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■ 鎌倉市の御朱印-19 (C.極楽寺口-2)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)から。


47.行時山 光則寺(こうそくじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷3-9-7
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:小田急沿線花の寺四季めぐり第33番

光則寺は、日蓮聖人、日朗上人ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

文応元年(1260年)7月、日蓮聖人は『立正安国論』を幕臣の宿屋光則を通じて前執権北条時頼に提出しました。
しかし、この論は幕府に異見するものとされ、他宗からも反感を買い、日蓮聖人は数々の法難を受けられました。

「龍口(たつのくち)法難」もそのひとつです。
Wikipediaを参考にその経緯を追ってみます。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機となりましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れたと伝わります。

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

「龍口法難」の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受けました。
日朗上人(1245-1320年)は下総國海上郡能手郷に生まれたといい、父は平賀氏(平賀有国)、母は姓印東氏と伝わります。
建長六年(1254年)に鎌倉松葉ヶ谷で日蓮聖人の弟子となったといいます。
日蓮六老僧の一人で筑後房、大国阿闍梨とも称され、日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖となりました。

文永八年(1271年)の「龍口法難」の際には、日蓮上人の有力檀越・四条金吾頼基らとともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込みとなりました。

四條金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。
日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から頼基に送られ、門下に広められたとも。
屋敷は光則寺のそば、長谷の収玄寺にあったといい、法名を収玄院日頼上人といいます。

なお、光則寺を四條金吾の屋敷跡とする資料もみられます。

宿屋光則(やどやみつのり)は、北条得宗家の被官で鎌倉幕府5代執権・北条時頼の家臣でした。
『吾妻鏡』(弘長3年11月22日條)は、時頼の臨終の際に看病を許された得宗被官7人の一人に挙げているので、時頼側近とみられます。
文応元年(1260年)7月、日蓮聖人の『立正安国論』は光則を経て時頼に提出されたといいい、日蓮聖人は『立正安国論』を光則邸(現・光則寺)で光則に委ねたともいいます。

「龍口法難」の際には日朗上人、四条金吾頼基らを自邸裏山の土牢に押し込みましたが、次第に日蓮聖人の教えに感化し、のちに自邸を日朗聖人を開山として寺となし、光則寺と号しました。

『新編相模國風土記稿』には、日朗上人が獄卒に訴え度々土牢を抜け出し佐渡の日蓮聖人のもとに向かったとありますが、主人の許可を得ずして獄卒が因人を逃すとは考えにくいので、光則は日朗上人の佐渡出向を許したか、あるいは黙認していたとみられます。

なお、日蓮聖人の佐渡配流赦免状も日朗上人がもたらしたという説がありますが、異論もあるようです。

光則寺の開山は日蓮聖人の佐渡からのご帰還(文永十一年(1274年)3月)後とみられます。

江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺とも呼ばれます。

樹齢約150年のカイドウをはじめ花の寺として知られ、小田急沿線花の寺四季めぐり第33番の札所にもなっています。

境内には大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳もあります。
「歴史資料としての日蓮聖人遺文について」(小西日遶氏/PDF)等によると、大橋太郎通貞(貞経とも)は九州・豊後国の平家方の武将で、頼朝公の勘気を蒙り、領地を没収され鎌倉由比浜の土牢(光則寺山内の土牢?)に十二年間捕らえられていたといいます。

その妻は懐妊して豊後国(肥後国とも)におりましたが、無事男の子を産み落としました。

妻は夫は戦乱のなかすでに命を落としたと考え、夫の供養を子に託すため幼くして山寺に預けました。
子は昼夜に怠りなく法華経を読誦したので、ついに法華経一部を暗誦できるようになりました。

ある日その子は豊後を出て、鎌倉に至りました。
その子は八幡神の本地は霊山で法華経を説いた教主釈尊と信じ、父の生死を知る願いをかけつつ鶴岡八幡宮の宮前で法華経を誦したところ、読経の声は殿中に切々と響きわたり、
涙を流す人さえいたそうです。
ちょうど八幡宮を詣でていた頼朝公の奥方はその読経の声に尊さを感じ、その子を保護しました。

法華経を信じていた頼朝公は、その子を召し出して法華経の内で不審に思う経文について逐一尋ねたところ、その子はよどみなくこれに応えたそうです。
頼朝公は感じ入り、その子を持仏堂の読経僧としました。

