汝らが武運尽きて腹を切らんとする時の手本とせよ』と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。」
義光公の子の義隆も共に討ち死にを覚悟しましたが、義光公はこれを止め親王を守るよう言いつけました。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるべく奮闘し、満身創痍となって力尽き自害したと伝わります。
村上義光公の墓と伝わる宝篋印塔が吉野蔵王堂の北西にあります。
大和高取藩士内藤景文が天明三年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」も同所にあります。
村上社は、厄除・病気平癒の神様として「身代りさま」と呼ばれて尊崇を集めています。
鎌倉宮拝殿の右手に御鎮座。拝殿手前には義光公のお像が御座します。
社殿は銅板葺で、おそらく神明造と思われます。
【写真 上(左)】 村上社-1
【写真 下(右)】 村上社-2
南方社と村上社の御朱印はセットで、鎌倉宮境内授与所で授与されています。
12.錦屏山 瑞泉寺(ずいせんじ)
公式Web
東国花の寺 百ヶ寺公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市二階堂710
臨済宗円覚寺派
御本尊:釋迦牟尼佛
札所:鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、円覚寺百観音霊場第9番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番
鎌倉宮の右脇の道を山の方に分け入ったあたりは紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸で、中世いくつかの寺院がおかれました。
永福寺、理智光寺、瑞泉寺などで、もっともおくにある瑞泉寺は夢窓国師の名跡をいまに伝える古刹です。
嘉暦二年(1327年)、鎌倉幕府の幕臣、二階堂道蘊が夢窓疎石を開山として創建、当初は瑞泉院と号しました。
足利尊氏の四男、初代鎌倉公方・足利基氏が夢窓疎石に帰依して中興、寺号を瑞泉寺と改め、以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となりました。
夢窓疎石(国師)は鎌倉時代末から南北朝時代の臨済宗の名僧で、その法統は複雑なのでここでは触れませんが、後醍醐帝から尊崇を受け「夢窓国師」の国師号を下賜、以降、七つの国師号を授与されて後世「七朝帝師」と称えられました。
足利尊氏・直義兄弟も深く帰依して『夢中問答集』などの共著を遺され、尊氏からは「仁山」、直義からは「古山」の法号を贈られました。
優れた作庭家としても名を遺され、禅庭・枯山水の完成者として知られています。
さらに、五山文学の詩人で、和歌でも勅撰和歌集に入集するなど、文学史上にも名跡を残した当代一流の文化人として、その名声はいまにつづきます。
(鎌倉時代末期から室町時代、禅刹では漢詩文学が栄えて「五山文学」と呼ばれましたが、鎌倉における拠点のひとつが瑞泉寺とされています。)
『新編相模國風土記稿』の瑞泉寺項に「圓覚寺塔頭に属ス。関東十刹ノ内第二ナリ。嘉暦二年起立ス。開山は疎石。(略)(足利)基氏逝シテ当山に葬ル。(略)天正十九年(1591年)以来。圓覚寺領ノ内ヲ配当アリ。当寺住持職ハ圓覚寺西堂ノ僧ヲモテ補セラル。(略)本尊釋迦ヲ安ス。座像七寸許。本堂ニハ当時(足利)氏満筆。大雄寶殿ノ四字ヲ扁セシト云フ。今ハ亡セリ。(略)開山堂 中央ニ開山無窓。千手観音(古昔客殿ニ 是客殿ノ本尊ナルヘシ。)右ニ基氏。左に氏満等ノ木像ヲ置ク。今堂宇破壊セシカハ此諸像ヲ本堂中ニ●置ス。座禅堂。辨天社。鐘楼。塔頭廃跡。」
「遍界一覧亭跡 本堂北方ノ高山ヲ云フ。頂上ニ亭跡アリ。嘉暦三年ノ建立ナリ。夢窓国師此亭ニシテ詩ヲ賦シ又歌ヲ詠セリ。基氏此亭ニテ櫻花紅葉等ヲ翫テ詩ヲ賦シ。又五山ノ僧徒等カ亭席ニテノ詩文書許多アリ。(略)元禄ノ頃。水戸光圀卿ヨリ。山上ニ一堂ヲ建立アリテ千手観音ヲ安ス。」
また、『新編鎌倉志』には「関東十刹の内なり。源基氏の建立なり(略)開山は、夢窓国師、本尊は釋迦(作者不知)」とあります。
『新編鎌倉志』は徳川光圀公の編纂とされ、光圀公は「遍界一覧亭」を再建されたとも伝わります。
瑞泉寺は、康暦年間(1379-1381年)に準十刹第三位、至徳四年(1387年)には関東十刹に列せられた名刹です。
関東十刹(じっせつ)とは五山制度に基づく臨済宗の寺格で、五山に次ぎ、諸山の上に位置します。
時代により変遷し、その総数は中世末までに60に達したとみられています。
『禅宗寺院の官寺機構』(今枝愛真氏著/PDF)によると、康暦二年(1380年)、足利義満公は十刹および準十刹の16ヶ寺を定めています。
〔十刹〕
・等持寺(等持院) 京都市北区 天龍寺派 足利氏菩提寺
・禅興寺 鎌倉市山ノ内/廃寺 臨済宗 執権北条時頼私邸の最明寺を再興
・聖福寺 福岡市博多区 妙心寺派 「扶桑最初禅窟」
・東勝寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条氏菩提寺
・(鎌倉)万寿寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条貞時の創建
・長楽寺 群馬県太田市 天台宗 世良田義季(得川義季)の創建
・真如寺 京都市北区 相国寺派 開山は無学祖元
・北禅寺(山城国安国寺) 京都市四条大宮 臨済宗 足利直義の開基
・(豊後)万寿寺 大分市 妙心寺派 開山は直翁智侃和尚(足利泰氏の子)
・清見寺 静岡市清水区 妙心寺派
〔準十刹〕
・臨川寺 京都市右京区 天龍寺派 開山は夢窓疎石
・寶幢寺 京都市嵯峨北堀町/廃寺 臨済宗 足利義満の開基
・瑞泉寺 鎌倉市二階堂 円覚寺派 開山は夢窓疎石
・普門寺 京都市東山区/廃寺 臨済宗
・寶林寺 兵庫県上郡町 真言宗 赤松則祐の開基
・国清寺 静岡県伊豆の国市韮山町 円覚寺派 上杉憲顕の開基
瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺、夢窓派禅林の拠点として栄えましたが、第五代鎌倉公方足利成氏の代、永享十一年(1439年)の永享の乱により鎌倉公方が廃止(以降、古河公方として存続)されるとともに寺勢は衰え、夢窓派禅林の拠点も円覚寺黄梅院に移りました。
江戸時代に入ると徳川家のもとで復興が始まり、元禄二年(1689年)には水戸光圀公により堂宇が再建されています。
鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番、円覚寺百観音霊場第9番の4つの現役霊場の札所を兼ね、歴史の香り高い花の寺ということもあって、多くの拝観客を集めています。
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瑞泉寺には数台の駐車スペースはありますが、アクセス道が狭いのと、鎌倉宮あたりからの道行きは見どころも多いので、徒歩でのアクセスをおすすめします。
【写真 上(左)】 アプローチの標識
【写真 下(右)】 永福寺跡
鎌倉宮の社頭前をクランクして、二階堂川の谷沿いを山手に歩いていきます。
右手に折れて理智光寺橋をわたると、理智光寺跡で護良親王の墓所があります。
左手は源頼朝公建立の永福寺跡。
奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため平泉の中尊寺二階大堂などを模して建立され、建久五年(1194年)に二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成し、鎌倉幕府から手厚く保護されましたが、応永十二年(1405年)に焼失し、以後は再建されませんでした。
史跡に指定され発掘調査が行われて、現在旧山内の一部が一般公開されています。
瑞泉寺の創建は嘉暦二年(1327年)なので、創建時には永福寺は現存していたことになります。
【写真 上(左)】 通玄橋
【写真 下(右)】 総門手前の参道
まっすぐ進むとすぐに通仙橋。
二階堂川はここから左手に折れて北方に向かいますが、瑞泉寺への道は通仙橋を渡ってまっすぐです。
通仙橋の先で道は狭まり、左手に寺号標が建っています。
【写真 上(左)】 総門
【写真 下(右)】 総門の寺号標
その先には総門。切妻屋根の四脚門で、本瓦葺はさすがに名刹の風格。
その先は道が広くなって、すぐに拝観受付です。
【写真 上(左)】 拝観受付
【写真 下(右)】 左手が梅林
瑞泉寺は100本以上もの梅が咲く梅の寺で、拝観受付先の左手は梅林となっています。
梅林を過ぎると参道階段のはじまりです。
【写真 上(左)】 階段登り口
【写真 下(右)】 参道階段
「史跡瑞泉寺境内 名勝瑞泉寺庭園」「夢窓国師古道場」の石碑、うっそうと茂る木々、苔むした階段など、俄然雰囲気が出てきます。
すこしくのぼると分岐があり、左手が急階段、右手は緩い階段となっています。
左手がいわゆる「男坂」、右手が「女坂」かと思われ、ふたつの階段は山門前で合流します。
【写真 上(左)】 吉田松陰先生碑
【写真 下(右)】 山門手前
山門左手前には吉田松陰留跡碑があります。
瑞泉寺は文学の寺でもあり、山崎方代、吉野秀雄、久保田万太郎、高浜虚子、大宅壮一などの歌碑・句碑・評論碑などが山内各所に置かれています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内図
山門は切妻屋根本瓦葺の薬医門ないし四脚門で、左右に塀をまわしています。
【写真 上(左)】 山門先から山内
【写真 下(右)】 左手に鐘楼
【写真 上(左)】 茶室と庫裡
【写真 下(右)】 茶室の円窓
山門をくぐると一挙に視界が開けます。
右手に庫裡と、おそらくは書院、客殿。手前の円窓を配した瀟洒な建物は、茶室・保寿庵(非公開)と思われます。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 庫裡
その左奥の楼閣は本堂。背後の小高い山(錦屏山)のうえに徧界一覧亭が望めます。
よく手入れされた趣きある庭園で、本堂向かって左手は梅林となっています。
【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 徧界一覧亭の屋根
「瑞泉寺境内」として、国の史跡に指定されています。
ほとんどの堂宇や建物は大正以降の再建ないし、ほかからの移築とみられますがいずれも趣きがあります。
瑞泉寺は古来「瑞泉蘭若」と称されました。自身が気に入って住まう庵、というほどの意味だそうです。
【写真 上(左)】 紫陽花
【写真 下(右)】 紅葉ヶ谷の紅葉
瑞泉寺は花の寺で、早春の梅のほか、春のミツマタ・藤、夏の紫陽花、桔梗、秋の冬櫻、紅葉、冬の水仙、椿など、四季おりおりの花を楽しむことができます。
【写真 上(左)】 本堂(大雄寶殿)-1
【写真 下(右)】 本堂(大雄寶殿)-2
本堂(佛殿)は、「大雄寶殿」(だいゆうほうでん)と称します。
大雄寶殿(だいゆう(だいおう)ほうでん)とは、主に禅宗寺院で金堂、本堂に相当する建物の称号です。
「大雄」とは釈尊のことで、ふつう御本尊が釈迦無尼仏(釈迦如来)の場合に使われます。
とくに黄檗宗でよく使われ、黄檗宗寺院では「大雄寶殿」の御朱印を授与されるところが少なくありません。
瑞泉寺の御本尊の御朱印も「大雄寶殿」の揮毫で授与されます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂前掲示
すこしく話が逸れますが、御朱印には閣号や殿号が揮毫されることがよくあります。
その多くは、尊格の御座す堂宇をあらわすもので、閣(殿)号はそのまま尊格に結びつきます。
たとえば、無量寿(光)殿-阿弥陀如来、瑠璃殿-薬師如来、大悲殿(閣)-観世音菩薩、圓通閣(殿)-観世音菩薩、大光普照殿-十一面観世音菩薩、阿遮羅殿-不動明王などで、大雄寶殿も大雄=釈尊なのでこの系統です。
本堂(大雄寶殿)は銅板葺二層の楼閣建築(高楼)で、上層は露盤に宝珠を置いた宝形造と思われます。
向拝柱はなく、古色を帯びた桟唐戸。
小壁の連子と端部を垂直に切り落とした花頭窓が直線的に呼応して、すこぶる端正なイメージの身舎まわりです。
桟唐戸おくの格子戸が少し開かれ、堂内諸尊をうかがうことができます。
本堂前の掲示によると、堂内中央に御本尊の釋迦牟尼佛、向かって左に阿弥陀如来と千手観世音菩薩、右には開山夢想国師の坐像が奉安されています。
千手観世音菩薩は「水戸黄門様奉安」とあり、『新編相模國風土記稿』には「遍界一覧亭跡 元禄ノ頃。水戸光圀卿ヨリ。山上ニ一堂ヲ建立アリテ千手観音ヲ安ス。」とあるので、もとは徧界一覧亭に奉安されていた尊像とみられます。
こちらは鎌倉市指定有形文化財です。
ふたつの観音霊場の札所本尊で、尊像の左手には「大本山円覚寺百観音霊場第九番札所」の札所板が掲げられています。
木造夢窓国師坐像は、南北朝期の頂相彫刻(禅師の肖像彫刻)の秀作として国の重要文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 斜め左からの本堂
【写真 下(右)】 本堂から地蔵堂
