goo

■ 鎌倉市の御朱印-24 (C.極楽寺口-7)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)
■ 同-20 (C.極楽寺口-3)
■ 同-21 (C.極楽寺口-4)
■ 同-22 (C.極楽寺口-5)
■ 同-23 (C.極楽寺口-6)から。


64.小動山 浄泉寺(じょうせんじ)
鎌倉市腰越2-10-7
真言宗大覚寺派
御本尊:不動明王
司元別当:小動神社(腰越)
札所:新四国東国八十八ヶ所霊場第85番、相州二十一ヶ所霊場第16番、相模国準四国八十八ヶ所霊場第29番

浄泉寺は弘法大師の開山と伝わる古義真言宗の古刹です。

下記史料・資料、現地掲示などから縁起沿革を追ってみます。

浄泉寺の開山は弘法大師空海と伝わります。
『新編相模國風土記稿』に「小動松 浄泉寺略縁起中に弘仁(810-824年)中、弘法大師小動山に登り一七日護摩を修せしに満日当山の松樹に神女影向あり」とあります。
このときに弘法大師が当山を開山されたのではないでしょうか。

中興開山は弘治四年(1558年)に寂した元秀と伝わります。
もとは青蓮寺の末でしたが、のちに京都大覚寺の末となりました。

通常、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣を右手、羂索を左手にもたれますが、当山の不動尊は腕を交差させ左手で剣をもたれていることから「左剣不動明王」と呼ばれます。

当山は大正6年7月までは小動神社の別当でした。
浄泉寺の歴史(鎌倉シニア通信様Web)に「昭和30年(1955年)小動神社と続いていたお寺の敷地内を、国道134号線が造られた時、本堂の位置と向きを変更し、山門も国道側へ移したとのことです。」とあり、昭和30年までは小動神社と浄泉寺は地続きだったようです。

小動神社と浄泉寺の習合関係は強く、『鎌倉市史 社寺編』によると、小動神社のお祭りのとき、当山の住職が馬に乗って小動神社の神輿に供奉していたそうです。

弘法大師ゆかりの寺院だけあって、新四国東国八十八ヶ所霊場、相州二十一ヶ所霊場、相模国準四国八十八ヶ所霊場という3つの弘法大師霊場の札所となっています。

当山の史資料はあまり見当たらず、この程度しかご紹介できません。


-------------------------
【史料・資料】
『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)※抜粋
八王子社
守鎮とす、幣殿・拝殿あり、社地を小動(古由留義)と云ふ。按ずるに【鎌倉志】に此地を当國の名所、小余呂伎磯となし、證歌を引用し、或は大磯の濱を詠とも記したるは、謬と云ふべし、彼名所は、淘綾郡大磯の属なること論を挨ず
本地佛 十一面観音 銅造長四寸を安ず
牛頭天王歳德神を合祀し、神社の額を扁す 今の領主の筆
縁起に拠るに文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱の勧請と云ふ。毎年正月十六日を祭期とし、六月十四日には天王の祭事を行へり
境内社後に至れば翠岩丹壁峙立して海中に突出し頗勝地たり
別当は村内浄泉寺兼管す、神木銀杏樹あり

小動松
浄泉寺略縁起中に弘仁(810-824年)中、弘法大師小動山に登り一七日護摩を修せしに満日当山の松樹に神女影向あり
小動の松と云ふ是なりと記し、又文治年中(1185-1190年)佐々木盛綱当山に詣で老松樹の邊に至るに此松平日風なきに、枝葉靡き動く、其妙音恰(あたか)も琴瑟の如し、天女遊戯の霊木なり、此故に此松を小動の松と号すと記せり【鎌倉志】には、山の端に、海邊へ指出たる松あり。風無に常に動く、故にこゆるぎの松と云ふとなりとあり。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
小動山松岩院浄泉寺と号する。古義真言宗。もと青蓮寺末。いま京都大覚寺末。
開山は空海と伝える。
中興開山は弘治四年(1558年)に寂した元秀である。
本尊、左剣不動明王。
境内地413.55坪。本堂・地蔵堂・山門・庫裏がある。
大正六年七月まで小動神社の別当で、中興後二十二世栗林龍照の時、神仏分離した。
腰越の老人のうちには、お祭りのとき、当寺の住職が馬に乗って、神輿に供奉したのを覚えている人があるという。
『関東古義真言宗本末帳』には、浄泉寺、寺内御免とみえている。

■ 小動神社境内掲示(小動神社由緒略記/抜粋)
相模風土記に往時、弘仁年中(810-822年)弘法大師、小動山に登りし時、老松に神女影向あり、この松を小動の松と云うとあり。


