関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6
Vol.-5からのつづきです。
■ 第20番 御行の松不動堂(時雨岡不動堂)
(おぎょうのまつふどうどう/しぐれおかふどうどう)
台東区根岸4-9-5
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(金杉村)福生院
他札所:
第20番札所は荒川区東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)です。
当初の第20番札所は上野の東叡山 寛永寺 一乗院で、明治期の上野駅建設に伴い廃寺となったため、第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に異動と伝わります。
この情報によると一乗院は東叡山 寛永寺の塔頭寺院とみられ、宗派は天台宗です。
どうして御府内二十一ヶ所霊場に1箇寺だけ天台宗寺院が入っているのかは疑問です。
また、天台宗寺院から真言宗寺院への札所承継も異例では?
『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺版木』(台東区教育委員会刊)のP.85には『東都八十八ヶ所』内『御府内二十一所項』を原典として、「第20番 一乗院(廃寺、台東区上野)」との記載があります。
一方、『寺社書上』『御府内寺社備考』には、下記のとおり「下谷上野町」に真言宗寺院の「薬王山 一乗院」が記載されています。
(なお、「薬王山 一乗院」でWeb検索しても、それらしき寺院はヒットしません。)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』下谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑『江戸切絵図/下谷絵図』にはふたつの「一乗院」がみえます。
■ 『寺社書上 [115] 下谷寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.86』
芝愛宕眞福寺末 下谷上野町
新義真言
薬王山一乗院 境内拝領地百拾四坪
寛永五年(1628年)起立
本堂
如意輪観音坐像
薬師堂
薬師如来座像 丈九尺弘法大師作
聖天堂
聖天金天浴像
同本地佛 十一面観音 行基菩薩作丈四寸
開山祐照法印(江戸期)
『寺社書上』には、(薬王山)一乗院の項に「御府内十二ヶ所第八番 身代薬師如来畧縁起」があり、弘法大師との所縁が詳細に記されています。
文政年間(1818-1830年)かそれ以前に開創の御府内十二薬師霊場という薬師霊場があったらしいですが、ほとんどの札所が不明となっている模様。
ただし、第6番が本所の弥勒寺(川上薬師)、第8番が一乗院という記録があり、一乗院を天台宗(東叡山 寛永寺 一乗院)とする記録があるようです。
しかし、『寺社書上』には、御府内十二薬師霊場第8番は新義真言宗の薬王山 一乗院と明記されています。
以上からすると、御府内二十一ヶ所霊場第20番は下谷上野町の新義真言宗薬王山一乗院で、こちらがなんらかの理由で廃寺となり、第20番札所は東尾久の真言宗智山派、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に承継された可能性があります。
一乗院の本寺・愛宕眞福寺は真言宗智山派総本山・智積院の別院ですから、真言宗智山派内での札所承継は自然な流れです。
以上、憶測めいた記事を書きましたが、ともかくも現在の第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)となっており、こちらは現在無住なので第11番札所の根岸・西蔵院の管理下に入っています。
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御行の松不動堂(時雨岡不動堂)については、『新編武蔵風土記稿』、『江戸名所図会』に記載がありますが、由来については諸説あり的な書きぶりです。
根岸の寺院と御行の松の位置図(現地掲示より)
時雨岡不動堂
■ 『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
初代御行の松(現地掲示より)
戦前の不動堂(現地掲示より)
現地で入手した資料『根岸 御行の松』(御行の松不動講編)では史料類を詳細に拾い紹介、山内にも詳細な掲示類がありますので、併せて要点を書き出してみます。
・初代「御行の松」は時雨の松または大松とも呼ばれ、下谷区中根岸町五十七番地(現台東区根岸四丁目七番)不動堂にあった。
・現在の松は三代目・四代目。初代(昭和三年夏頃に枯れ死、五年に伐採、天然記念物に指定されていた)は樹齢三五0年位と推定される。
・『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』にも記され、詩歌、俳句、絵図にも著され古くから極めて名高い黒松の銘木。
・「御行の松」の由来は、弘法大師、源頼義、源頼朝諸説あるが、(初代の樹齢四百年位からすると年代的に符号しない。
・「御行の松」と称えたのは宝暦(1751-1764年)以降の事らしい。これは輪王寺の宮が寺社巡拝の折りこの松のそばで休憩されたのを、里人が宮様の御行のお休みの松という意味で「御行の松」と称したことに由縁ともいう。(一説に輪王寺宮が行法を修されたとも。)
・「時雨の松」については、『廻國日記』(文明十八年(1486年)出立の東国紀行)の著者・聖護院門跡道興准后が浅草の石浜から上野へ向かわれる途中、松原にさしかかったところにわかに時雨が降り出したので大松の下で雨宿りをなされ、その時
霜ののちあらはれにけり時雨をば 忍びの岡の松もかいなし
と詠まれたことに因むという。
・史料類には「不動堂は福生院持」とあり、福生院は御行の松のそばにあったが上野桜木町に遷り、明治維新数年前に廃寺となった。
・御行の松不動堂の御本尊は子供の「虫封じ」に霊験あらたかで、参詣者が多かった。
ことに毎月28日のご縁日は露天商も出て賑わった。
・東京大空襲で伽藍を焼失、西蔵院主と有志により仮堂が建立され、昭和34年に現在の堂宇を建立。
・戦後、初代の松の根を地中から掘り出し、この根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院の境外仏堂となり現在に至る。現在は西蔵院と地元の不動講の人々により護持されている。
『江戸名所図会』には「忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ」とあります。
また、資料『根岸 御行の松』では「御行の松」の命名の由来が輪王寺宮にあるという故事を紹介しています。