本堂(大雄寶殿)を右手に回り込んだおくのお堂はおそらく地蔵堂。
「どこもく地蔵尊」が奉安され、鎌倉二十四地蔵霊場第7番の札所となっています。
桟瓦葺宝形造の均整のとれたお堂で、向拝桟唐戸が開かれているのでお地蔵さまを拝めます。
【写真 上(左)】 地蔵堂-1
【写真 下(右)】 地蔵堂-2
堂前に札所板&説明板が掲げられていました。
むかし扇ガ谷の辻にお地蔵様が御座し、こちらの堂守が貧窮して逃亡を図ったところ夢にこちらの地蔵尊があらわれ「どこも どこも」と宣いました。堂守が八幡宮寺の僧にこの意味を問うたところ「これ、どこも苦なり」(人生はどこに逃げ出しても苦労はついてまわるもの)と諭され、堂守は改心して一生堂守として地蔵尊を守り通したといいます。
立像の地蔵尊で、堂内には諸佛が奉安されています。
【写真 上(左)】 庭園-1
【写真 下(右)】 庭園-2
地蔵堂の右手、本堂の裏手が国名勝の「瑞泉寺庭園」です。
夢窓疎石の築とされる岩盤を掘り込んで作られた禅宗様庭園で、(方丈)書院庭園の起源ともみられています。
また、鎌倉にのこる鎌倉時代の唯一の庭園とされています。
この庭園をみたとき、やや粗削りな、というかどこかとりとめのない印象を受けました。
復興庭園ということもあるのでしょうが、どうやらその理由は作庭の意図にありそうです。
公式Webには「北隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を穿ちました。天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とせば坐雨観泉となるしつらえ」とあります。
つまり、道場としての庭園であり、(手前(堂宇側)から鑑賞するのではなく)座禅を組む洞側からの景色をふまえて作庭されているようなのです。
この点は、公式Webの天女洞からの景色の写真をみるとよくわかります。
【写真 上(左)】 庭園-3
【写真 下(右)】 庭園-4
本堂の背後、錦屏山の山上にある徧界一覧亭(昭和10年再建)への道は整っているようですが、現在は非公開。
亭からの眺望は、相模湾を池と見立てる壮大なものといわれます。
中興開基・足利基氏の御廟は、本堂右手おくの高みにあるようです。
御朱印は庫裡にて拝受できます。
すこぶるご親切なご対応で、頭が下がります。
こちらの札所は、鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、円覚寺百観音霊場第9番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番の4つ。
別に御本尊(大雄寶殿)の御朱印を授与されているので、御朱印は5種となります。
無申告の場合、おそらく御本尊「大雄寶殿」の授与になるかと思います。
〔 御本尊・大雄寶殿の御朱印 〕
本堂(大雄寶殿)に御座す釋迦牟尼佛です。
本堂内には「大雄寶殿」の扁額が掲げられています。
鎌倉三十三観音霊場第6番の札所本尊は、本堂(大雄寶殿)に御座す千手観世音菩薩です。
〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
鎌倉二十四地蔵霊場第7番の札所本尊は、地蔵堂に御座す「どこもく地蔵尊」です。
堂前には札所板&縁起書も掲げられています。
〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
円覚寺百観音霊場第9番札所本尊は、本堂(大雄寶殿)に御座す千手観世音菩薩です。
堂内尊像よこに札所板が掲げられています。
〔 円覚寺百観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳
こちらは、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番(鎌倉4番)の札所でもあります。
御朱印尊格は「大雄寶殿」なので、札所本尊は御本尊・釋迦牟尼佛と思われます。
花種は梅で花期は1月中旬~3月上旬です。
〔 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へつづく。
【 BGM 】
■ One Reason - milet
■ 最高の片想い - Sachi Tainaka
■ symphonia - kalafina
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へつづく。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へ
9.荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)
公式Web
神奈川県神社庁Web
鎌倉市二階堂74
御祭神:菅原道真公
旧社格:村社、旧二階堂村鎮守
元別当:一乗院(真言宗)
古くは荏柄山天満宮とも呼ばれ、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに「三古天神社」と称される名社です。
公式Webの社伝などによると、「長治元年(1104年)、一天俄かにかきくもり、雷雨とともに黒袍の束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が降臨の地に社殿を建てその画像を納め祀った」ことが縁起と伝わります。
治承四年(1180年)、大蔵の地に幕府を開いた頼朝公は鬼門に位置する当社を崇敬し社殿を造立。
以後、歴代将軍家をはじめ幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には将軍頼家公が大江広元を奉幣使として派遣し、菅公御神忌三百年祭が盛大に催されたことなどが記されています。
また、建保元年(1212年)、渋河兼守が冤罪を訴え当社に献じた和歌十首が源實朝公の知るところとなり罪を許された逸話は、和歌の徳を語るもの、天神信仰の一端を示すものとして広く知られています。
『新編相模國風土記稿』には「勧請ノ年代ヲ伝ヘス。頼朝初メテ大蔵ノ地ニ舘造営ノ時。当社ヲ以テ鬼門ノ鎮神トス。」「本社中央ニ菅公束帯ノ座像ヲ置キ 右方ニ天拝山祈誓ノ立像。左方ニ本地佛十一面観音ノ像ヲ置ク」とあります。
また、『新編鎌倉志』には「当社は頼朝卿の時より有なり。しかれども祝融の災ひ度々にて、記録不伝、文献微とすべきなし。別当を一乗院と云ふ。真言宗、洛の東寺の末寺なり。(略)天神自画像【大日記】に、長享元年(1487年)、荏柄天神、駿河より還座、自筆の書画とあり。是ならん。」とあり、中世は神仏習合の天神社として信仰を集めたことがうかがわれます。
