関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉殿の御家人
2022/07/18 UP
現在、「鎌倉殿の13人と御朱印」を随時UP中ですが、意外に対象となる寺社がありません。
とくに鎌倉時代初期に開創の寺院はかなりの古刹なので、そうそうみつかるものではありません。
そこで、御家人の範囲を広げることにしました。
ボリュームのある■ 建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩をベースに以下のリストを加えてエリア別にシャッフルしてみました。
なんと計445名になりました。
1.建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩 → 原典(国会図書館D.C)
2.文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
3.文治五年(1189年)六月九日の鶴岡八幡宮五重塔供養供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
4.文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩 → 原典(国会図書館D.C)
5.建久元年(1190年)十一月十一日 六條若宮・石淸水八幡宮御參供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
原典の『吾妻鏡』は通称表記が多く、表記ゆれも多いのでほとんどパズル状態になりました(笑)。
あくまでも御家人のリストがメインなので、内容については掘り下げておらず、これを保証するものではありません。
かなりの誤認や誤記があるかと思いますが、これについては記事を書いていくなかで整理・訂正していきたいと思います。
なお、このバージョンの内容は下記の方法で収集しました。
1.原則としてWeb検索によりました。
2.検索情報元は史料(『吾妻鏡』『玉葉』など)、物語(『源平盛衰記』『源平闘諍録』など)、系図類(『尊卑文脈』『続群書類従』『新訂寛政重修諸家譜』、各家系図など)、および市町村資料です。
3.ただし市町村資料(現地教育委員会等の掲示含む)は「~といわれています。」「~とみられます。」などの推定調が目立ちました。
4.どうしても調べがつかなかった御家人は末尾にまとめてあります。
それではリストいきます。
なお、表中★がついている御家人は、「十三人の合議制」の構成メンバーです。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
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2022/04/29 UP
現在、「鎌倉殿の13人と御朱印」を随時UP中ですが、思いつくままに漫然と書いていくのもどうかと思いましたので、まずは対象者がどれだけいるのか調べてみました。
対象は鎌倉幕府草創期の「御家人」としました。
「御家人」にはどういう人々が名を連ねていたのでしょうか。
Wikipediaによると「鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す『御』をつけて御家人と呼ぶようになった。」とあります。
鎌倉幕府の記録とされる『吾妻鏡』には、頼朝に従った武者たちを名簿的にあらわした記事がいくつかあります。
たとえば、
1.文治五年(1189年)六月九日の鶴岡八幡宮五重塔供養供奉者 → 原本(国会図書館D.C)
2.文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩 → 原本(国会図書館D.C)
鎌倉幕府成立の時期についてはさまざまな説がありますが、文治元年(1185年)が有力説で、1.2の記事はいずれもこれより後です。
またこの時期は1190年代からの有力武家の大粛清前で、多くの武将が顔を揃えています。
1.は公的な行事、2.は出陣リストなので、これをミックスすることで文官・武官、そして武官で奥州出兵に参加しなかった顔ぶれもおさえることができます。
2.には144人の名前が挙げられているのでこちらをベースとし、2.に記載されていない人々を1.から補足するかたちをとりました。
なお、「御家人は(鎌倉殿のもとでは)平等」という建前はありますが、やはり厳然と序列はあったようです。
1.で「列御後人々」にリストされた面々が、2.ではほぼ番号順にならんでいます。
なので、やはりどちらも序列順に記載されたものと思われます。
リストの作成そのものが主目的ではなく、「『鎌倉殿の13人』の御朱印」を書くための整理リスト的なものなので、ネタ元はほとんどWeb検索で深掘りはしていません。