ある日、囚人の首が切られると聞いてその子が涙を流したので、頼朝公がその理由を尋ねると、その子は自分は大橋太郎通貞の子で、父親は鎌倉で捕らえられているかもしれぬという懸念を話しました。

おりしも、その日に斬られることとなっていた囚人はかの大橋太郎通貞で、これを知った頼朝公は急ぎ梶原景時を刑場につかわして、刑の執行をとりやめました。
頼朝公は法華経の功徳に感じ入り、その子に様々な布施を与え、大橋太郎通貞にはもとの領地を安堵したといいます。

また、山内の稲荷社は鎮守で、建長四年(1252年)宿屋光則が上京の折、感得した木像の神躰を勧請して山内に建立と伝わります。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
光則寺は、行時山と号す。大佛へ行道左にあり。此所を宿屋とも云ふ。相伝ふ、平時頼家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりと。昔日蓮、龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾、父子四人、安國寺にて召捕て、光則に預け給ひ、土籠に入らる。日蓮不思議の奇瑞有て害を免る。因て光則信を起し、宅地に草庵を結び、日朗を開山祖とす。光則が父の名を行時と云。近年、古田兵衛少輔重恆が後室、大梅院再興す。故に今大梅寺とも云なり。堂に、日蓮・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像もあり。
妙本寺の末寺なり。
日朗土籠 寺の北の方、山上にあり。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光則寺 附宿屋光則𦾔跡
大佛へ行道の左の方、執権北條時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なりといふ。昔日蓮上人、龍の口にて刑に臨首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子四人、安國寺にて召捕、光則に預け給ひ土牢に入らる。日蓮、不思議の奇瑞有て害を遁る。因て光則も信を起し、宅地を以て草庵とし、日朗を開山となし、光則が父の名を行時といふゆえ、父の名を山号とし、我名を寺号とす。
中古以来、古田兵衛少輔重恆が後室大梅院、再興すといふ。故に今は大梅寺とも号するよし。
堂内に、日蓮上人・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像も有。
妙本寺末なり。
日朗が土牢、寺の北の方なる山上にあり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
光則寺
行時山と号す。法華宗大町妙本寺末
寺域はもともと北條時頼が臣宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり。故に今も域内ばかりを宿屋と号す。
昔日蓮龍の口にて刑に臨し時弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人を光則に預られ、
土の牢に入らる然るに日蓮不思議の奇瑞有て害を免れしかば是より光則深く渇仰し、宅地に一宇を営み、光則が父の名を行時と云ひしが故其名を山号とし、我名を寺号とし、日朗(元應二年(1320年)正月廿一日寂す)を開山始祖とすと云へり、其後、古田兵衛少輔重恒が室、堂宇を再興せり、故に或は大梅院とも唱ふ
本尊三寶を安ず 日蓮坐長一尺日法作の像あり(略)

稲荷社
境内の鎮守なり、愛敬稲荷と云ふ、縁起に拠るに往昔鍛冶宗近一條帝の勅により一振の劔を鍛し時、藤森の稲荷に祈誓しけるに神其懇誠を感じ、合鎚を助け給ひしとぞ、かくて其劔を捧げしに叡慮ありて宗近を賞し給ふ、かゝりしかば宗近崇敬の余り神躰を彫刻し、宅地に安じて合鎚稲荷と号しけり、其後建長四年(1252年)宿屋光則、北條時頼の旨を受け京に到て宗尊親王を迎まいらせし時我君守護の為宗近の劔を求けるに或夜此神霊童子に現じて一振の劔を授くと夢みしに覚て後枕上に小祠あり、開き見れば木像の神躰なり、光則奇異の思をなし鎌倉に帰り当社を造立せしと云ふ

開山堂
日朗・日眞、及四條金吾頼基、同左衛門・南條平七郎・中務三郎左衛門等の木像を置く

土牢
寺後の山上にあり文永八年(1271年)九月日蓮囚はれし時、日朗・日眞、及四條金吾頼基等四人を宿屋光則に預られ、此に繋累せらる(中略)かくて日蓮不思議の奇瑞ありて戮を宥められ、愛甲郡依智郷本間六郎左衛門重連が許にあり、十月三日依智より日朗等に書状を贈る(中略)同九日再窟中に離別の書翰を投ず 同九日、別送日朗状云日蓮波明日、佐渡國江罷也(中略)日朗窟中に在て吾師患難の惨に堪ず、獄吏に対ひ一度師の謫居を訪ひ再獄所に帰らん事を請けるに獄吏も其心の切なるに感じて是を許す、日朗殊に喜び潜に遁れ出て佐州の配所に至る事数度に及ぶ(中略)同十年(1273年)閏五月赦免あり
今窟内に日朗の像及び五輪塔あり
宿屋左衛門光則墓
寺後の山腹にあり 当時のものとは見えず 中古冥福のために建しなるべし、光則は北條時頼の臣なり

