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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6

文字数オーバーしたので、Vol.6をつくりました。

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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
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■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1


37.岩浦山 福寿寺
〔三浦平六義村〕
三浦三十三観音霊場Web
三浦市南下浦町金田2062
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:三浦三十三観音霊場第7番、三浦三十八地蔵尊霊場第12番

鎌倉幕府内の数々の政変で微妙な役回りを演じながら、生涯幕府重鎮の座をまっとうした希有の武将がいます。
三浦平六義村です。

三浦氏は桓武平氏良文流(ないし良兼流)で、神奈川県資料『三浦一族関連略系図』によると、高望王の子孫・為通が村岡姓を三浦姓に改め、為継、義継、義明と嗣いでいます。

三浦大介義明は三浦郡衣笠城に拠った武将で三浦荘の在庁官人。
”三浦介”を称して三浦半島一円に勢力を張りました。
三浦氏は、千葉氏・上総氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏とともに「坂東八平氏」に数えられる名族です。

義明の娘は源義朝公の側室に入ったとされ、義朝の子・義平が叔父の義賢と戦った「大蔵合戦」でも義朝・義平側に与しました。
(義平公の母が義明の娘という説もあり)

このような背景もあってか、治承四年(1180年)の頼朝公旗揚げ時には当初から頼朝側につき、頼朝公加勢のため伊豆に向けて出撃するも、大雨で酒匂川を渡れず石橋山の戦いには参戦していません。

衣笠城に帰参してほどない治承四年8月26日、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父一族に攻められ、子の義澄以下一族を安房に逃した後、義明は奮戦むなしく討ち死にしました。(衣笠城合戦)

落ち延びた三浦一族は安房国で頼朝勢に合流、千葉常胤・上総介広常などの加勢を得て頼朝公は再挙し、10月に武蔵国へ入ると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は隅田川の長井の渡で頼朝公に帰伏しました。
『吾妻鏡』には、三浦氏総領・義明のかたきである秩父一族の帰順に抵抗を示す三浦一族を、頼朝公みずからが説得したという記述があります。

三浦義明の長男・杉本義宗の子は和田義盛で侍所別当。
次男・三浦義澄は三浦氏を嗣ぎ、他の子息も大多和氏、佐原氏、長井氏、森戸氏などを興し、また重鎮・岡崎義実は義明の弟で、三浦党は一大勢力となりました。

三浦義澄は源平合戦でも武功を重ね、建久元年(1190年)頼朝公上洛の右近衛大将拝賀の際に布衣侍7人に選ばれて参院供奉、頼朝公逝去後には「十三人の合議制」の一人となり幕政でも重きをなしました。

ただし、今回の「鎌倉殿の13人」でもそうですが、後世の知名度はその嫡子の三浦義村の方が高いような感じがあります。

三浦義村は源平合戦に父・義澄とともに従軍して名をあげました。
文治元年(1185年)10月には頼朝公の勝長寿院供養供奉、建久元年(1190年)の頼朝公上洛にも父・義澄とともに供奉し、父の勲功を嗣ぐかたちで右兵衛尉に任官しています。

ここからの義村の動きは、さながら「乱変の立役者」の様相を呈しています。
これらの乱変が祖父のかたき秩父一族やみずからの三浦党にまつわるものであったことも大きいですが、義村一流の処世術も大きなポイントとなったと思われます。

義村の縦横無尽の働きがなかったとしたら、鎌倉幕府の以降の勢力図はまったく異なるものとなっていた可能性があります。

建久十年(1199年)、「梶原景時の変」では景時の讒言にあい窮地に陥った結城朝光は善後策を義村に相談しました。
義村は和田義盛、安達盛長に諮った上で景時排除を推進、有力御家人66人が連署した「景時糾弾訴状」を将軍宛に提出し、景時は失脚してのちに討たれました。

結城朝光と義村は強い姻戚関係があったわけでもないのに、このような大事を義村に相談するとは、やはり義村は「頼れる奴」との評価を得ていた証ではないでしょうか。

元久二年(1205年)の「畠山重忠の乱」では、三浦勢は重忠の子・重保を由比ヶ浜で討ち取り、つづく二俣川での重忠軍との戦でも三浦勢が主力となりました。
乱後の稲毛重成父子、榛谷重朝父子ら秩父一族の誅殺にも義村がかかわっていたとされ、これは衣笠城の戦いで祖父義明を討たれたかたきの意味合いが強いとみられています。

秩父一族は御家人中でもとくにその武威が謳われており、その一族を三浦党がメインとなって討ち果たしたということは、三浦党の武力の高さを世に示したものとみられます。
北条執権家といえども、うかつには敵にまわせない手強い相手だったことがわかります。

つづく「牧氏の変」においても義村は重要な立場を占めています。
執権・時政と牧の方は将軍実朝公を廃して、頼朝の猶子・平賀朝雅を新将軍として擁立することを画策しました。
「鎌倉殿の13人」では、時政と牧の方が計画を事前に義村に打ち明け味方に引き入れようとしていますが、義村はこれに乗る風を装い、すぐさま政子・義時に密告しています。
これが史実であったかはわかりませんが、時勢をみる判断力と局面を逃さず果断に行動できる胆力を、義村は兼ね備えていたものと思われます。