↑の「荏柄天神、駿河より還座」については、「神奈川県神社庁Web」に記載がありました。
康正元年(1455年)、今川範忠が公方足利成氏を攻めて鎌倉へ入った際、当社の社壇は破られ御神体は駿河へ持ち去られましたが、その後御神体は自ら当社へ戻られたと伝わります。
中世~江戸期には足利、北条、豊臣、徳川各武家の尊崇篤く、維新後の明治6年には村内の熊野社を合祀し二階堂村の鎮守として村社に列格。
学問の神、努力を重ねるものを助ける神として、人々の尊崇を集めて今日に至ります。
境内は国指定史跡、本殿は国指定重要文化財に指定されており、弘長元年(1261年)銘の「木造天神坐像及び木造天神立像」も国重要文化財に指定されるほか、多くの社宝を所蔵します。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 社号標
金沢街道大御堂橋あたりに一之鳥居があり、ここから長い参道がはじまります。
途中、2本の松が交差するところに社号標とその先に鳥居。
そこからはもう、境内下の急な参道階段が見えています。
階段上のちょっとかわった様式の門は、不勉強につき名称はわかりません。
門扉に天満宮の神紋「星梅鉢紋」と頭上には「天満宮」の扁額。
門をくぐると正面が朱塗りの拝殿。向かって左に授与所、社務所、かっぱ筆塚、絵筆塚。
右手には手水舎と御輿庫、そして樹齢900年とも伝わる御神木の大銀杏がならびます。
拝殿は入母屋造銅板葺平入りで朱塗りの身舎や斗栱があざやか。
拝殿扉にも「星梅鉢紋」が彫りこまれています。
国の重要文化財の本殿は、拝殿裏手に回り込めないので詳細不明ですが、「文化遺産オンライン」によると、「寛永元年(1624年)の鶴岡八幡宮若宮の社殿造営に伴い若宮の旧本殿を移築して再興されたもの」で、「若宮は正和五年(1315年)再建後維持されていることから、この本殿(の造営)は14世紀に遡る可能性がある」とのこと。
三間社流造銅板葺。「三間社としては大型で,内外ともに細部の意匠も優れ,中世鎌倉における社殿の様式を知る上で欠くことのできない貴重な遺構」とのことです。
御朱印は授与所にて拝受。御朱印帳も頒布されています。
〔 荏柄天神社の御朱印 〕
10.鎌倉宮(かまくらぐう)
公式Web
鎌倉市Web
鎌倉市二階堂154
御祭神:護良親王
旧社格:官幣中社
元別当:
近代社格制度で官幣中社に列格した、すこぶる社格の高い神社です。
一般に官幣社は天皇・皇族を祀るなど朝廷にご縁のある神社が多く列格していますが、こちらも御祭神を大塔宮護良親王とし、明治2年に明治天皇の勅命をうけて創設されています。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、6歳の頃、尊雲法親王として天台宗三門跡の梶井門跡(三千院門跡)に入られました。
幼少より英邁の才をあらわされて衆徒の尊崇を集め、20歳の若さで天台座主に就かれて「大塔宮」と呼ばれ、のちに還俗され「護良親王」となられました。
その優れた機知や武芸については、数々の逸話が伝わります。
元弘元年(1331年)8月、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の元弘の乱を起こされますが、事前に漏洩し大塔宮は逮捕され死罪が申し渡されました。
その後脱出され、山城国鷲峰山~奈良・般若寺~吉野郡十津川村~吉野と潜伏・転戦、元弘三年(1333年)のはじめ、吉野金峯山城にて千早城の楠木正成と呼応して挙兵されました。
吉野山で二階堂道蘊率いる幕府軍と戦い、劣勢となった護良親王が自害されようとしたとき、村上義光公が身代わりとなり、親王は高野山へ落ちられました。
その後も護良親王は鎌倉が敵であることを示す令旨を撒布され、倒幕をうながされました。
元弘三年(1333年)4月、隠岐島を脱出された後醍醐天皇は船上山で挙兵され、同年5月後醍醐天皇の綸旨に呼応した足利、赤松、千種らの軍勢が京の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を攻めて、ここに鎌倉幕府は倒れました。
倒幕後の建武の新政のなか、後醍醐天皇と護良親王は確執を生じ、護良親王は政治の表舞台には立たれませんでした。
その理由についてはいろいろと推測されていますが、ここでは触れません。
護良親王はははやくから足利高氏(尊氏)の野心を見抜かれ、度々高氏(尊氏)を牽制されて、御自らを「将軍宮」と称されました。
後醍醐帝も一旦は護良親王の主張を容れられ、元弘三年(1333年)6月護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任ぜられました。
護良親王は征夷大将軍任命後も足利勢への警戒を解かれず、北畠親房・顕家と連携して足利勢に備えました。
一方、後醍醐天皇の側室・阿野廉子は子の義良親王(後の後村上天皇)を帝にするため、護良親王とは一貫して対立関係にあり、足利勢とは利害が一致していました。
護良親王は後醍醐帝に対して帝位簒奪の誤解を釈明され、尊氏追討の勅語を願うも容れられず、ついに征夷大将軍を解かれて、建武元年(1334年)11月鎌倉へ送られ、尊氏の弟直義の監視のもと、二階堂の東光寺内の土牢に幽閉の御身となられたといいます。
(現在の鎌倉宮の社地は、当時は東光寺の山内でした。)
建武二年(1335年)、北条高時の遺児、時行を奉じた中先代の乱が勃発し、勢力を増しました。
前征夷大将軍の護良親王と北条執権高時の遺児・時行が結べば、護良宮将軍と執権・時行の名分が整ってしまうため、これをおそれた直義の命を受けた淵辺義博により襲われ、護良親王は格闘の末にその生涯を閉じられました。
享年は数え28歳と伝わります。
護良親王が予想された通り、その後足利尊氏は勢力を拡大し、朝廷を圧倒して足利(室町)幕府を開くことになりました。
護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南御方に弔われたと伝わります。
護良親王と南御方の子は鎌倉の妙法寺を開いた日叡で、父母の菩提を弔いました。
また、護良親王の妹が後醍醐帝の命を受け東慶寺五代目の尼僧として入られ、用堂尼と呼ばれました。
東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られているといいます。
護良親王の公式の墓所は、鎌倉宮から少しはなれた二階堂の理智光寺跡とみられています。
『新編相模國風土記稿』の東光寺蹟の項に「覚園寺南東ノ山麓ニアリテ。醫王山ト号セシ。一宇ノ禅刹ナリ。