このような史料・故事から、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は東叡山、輪王寺(天台宗)とゆかりありとみられ、上野にあった東叡山 寛永寺 一乗院から第20番札所を承継したという見方が生まれたのかもしれません。
しかし、『新編武蔵風土記稿』は(金杉村)不動堂の項で「時雨岡不動ト号ス 福生院持」と明記しています。
福生院については「出羽國湯殿山大日坊末」と記しており、湯殿山大日坊は真言宗です。
この点からみても、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は真言宗で、同じ真言宗の薬王山 一乗院から第20番札所を承継したとみるほうが自然な感じがします。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)不動堂
時雨岡不動ト号ス 縁起ハ御行松ノ下ニ出ス 福生院持
(金杉村)御行松
堂傍ニアリ高サ二丈余周囲三●ニ呼フ 或ハ大松トモ呼 舊井アリ洗垢離ノ水ト云 此松ニツキサマ々々ノ説アリ 弘法大師此地ニテ大日不動ノ修法ヲ行セリト 或ハ康平ノ頃(1058-1065年)源頼義 治承ノ頃(1177-1181年)源頼朝等ノ故事及文覚行ヲナセシ所託云伝フ 元来此所ハ福生院の舊地ニテ 世代ノ墳墓今モ此所ニアリ 先ノ年岡田安兵衛ト云モノ先祖左衛門カ襟掛及文覚カ作レル不動ヲ石櫃ニ納メ 此松ノモトニ埋メ 上ニ石像ノ不動ヲ置シカ 其子孫安兵衛宝暦中(1751-1764年)先祖ノ遺書等ノ入シ一櫃ヲ再ビ彼襟掛不動ノ入シ石櫃ノ内ニ蔵メ 新ニ大像ノ石不動ヲ建立シ 境内頗ル景致ヲナセシニ 故アリテ廃却セラレ 石像ノミ松根ニアリシテ 文化三年(1806年)貞照トイヘル比丘尼本願トナリ 公ニ乞奉リ 不動堂ヲ建立シテ松根ノ不動ヲ遷シテ安スト云
(金杉村)福生院
同宗(真言宗)出羽國湯殿山大日坊末 今其山ノ役寺ナリ
本尊大日 当寺元和九年(1623年)マテハ村内御行松ノ辺ニアリ 開山満海寛永五年(1628年)寂ス アル時東照宮寺領ヲ賜ハルヘシト仰セアリシカ 満海出家ハ三衣一鉢ニテ足レリトテ辞シ奉リケレハ 御威マシマシケリト云
■ 『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
同所(根岸の里)庚申塚といへるより三四丁艮の方 小川の傍にあり
一株の古松のあとに不動尊の草堂あり 土人此松を御行の松と号
一小 時雨の松ともよへり
按に忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ回國雑記に出るところの和歌の意をとりて後世好事の人の号けし●らんか
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR「鶯谷」駅で東に徒歩約10分。
「鶯谷」駅は坂の途中にあり、西側は上野の高台の寺社地で御朱印エリア、東側は台地下の根岸・東日暮里エリアでメジャーな御朱印エリアではありません。
根岸柳通りの「根岸四丁目」交差点の1本北側の交差点に面しています。
駐車場はありませんが、すぐそばにコインパーキングがあります。
【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 門柱
門柱には「御行之松」「不動尊」と刻まれ、参道正面に不動堂がみえます。
参道左手手前にある「狸塚」は、美女・お若さんと、美男・伊之助の恋の悲話(古今亭志ん朝の噺、円朝作「お若伊之助」)を伝えるものです。
【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 正岡子規の句碑
正岡子規をはじめいくつかの句碑は、「御行の松」が当地の名所であることを伝えています。
紅梅に琴の音きほふ根岸かな(子規)
薄緑お行の松は霞みけり(子規)
山内掲示には「此地ハ上野山の北陰ニテ自ラ幽邃閑雅ナレバ 都下ノ士民多くコヽニ別荘ナド設ケテ 文政天保ノ頃ハ最も盛ニテ 天保六年(1835年)ノ諸家人名録ヲ見レバ 此地ニ住セル文人ノミニテ三十名モアリ」とあり、文政天保ノ頃(1818-1844年)の根岸あたりは、御府内有数の文壇サロンの地となっていたことがわかります。
彼らが地元の銘木「御行の松」を句に詠み詩にうたい、「御行の松」の名声を高めていったのではないでしょうか。
【写真 上(左)】 御行松不動尊之碑
【写真 下(右)】 御行の松
「御行の松」碑の手前の枝振りのよい松が4代目、本堂側の松が3代目のようです。
その間には初代の松の根が覆堂のなかに安置されています。
霊木として崇められた初代の松は伐採後西蔵院で供養されていましたが、この霊木の根をもって三木貞雄氏が不動尊像を彫り上げられました。
【写真 上(左)】 初代・御行の松と石碑
【写真 下(右)】 初代・御行の松
山内掲示類によると、1956年(昭和31年)、御行の松に縁が深い寛永寺から新たな松(2代目)が送られたが間もなく枯れてしまいました。
1976年(昭和51年)に植えられた3代目は盆栽仕様で”大松”のイメージがうすいため、2018年(平成30年)御行の松不動講を中心とする地元有志により4代目の松が植樹されたといいます。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝とみられますが、変形の宝形造かもしれません。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股と小規模ながら整った意匠です。向拝中央と左右に「御行の松不動尊」の提灯を掲げ、硝子格子の扉のうえに「不動尊」の扁額を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 大提灯
【写真 下(右)】 御真言
不動堂内には現在、宝暦年中(1751-1764年)に文覚上人手彫りの石櫃の一寸八分の不動尊、石像の不動尊、初代御行の松の根から彫刻された不動尊が奉安されているとみられます。
堂内を拝すると、護摩壇の向こうの御内陣には石像と木像の二體の不動尊が御座されていました。
不動講の資料『根岸 御行の松』の気合いが入った編集、山内のさまざまな掲示類からも、御行の松と不動尊が地元有志により大切に護持されていることがわかります。
御行の松不動堂の御朱印授与につき護持寺院の西蔵院にてお伺いしましたが、不授与とのことでした。
不動講発行の資料『根岸 御行の松』の表紙を載せておきます。
■ 第21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第28番、江戸八十八ヶ所霊場第28番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所
※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9 をベースに再編しています。
第21番はふたつあるようです。
ひとつめは、真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