建暦三年(1213年)春、北条義時排除を画策した泉親衡(源満仲公の子孫)の謀反に絡んで和田義盛の子の義直、義重と甥の胤長が捕縛されます。
事態収拾の過程で北条氏と和田氏の関係が悪化、和田義盛は三浦党の味方を得て北条打倒をめざしたものの、義村は直前で裏切って義時に義盛の挙兵を告げ、義時は急ぎ多数派工作に出たため、人望のあったさしもの義盛も勢力を拡大することなく討ち死にしました。
この後、義村は侍所別当の座に就いています。

この時点ではもはや秩父一族に力はなく、和田義盛と三浦義村が手を結んで北条義時に対峙していたら、その後の情勢は大きくかわっていたものとみられます。

このように数々の政変のキーマンとなってきた義村。
しかも父・義澄の娘は二代将軍頼家公の子・善哉(公暁)の母、公暁の乳母は義村の妻(義村は公暁の乳母夫)という説もあります。
また、建永元年(1206年)、北条政子の計らいにより実朝公は頼家公の遺児・善哉を猶子としているので、義村が将軍家に対する野望を抱いたとしても不思議はありません。

建保七年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮で催された右大臣拝賀の儀のさなか、将軍実朝公は公暁に暗殺されました。
事後公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を送り、これに対して義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽り討手を差し向けました。
待ちきれなくなった公暁が義村邸に向かったところで討手に遭遇し、あえなく討ち取られました。

この実朝公暗殺事件は日本史上屈指のナゾとされ、動機について多くの説が展開されています。
そのなかには、義村が公暁をそそのかし、鶴岡八幡宮で実朝と義時を同時に葬ろうとしたものの義時討ち取りに失敗したため、土壇場で公暁を裏切ったという説もあります。

義村は公暁討伐の功により駿河守に任官されているので、おそらく実朝公暗殺の黒幕の疑いはかけられていなかったかと。

承久三年(1221年)の承久の乱では、検非違使として在京していた弟の胤義から京方与力の誘いを受けるもこれを一蹴し、即座にこの件を義時に伝えました。
義村は東海道の大将軍の一人として東海道を上り、鎌倉方の勝利に貢献。

元仁元年(1224年)、北条義時が逝去すると、後家の伊賀の方が実子・北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にと企図した「伊賀氏の変」が起こります。
政村の烏帽子親であった義村は当初この陰謀に関わったとされますが、北条政子の訪問を受けて翻意し、「伊賀氏の変」は収まり北条泰時が執権となりました。

嘉禄元年(1225年)、北条政子亡きあと評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任し北条氏に次ぐ地位を得たとされます。
4代鎌倉将軍・藤原頼経との関係も良好で、『吾妻鏡』には頼経が現在の平塚市にあった義村の館を度々訪れたとの記載がみえます。

生涯鎌倉幕府重鎮の座を占めて、延応元年(1239年)12月5日逝去しています。

「鎌倉殿の13人」で山本耕史が好演しているとおり、三浦義村はどこかナゾめいたキレ者だったようで、藤原定家は『明月記』のなかで「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と京の貴族からみても義村の動きは策謀に富み、理解不能であったことを記しています。

ある年の正月、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に千葉胤綱が着座すると、義村は「下総犬は、臥所を知らぬぞとよ」とつぶやくと、胤綱は「三浦犬は友を食らふなり」と切り返したという逸話が伝わります。(『古今著聞集』)
御家人として高い地位にあるという矜持と、序列を重んじるという貌をもちながら、『吾妻鏡』にはしばしば義村をめぐる争いごとが記されています。

平時は冷静でありながら、いったん主張をはじめたら決して譲らずもめ事も辞さない意思の強さは、後の「婆娑羅大名」を彷彿とさせるものがあります。

さしもの北条義時も、義村に対しては一目置かざるを得なかったと思われます。
正直なところ、北条氏の専制強化には地位も実力もある三浦氏の存在は邪魔だったとみられるわけで、じっさい義村亡きあとの宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で、三浦一族は北条氏と外戚安達氏らによって滅ぼされています。

三浦一族の流れとしては、三浦義明の七男・佐原義連から蘆名(芦名)氏が出て会津で勢力を張り、戦国期に伊達氏と奥州の覇を競いました。

三浦義村ゆかりの寺社はいくつかあります。
横須賀市大矢部の近殿神社(ちかたじんじゃ)は三浦義村を御祭神として祀ります。御朱印は授与されていない模様です。

ここでは三浦義村開基とされる岩浦山 福寿寺をご紹介します。
なお、三浦市南下浦町金田、岩浦あたりは三浦義村ゆかりの史跡が多く、(岩浦)八坂神社境内(そば)には三浦義村新旧の墓があります。


【写真 上(左)】 金田漁港
【写真 下(右)】 三浦義村の墓(新)


