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■ 鎌倉市の御朱印-17 (B.名越口-12)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)から。


49.中座山 大聖院 教恩寺(きょうおんじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座1-4-29
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第12番

教恩寺は、源平合戦の艶やかな歴史を辿れる時宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

教恩寺は知阿上人を開山に、後北条氏三代・北条氏康(大聖寺殿東陽岱公)が開基となり光明寺境内に建立した寺院が創始といいます。
もともとこの場所には光明寺の末寺・善昌寺がありましたが廃寺となり、延宝六年(1678年)、貴誉上人のときに光明寺境内の北の山際にあった教恩寺を移築と伝わります。

教恩寺は平重衡とのゆかりで知られています。

平重衡(たいらのしげひら、1157-1185年)は、平清盛の五男で母は清盛の継室・平時子。
順調に昇進を重ね、治承三年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進み「三位中将」と称されました。
『吾妻鏡』などでは「三品羽林(さんぽんうりん)重衡」とも。

治承四年(1180年)5月、以仁王の挙兵に際し、重衡は甥の維盛とともに大将軍として出陣してこれを鎮圧しました。

平清盛は南都寺院の旧来の特権を無視して検断を行ったため南都寺院側は強く反発、とくに強大な勢力を誇った東大寺、興福寺、園城寺とははげしく対立しました。

治承四年(1180年)12月11日、清盛の命により園城寺を攻撃して焼き払ったのが重衡です。
ついで12月28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍を一宇残さず焼き尽して多くの僧侶が焼死し、東大寺大仏も焼け落ちました。
この一連の騒乱を「南都焼討」といいます。

なお、治承五年(1181年)閏2月の清盛死去後、政権を継いだ平宗盛は東大寺・興福寺との融和を図り、両寺の再建を赦したため東大寺は建久六年(1195年)頃、興福寺は建暦二年(1212年)頃にはある程度の復興をみたといいます。

重衡は清盛死去後も平家軍の中核を担い、治承五年(1181年)3月、大将軍として墨俣川の戦いに臨んで源行家・義円軍を破り、源氏の侵攻を食い止めました。

しかし寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い、6月の篠原の戦いで平維盛軍が源義仲勢に大敗し、重衡は妻の輔子とともに都落ちしました。

重衡は都落ちののちも平家方の中心武将として活躍し、寿永二年(1183年)10月の水島の戦いで足利義清、同年11月の室山の戦いで源行家を破りました。

しかし、寿永三年(1184年)源範頼・義経軍が攻め上ると情勢は悪化し、同年2月の一ノ谷の戦いでついに重衡軍も大敗し、重衡は馬を射られて捕らえられました。

重衡を捕らえた武将として、『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長が記されています。

京へ護送された重衡は土肥実平の監視下に置かれ、同年3月梶原景時によって鎌倉へと護送されました。

重衡は鎌倉で頼朝公と引見しましたが、頼朝公は重衡の器量に感心して厚遇したといいます。

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『新刊吾妻鏡 巻2-3』(国立国会図書館)

壽永三年(1184年)三月小廿八日丁巳
被請本三位中將 藍摺直垂引立烏帽子 於廊令謁給 仰云 且為奉慰君御憤 且為●父尸骸之耻 試企石橋合戦以降 令對治平 氏之逆乱如指掌 仍及面拝 不屑眉目也 此上者 謁槐門之事 亦無疑者歟 羽林答申曰 源平為天下警衛之處 頃年之間 當家獨為朝廷之計 昇進者八十餘輩 思其繁榮者 二十餘年也。而今運命之依縮 為囚人参入上者 不能左右 携弓馬之者 為敵被虜 強非耻辱 早可被處斬罪云云 無纎介之憚 奉問答 聞者莫不感 其後被召預狩野介云云 今日就武家輩事 於自仙洞被仰下事者 不論是非 可成敗 至武家帶道理事者 追可奏聞之旨 被定云云

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『吾妻鏡』によると、重衡は頼朝公に対して「武運尽きて囚人の身となったからには、あれこれ申し開くこともありません。弓馬に携わる者が、敵の捕虜になる事はけっして恥ではない。早く斬罪になされよ」と堂々と述べ、周囲の人々はその毅然とした態度に感じ入ったといいます。

狩野宗茂に預けられた重衡は北条政子からも厚遇を受け、重衡をもてなすために侍女の千手の前を側につけたといいます。
千手の前はこの平家の貴公子に惹かれ、ふたりは時をおかず結ばれたとも。