現地掲示、下記史料、文京区Web資料、東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。
霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。
真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。
小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。
浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。
『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。
浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。
浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)
真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。
霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。
大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。
しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。
出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。
また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。
御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。
出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料・資料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)
本堂
本尊 両部大日如来木像
右 不動明王木像
左 愛染明王木像
四天王立像
御祈祷殿
本尊 大元帥明王画像
同 木像秘佛
東照大権現
寶幢閣
本尊 地蔵菩薩木像
右(左) 弘法大師木像
左(右) 開祖浄厳和尚木像
鎮守社
神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
右 冨士権現社
左 恵寶稲荷社
寺中六ヶ院
智厳院 本尊 地蔵菩薩
五大院 本尊 愛染明王
蓮光院 本尊 辨財天
寶光院 本尊 十一面観音
五智院 本尊 愛染明王
福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。
■ 『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石
山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。
「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内
山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂
山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。
上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額
向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。
大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。
【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣
大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔
寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。
寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。
『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。
↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。
江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。
ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。
【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内
御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内八十八ヶ所霊場のみの模様です。
〔 霊雲寺の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印
「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。
なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。
■ 第21番-2 大黒山 宝生院
(ほうじょういん)
葛飾区柴又5-9-8
真言宗智山派
御本尊:大黒天
札所本尊:大黒天
司元別当:
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番、柴又七福神(大黒天)、江戸川ライン七福神(大黒天)
第21番ふたつめは柴又の宝生院です。
下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
宝生院は、寛永元年(1624年)常陸国大聖寺末として京橋付近に創建といいます。
宝永七年(1710年)大塚護持院末に転じ、下谷谷中を経て承応・明暦の頃(1652-1658年)に池之端(下谷)茅町へ移転したといいます。
関東大震災で罹災ののち、昭和2年現在地の柴又に移転しました。
『寺社書上』『御府内寺社備考』とも所在は池之端(下谷)茅町となっています。
下谷茅町(したやかやちょう)は不忍池の西側の低地で、現在の台東区池之端一丁目付近です。
『寺社書上』には境稲荷神社が下谷茅町に御鎮座とあり、こちらの現住所は台東区池之端一丁目なので、こちらのそばにあったのではないでしょうか。
(『江戸切絵図』には宝生院の記載がありません。)