【写真 上(左)】 (岩浦)八坂神社
【写真 下(右)】 (岩浦)八坂神社の御朱印

こちらの資料(purakara.com/)によると、(岩浦)八坂神社は「金田村の古文書によれば、三浦義村の守本尊(まもりほんぞん=守護神)」とのことです。
この地からの海を見下ろす景観を、三浦義村は愛したと伝わります。
(岩浦)八坂神社の御朱印は、南下浦町菊名の白山神社で授与されています。


福寿寺は、寺伝によると建暦二年(1212年)、開山は慶叔大孝禅師、開基は三浦駿河守義村です。
御本尊の聖観世音菩薩は、行基菩薩の御作と伝わる高さ48cmの座像です。
寺宝として義村愛用の鞍・鐙・脇差などが所蔵されています。
境内には西堀栄三郎、植村直巳、多田雄幸の各氏を顕彰する碑が建立されています。

塔頭南向院はおそらく(岩浦)八坂神社のそばにありましたが、いまは廃寺となり、三浦義村旧墓が建立されているようです。


【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 札所標

朝市で知られる金田湾の山手にある禅刹で、三浦三十三観音霊場第7番、三浦三十八地蔵尊霊場第12番の札所となっています。

三浦の寺院に多い、階段をのぼってのアプローチ。
正面の本堂は大正時代に震災で焼失、平成元年に落慶との由で、近年の建立ながら堂々たる寺院建築です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造本瓦葺で向拝柱はないものの、桁行きがあり風格のある構え。
向拝桟唐戸のうえに寺号扁額を掲げ、向拝左右の花頭窓が意匠的に効いています。
本瓦の軒丸瓦には三浦氏の家紋である「三浦三つ引」紋が刻まれています。

山内には三浦義村とのゆかりを示す由緒書もありました。

 
【写真 上(左)】 扁額-1
【写真 下(右)】 扁額-2

三浦三十八地蔵尊霊場第12番の札所本尊とみられる地蔵菩薩は、寿永八年(1184年)義村が一ノ谷の鵯越で路に迷った際、日頃信仰していた地蔵菩薩が馬首にあらわれ、義村を導いて鵯越の逆落としを成功させたという逸話が伝わります。

御朱印は平成29年5月に観音霊場第7番、地蔵尊霊場第12番のものを拝受していますが、新型コロナ禍以降、両霊場では御朱印授与を休止されている札所があり、本年(令和4年)春に予定されていた観音霊場の中開帳も中止となっているので、現時点の御朱印授与については不明です。

 
【写真 上(左)】 観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 地蔵霊場の御朱印


38.筑波山神社
〔八田右衛門尉知家、八田太郎知重〕
公式Web
茨城県つくば市筑波1
御神体:筑波山
御祭神:筑波男大神(伊弉諾尊)、筑波女大神(伊弉冊尊)
旧社格:延喜式式内社(名神大1座、小1座)、県社、別表神社
元別当:筑波山 知足院 中禅寺(筑波山寺)→ 護持院 → 大御堂

「鎌倉殿の13人」でひときわ存在感を放っている御家人がいます。
八田右衛門尉知家です。

大河ドラマでこれほどのキーマンになっていながら、八田知家はナゾの多い人物です。
八田知家の出自については諸説があり、そのいずれもが幕府内における知家の特異なポジションを裏付けるものとなっています。

知家は宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の子(四男)で、姉に源頼朝の乳母のひとり寒河尼がいるというのが通説です。
宇都宮(八田)宗綱の父は藤原兼仲(諸説あり)、母は益子正隆の女とされます。

藤原兼仲の父(知家の曾祖父)は藤原兼房とされます。(諸説あり)
藤原兼房は藤原北家で中納言・藤原兼隆の長男という名流ですが、血気盛んな性格だったらしく宮中であまたのいさかいを引き起こし、生涯公卿への昇任を果たせなかったという人物です。

宇都宮(八田)宗綱の母・益子氏の本姓は紀氏で武内宿禰の末裔ともいわれますが、下野国芳賀郡益子邑を拠点とする一豪族で、父・母いずれの系譜からして知家の特異なポジションを説明づけるものではありません。

そこで、「知家は源義朝公の実子/頼朝公の異母弟」説がでてきます。(Wikipediaによると『尊卑分脈』『諸家系図纂』などにこれに関連する記載ありとする。)
また、「筑波山神社由緒」にも「頼朝の異母弟、八田知家」と明記されています。

八田氏の本拠は常陸国新治郡八田郷(現在の茨城県筑西市~つくば市)とされます。
常陸国はもともと常陸大掾氏(常陸平氏の吉田氏、多気氏、のちの馬場氏など)、佐竹氏、志田義広など強豪揃いの土地でした。
そのなかで八田知家は寿永二年(1183年)の野木宮合戦で小山氏と連携して志田義広を撃破、建久四年(1193年)には知略をもって常陸大掾氏(多気氏)を降しています。
また、頼朝公は金砂合戦で佐竹氏を討伐した帰りに八田館に立ち寄ったとされているので、八田氏は金砂合戦で佐竹氏討伐側についていたことがわかります。

『保元物語』には、下野国の八田四郎(知家?)が源義朝公の郎党として保元の乱に参戦したという記載があり、下野国の八田氏は源義朝公の麾下であったとみられます。
頼朝公の挙兵にもはやくから呼応したとされ、源平合戦では「葦屋浦の戦い」「壇ノ浦の戦い」などで武功を挙げています。