ある日、頼朝公は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経が鼓を打ち、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて、弦楽の風雅を愉しむ様が『平家物語』に描かれています。

教恩寺には、重衡が千手前と酒宴のときに酌み交わした盃が寺宝として伝わっています。

元暦二年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しましたが、重衡の妻の輔子は助け上られ捕虜となり、山城国日野に隠栖しました。

同年6月、「南都焼討」の恨みをもつ南都衆徒の強硬な要求を受け、重衡はやむなく南都に引き渡されることになり、源頼兼の護送で南都に入り東大寺に引き渡されました。

『平家物語』には、一行が輔子が住む日野の近くを通った際、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、涙ながらの別れを交わした場面が描かれています。

元暦二年(1185年)3月23日、重衡は木津川畔にて斬首、奈良坂にある般若寺門前で梟首されました。享年29と伝わります。
なお、重衡は斬首前に法然上人と面会し、受戒したという説があります。

妻の輔子は重衡の遺骸を引き取って荼毘に付し、日野に墓を建てました。
その後輔子は大原に隠棲した建礼門院に仕え、後白河法皇の大原御幸に立ち会い、建礼門院の最期を阿波内侍とともに看取っています。

重衡の死の3年後、千手の前は若くしてこの世を去りました。
人々は、亡き重衡を恋慕したあげくの憂死と噂したといいます。


平家の公達は美形揃いともいいますが、なかでも維盛、重衡、敦盛の3人は平家を代表するイケメンとして知られています。

姿が美しいだけでなく、重衡はこまやかな心遣いをする人物で、ウィットに富み、彼のまわりは笑いが絶えなかったともいいます。

舞にも堪能で、後白河上皇の50歳の祝賀の儀では維盛と重衡が青海波を華麗に舞ったといいます。(他者説あり)

また当代一流の歌人としても知られ、『玉葉和歌集』に選歌された勅撰歌人でもあります。

『玉葉和歌集』巻第8 旅歌
 住みなれし 古き都の 恋しさは 神もむかしに 思ひしるらむ

このような人物が女性にもてないわけがありません。
江戸時代の『平家公達草紙』によると、重衡が都落ちの際、式子内親王の御所に別れの挨拶に訪れた際には、大勢の女房たちが涙にくれたとあります。

南都の大寺院を焼き打ちして多くの人々の命を奪い、大仏さえもも焼き払っているのですからふつうに考えれば大悪人です。

しかし、重衡を悪し様に伝える史料類は調べた限りではほとんど見当たりません。
能の演目「重衡」では南都焼討した重衡の苦悩が描かれています。

ここでは重衡が木津川畔で斬首される際に、今生の最期に仏を拝みたいと頼み、阿弥陀如来に念仏を唱える場面がでてきます。
また、斬首の前に法然上人に出会い帰依したという伝承もあり、重衡が南都焼討の罪障をふかく苦悩していた姿が浮かびます。

教恩寺の阿弥陀三尊像は源頼朝公が重衡に対して「一族の冥福を祈るように」と授けといい、重衡はこの尊像をふかく信仰したといいます。
『新編鎌倉志』には「本尊阿彌陀、運慶作。相伝ふ。平重衡囚れに就て、此本尊を礼し、臨終正念を祈りしかば、彌陀の像、打ちうなづきけるとなん。」とあります。