蚤 (はや)ク廃シテ。(略)建武二年五月。足利直義。大塔宮ヲ東國ニ下シ。土牢ヲ構ヘテ禁獄セシハ即此所ナリ。淵邊伊賀守義博直義ノ内命ヲ承ケ。爰(ここ)に来タリテ宮ヲ弑ス。」「大塔宮土籠跡 前(東光寺)寺廃跡北方ノ山腹ニアリ。窟中二段ニ穿テリ。是建武二年直義大塔宮ヲ禁獄セシ所ト」とあります。
『新編相模國風土記稿』の理智光寺の項には「護良親王石塔。山上ニアリ。建武二年当寺住僧宮ノ屍ヲ埋葬セシ所ナリ。佛壇ニ碑アリ。没故兵部卿親王尊霊ト記シ。寺伝ニ此位牌始浄光明寺ノ慈恩院ニアリシヲ。当寺ニアルヘキモノナリトテ。慈恩院ヨリ送レリト云フ。」とあります。
また、『新編鎌倉志』には「大塔宮の土籠は、覚園寺の南東、二階堂村山の麓に有。(略)【太平記】に、建武元年5月3日、大塔宮を、足利直義うけ取、鎌倉ヘ下し奉て、二階堂谷に土籠を塗てぞ置参せける。後に●起に及て直義、淵邊伊賀守義博直義に命じて云、始終●とならせらるべきは、兵部卿親王也。御邊は急ぎ薬師谷馳帰て、宮を刺殺し●せよと下知せられければ、義博畏て承候とて建武二年七月二十三日に弑し奉る。(略)理致光院の長老、葬禮の事営むとあり。則ち此所なり。石塔は理智光寺の山上にあり。」とあります。
護良親王には、雛鶴姫という寵姫がおられたと伝わります。
雛鶴姫についてはいろいろな説があり、都留市資料では「北畠親房の娘」とされています。
雛鶴姫は護良親王の首級を奉じて京(十津川村とも)に向かう途中、山梨県上野原市無生野で哀しい最後を遂げられたという伝承があります。
冨士山下宮小室浅間神社にも護良親王所縁の伝承があり、郡内~富士五湖地方には親王所縁の史跡や神社がいくつか存在します。
山梨県上野原市無生野の「無生野の大念仏」は、護良親王と雛鶴姫を追善供養するために始まったと伝えられています。
なお、「大塔宮」の読みですが、鎌倉宮では「おおとうのみや」としているようですが、地元の通称は「だいとうのみや」のようです。
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(以下「左」「右」はすべて「本殿に向かって左・右」を示します。)
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 露天
金沢街道「岐れ道」交差点から北東に入る道の正面に御鎮座です。
この道は鎌倉宮社頭に向けて一直線に伸び、さながら参道のようです。
大がかりな鳥居を構える堂々たる社頭は、さすがに官幣中社の風格。
鳥居はおそらく外宮宗鳥居系で、貫の突き抜けがなく、柱の転び(傾斜)もほとんどなく、笠木は反増。
笠木・島木ともに両端が斜下となる襷墨(たすきずみ)で、島木に花菱紋らしき紋所を3つ置いています。
特徴的なのは鳥居の色で、笠木のみ朱であとは白色です。
Webでひいたところ、社務所で質問された奇特な方がおられました。(→ こちらの記事(ブログ「歩きましょ」様))
こちらの記事によると「赤は『赤誠』(せきせい)といって、『誠』を表し、白は『純粋』を表している」(以上引用)とのことです。
また、このブログには「岐れ道」からの直線道について「明治天皇が行幸するために作られ、ぴったり400mとのこと。」という貴重な情報も載せられていました。
Web情報おそるべし。
鳥居前右に「官幣中社鎌倉宮」の社号標と灯籠一対。鳥居の先の境内には玉垣がめぐらされ、鳥居傍の河津桜はかなり有名なようです。
こちらは鎌倉にはめずらしく広い駐車場があります。
大型バスも停められ、歴史的にも重要な名社なので、秋など修学旅行生がたくさん入り込みます。
参道はゆるい左カーブを描き、階段先右手に立派な手水舎。
そこからさらに階段をのぼって社頭の鳥居と同系の鳥居があります。
社域の左右と社殿の背後に整った社叢を配し、おごそかな境内。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水舎から鳥居
手水舎の右手には、厄を落とす「厄割り石」があります。
境内のあちこちに、護良親王が兜のなかに忍ばせ御身の無事を祈られた「獅子頭守」が飾られています。
手水舎のそばには、護良親王の弟宮、征西大将軍懐良親王が「筑後川の戦い」(正平十四年(1359年))に勝利された際、両軍の犠牲者への手向けとしてお手植えされ、のちに九州から移植された「将軍梅」が植えられています。
【写真 上(左)】 将軍梅-1
【写真 下(右)】 将軍梅-2
拝殿はおそらく入母屋造銅板葺妻入で向拝を付設、身舎はなく柱のみで向拝から相の間と本殿を拝せます。
拝殿は舞台のようで舞殿を兼ねているのかもしれません。
(ちなみに秋に催される有名な薪能(たきぎのう)では、別に舞台が設けられるようです。)
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 本殿
本殿は銅板葺神明造の堂々たる社殿。棟には千木、鰹木を置いています。
拝殿右手が拝観受付で、入場すると土牢、宝物殿、御神苑などを拝観できますが、今後は社務所(授与所)が拝観受付になるかもしれません。
【写真 上(左)】 宝物殿
【写真 下(右)】 南方社と本殿
【写真 上(左)】 南方社遙拝所から土牢への道
【写真 下(右)】 土牢
拝殿右手おくに村上社が御鎮座。拝殿左手には南方社が御鎮座で、こちらはつぎにご案内します。
有料拝観ゾーンには土牢や宝物殿などがあり、護良親王所縁の史跡や宝物などを拝観できます。
御朱印は境内右手の授与所にて拝受しました。
こちらは月替わり御朱印を授与され、書置御朱印の紙質にもこだわられるなど御朱印授与に積極的です。
授与所のご対応もとても親切です。
通常御朱印はすべて両面見開きで、現在下記3パターンとなっているようです。
番号つきの見本があるので、お願いしやすいです。
1.鎌倉宮と南方社・村上社
右に「鎌倉宮」の揮毫と社印、左に「大塔宮鎌倉宮」・「摂社村上社」・「摂社南方社」の印判の御朱印。
2.南方社と村上社
鎌倉宮拝殿の向かって左右のおくに御鎮座の二社の御朱印です。
こちらの二社については、つぎでご紹介しています。
3.明治大帝と神鹿さん
かつて鎌倉宮では鹿が「神鹿」(しんろく)として飼われていたそうで、3頭の剥製が参拝者無料休憩所に残っています。
社務所前広場の紅葉の枝などにも神鹿さんのフィギュアがいます。
「明治大帝」(明治天皇)と「神鹿」の御朱印がセットとなっている理由はわかりませんが、明治天皇の勅命により創設という由緒からの授与かと思います。
明治天皇は官幣大社で勅祭社でもある明治神宮の御祭神ですから、当然このセット御朱印の主尊格は「明治大帝」ということになるのかと。
【写真 上(左)】 神鹿さん-1
【写真 下(右)】 神鹿さん-2
【写真 上(左)】 授与所前の紅葉
【写真 下(右)】 獅子頭守
11.南方社・村上社