はやくから頼朝公与党の色彩がつよい知家ですが、寿永三年(1184年)頼朝公の推挙を得ずに後白河法皇から右衛門尉に任官されると、他の御家人同様に頼朝公から罵倒されるなど、特別な扱いはされていないようにもみえます。

しかし、文治5年(1189年)の奥州合戦では千葉常胤とともに東海道軍の大将軍に任じられ、はやい時期(建久四年(1193年)か?)に常陸国守護に任じられるなど重鎮としての待遇を受け、これに対する御家人達の反発もとくに伝えられていないので、「頼朝の異母弟」という認知はともかく相当な武力と知略を有していたのでは。

「頼朝の異母弟」ではなかったとしても知家の姉・寒河尼は頼朝公の乳母で、寒河尼の子・小山朝光は下野国の大勢力・小山氏の嫡流ですから、これを背景として相応の地盤はもっていたとみられます。
※なお、「頼朝の異母弟」は後世、知家の末裔である小田氏が源氏の血筋を名乗るための付会とする説があります。

茨城大学図書館のWeb公開資料『八田知家とは何者か』をみると、こういう付会が成立するほど八田知家の出自がナゾ多きものであることがわかります。

また、御家人内の序列についても、たとえば文治五年(1189年)七月十九日の「奥州征伐 自鎌倉出御御供輩」で69番目にありながら格高の「列御後人々」(ほとんど1~10番目の清和源氏に集中)に列せられるなど、イレギュラーな扱いがなされています。

『吾妻鏡』巻十建久元年(1190年)十月三日の条の頼朝公上洛進発の場面で「令進發給。御共輩之中爲宗之者多以列居南庭。而前右衛門尉知家自常陸國遲參。令待給之間已移時剋。御氣色太不快。及午剋。知家參上。乍着行騰。經南庭直昇沓解。於此所撤行騰。參御座之傍。仰曰。依有可被仰合事等。被抑御進發之處遲參。懈緩之所致也云々。知家稱所勞之由。又申云。先後陣誰人奉之哉。御乘馬被用何哉者。仰曰。先陣事。重忠申領状訖。後陣所思食煩也。御馬被召景時黒駮者。知家申云。先陣事尤可然。後陣者常胤爲宿老可奉之仁也。更不可及御案事歟。御乘馬。彼駮雖爲逸物。不可叶御鎧之馬也。知家用意一疋細馬。可被召歟者。」
という記載があります。

御家人達が(朝から)南庭に居並ぶなか、八田知家はなんと遅刻してくるのです。
しかもその理由は「所勞之由」。体調が悪かったというのです。
並みの御家人であれば到底許されない物言いです。

しかも、頼朝公は「依有可被仰合事等。被抑御進發之處遲參」、進発前に知家と打ち合わせたいことがあるので、皆を待たせていたのに遅れてきた、怠慢じゃないか、と恨み言をいいながらも、先頭としんがりの人選について知家に諮問するのです。
知家は原案の先頭畠山重忠に同意、しんがりに千葉介常胤を推挙し、常胤の乗馬までも細々と具申してすべて頼朝公に採用されています。

上洛勢の先頭としんがりといえば、鎌倉武士の名誉にかかわる最重要事項です。
これを体調不良で遅参した知家が、のうのうと差配しているのです。
そして、これに異をとなえる御家人はないようにみられます。
並大抵の存在感ではなく、御家人たちは一目も二目も置いていたことがわかります。

建久元年(1190年)の時点ですでにこのポジションを確保し、建久十年(1199年)頼朝公没後は「十三人の合議制」の一員となりましたが、これは智謀もさることながら、常陸国守護であったこと、頼朝公の乳母(寒河尼)の弟であることも大きかったとみられます。

頼家公絡みで一時期窮地に陥りかけたこともありましたがこれを巧みにこなし、有力御家人の座を嫡子・(小田)知重に順当に譲りました。

知重もまた優れ者で、すでに治承五年(1181年)に頼朝公より弓術の達人11人のなかに選ばれ、寝所の警備役に任じられています。

父子ともに能く連携して梶原景時の変、畠山重忠の乱、和田合戦を与党・北条義時方として対処し、とくに和田合戦は知重がその端緒を開いたといわれています。
常陸国守護の地位を知家から受け継ぎ、常陸国での地盤を固めています。

常陸国は従来、在庁官人系の常陸大掾家と常陸国守護家が並立してきましたが、気鋭の知重は常陸大掾の座までも狙いました。
安貞元年(1228年)幕府より「非分之望」としてこれを退けられたものの、八田氏嫡流筋の小田氏は常陸国守護職として戦国時代までその勢力を保ちました。