よって間違いや異説もあるかと思いますが、とりあえず概略的に一気にまとめてみました。
※ 表中★マークは「13人の合議制」参画メンバーです。
※ 文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩に記載されていない人物のみ
これをみると序列上位はほとんど清和源氏で占められています。
頼朝公の実弟の範頼公の上に信濃源氏の平賀義信、甲斐源氏の安田義定がいます。
また、北條時政の上にも加々美、大内、足利、山名などの錚々たる清和源氏の武将がいます。
もしもこれらの甲斐、信濃、上野・下野の清和源氏が結束して頼朝公と事を構えたら、頼朝公でも、ましてや北条氏でもいかんともしがたかったとみられます。
(誰が主導権を握るかの問題はありますが。)
頼朝公、あるいは北条氏がこれら清和源氏の勢力削減に注力したのは、このような緊迫した力関係があったためとみられます。
じっさい、一時的に粛清によって彼らの力を弱めたとはいえ、鎌倉幕府(北条氏)は、足利氏・新田氏など、清和源氏を中心とした勢力に滅ぼされています。
また、源平合戦は「東国の源氏と西国の平氏のたたかい」と見る向きも多いかと思いますが、上の表をみると「坂東八平氏」と称される桓武平氏の流れ、藤原氏、そして「武蔵七党」といわれる武士団が多いことがわかります。
なので、源平合戦は実質的には西日本の公家的な武士団と東日本の武家的な(主従関係の堅固な)武士団の戦いとみることができるかもしれません。
今後はこの顔ぶれのうち、所縁の寺社の御朱印をいただいている例からUPしていきたいと思います。
(頼朝公に敵対した武将もとりあげます。)
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上の表で、本拠地とみられる場所を現在の市町名で載せてみました。
鎌倉周辺に限らず、広く東日本一帯に広がっていることがわかります。
今回のGWで、これらの武将ゆかりの地を回ってみるのも面白いかもしれません。
【 BGM 】
■ By your side - 西野カナ
■ 君がいない世界は切なくて - CHIHIRO feat. KEN THE 390
■ Over and Over - Every Little Thing
■ Butterfly - 木村カエラ(Cover)
■ For Our Days - 川田まみ (LIVE)
現在、「鎌倉殿の13人と御朱印」を随時UP中ですが、意外に対象となる寺社がありません。
とくに鎌倉時代初期に開創の寺院はかなりの古刹なので、そうそうみつかるものではありません。
そこで、御家人の範囲を広げることにしました。
ボリュームのある■ 建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩をベースに以下のリストを加えてエリア別にシャッフルしてみました。
なんと計445名になりました。
1.建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩 → 原典(国会図書館D.C)
2.文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
3.文治五年(1189年)六月九日の鶴岡八幡宮五重塔供養供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
4.文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩 → 原典(国会図書館D.C)
5.建久元年(1190年)十一月十一日 六條若宮・石淸水八幡宮御參供奉者 → 原典(国会図書館D.C)
原典の『吾妻鏡』は通称表記が多く、表記ゆれも多いのでほとんどパズル状態になりました(笑)。
あくまでも御家人のリストがメインなので、内容については掘り下げておらず、これを保証するものではありません。
かなりの誤認や誤記があるかと思いますが、これについては記事を書いていくなかで整理・訂正していきたいと思います。
なお、このバージョンの内容は下記の方法で収集しました。
1.原則としてWeb検索によりました。
2.検索情報元は史料(『吾妻鏡』『玉葉』など)、物語(『源平盛衰記』『源平闘諍録』など)、系図類(『尊卑文脈』『続群書類従』『新訂寛政重修諸家譜』、各家系図など)、および市町村資料です。
3.ただし市町村資料(現地教育委員会等の掲示含む)は「~といわれています。」「~とみられます。」などの推定調が目立ちました。
4.どうしても調べがつかなかった御家人は末尾にまとめてあります。
それではリストいきます。