鎌倉市二階堂154
御祭神:持明院南御方(南方社)・村上義日(義光)公(村上社)
旧社格:鎌倉宮境内社(摂社)
【南方社】(みなみのかたしゃ)
鎌倉宮の摂社で、鎌倉宮拝殿向かって左手おくの玉垣内に御鎮座です。
護良親王は、側室である藤原保藤の娘の南御方に弔われたと伝わります。
護良親王と南御方の子は鎌倉の妙法寺を開かれた日叡で、父母の菩提を弔いました。
南御方については史料が少ないようですが、いただいた由緒書によると、持明院藤原保藤卿の息女で「新按察使典待(しんあぜちのすけ)」と呼ばれ、鎌倉では常に親王の側にあって身の回りの世話をされながら、親王のお気持ちをなぐさめられたとの由。
由緒書には「別名の『鶴舞姫』にもちなみ」とあり、南御方と鶴舞姫を同一人物とされています。
また、境内掲示の由緒書には「親王のご最期にあたっては、理智光寺の長老と共に、丁寧に弔いをされました後、上洛し後醍醐天皇へ親王のご最期の仔細を報告されました。」とあります。
鎌倉宮では3月3日に「南方祭」を斉行しています。
なお、静岡県駿東郡清水町長沢の智方神社の御祭神は護良親王で、南御方所縁の神社でもあるようです。
鎌倉宮本殿よこの玉垣内に御鎮座なので、有料拝観ゾーン内の玉垣外遙拝所からの遙拝となります。
銅板葺神明造の端正な社殿です。
【写真 上(左)】 南方社遙拝所
【写真 下(右)】 南方社社殿
【村上社】(むらかみしゃ)
村上義光公は村上義日ともいい、出自は信濃源氏村上氏の流れとされ大塔宮護良親王に仕え、元弘の乱の吉野城の戦いで親王の身代わりとなり壮絶な討死を遂げられました。
左馬権頭。明治時代に従三位を追贈。
元弘三年(1333年)、二階堂勢六万の攻撃を受けて護良親王軍が拠る吉野城が落城した際、義光公とその次男の義隆は力闘ののち討死しました。
その奮戦ぶりが境内由緒書に記されているので引用します。
「村上義満公は、護良親王の忠臣にして元弘三年(1333年)正月吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は別れの酒宴をされました。そこへ村上義光公が鎧に十六本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき自分が着用して『天照大御神の子孫、神武天皇より九十五代の後醍醐天皇の皇子兵部卿親王護良、逆臣の為に只今自害する有様を見て、汝らが武運尽きて腹を切らんとする時の手本とせよ』と告げて腹を一文字に掻き切り、壮絶な最期をとげ、その間に親王は、南に向かって落ちのびました。」
義光公の子の義隆も共に討ち死にを覚悟しましたが、義光公はこれを止め親王を守るよう言いつけました。
その後、義隆は親王を落ち延びさせるべく奮闘し、満身創痍となって力尽き自害したと伝わります。
村上義光公の墓と伝わる宝篋印塔が吉野蔵王堂の北西にあります。
大和高取藩士内藤景文が天明三年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」も同所にあります。
村上社は、厄除・病気平癒の神様として「身代りさま」と呼ばれて尊崇を集めています。
鎌倉宮拝殿の右手に御鎮座。拝殿手前には義光公のお像が御座します。
社殿は銅板葺で、おそらく神明造と思われます。
【写真 上(左)】 村上社-1
【写真 下(右)】 村上社-2
南方社と村上社の御朱印はセットで、鎌倉宮境内授与所で授与されています。
12.錦屏山 瑞泉寺(ずいせんじ)
公式Web
東国花の寺 百ヶ寺公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市二階堂710
臨済宗円覚寺派
御本尊:釋迦牟尼佛
札所:鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、円覚寺百観音霊場第9番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番
鎌倉宮の右脇の道を山の方に分け入ったあたりは紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸で、中世いくつかの寺院がおかれました。
永福寺、理智光寺、瑞泉寺などで、もっともおくにある瑞泉寺は夢窓国師の名跡をいまに伝える古刹です。
嘉暦二年(1327年)、鎌倉幕府の幕臣、二階堂道蘊が夢窓疎石を開山として創建、当初は瑞泉院と号しました。
足利尊氏の四男、初代鎌倉公方・足利基氏が夢窓疎石に帰依して中興、寺号を瑞泉寺と改め、以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となりました。
夢窓疎石(国師)は鎌倉時代末から南北朝時代の臨済宗の名僧で、その法統は複雑なのでここでは触れませんが、後醍醐帝から尊崇を受け「夢窓国師」の国師号を下賜、以降、七つの国師号を授与されて後世「七朝帝師」と称えられました。
足利尊氏・直義兄弟も深く帰依して『夢中問答集』などの共著を遺され、尊氏からは「仁山」、直義からは「古山」の法号を贈られました。
優れた作庭家としても名を遺され、禅庭・枯山水の完成者として知られています。
さらに、五山文学の詩人で、和歌でも勅撰和歌集に入集するなど、文学史上にも名跡を残した当代一流の文化人として、その名声はいまにつづきます。
(鎌倉時代末期から室町時代、禅刹では漢詩文学が栄えて「五山文学」と呼ばれましたが、鎌倉における拠点のひとつが瑞泉寺とされています。)
『新編相模國風土記稿』の瑞泉寺項に「圓覚寺塔頭に属ス。関東十刹ノ内第二ナリ。嘉暦二年起立ス。開山は疎石。(略)(足利)基氏逝シテ当山に葬ル。(略)天正十九年(1591年)以来。圓覚寺領ノ内ヲ配当アリ。当寺住持職ハ圓覚寺西堂ノ僧ヲモテ補セラル。(略)本尊釋迦ヲ安ス。座像七寸許。本堂ニハ当時(足利)氏満筆。大雄寶殿ノ四字ヲ扁セシト云フ。今ハ亡セリ。(略)開山堂 中央ニ開山無窓。千手観音(古昔客殿ニ 是客殿ノ本尊ナルヘシ。)右ニ基氏。左に氏満等ノ木像ヲ置ク。今堂宇破壊セシカハ此諸像ヲ本堂中ニ●置ス。座禅堂。辨天社。鐘楼。塔頭廃跡。」
「遍界一覧亭跡 本堂北方ノ高山ヲ云フ。頂上ニ亭跡アリ。嘉暦三年ノ建立ナリ。夢窓国師此亭ニシテ詩ヲ賦シ又歌ヲ詠セリ。基氏此亭ニテ櫻花紅葉等ヲ翫テ詩ヲ賦シ。又五山ノ僧徒等カ亭席ニテノ詩文書許多アリ。(略)元禄ノ頃。水戸光圀卿ヨリ。山上ニ一堂ヲ建立アリテ千手観音ヲ安ス。」
また、『新編鎌倉志』には「関東十刹の内なり。源基氏の建立なり(略)開山は、夢窓国師、本尊は釋迦(作者不知)」とあります。
『新編鎌倉志』は徳川光圀公の編纂とされ、光圀公は「遍界一覧亭」を再建されたとも伝わります。