『沙石集』巻三第二話「忠言有感事」に、知家の発言とされる逸話が載っています。
「故鎌倉大臣(註.源頼朝公?、実朝公とも)殿、御上洛アルベキニ定マリナガラ。世間ノ人々内々歎キ申ス。子細聞コサ(?)被ルカニテ京上アルベシシヤ。イナヤノ評定有ケルニ。上ノ御気色ヲ恐レテ、コトニアラハレテ子細申ス人ナカリケルニ。故筑後ノ入道知家遅参ス。古キ人ナリ。異見申ベキ由御気色有ケレバ『天竺ニ獅子ト申候ナルハ、ケダ物(註.獣)ノ王ニテ候ナル故ニ。獣ヲ悩マサムト思心ナシトイヘドモ、カノホ(吠)ユル音(コエ)ヲキク獣。コトゴトク肝心ヲウシナヒ。或ハ命モ絶エ候ヘバ。君ハ人ヲ悩セント思食(召)ス。御心ナシト云ヘ共。民ノナゲキイカデカ候ハサラント申ゲレバ。御京上トマリヌト。仰下レテケリ。萬人掌(タナゴコロ)ヲ合テ悦ケリ。」

鎌倉将軍の上洛について人々は内心反対でしたが、将軍は乗り気で人々は畏れて意見もできずに無言で嘆くのみでした。
そこに遅れてやってきた八田知家は「百獣の王である獅子は、(べつに他の獣を悩まそうと思わずとも)その鳴き声だけで獣たちを恐れおののかせてしまいます。君主が人心を悩まそうと思っていなくとも、(将軍の上洛発言に対する)人民の畏れはどれほどのものでしょう。」と正面から将軍に諫言しました。
これを聞いた将軍は思い直して上洛をとりやめ、人々は手をあわせてこれを喜んだといいます。

人々が畏れて口にできない正論を、権威に屈せず堂々と論ぜられる知家の人柄がうかがわれます。

ここにも「遅参」の文字があります。
世間の決まり事に縛られず、信念に基づいて我が道をいくタイプの人間だったのではないでしょうか。

また、知家は謀反の疑いで常陸国に配流されていた頼朝公の異母弟・阿野全成を、頼家公の命を受けて下野国・益子で誅殺したとも伝わります。
主君の命ならば、たとえ前将軍の弟であっても躊躇なく誅殺するという苛烈さを、知家はこの重要な局面で示しています。

このような逸話から「鎌倉殿の13人」でのむやみに群れない孤高の人柄、そして上意であればなにをおいても冷徹かつ確実に実行するという必殺仕事人ぶりが描き出されたのではないでしょうか。
このあたりは配役の市原隼人が好演しています。

知家の鎌倉屋敷は大倉御所の南門外にあり、しばしば京からの使者の宿所になっています。
これは知家が京文化に通じていたためといわれます。

知家は神仏への信仰も篤く、筑後入道尊念とも称しました。→「筑後入道」の名乗りについてのWeb記事(NEWSつくば)
土浦市の真宗大谷派寺院、蓮光山 正定聚院 等覚寺の前身は知家の子・了信が開山した藤沢山 三教閣 極楽寺とされ、同山には知家寄進と伝わる銅鐘が残って「常陸三古鐘」のひとつに数えられ、国指定の重要文化財に指定されています。

茨城県筑西市松原の時宗寺院、如体山 広島院 新善光寺は、知家(朝家)の七男・知勝が出家して解意阿弥陀仏観鏡と名乗り、証空や一遍に学んで笠間の宍戸城近くに当山を建立し、文禄四年(1595年)当地に移転と伝わります。 

また、Wikipediaによると、奥州合戦で捕虜になった樋爪俊衡を預けられましたが、一切の弁明もせずひたすら法華経を唱えつづける俊衡の姿に感銘を受け、頼朝公をうごかして俊衡を免罪させたといいます。

「親鸞聖人を訪ねて」真宗教団連合には「常陸の豪族八田一族には、阿弥陀仏信仰を持つ者が多く、常陸の守護であった八田知家や、その子・知重らは熱心な阿弥陀信仰者であった。」とあります。

「筑波山神社由緒」には「頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。」と記されています。

八田知家の墓所は笠間市平町の「宍戸清則家」墓地内の五輪石塔とされます。
宍戸氏の子孫である一木理兵衛が先祖供養のために新善光寺境内に建て、新善光寺が当地から現・筑西市松原に移転したので墓地が残ったものと伝わります。


【写真 上(左)】 筑波山
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 随神門
【写真 下(右)】 拝殿

以上挙げた寺社のうち、これまでに筆者が御朱印を拝受しているのは筑波山神社なので、筑波山神社の記事としました。


【写真 上(左)】 拝殿の扁額
【写真 下(右)】 御朱印の数々

筑波山神社については、見どころ多数でWebのガイドもたくさんあるので、まずは公式Webをご覧ください。(と、逃げる(笑))

授与所にて多種類の御朱印が授与されています。
 
【写真 上(左)】 御朱印帳
【写真 下(右)】 筑波山神社の御朱印

 
【写真 上(左)】 男体山御本殿の御朱印
【写真 下(右)】 女体山御本殿の御朱印

ケーブルカーとロープウェイがあるので、御神体の筑波山(男体山、女体山)への登拝をおすすめします。

なお、坂東三十三観音第25番の筑波山 大御堂(御朱印拝受)も筑波山神社の別当であった筑波山 知足院 中禅寺(筑波山寺)の流れを汲むとされています。

 
【写真 上(左)】 筑波山 大御堂
【写真 下(右)】 筑波山 大御堂の御朱印


39.大聖山 金剛寺
〔源実朝公〕 
神奈川県秦野市東田原1116
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:関東九十一薬師霊場第24番