生涯の多くを京で過ごした平重衡ゆかりの寺院は関東にはほとんどないですが、教恩寺はその貴重な一寺といえましょう。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
教恩寺
教恩寺は寶海山と号す。米町の内にあり。時宗。藤澤道場の末寺なり。
里老の云、本は光明寺の境内、北の山ぎわに有しを延寶六年(1678年)に、貴譽上人此地に移す。
元此地に善昌寺と云て光明寺の末寺あり。廃亡したる故に、教恩寺を此に移し。元教恩寺の跡を、所化寮とせり。
本尊阿彌陀、運慶作。相伝ふ。平重衡囚れに就て、此本尊を礼し、臨終正念を祈りしかば、彌陀の像、打ちうなづきけるとなん。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
米町の内にあり。は寶海山と号す。時宗藤澤清浄光寺の末也。
土人いふ、もとは光明寺境内の山際に有しを、延寶六年(1678年)爰に移せり。
此所は善昌寺と云光明寺末寺の廃せし所なり。
本尊阿彌陀 運慶作といふ。
寺寶
盃一箇 伝へいふ 平重衡、千壽前と酒宴の盃なりといふ。
内外黒ぬり。内に梅花の蒔絵あり。大いさ、今時の平皿の如くにて浅し。木薄く軽し。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)教恩寺
中座町にあり、中座山(【鎌倉志】に寶海山とあり、貞享已後改しにや) 大聖院と号す 本寺前(藤澤清浄光寺)に同じ、開山は知阿 開基は俗称を伝へず、大聖院東陽岱公とのみ伝ふ、是北條左京大夫氏康の法名にて今大住郡栗原村萬松寺に其牌あり 大聖寺殿東陽岱公、元龜二年(1571年)十月三日と記せり又同寺所蔵、天正二年(1574年)の文書に、大聖院様号御位牌所云々とあり 剏建の年代を伝へざれど、是に拠て推考すべし、【鎌倉志】里老の言を引て舊は光明寺の境内北の山際に在しを延寶六年(1678年)僧貴譽此地に移す、元此地に善昌寺と云ふ光明寺の末寺あり、其寺廃蕪せしが故当寺を爰に移し元の当寺蹟を所化寮とすと記せり、三尊の彌陀 運慶作、を本尊とす、寺伝に是は元暦元年(1184年)平家没落の時三位中将重衡囚れて鎌倉に在し程賴朝が授興の霊像にて重衡が帰依佛なりと伝ふ、当寺安置の来由伝はらず

【寺寶】
盃三口 共に重衡の盃と云ふ
【鎌倉志】には一口と挙げ、重衡千手前と、酒宴の時の盃なりと記せり、按ずるに、【東鑑】元暦元年(1184年)四月廿日の條に曰、本三位中将、依武衡御免、有沐浴之儀、其後及乗燭之期、称為慰徒然披遣藤判官代邦通、工藤一﨟祐經、官女一人号千手前等、於羽林之方、剰被副送竹葉上林已下、羽林殊喜悦、遊興移剋、祐經打鼓歌今様、女房弾琵琶、羽林和横笛、先吹五常楽、為下官以可為後生楽由称之、次吹皇●急、謂往生急、凡於事莫不催興、及夜半女房欲帰、羽林暫抑留之而盃及朗詠、燭暗數行寞氏涙、夜深四面楚歌聲云々、其後各帰参御前、武衡令問酒宴次第給云々、又武衡令持宿衣一領於千手前、更被送遣、其上以祐經、邊鄙士女還可有其興歟、御在國之程、可被召置之由被仰云々、更に拠ば、此宴席に用し物なるべし

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
中座山大聖院教恩寺と号する。時宗。藤澤清浄光寺。
開山、知阿。開基、北条氏康。
本尊、阿弥陀如来。
境内地355.31坪。本堂・庫裏・山門あり。
『新編鎌倉志』には山号を寶海山とし、もと光明寺の境内にあったという説を述べている。


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神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧大町大路)と小町大路が交差する「大町四つ角」交差点から311号を西に進み一本目の路地を北に入った正面で、あたりは住宅地です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号板

正面に切妻屋根銅板本瓦棒葺四脚門の山門で、門柱には寺号板、中備にはボリューム感ある十六羅漢(裏面は牡丹)の彫刻が刻まれています。


【写真 上(左)】 十六羅漢
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 天水鉢の「隅切角に三」

山内は緑ゆたかでしっとりと落ち着いた空気感。
重衡と千手の前の哀恋を伝える寺院にふさわしいたたずまいです。

石畳の参道正面に本堂。本堂前には時宗の宗紋「隅切角に三」。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂はおそらく切妻造銅板葺流れ向拝で、屋根勾配が急で照り気味なので勢いを感じます。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な龍の彫刻を置いています。
虹梁持ち送りにも鳥の彫刻を置き、見どころの多い向拝です。


【写真 上(左)】 向拝の彫刻
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝正面桟唐戸のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 御朱印所

中尊は御本尊の阿弥陀三尊(阿弥陀如来、聖観世音菩薩、勢至菩薩各立像)で、平重衡が囚われの身でふかく信仰したという尊像です。
運慶作とも伝わり、「木造 阿弥陀如来及び両脇侍立像」として神奈川県指定文化財に指定されています。

観音堂は見当たらないので、鎌倉三十三観音霊場第12番の札所本尊。聖観世音菩薩は本堂内に奉安とみられます。
御朱印は本堂向かって左の授与所にて拝受しました。

〔 教恩寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


50.帰命山 延命寺(えんめいじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市材木座1-1-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番