瑞泉寺は、康暦年間(1379-1381年)に準十刹第三位、至徳四年(1387年)には関東十刹に列せられた名刹です。
関東十刹(じっせつ)とは五山制度に基づく臨済宗の寺格で、五山に次ぎ、諸山の上に位置します。
時代により変遷し、その総数は中世末までに60に達したとみられています。
『禅宗寺院の官寺機構』(今枝愛真氏著/PDF)によると、康暦二年(1380年)、足利義満公は十刹および準十刹の16ヶ寺を定めています。
〔十刹〕
・等持寺(等持院) 京都市北区 天龍寺派 足利氏菩提寺
・禅興寺 鎌倉市山ノ内/廃寺 臨済宗 執権北条時頼私邸の最明寺を再興
・聖福寺 福岡市博多区 妙心寺派 「扶桑最初禅窟」
・東勝寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条氏菩提寺
・(鎌倉)万寿寺 鎌倉/廃寺 臨済宗 北条貞時の創建
・長楽寺 群馬県太田市 天台宗 世良田義季(得川義季)の創建
・真如寺 京都市北区 相国寺派 開山は無学祖元
・北禅寺(山城国安国寺) 京都市四条大宮 臨済宗 足利直義の開基
・(豊後)万寿寺 大分市 妙心寺派 開山は直翁智侃和尚(足利泰氏の子)
・清見寺 静岡市清水区 妙心寺派
〔準十刹〕
・臨川寺 京都市右京区 天龍寺派 開山は夢窓疎石
・寶幢寺 京都市嵯峨北堀町/廃寺 臨済宗 足利義満の開基
・瑞泉寺 鎌倉市二階堂 円覚寺派 開山は夢窓疎石
・普門寺 京都市東山区/廃寺 臨済宗
・寶林寺 兵庫県上郡町 真言宗 赤松則祐の開基
・国清寺 静岡県伊豆の国市韮山町 円覚寺派 上杉憲顕の開基
瑞泉寺は鎌倉公方の菩提寺、夢窓派禅林の拠点として栄えましたが、第五代鎌倉公方足利成氏の代、永享十一年(1439年)の永享の乱により鎌倉公方が廃止(以降、古河公方として存続)されるとともに寺勢は衰え、夢窓派禅林の拠点も円覚寺黄梅院に移りました。
江戸時代に入ると徳川家のもとで復興が始まり、元禄二年(1689年)には水戸光圀公により堂宇が再建されています。
鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番、円覚寺百観音霊場第9番の4つの現役霊場の札所を兼ね、歴史の香り高い花の寺ということもあって、多くの拝観客を集めています。
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瑞泉寺には数台の駐車スペースはありますが、アクセス道が狭いのと、鎌倉宮あたりからの道行きは見どころも多いので、徒歩でのアクセスをおすすめします。
【写真 上(左)】 アプローチの標識
【写真 下(右)】 永福寺跡
鎌倉宮の社頭前をクランクして、二階堂川の谷沿いを山手に歩いていきます。
右手に折れて理智光寺橋をわたると、理智光寺跡で護良親王の墓所があります。
左手は源頼朝公建立の永福寺跡。
奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため平泉の中尊寺二階大堂などを模して建立され、建久五年(1194年)に二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂が完成し、鎌倉幕府から手厚く保護されましたが、応永十二年(1405年)に焼失し、以後は再建されませんでした。
史跡に指定され発掘調査が行われて、現在旧山内の一部が一般公開されています。
瑞泉寺の創建は嘉暦二年(1327年)なので、創建時には永福寺は現存していたことになります。
【写真 上(左)】 通玄橋
【写真 下(右)】 総門手前の参道
まっすぐ進むとすぐに通仙橋。
二階堂川はここから左手に折れて北方に向かいますが、瑞泉寺への道は通仙橋を渡ってまっすぐです。
通仙橋の先で道は狭まり、左手に寺号標が建っています。
【写真 上(左)】 総門
【写真 下(右)】 総門の寺号標
その先には総門。切妻屋根の四脚門で、本瓦葺はさすがに名刹の風格。
その先は道が広くなって、すぐに拝観受付です。
【写真 上(左)】 拝観受付
【写真 下(右)】 左手が梅林
瑞泉寺は100本以上もの梅が咲く梅の寺で、拝観受付先の左手は梅林となっています。
梅林を過ぎると参道階段のはじまりです。
【写真 上(左)】 階段登り口
【写真 下(右)】 参道階段
「史跡瑞泉寺境内 名勝瑞泉寺庭園」「夢窓国師古道場」の石碑、うっそうと茂る木々、苔むした階段など、俄然雰囲気が出てきます。
すこしくのぼると分岐があり、左手が急階段、右手は緩い階段となっています。
左手がいわゆる「男坂」、右手が「女坂」かと思われ、ふたつの階段は山門前で合流します。
【写真 上(左)】 吉田松陰先生碑
【写真 下(右)】 山門手前
山門左手前には吉田松陰留跡碑があります。
瑞泉寺は文学の寺でもあり、山崎方代、吉野秀雄、久保田万太郎、高浜虚子、大宅壮一などの歌碑・句碑・評論碑などが山内各所に置かれています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内図
山門は切妻屋根本瓦葺の薬医門ないし四脚門で、左右に塀をまわしています。
【写真 上(左)】 山門先から山内
【写真 下(右)】 左手に鐘楼
【写真 上(左)】 茶室と庫裡
【写真 下(右)】 茶室の円窓
山門をくぐると一挙に視界が開けます。
右手に庫裡と、おそらくは書院、客殿。手前の円窓を配した瀟洒な建物は、茶室・保寿庵(非公開)と思われます。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 庫裡
その左奥の楼閣は本堂。背後の小高い山(錦屏山)のうえに徧界一覧亭が望めます。
よく手入れされた趣きある庭園で、本堂向かって左手は梅林となっています。
【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 徧界一覧亭の屋根
「瑞泉寺境内」として、国の史跡に指定されています。
ほとんどの堂宇や建物は大正以降の再建ないし、ほかからの移築とみられますがいずれも趣きがあります。
瑞泉寺は古来「瑞泉蘭若」と称されました。自身が気に入って住まう庵、というほどの意味だそうです。
【写真 上(左)】 紫陽花
【写真 下(右)】 紅葉ヶ谷の紅葉
瑞泉寺は花の寺で、早春の梅のほか、春のミツマタ・藤、夏の紫陽花、桔梗、秋の冬櫻、紅葉、冬の水仙、椿など、四季おりおりの花を楽しむことができます。
【写真 上(左)】 本堂(大雄寶殿)-1
【写真 下(右)】 本堂(大雄寶殿)-2
本堂(佛殿)は、「大雄寶殿」(だいゆうほうでん)と称します。
大雄寶殿(だいゆう(だいおう)ほうでん)とは、主に禅宗寺院で金堂、本堂に相当する建物の称号です。