源実朝公は鎌倉幕府第3代征夷大将軍で、鎌倉幕府最後の源家将軍です。
建久三年(1192年)8月、父を頼朝公、母を正妻・北条政子として産まれ、乳母は政子の妹・阿波局、養育係は大弐局(甲斐源氏の有力者・加賀美遠光の娘)。
押しも押されぬ源家の御曹司で、幼名は千幡、別名を羽林、右府、鎌倉右大臣とも。

建仁三年(1203年)9月、比企能員の変により将軍職を追われた頼家公に替わり千幡(実朝公)は弱冠12歳で従五位下・征夷大将軍に補任され翌月に元服。
後鳥羽院の命名により実朝と称しました。

元久元年(1204年)、後鳥羽院の寵臣・坊門信清の娘(西八条禅尼/本覚尼)を正室に迎え皇室との関係を深めました。
(坊門信清は従三位・藤原信隆(藤原北家道隆流)の子で、後鳥羽帝の外祖父に当たります。)
『吾妻鏡』によると、正室は当初足利義兼の娘(北条時政の孫)が候補としてあげられていたものの、実朝公はこれを認めず京に使いを出して妻を求めたといいます。

元久二年(1205年)正五位下、建永元年(1206年)従四位下、承元元年(1207年)従四位上、同二年(1208年)正四位下、同三年(1209年)従三位・右近衛中将に任ぜられ公卿、建暦元年(1211年)正三位、同二年(1212年)従二位、同三年(1213年)正二位、同四年(1216年)には権中納言・左近衛中将、同六年(1218年)には権大納言・左近衛大将から右大臣へ昇りました。
父・頼朝公の最高位は右近衛大将なので、この時点で武家統領としては最高位に昇ったことになります。

あまりの昇進のはやさに大江広元などは官打ち(官職の位が能力より高くなりすぎ負担が増して不幸な目にあうこと)を危惧しましたが、実朝公はこの叙任を受けました。

実朝公の京・皇室志向の強さは、和歌への入れ込みからもうかがわれます。
もともと和歌の才に恵まれ、藤原定家の門下に入ったということもあり、家集『金槐和歌集』定家所伝本にはじつに663首の歌が収められ、『新勅撰和歌集』にも25首入集されています。(Wikipediaより)

当時の鎌倉屈指の文化人といえますが、反面、”文”より”武”を貴ぶ御家人との距離は開いてしまったのかもしれません。
しかし、御家人の”武”の象徴ともいえる和田義盛(初代侍所別当)との関係はすこぶるよかったと伝わり、これが御家人との感情的な橋渡しになっていたのかも。

建暦三年(1213年)2月、頼家公の遺児(栄実・千寿丸)を大将軍として北条義時を討とうという企て(泉親衡の乱)が勃発。
その中に和田義盛の子(義直、義重)がいたことは、実朝公の和田党への信頼を損ねるものだったかもしれません。
つづく同年5月の和田合戦で和田義盛を失った実朝公はおそらく落胆するとともに、北条氏に対抗する有力な後立てを失ったことにもなりました。

この後、自身が先導した渡宋計画が頓挫するなど、実朝公には暗い影がつきまといます。

ここで、源家(河内源氏)棟梁の血筋を整理してみると、
頼朝公は源家嫡流の義朝公の嫡子(正室:由良御前の子)。
頼朝公の嫡男は正室・北条政子の産んだ頼家公。三男は庶子・貞暁で高野山入山。
実朝公は母を政子とする嫡子だったので、頼家公のあとの源家嫡流を嗣ぎました。

頼家公には一幡、公暁、栄実、禅暁の男子が伝わります。
頼家公の正室は不詳とされ、誰もが源家嫡流を名乗れる不安定な状況だったのでは。
(将軍の正室が”不詳”とは考えにくく、なんらかの事情があったのかもしれません。)

一幡は比企能員の娘・若狭局の子で、建仁三年(1203年)の比企能員の変で命を落としています。 
栄実(千寿丸)は法橋・一品房昌寛の娘で、建保元年(1213年)の泉親衡の乱を受けて自害。
禅暁は栄実(千寿丸)と同母とされ、公暁による実朝公暗殺を受けて承久二年(1220年)京で暗殺されたといいます。

公暁(善哉)は実母に諸説あり、『吾妻鏡』は足助(加茂)重長の娘の辻殿としています。
建保五年(1217年)6月、受戒先の園城寺(大津)から18歳で鎌倉に戻った時点では、頼家公の男子は公暁と禅暁のふたりのみとなっていました。

じつは、建永元年(1206年)、7歳の善哉(公暁)は尼御台政子の計らいで叔父実朝公の猶子となっています。
一般に猶子は養子と異なり家督や財産などの相続を目的としないとされますが、相続する場合もあります。
善哉(公暁)の乳母夫は有力御家人・三浦義村ということもあり、僧籍に入っていたとはいえ還俗して源家棟梁となるポテンシャルは充分もっていたものとみられます。