延命寺は、北条時頼公ゆかりの浄土宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、『鎌倉札所めぐり』(メイツ出版)、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。

延命寺は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼公(1227-1263年)の夫人の創建といいます。
時頼夫人の念持佛・身代り地蔵尊を奉安する地蔵堂として正慶年間(1332-1333年)に建立、専蓮社昌誉能公を開山ないし中興開山といいます。

北条時頼公の正室は大江広元四男・毛利季光の息女。継室は北条重時の息女・葛西殿、側室は讃岐局、辻殿などが記録に残りますが、当山草創夫人が誰なのかは伝わっていません。

当山の身代り地蔵尊(裸地蔵尊)は時頼夫人をしばしば救われたといい、双六の勝負で窮地に陥った夫人を救ったという逸話が遺っています。
この双六の勝負にまつわる逸話もあって、参詣客を集めたともいわれています。

身代り地蔵尊(裸地蔵尊)は等身大の女性のお姿をされ、双六盤の上安置された地蔵尊で、運慶作とも伝わります。
また、北条政子像とする研究者もいるようです。

また、赤穂浪士の岡島八十右衛門の息子が当山住職をであった縁により、忠臣蔵にまつわる寺宝も有していたといいます。

鎌倉三十三観音霊場第11番、鎌倉二十四地蔵霊場第23番の札所につき、霊場巡拝者の来山も多いとみられます。


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【史料・資料】

『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
延命寺
延命寺は、米町にあり。浄土宗。安養院の末寺なり。
堂に立像の地蔵を安ず。俗に裸地蔵と云ふ。又前出地蔵とも云。裸形にて双六局を踏せ、厨子に入、衣を著せてあり。参詣の人は裸にして見するなり。(略)

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
延命寺
米町の西にあり。浄土宗安養院末なり。
堂に立像の地蔵を安す。土俗裸地蔵といふ。又は前出し地蔵ともいふ。裸形にて双六局をふみ、厨子入、衣を着せたり。参詣のものに裸にして見する所なり。(略)

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(大町村)延命寺
米町にあり、帰命山と号す 前寺(安養院)末
本尊彌陀 立像長二尺二寸五分、運慶作 及び地蔵 立像長五尺二寸 是も同(運慶)作と伝ふ を安ず、此像は北條時頼の夫人が念持佛にて身代地蔵と称す、夫人此佛徳にて無實の難を遁れし事あり 故に身代の称起れりと云ふ 或は裸地蔵の唱へありて(中略)
是より北條氏代々の念持佛なりしが正慶年中(1332-1333年)更に一宇を建立して安置せしと伝へ、即其時の記今猶ありと云ふ、此餘淺野内匠頭長矩の臣四十六士の画像を置く 寺伝に彼の士の内、岡嶋八十右衛門の三男、当寺の住職たりし故、安ずるなりと云ふ

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
帰命山延命寺と号する。浄土宗、もと安養院末。
開山、専蓮社昌誉能公。
本尊、阿弥陀如来。
境内地365.49坪。本堂・庫裏・山門・倉庫あり。
ここには北条時頼室の念持仏であったという身代地蔵がある。(中略)
寺仏に、赤穂四十七士のうち岡島八十右衛門の三男が住持であったと伝え、義士銘々伝があり、義士の画像もあったが今はない。


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神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧大町大路)が横須賀線を渡ってすぐの滑川沿い、若宮大路「下馬」交差点の東側で、「鎌倉」駅にもほど近いところ。


【写真 上(左)】 滑川
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

山内入口に寺号標。門柱にも寺号標があります。
山内はこぢんまりとしていて、入母屋造銅板本瓦棒葺妻入りの本堂が、観音・地蔵両霊場の拝所です。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

妻部千鳥破風の下が向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股を置き、左右の身舎には花頭窓を配しています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 案内

中尊の御本尊は運慶作とも伝わる阿弥陀如来坐像で、北鎌倉の圓應寺の閻魔王像の木余り
でつくられたとされ「木あまりの像」とも「日あまりの」像とも呼ばれます。
その向かって右手に奉安の聖観世音菩薩立像は、鎌倉三十三観音霊場第11番の札所本尊です。

左手には北条時頼公夫人の守護佛・身代わ地蔵尊((裸地蔵尊))を奉安で、こちらは鎌倉二十四地蔵霊場第23番の札所本尊です。

堂内右手には弥陀三尊と両大師が奉安されています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。


〔 延命寺の御首題 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印


鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印


以下、つづきます。



【 BGM 】
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