『寺社書上』『御府内寺社備考』には、御本尊は智證大師作と伝わる不動明王とありますが、現在の御本尊は大黒天のようです。
柴又七福神の一つとなっている大黒天は、江戸時代から信仰を集めていたといいます。
火災により古記類を失っていますが、御府内二十一ヶ所霊場の第21番結願所ですから、お大師さまと相応のゆかりをもたれているのでは。
現在、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番札所となっていますが、南葛霊場は大正時代に整備とみられ、大正2年移転後、時を経ずして札所に定められたとみられます。
現在は柴又七福神の大黒天霊場として多くの参詣客を集めています。
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【史料・資料】
■ 『『寺社書上』[119] 下谷寺社書上 五止』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.60』
大塚護持院末 真言宗 下谷芽町二丁目
神瑞山寶生院 境内古跡地百二十九坪六合二勺 内門前町屋
当院起立ハ寛永元年(1624年)ニ常州永園村大聖寺末宝性院与申候処 宝永三年(1706年)右寺末●相離 護持院門徒ニ相成 宝永六年(1709年)末寺ニ相願 同七年願之通 僧録大僧正慶善法印被仰付候 其跡宝生之ニ字相改申候
開山不分明 類焼仕古記等ハ焼失
本尊 不動明王立像 智證大師作
「猫の足あと」様掲載の『葛飾区寺院調査報告』には下記内容が記載されています。
・当初は江戸京橋方面にあり、のち下谷の谷中に転じ、さらに承応・明暦の頃(1652-1658年)池之端芽町(台東区)に移ったと伝えられる。
・当寺に安置する出世大黒天は、将軍家をはじめ上下の信仰が厚かったという。
・大正12年の関東大震火災に焼失し、昭和2年12月、現在地に移り、柴又の七福神の一として、甲子の縁日には参詣者でにぎわう。
■ 現地掲示(葛飾区)
柴又七福神 大黒天 宝生院
米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習合。当寺に安置する大黒天は、将軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する「出世財福」の御利益で有名である。
※頭光のある火焔、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅幡残欠」は、葛飾区文化財に指定されている。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「イナリ」とあるのが境稲荷神社とみられ、おそらくこのあたりに所在していたと推測されます。
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最寄りは北総線「新柴又」駅で徒歩約2分。
駅近ですが、かなり広い敷地をもちます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 柴又七福神の看板
緑は少なく、開けた感じの山内で、下町の名刹によくあるパターンです。
山内入口には「開運柴又七福神 出世大黒天 宝生院」の看板が掲げられています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道
ここから本堂に向けて参道がまっすぐに延びています。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 本堂
本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝。屋根の勾配が急で勢いのある意匠。
向かって右の唐破風の庫裏といいコントラストを見せています。
【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 堂内扁額
【写真 上(左)】 柴又七福神の札所標
【写真 下(右)】 お前立ち?
向拝には向拝幕が巡らされいくつもの鈴が吊るされて、著名な大黒天霊場であることがわかります。
堂内には護摩壇が設けられ、燈明がともされて厳かな空気感。
堂内上部には「出世大黒天」の扁額が掲げられています。
山内にある切妻造桟瓦葺一間のお堂は、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番の大師堂かと思われますが、なぜか確認していません。
【写真 上(左)】 大師堂?
【写真 下(右)】 札所標
山内には御府内二十一ヶ所二十一番の札所標。「剣難除」と刻まれています。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 宝生院の御朱印 〕
〔 御本尊・大黒天の御朱印 〕
中央に「出世大黒天の揮毫と、大黒天の御影印と宝珠印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、柴又七福神は令和3年元旦から、御朱印受付期間が1月1日~1月31日へと変更となっており、この期間しか御朱印を拝受できない札所があります。
ただし、Webで検索した範囲では、宝生院は令和3年以降も1月以外の日付の御朱印がみつかるので、通年授与かもしれません。
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これにて御府内二十一ヶ所霊場のご紹介記事は完結です。
御府内八十八ヶ所霊場よりも御朱印難易度は高いですが、興味深い歴史をもつ札所寺院もあり、御府内八十八ヶ所霊場を結願された向きはトライされてみてはいかがでしょうか。
→ 記事リスト
【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)
■ ナツノカゼ御来光 - 花たん
■ The Days I Spent With You - 今井美樹
■ 第20番 御行の松不動堂(時雨岡不動堂)
(おぎょうのまつふどうどう/しぐれおかふどうどう)
台東区根岸4-9-5
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(金杉村)福生院
他札所:
第20番札所は荒川区東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)です。
当初の第20番札所は上野の東叡山 寛永寺 一乗院で、明治期の上野駅建設に伴い廃寺となったため、第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に異動と伝わります。
この情報によると一乗院は東叡山 寛永寺の塔頭寺院とみられ、宗派は天台宗です。
どうして御府内二十一ヶ所霊場に1箇寺だけ天台宗寺院が入っているのかは疑問です。
また、天台宗寺院から真言宗寺院への札所承継も異例では?