折しも、実子のない実朝公は京より後継者(次期将軍)の迎え入れを画策し、これに源家嫡流の血筋にある公暁が反発したことは大いに考えられます。

そして建保七年(1219年)1月27日の大雪の夜、ついに事が起こりました。
実朝公右大臣拝賀のための鶴岡八幡宮参詣の場で公暁が実朝公に斬りかかり、実朝公は命を落としました。享年28。

実朝公を討ち取った公暁はすぐさま乳母夫の三浦義村に「我は東国の大将軍。その準備をせよ」との使いを出し、義村はこれに「お迎えの者をお送ります」と回答。
しかし、義村は北条義時にこの事を告げ、義時は公暁誅殺を決断しました。

義村の迎えが来ないことにしびれをきらした公暁は、雪中鶴岡八幡宮の裏山を登り、義村邸に向かう途中で討手に遭遇、斬り散らしつつ義村邸までたどり着いたもののここで力尽き討ち取られたと伝わります。

この事件はふるくから「日本史屈指のナゾ」とされ、『吾妻鑑』『愚管抄』に犯行を示唆する記述や不可解な記述があることから、その動機についてさまざまな説が唱えられてきました。
犯行を示唆する記述や不可解な記述とは、たとえば
 ・公暁が「親の敵はかく討つぞ」と叫びつつ斬りかかったこと。
 ・公暁は源仲章も斬り殺したが、『愚管抄』にはこれを北条義時と誤ったものだという記載があること。
 ・北条義時は供奉の予定だったが、途中で具合が悪いといい、その役を源仲章に譲ったこと。
などがあげられます。

公暁の犯行については
1.公暁個人の野心による単独犯行説
2.公暁と乳母夫の三浦義村が連携し北条打倒をねらったとする説
3.北条義時が公暁をそそのかしたという説
4.将軍親裁(京への接近)を強める実朝公に対する鎌倉御家人共謀反抗説
などが見られます。

なかでもよく唱えられてきたのは「野心家の三浦義村が政権奪取をもくろみ、公暁をそそのかして義時と実朝公暗殺を狙ったものの、義時が事前に察知して退去したため企ては成就せずと見切り、公暁を裏切った。」という説です。

もしこれが事実とすれば、この時期の義時の振る舞いからして(直前で寝返ったとしても)義村を赦しておくはずはなく、義村がその後も義時の盟友として幕府重鎮の地位を保ったことから考えると無理がある、という見解も示されています。
(ただし、三浦党は宝治元年(1247年)5代執権時頼の代の「宝治合戦」で北条氏と安達景盛らに滅ぼされています。)

三浦氏の影は実朝公の供養においても感じられます。
実朝公の亡骸は、勝長寿院(大御堂、鎌倉雪の下、廃寺)に葬られたとされます。
しかし首級はみつからず、その首級は公暁の追っ手の三浦氏の家人・武常晴が護持し、秦野の金剛寺、ないしはそのそばの御首塚に葬ったといわれます。

墓所は壽福寺(鎌倉・扇ガ谷)境内に掘られたやぐらの内の石層塔とされ、隣は母・政子の墓とされます。


【写真 上(左)】 壽福寺
【写真 下(右)】 壽福寺の御朱印(御本尊)

また、高野山内の金剛三昧院は政子の発願で、実朝公菩提のために創建とされます。

神社では鶴ヶ岡八幡宮境内の柳営社の御祭神が源実朝公(源實朝命)でした。
明治に入り柳営社は現在の白旗神社に合祀され、父・源頼朝公(源頼朝命)とともに御鎮座されています。
拝殿前の立札には「白旗神社 御祭神 源頼朝命 源實朝命」と明記されています。


【写真 上(左)】 白旗神社の鳥居
【写真 下(右)】 白旗神社


【写真 上(左)】 白旗神社の立札
【写真 下(右)】 白旗神社の御朱印(正月限定)

寿福寺については情報も多いので、ここでは秦野の金剛寺をご紹介します。

秦野市観光協会のWebには「金剛寺は(中略)鎌倉時代に武常晴が3代将軍源実朝の御首を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。 退耕行勇を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。1250年(建長2年)に、波多野忠綱が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。」とあります。
三浦氏の家臣・武常晴が、実朝公の御首を当寺に持参し供養したというのです。

また『関東九十一お薬師霊場めぐり』(佛教文化振興会)には以下のとおりあります。
「草創は平安時代中頃、丹沢修験より起こった真言宗系寺院で、建長二年(1250年)波多野忠綱が実朝公菩提のため、鎌倉の名僧・退耕行勇禅師を請じて開山。」

波多野忠綱といえば、和田合戦の褒賞で先陣をめぐって三浦義村と争い、実朝公の御前で義村と対決し自身の功を勝ち取りましたが、「(あきらかに)先陣の忠綱を見落とした義村は盲目」との罵倒が咎められ褒賞は与えられなかったという人物です。
いわば、三浦義村と反目した御家人の一人といえましょう。