なお、表中★がついている御家人は、「十三人の合議制」の構成メンバーです。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
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2022/04/29 UP
現在、「鎌倉殿の13人と御朱印」を随時UP中ですが、思いつくままに漫然と書いていくのもどうかと思いましたので、まずは対象者がどれだけいるのか調べてみました。
対象は鎌倉幕府草創期の「御家人」としました。
「御家人」にはどういう人々が名を連ねていたのでしょうか。
Wikipediaによると「鎌倉幕府が成立すると鎌倉殿と主従関係を結び従者となった者を、鎌倉殿への敬意を表す『御』をつけて御家人と呼ぶようになった。」とあります。
鎌倉幕府の記録とされる『吾妻鏡』には、頼朝に従った武者たちを名簿的にあらわした記事がいくつかあります。
たとえば、
1.文治五年(1189年)六月九日の鶴岡八幡宮五重塔供養供奉者 → 原本(国会図書館D.C)
2.文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩 → 原本(国会図書館D.C)
鎌倉幕府成立の時期についてはさまざまな説がありますが、文治元年(1185年)が有力説で、1.2の記事はいずれもこれより後です。
またこの時期は1190年代からの有力武家の大粛清前で、多くの武将が顔を揃えています。
1.は公的な行事、2.は出陣リストなので、これをミックスすることで文官・武官、そして武官で奥州出兵に参加しなかった顔ぶれもおさえることができます。
2.には144人の名前が挙げられているのでこちらをベースとし、2.に記載されていない人々を1.から補足するかたちをとりました。
なお、「御家人は(鎌倉殿のもとでは)平等」という建前はありますが、やはり厳然と序列はあったようです。
1.で「列御後人々」にリストされた面々が、2.ではほぼ番号順にならんでいます。
なので、やはりどちらも序列順に記載されたものと思われます。
リストの作成そのものが主目的ではなく、「『鎌倉殿の13人』の御朱印」を書くための整理リスト的なものなので、ネタ元はほとんどWeb検索で深掘りはしていません。
よって間違いや異説もあるかと思いますが、とりあえず概略的に一気にまとめてみました。
※ 表中★マークは「13人の合議制」参画メンバーです。
※ 文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩に記載されていない人物のみ
これをみると序列上位はほとんど清和源氏で占められています。
頼朝公の実弟の範頼公の上に信濃源氏の平賀義信、甲斐源氏の安田義定がいます。
また、北條時政の上にも加々美、大内、足利、山名などの錚々たる清和源氏の武将がいます。
もしもこれらの甲斐、信濃、上野・下野の清和源氏が結束して頼朝公と事を構えたら、頼朝公でも、ましてや北条氏でもいかんともしがたかったとみられます。
(誰が主導権を握るかの問題はありますが。)
頼朝公、あるいは北条氏がこれら清和源氏の勢力削減に注力したのは、このような緊迫した力関係があったためとみられます。
じっさい、一時的に粛清によって彼らの力を弱めたとはいえ、鎌倉幕府(北条氏)は、足利氏・新田氏など、清和源氏を中心とした勢力に滅ぼされています。
また、源平合戦は「東国の源氏と西国の平氏のたたかい」と見る向きも多いかと思いますが、上の表をみると「坂東八平氏」と称される桓武平氏の流れ、藤原氏、そして「武蔵七党」といわれる武士団が多いことがわかります。
なので、源平合戦は実質的には西日本の公家的な武士団と東日本の武家的な(主従関係の堅固な)武士団の戦いとみることができるかもしれません。
今後はこの顔ぶれのうち、所縁の寺社の御朱印をいただいている例からUPしていきたいと思います。
(頼朝公に敵対した武将もとりあげます。)
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上の表で、本拠地とみられる場所を現在の市町名で載せてみました。
鎌倉周辺に限らず、広く東日本一帯に広がっていることがわかります。
今回のGWで、これらの武将ゆかりの地を回ってみるのも面白いかもしれません。
【 BGM 】
■ By your side - 西野カナ
■ 君がいない世界は切なくて - CHIHIRO feat. KEN THE 390
■ Over and Over - Every Little Thing
■ Butterfly - 木村カエラ(Cover)
■ For Our Days - 川田まみ (LIVE)
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