『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺版木』(台東区教育委員会刊)のP.85には『東都八十八ヶ所』内『御府内二十一所項』を原典として、「第20番 一乗院(廃寺、台東区上野)」との記載があります。
一方、『寺社書上』『御府内寺社備考』には、下記のとおり「下谷上野町」に真言宗寺院の「薬王山 一乗院」が記載されています。
(なお、「薬王山 一乗院」でWeb検索しても、それらしき寺院はヒットしません。)
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』下谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑『江戸切絵図/下谷絵図』にはふたつの「一乗院」がみえます。
■ 『寺社書上 [115] 下谷寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.86』
芝愛宕眞福寺末 下谷上野町
新義真言
薬王山一乗院 境内拝領地百拾四坪
寛永五年(1628年)起立
本堂
如意輪観音坐像
薬師堂
薬師如来座像 丈九尺弘法大師作
聖天堂
聖天金天浴像
同本地佛 十一面観音 行基菩薩作丈四寸
開山祐照法印(江戸期)
『寺社書上』には、(薬王山)一乗院の項に「御府内十二ヶ所第八番 身代薬師如来畧縁起」があり、弘法大師との所縁が詳細に記されています。
文政年間(1818-1830年)かそれ以前に開創の御府内十二薬師霊場という薬師霊場があったらしいですが、ほとんどの札所が不明となっている模様。
ただし、第6番が本所の弥勒寺(川上薬師)、第8番が一乗院という記録があり、一乗院を天台宗(東叡山 寛永寺 一乗院)とする記録があるようです。
しかし、『寺社書上』には、御府内十二薬師霊場第8番は新義真言宗の薬王山 一乗院と明記されています。
以上からすると、御府内二十一ヶ所霊場第20番は下谷上野町の新義真言宗薬王山一乗院で、こちらがなんらかの理由で廃寺となり、第20番札所は東尾久の真言宗智山派、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に承継された可能性があります。
一乗院の本寺・愛宕眞福寺は真言宗智山派総本山・智積院の別院ですから、真言宗智山派内での札所承継は自然な流れです。
以上、憶測めいた記事を書きましたが、ともかくも現在の第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)となっており、こちらは現在無住なので第11番札所の根岸・西蔵院の管理下に入っています。
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御行の松不動堂(時雨岡不動堂)については、『新編武蔵風土記稿』、『江戸名所図会』に記載がありますが、由来については諸説あり的な書きぶりです。
根岸の寺院と御行の松の位置図(現地掲示より)
時雨岡不動堂
■ 『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
初代御行の松(現地掲示より)
戦前の不動堂(現地掲示より)
現地で入手した資料『根岸 御行の松』(御行の松不動講編)では史料類を詳細に拾い紹介、山内にも詳細な掲示類がありますので、併せて要点を書き出してみます。
・初代「御行の松」は時雨の松または大松とも呼ばれ、下谷区中根岸町五十七番地(現台東区根岸四丁目七番)不動堂にあった。
・現在の松は三代目・四代目。初代(昭和三年夏頃に枯れ死、五年に伐採、天然記念物に指定されていた)は樹齢三五0年位と推定される。
・『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』にも記され、詩歌、俳句、絵図にも著され古くから極めて名高い黒松の銘木。
・「御行の松」の由来は、弘法大師、源頼義、源頼朝諸説あるが、(初代の樹齢四百年位からすると年代的に符号しない。
・「御行の松」と称えたのは宝暦(1751-1764年)以降の事らしい。これは輪王寺の宮が寺社巡拝の折りこの松のそばで休憩されたのを、里人が宮様の御行のお休みの松という意味で「御行の松」と称したことに由縁ともいう。(一説に輪王寺宮が行法を修されたとも。)
・「時雨の松」については、『廻國日記』(文明十八年(1486年)出立の東国紀行)の著者・聖護院門跡道興准后が浅草の石浜から上野へ向かわれる途中、松原にさしかかったところにわかに時雨が降り出したので大松の下で雨宿りをなされ、その時
霜ののちあらはれにけり時雨をば 忍びの岡の松もかいなし
と詠まれたことに因むという。
・史料類には「不動堂は福生院持」とあり、福生院は御行の松のそばにあったが上野桜木町に遷り、明治維新数年前に廃寺となった。
・御行の松不動堂の御本尊は子供の「虫封じ」に霊験あらたかで、参詣者が多かった。
ことに毎月28日のご縁日は露天商も出て賑わった。
・東京大空襲で伽藍を焼失、西蔵院主と有志により仮堂が建立され、昭和34年に現在の堂宇を建立。
・戦後、初代の松の根を地中から掘り出し、この根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院の境外仏堂となり現在に至る。現在は西蔵院と地元の不動講の人々により護持されている。
『江戸名所図会』には「忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ」とあります。
また、資料『根岸 御行の松』では「御行の松」の命名の由来が輪王寺宮にあるという故事を紹介しています。
このような史料・故事から、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は東叡山、輪王寺(天台宗)とゆかりありとみられ、上野にあった東叡山 寛永寺 一乗院から第20番札所を承継したという見方が生まれたのかもしれません。
しかし、『新編武蔵風土記稿』は(金杉村)不動堂の項で「時雨岡不動ト号ス 福生院持」と明記しています。
福生院については「出羽國湯殿山大日坊末」と記しており、湯殿山大日坊は真言宗です。
この点からみても、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は真言宗で、同じ真言宗の薬王山 一乗院から第20番札所を承継したとみるほうが自然な感じがします。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)不動堂
時雨岡不動ト号ス 縁起ハ御行松ノ下ニ出ス 福生院持
(金杉村)御行松