波多野氏は佐伯氏流ともいわれ、源頼義公の相模守補任の際に目代として相模国へ下向したのが起こりとされ、朝廷内でも高い位を誇ったとされます。
このような家柄とゆたかな秦野盆地を本拠とする軍事力から、「三浦なにするものぞ」という気概が生まれたのかもしれません。

それにしても、三浦氏家臣の武常晴が、三浦義村の仇敵ともいえる波多野忠綱ゆかりの金剛寺に将軍・実朝公の首級を葬るというのはどうにも理解しがたい流れです。

秦野市のWeb資料には「武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れました。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝えられています。」と記されています。

公暁-三浦義村/実朝公-波多野忠綱というラインがあって、武常晴が実朝公を追悼して反三浦の波多野忠綱に託したということならばこのような流れも説明はつくのですが、それもいまとなっては闇のなかです。

なお、実朝公の正室・西八条禅尼(本覚尼)は、子は設けなかったものの実朝公との仲はよかったと伝わります。
建保七年(1219年)1月、実朝公暗殺の翌日には壽福寺にて出家し京に戻りました。
承久三年(1221年)の承久の乱で兄(坊門忠信、忠清)たちが幕府と敵対して敗北した際、西八条禅尼の嘆願によって死罪を免がれたと伝わります。
九条大宮に遍照心院(現.大通寺)を建立して夫・実朝公の菩提を弔い、文永十一年(1274年)秋、享年82で逝去しています。

頼家公の息女・竹御所は建保四年(1216年)、祖母・北条政子の命で実朝公の正室・西八条禅尼の猶子となりました。
実朝公暗殺後、西八条禅尼が京に戻ったのちは政子の庇護のもと鎌倉で暮らし寛喜二年(1230年)、29歳で第4代将軍藤原頼経に嫁ぎました。
北条政子逝去(嘉禄元年(1225年))ののち、 頼朝公嫡流の血が将軍家に入ったことは御家人たちにとって明るい出来事であり、竹御所は政子の後継者として鎌倉御家人たちの結束の柱になったとも伝わります。
Wikipediaでは、竹御所が二所権現(伊豆山神社・箱根権現)に奉幣使を立てていますが、これは鎌倉殿将軍固有の祭祀権に属するものであり、竹御所の立場は鎌倉殿に準じるものであったという説が紹介されています。

しかし竹御所は4年後に懐妊したものの男児を死産し、本人も逝去しました。享年33と伝わります。
これにより源家の直系子孫は断絶し、鎌倉御家人たちはついに源家嫡流のカリスマを失いました。


金剛寺は秦野市の北側山手の田原地区にある禅宗の古刹です。
関東九十一薬師霊場第24番の札所なので、巡拝で訪れる方もいるかと思います。


【写真 上(左)】 山門と六地蔵
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 阿弥陀堂

山門は切妻屋根本瓦葺様の銅板葺の四脚門。左手前に寺号標、右手覆屋内に六地蔵。
参道はかなり長く、手前右手に阿弥陀堂と地主神とみられる稲荷大明神。
禅刹らしく、山内はすっきりと整備され、きもちのよい参拝ができます。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 本堂

参道正面に寄棟造流れ向拝の本堂が端正な堂容を見せています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股で装飾はすくなくシンプルですが、禅堂らしい力づよさを感じます。
向拝上部に「実相殿」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

御本尊の釋迦牟尼佛は四尺八寸の木彫坐像で鎌倉期運慶の作と伝わり、現在は鎌倉国宝館に収蔵の模様です。

阿弥陀堂には堂宇本尊の阿弥陀三佛尊と別尊の薬師如来が奉安されています。
阿弥陀三佛尊は藤原時代の作とされ、源頼朝公が奥州征伐の際、奥州白河関で心蓮法師より献上された尊佛と伝わります。
神奈川新聞Webによると、秦野市重要文化財に指定され、実朝公の「念持仏」として伝わる尊像のようです。

薬師霊場札所本尊の薬師如来は奈良時代・伝行基の作とされる木彫坐像の丈六佛で、かつて裏山山頂にあった東照院の御本尊と伝わるものです。

実朝公の御首塚は金剛寺の南側、田原ふるふさと公園の北隣りにあり、秦野市の指定史跡となっています。
入口には実朝公の和歌が刻まれ、歌碑のおくに石造の五輪塔がおかれています。
現在、鎌倉国宝館に収蔵されている「実朝の木造五輪塔」は金剛寺の所有で、この御首塚に安置されていたものです。

毎年11月23日には御首塚および田原ふるさと公園で実朝まつりが開催され、実朝公の供養が手厚く施されています。

~ 世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも ~
(百人一首93番、鎌倉右大臣)


御朱印は庫裡にて拝受しました。

 
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 薬師霊場(薬師瑠璃光如来)の御朱印

ps.
中野区上高田の恵日山 金剛寺(旧:江戸小日向郷金杉村)も実朝公ゆかりの寺院とされますが、御朱印は授与されていない模様です。


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7へつづく。



【 BGM 】
■ Sailing - Christopher Cross
 

■ Waiting For A Star To Fall - Boy Meets Girl


■ Stay With Me - Boggy Caldwell
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