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
行時山光則寺と号する。日蓮宗。もと妙本寺末。
開山、日朗。開基、宿屋光則。
本尊、十界曼荼羅。
境内地1370坪
本堂・庫裏・山門等あり
寺伝に、宿屋光則は北条の被官、その父の名を行時といった。山号・寺号はこれによる。
文応元年(1264年)七月十六日、日蓮は立正安国論を宿屋光則の手を経て前執権時頼に上った。
光則は大覚禅師に参禅もしている。
文応八年(1271年)九月、日蓮佐渡に配流となったとき、日朗等を預って寺の後山にある土牢に入れた。後入信して宅を寺としたという。いまも寺のあるところを宿屋と呼んでいる。
江戸時代、古田兵衛少輔重恒の室、大梅院常学日通が堂宇を再興したので、大梅寺ともよぶという。
今の本堂は慶安三年(1650年)の建立と伝え、大震災後修理を加えた。
境内に大橋太郎通貞の土牢と伝える古墳がある。

■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 行時山光則寺
建立 文永11年(1274)頃
開山 日朗上人
開基 宿谷光則
『立正安国論』などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕らえられました。
やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。
境内の裏山には日朗上人が捕らえられていたと伝わる土牢が残っています。
境内には法華教の信者だった宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩碑があり、樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。

■ 山内掲示(日朗上人の土の牢)
文永十一年(1274年)頃に建立された光則寺は、もともとは北条時頼の側近・宿屋光則の屋敷であったが、日蓮聖人が佐渡へ流された時、高弟・日朗上人も捕らえられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。
その後、光則は次第に日蓮聖人に帰依し、日蓮赦免後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。
この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。


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江ノ電「長谷」駅から鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットです。
しかし観光客が向かうのは鎌倉大仏が長谷観音(長谷寺)で、鎌倉大仏と長谷観音のあいだに位置する光則寺へ向かう人は多くはありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 霊跡碑-1

「長谷観音前」交差点の1つ北側の信号から、西側の山寄りに向かって参道が伸びています。
参道入口に「日蓮聖人 立正安国論 上書 霊跡」の碑が建っています。


【写真 上(左)】 霊跡碑-2
【写真 下(右)】 宿屋氏邸址碑

数百mの長い参道で、光則寺の山内の懐は、南の長谷寺よりもふかくなっています。
参道途中に「日蓮聖人立正安國論進献霊跡」の碑とお題目碑。
また、「宿谷左衛門 宿屋?光則 邸址」の石碑も建っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山門前
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 山門上部
【写真 下(右)】 山門扁額

さらに進むとやや開けて門柱があり、左右の門柱は山号・寺号の標となっています。
古木の先にある山門は、切妻屋根青銅本瓦棒葺でおそらく四脚門。
朱塗りで上部に精緻な龍つきの本蟇股を設え、「宿谷」の扁額を掲げています。
山門脇には「日蓮聖人 第七百遠忌報恩」の石碑。


【写真 上(左)】 遠忌報恩碑
【写真 下(右)】 山内-1

山門をくぐった山内は緑濃く、背後に山肌をみせて趣があります。
数基の石碑の向こうに本堂が見えます。


【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝正面桟唐戸のうえに「師孝第一」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 日朗上人土牢への石段
【写真 下(右)】 土牢

本堂向かって右手の階段のうえに日朗上人の土牢があり、説明板もあります。

山内には宿屋光則の墓と大橋太郎通貞の土牢もあり、歴史の香りゆたかです。


〔 光則寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


以下、つづきます。



【 BGM 】
■ 空が凪いだら/After Calm - 凪葵(Nagi)


■ Sign - 幾田りら


■ おはよう、僕の歌姫 -Happy End Ver. - Covered by Cereus
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