堂傍ニアリ高サ二丈余周囲三●ニ呼フ 或ハ大松トモ呼 舊井アリ洗垢離ノ水ト云 此松ニツキサマ々々ノ説アリ 弘法大師此地ニテ大日不動ノ修法ヲ行セリト 或ハ康平ノ頃(1058-1065年)源頼義 治承ノ頃(1177-1181年)源頼朝等ノ故事及文覚行ヲナセシ所託云伝フ 元来此所ハ福生院の舊地ニテ 世代ノ墳墓今モ此所ニアリ 先ノ年岡田安兵衛ト云モノ先祖左衛門カ襟掛及文覚カ作レル不動ヲ石櫃ニ納メ 此松ノモトニ埋メ 上ニ石像ノ不動ヲ置シカ 其子孫安兵衛宝暦中(1751-1764年)先祖ノ遺書等ノ入シ一櫃ヲ再ビ彼襟掛不動ノ入シ石櫃ノ内ニ蔵メ 新ニ大像ノ石不動ヲ建立シ 境内頗ル景致ヲナセシニ 故アリテ廃却セラレ 石像ノミ松根ニアリシテ 文化三年(1806年)貞照トイヘル比丘尼本願トナリ 公ニ乞奉リ 不動堂ヲ建立シテ松根ノ不動ヲ遷シテ安スト云
(金杉村)福生院
同宗(真言宗)出羽國湯殿山大日坊末 今其山ノ役寺ナリ
本尊大日 当寺元和九年(1623年)マテハ村内御行松ノ辺ニアリ 開山満海寛永五年(1628年)寂ス アル時東照宮寺領ヲ賜ハルヘシト仰セアリシカ 満海出家ハ三衣一鉢ニテ足レリトテ辞シ奉リケレハ 御威マシマシケリト云
■ 『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
同所(根岸の里)庚申塚といへるより三四丁艮の方 小川の傍にあり
一株の古松のあとに不動尊の草堂あり 土人此松を御行の松と号
一小 時雨の松ともよへり
按に忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ回國雑記に出るところの和歌の意をとりて後世好事の人の号けし●らんか
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR「鶯谷」駅で東に徒歩約10分。
「鶯谷」駅は坂の途中にあり、西側は上野の高台の寺社地で御朱印エリア、東側は台地下の根岸・東日暮里エリアでメジャーな御朱印エリアではありません。
根岸柳通りの「根岸四丁目」交差点の1本北側の交差点に面しています。
駐車場はありませんが、すぐそばにコインパーキングがあります。
【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 門柱
門柱には「御行之松」「不動尊」と刻まれ、参道正面に不動堂がみえます。
参道左手手前にある「狸塚」は、美女・お若さんと、美男・伊之助の恋の悲話(古今亭志ん朝の噺、円朝作「お若伊之助」)を伝えるものです。
【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 正岡子規の句碑
正岡子規をはじめいくつかの句碑は、「御行の松」が当地の名所であることを伝えています。
紅梅に琴の音きほふ根岸かな(子規)
薄緑お行の松は霞みけり(子規)
山内掲示には「此地ハ上野山の北陰ニテ自ラ幽邃閑雅ナレバ 都下ノ士民多くコヽニ別荘ナド設ケテ 文政天保ノ頃ハ最も盛ニテ 天保六年(1835年)ノ諸家人名録ヲ見レバ 此地ニ住セル文人ノミニテ三十名モアリ」とあり、文政天保ノ頃(1818-1844年)の根岸あたりは、御府内有数の文壇サロンの地となっていたことがわかります。
彼らが地元の銘木「御行の松」を句に詠み詩にうたい、「御行の松」の名声を高めていったのではないでしょうか。
【写真 上(左)】 御行松不動尊之碑
【写真 下(右)】 御行の松
「御行の松」碑の手前の枝振りのよい松が4代目、本堂側の松が3代目のようです。
その間には初代の松の根が覆堂のなかに安置されています。
霊木として崇められた初代の松は伐採後西蔵院で供養されていましたが、この霊木の根をもって三木貞雄氏が不動尊像を彫り上げられました。
【写真 上(左)】 初代・御行の松と石碑
【写真 下(右)】 初代・御行の松
山内掲示類によると、1956年(昭和31年)、御行の松に縁が深い寛永寺から新たな松(2代目)が送られたが間もなく枯れてしまいました。
1976年(昭和51年)に植えられた3代目は盆栽仕様で”大松”のイメージがうすいため、2018年(平成30年)御行の松不動講を中心とする地元有志により4代目の松が植樹されたといいます。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝とみられますが、変形の宝形造かもしれません。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股と小規模ながら整った意匠です。向拝中央と左右に「御行の松不動尊」の提灯を掲げ、硝子格子の扉のうえに「不動尊」の扁額を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 大提灯
【写真 下(右)】 御真言
不動堂内には現在、宝暦年中(1751-1764年)に文覚上人手彫りの石櫃の一寸八分の不動尊、石像の不動尊、初代御行の松の根から彫刻された不動尊が奉安されているとみられます。
堂内を拝すると、護摩壇の向こうの御内陣には石像と木像の二體の不動尊が御座されていました。
不動講の資料『根岸 御行の松』の気合いが入った編集、山内のさまざまな掲示類からも、御行の松と不動尊が地元有志により大切に護持されていることがわかります。
御行の松不動堂の御朱印授与につき護持寺院の西蔵院にてお伺いしましたが、不授与とのことでした。
不動講発行の資料『根岸 御行の松』の表紙を載せておきます。
■ 第21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第28番、江戸八十八ヶ所霊場第28番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所
※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9 をベースに再編しています。
第21番はふたつあるようです。
ひとつめは、真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。
現地掲示、下記史料、文京区Web資料、東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。
霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。
真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。
小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。
浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。
『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。
浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。
浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)