「大雄」とは釈尊のことで、ふつう御本尊が釈迦無尼仏(釈迦如来)の場合に使われます。
とくに黄檗宗でよく使われ、黄檗宗寺院では「大雄寶殿」の御朱印を授与されるところが少なくありません。
瑞泉寺の御本尊の御朱印も「大雄寶殿」の揮毫で授与されます。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂前掲示
すこしく話が逸れますが、御朱印には閣号や殿号が揮毫されることがよくあります。
その多くは、尊格の御座す堂宇をあらわすもので、閣(殿)号はそのまま尊格に結びつきます。
たとえば、無量寿(光)殿-阿弥陀如来、瑠璃殿-薬師如来、大悲殿(閣)-観世音菩薩、圓通閣(殿)-観世音菩薩、大光普照殿-十一面観世音菩薩、阿遮羅殿-不動明王などで、大雄寶殿も大雄=釈尊なのでこの系統です。
本堂(大雄寶殿)は銅板葺二層の楼閣建築(高楼)で、上層は露盤に宝珠を置いた宝形造と思われます。
向拝柱はなく、古色を帯びた桟唐戸。
小壁の連子と端部を垂直に切り落とした花頭窓が直線的に呼応して、すこぶる端正なイメージの身舎まわりです。
桟唐戸おくの格子戸が少し開かれ、堂内諸尊をうかがうことができます。
本堂前の掲示によると、堂内中央に御本尊の釋迦牟尼佛、向かって左に阿弥陀如来と千手観世音菩薩、右には開山夢想国師の坐像が奉安されています。
千手観世音菩薩は「水戸黄門様奉安」とあり、『新編相模國風土記稿』には「遍界一覧亭跡 元禄ノ頃。水戸光圀卿ヨリ。山上ニ一堂ヲ建立アリテ千手観音ヲ安ス。」とあるので、もとは徧界一覧亭に奉安されていた尊像とみられます。
こちらは鎌倉市指定有形文化財です。
ふたつの観音霊場の札所本尊で、尊像の左手には「大本山円覚寺百観音霊場第九番札所」の札所板が掲げられています。
木造夢窓国師坐像は、南北朝期の頂相彫刻(禅師の肖像彫刻)の秀作として国の重要文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 斜め左からの本堂
【写真 下(右)】 本堂から地蔵堂
本堂(大雄寶殿)を右手に回り込んだおくのお堂はおそらく地蔵堂。
「どこもく地蔵尊」が奉安され、鎌倉二十四地蔵霊場第7番の札所となっています。
桟瓦葺宝形造の均整のとれたお堂で、向拝桟唐戸が開かれているのでお地蔵さまを拝めます。
【写真 上(左)】 地蔵堂-1
【写真 下(右)】 地蔵堂-2
堂前に札所板&説明板が掲げられていました。
むかし扇ガ谷の辻にお地蔵様が御座し、こちらの堂守が貧窮して逃亡を図ったところ夢にこちらの地蔵尊があらわれ「どこも どこも」と宣いました。堂守が八幡宮寺の僧にこの意味を問うたところ「これ、どこも苦なり」(人生はどこに逃げ出しても苦労はついてまわるもの)と諭され、堂守は改心して一生堂守として地蔵尊を守り通したといいます。
立像の地蔵尊で、堂内には諸佛が奉安されています。
【写真 上(左)】 庭園-1
【写真 下(右)】 庭園-2
地蔵堂の右手、本堂の裏手が国名勝の「瑞泉寺庭園」です。
夢窓疎石の築とされる岩盤を掘り込んで作られた禅宗様庭園で、(方丈)書院庭園の起源ともみられています。
また、鎌倉にのこる鎌倉時代の唯一の庭園とされています。
この庭園をみたとき、やや粗削りな、というかどこかとりとめのない印象を受けました。
復興庭園ということもあるのでしょうが、どうやらその理由は作庭の意図にありそうです。
公式Webには「北隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を穿ちました。天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とせば坐雨観泉となるしつらえ」とあります。
つまり、道場としての庭園であり、(手前(堂宇側)から鑑賞するのではなく)座禅を組む洞側からの景色をふまえて作庭されているようなのです。
この点は、公式Webの天女洞からの景色の写真をみるとよくわかります。
【写真 上(左)】 庭園-3
【写真 下(右)】 庭園-4
本堂の背後、錦屏山の山上にある徧界一覧亭(昭和10年再建)への道は整っているようですが、現在は非公開。
亭からの眺望は、相模湾を池と見立てる壮大なものといわれます。
中興開基・足利基氏の御廟は、本堂右手おくの高みにあるようです。
御朱印は庫裡にて拝受できます。
すこぶるご親切なご対応で、頭が下がります。
こちらの札所は、鎌倉三十三観音霊場第6番、鎌倉二十四地蔵霊場第7番、円覚寺百観音霊場第9番、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番の4つ。
別に御本尊(大雄寶殿)の御朱印を授与されているので、御朱印は5種となります。
無申告の場合、おそらく御本尊「大雄寶殿」の授与になるかと思います。
〔 御本尊・大雄寶殿の御朱印 〕
本堂(大雄寶殿)に御座す釋迦牟尼佛です。
本堂内には「大雄寶殿」の扁額が掲げられています。
鎌倉三十三観音霊場第6番の札所本尊は、本堂(大雄寶殿)に御座す千手観世音菩薩です。
〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
鎌倉二十四地蔵霊場第7番の札所本尊は、地蔵堂に御座す「どこもく地蔵尊」です。
堂前には札所板&縁起書も掲げられています。
〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
円覚寺百観音霊場第9番札所本尊は、本堂(大雄寶殿)に御座す千手観世音菩薩です。
堂内尊像よこに札所板が掲げられています。
〔 円覚寺百観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳
こちらは、東国花の寺百ヶ寺霊場第96番(鎌倉4番)の札所でもあります。
御朱印尊格は「大雄寶殿」なので、札所本尊は御本尊・釋迦牟尼佛と思われます。
花種は梅で花期は1月中旬~3月上旬です。
〔 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へつづく。
【 BGM 】
■ One Reason - milet
■ 最高の片想い - Sachi Tainaka
■ symphonia - kalafina
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)へつづく。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
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