真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。
弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。
→ ■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)
真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。
以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。
叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。
叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。
江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。
霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。
明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。
真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。
霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。
真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。
元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。
一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。
大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。
しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。
出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。
また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。
御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。
出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料・資料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)
本堂
本尊 両部大日如来木像
右 不動明王木像
左 愛染明王木像
四天王立像
御祈祷殿
本尊 大元帥明王画像
同 木像秘佛
東照大権現
寶幢閣
本尊 地蔵菩薩木像
右(左) 弘法大師木像
左(右) 開祖浄厳和尚木像
鎮守社
神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
右 冨士権現社
左 恵寶稲荷社
寺中六ヶ院
智厳院 本尊 地蔵菩薩
五大院 本尊 愛染明王
蓮光院 本尊 辨財天
寶光院 本尊 十一面観音
五智院 本尊 愛染明王
福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。
■ 『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石
山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。
「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内
山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂
山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。
上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額
向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。
大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。
【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣
大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔
寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。
寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。
『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。
↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。
江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。
ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。
【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内
御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内八十八ヶ所霊場のみの模様です。
〔 霊雲寺の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印
「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。
なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。
■ 第21番-2 大黒山 宝生院
(ほうじょういん)
葛飾区柴又5-9-8
真言宗智山派
御本尊:大黒天
札所本尊:大黒天
司元別当:
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番、柴又七福神(大黒天)、江戸川ライン七福神(大黒天)
第21番ふたつめは柴又の宝生院です。
下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
宝生院は、寛永元年(1624年)常陸国大聖寺末として京橋付近に創建といいます。
宝永七年(1710年)大塚護持院末に転じ、下谷谷中を経て承応・明暦の頃(1652-1658年)に池之端(下谷)茅町へ移転したといいます。
関東大震災で罹災ののち、昭和2年現在地の柴又に移転しました。
『寺社書上』『御府内寺社備考』とも所在は池之端(下谷)茅町となっています。
下谷茅町(したやかやちょう)は不忍池の西側の低地で、現在の台東区池之端一丁目付近です。
『寺社書上』には境稲荷神社が下谷茅町に御鎮座とあり、こちらの現住所は台東区池之端一丁目なので、こちらのそばにあったのではないでしょうか。
(『江戸切絵図』には宝生院の記載がありません。)
『寺社書上』『御府内寺社備考』には、御本尊は智證大師作と伝わる不動明王とありますが、現在の御本尊は大黒天のようです。
柴又七福神の一つとなっている大黒天は、江戸時代から信仰を集めていたといいます。
火災により古記類を失っていますが、御府内二十一ヶ所霊場の第21番結願所ですから、お大師さまと相応のゆかりをもたれているのでは。
現在、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番札所となっていますが、南葛霊場は大正時代に整備とみられ、大正2年移転後、時を経ずして札所に定められたとみられます。
現在は柴又七福神の大黒天霊場として多くの参詣客を集めています。
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【史料・資料】
■ 『『寺社書上』[119] 下谷寺社書上 五止』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.60』
大塚護持院末 真言宗 下谷芽町二丁目
神瑞山寶生院 境内古跡地百二十九坪六合二勺 内門前町屋
当院起立ハ寛永元年(1624年)ニ常州永園村大聖寺末宝性院与申候処 宝永三年(1706年)右寺末●相離 護持院門徒ニ相成 宝永六年(1709年)末寺ニ相願 同七年願之通 僧録大僧正慶善法印被仰付候 其跡宝生之ニ字相改申候
開山不分明 類焼仕古記等ハ焼失
本尊 不動明王立像 智證大師作
「猫の足あと」様掲載の『葛飾区寺院調査報告』には下記内容が記載されています。
・当初は江戸京橋方面にあり、のち下谷の谷中に転じ、さらに承応・明暦の頃(1652-1658年)池之端芽町(台東区)に移ったと伝えられる。
・当寺に安置する出世大黒天は、将軍家をはじめ上下の信仰が厚かったという。
・大正12年の関東大震火災に焼失し、昭和2年12月、現在地に移り、柴又の七福神の一として、甲子の縁日には参詣者でにぎわう。
■ 現地掲示(葛飾区)
柴又七福神 大黒天 宝生院
米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習合。当寺に安置する大黒天は、将軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する「出世財福」の御利益で有名である。
※頭光のある火焔、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅幡残欠」は、葛飾区文化財に指定されている。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「イナリ」とあるのが境稲荷神社とみられ、おそらくこのあたりに所在していたと推測されます。
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最寄りは北総線「新柴又」駅で徒歩約2分。
駅近ですが、かなり広い敷地をもちます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 柴又七福神の看板
緑は少なく、開けた感じの山内で、下町の名刹によくあるパターンです。
山内入口には「開運柴又七福神 出世大黒天 宝生院」の看板が掲げられています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道
ここから本堂に向けて参道がまっすぐに延びています。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 本堂
本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝。屋根の勾配が急で勢いのある意匠。
向かって右の唐破風の庫裏といいコントラストを見せています。
【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 堂内扁額
【写真 上(左)】 柴又七福神の札所標
【写真 下(右)】 お前立ち?
向拝には向拝幕が巡らされいくつもの鈴が吊るされて、著名な大黒天霊場であることがわかります。
堂内には護摩壇が設けられ、燈明がともされて厳かな空気感。
堂内上部には「出世大黒天」の扁額が掲げられています。
山内にある切妻造桟瓦葺一間のお堂は、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番の大師堂かと思われますが、なぜか確認していません。
【写真 上(左)】 大師堂?
【写真 下(右)】 札所標
山内には御府内二十一ヶ所二十一番の札所標。「剣難除」と刻まれています。
御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 宝生院の御朱印 〕
〔 御本尊・大黒天の御朱印 〕
中央に「出世大黒天の揮毫と、大黒天の御影印と宝珠印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
なお、柴又七福神は令和3年元旦から、御朱印受付期間が1月1日~1月31日へと変更となっており、この期間しか御朱印を拝受できない札所があります。
ただし、Webで検索した範囲では、宝生院は令和3年以降も1月以外の日付の御朱印がみつかるので、通年授与かもしれません。
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これにて御府内二十一ヶ所霊場のご紹介記事は完結です。
御府内八十八ヶ所霊場よりも御朱印難易度は高いですが、興味深い歴史をもつ札所寺院もあり、御府内八十八ヶ所霊場を結願された向きはトライされてみてはいかがでしょうか。
→ 記事リスト
【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)
■ ナツノカゼ御来光 - 花たん
■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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