-------------------------


江ノ電「腰越」駅からほど近いところ、小動神社と国道134号を挟んで相対しています。


【写真 上(左)】 浄泉寺方向から小動神社
【写真 下(右)】 国道から

山門、本堂ともにもとは江ノ電の線路の方(北側)を向いて建っていましたが、昭和30年国道134号線が整備されたときに、現在の向きに移されたそうです。

国道134号に面して目立つ朱塗りの山門を構えています。
切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、門前に「除厄弘法大師」と刻んだ寺号標と廻国供𫝥塔。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門前の石標


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 永代供養廟

山内はけっこう広く、参道左手に正面に弘法大師が御座す永代供養廟。
その奥には宝形造桟瓦葺の地蔵堂があります。

江ノ電方面からの古参道は永代供養廟・地蔵堂あたりに突き当たるので、以前の本堂はこのあたりにあったのでは?


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造銅板本瓦棒葺で流れ向拝。
軒唐破風の手前に大がかりな千鳥破風を構えたダイナミックな意匠です。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝-1

向拝柱向かって右に寺号板、左手には「左剣不動明王」の尊格板が掲げられています。


【写真 上(左)】 「左剣不動明王」の尊格板
【写真 下(右)】 寺号板

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎に沿って海老虹梁、中備に龍の彫刻とそのうえに笈形付大瓶束を置いています。
彫刻類はボリューミーで立体感を備えて見応えがあります。


【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 木鼻の見返りの獅子

向拝正面桟唐戸のうえに寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 梵字の仏塔

山内には密寺らしく梵字が刻まれた仏塔もおかれていました。


御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。


〔 浄泉寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊(新四国東国八十八ヶ所霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 相州二十一ヶ所霊場の御朱印


65.龍口山 東漸寺(とうぜんじ)

鎌倉市腰越2-22-13
日蓮宗
御本尊:曼荼羅(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:龍口寺輪番八ヵ寺

東漸寺は、龍口寺輪番八ヵ寺の一寺をなす日蓮宗寺院です。
龍口寺輪番八ヵ寺とは、日蓮宗の名刹・龍口寺を輪番で護持した片瀬・腰越に点在する八箇寺の日蓮宗寺院をいい、いずれも山号を龍口山と号します。

龍口山 本蓮寺(藤沢市片瀬、元 大光山本圀寺末)  
龍口山 常立寺(藤沢市片瀬、元 身延山久遠寺末)
龍口山 勧行寺(鎌倉市腰越、元 経王山妙法華寺末) 
龍口山 本成寺(鎌倉市腰越、元 妙厳山本覚寺末)
龍口山 妙典寺(鎌倉市腰越、元 長興山妙本寺末)
龍口山 本龍寺(鎌倉市腰越、元 長興山妙本寺末)
龍口山 法源寺(鎌倉市腰越、元 正中山法華経寺末)
龍口山 東漸寺(鎌倉市腰越、元 正中山法華経寺末)

龍口寺は日蓮宗の重要な霊跡であり、日蓮宗の主だった門流が護持の輪番をつとめていたことがわかります。

延元二年(1337年)の敷皮堂建立(龍口寺草創)から、明治19年(1886年)の太政官布達により龍口寺に住職が置かれるまでの約550年間は、龍口寺には住職はおられず、輪番八ヵ寺が輪番制で龍口寺を護持していました。

龍口寺輪番八ヵ寺を語るとき、龍口寺の開創・沿革は外せないので、龍口寺公式Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

文応元年(1260年)7月、日蓮聖人は『立正安国論』を幕臣の宿屋光則を通じて前執権北条時頼に提出しました。
しかし、この論は幕府に異見するものとされ、他宗からも反感を買い、日蓮聖人は数々の法難を受けられました。

「龍口(たつのくち)法難」もそのひとつです。
龍口寺公式WebWikipediaを参考にその経緯を追ってみます。

文永八年(1271年)9月12日、日蓮聖人の御年五十歳の年、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で平頼綱率いる数百人で松葉ヶ谷の草庵を襲い、日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。

9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、はだか馬に乗せられ鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機となりましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れたと伝わります。

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

この龍ノ口での法難は「龍口法難」と呼ばれ、「伊豆法難」(弘長元年(1261年)5月12日)、「小松原法難」(文永元年(1264年)11月11日)、「佐渡法難」(文永八年(1271年)10月28日)と並んで「日蓮聖人四大法難」と呼ばれ、その法難の地はいずれも法華(日蓮)宗の霊跡となっています。

日蓮聖人入滅ののち、延元二年(1337年)に日蓮聖人の弟子・日法上人が「龍ノ口法難霊蹟」の地に「敷皮堂」という草庵を結び、自作の祖師像(日蓮聖人御像)と首敷皮を奉じたのが龍口寺の草始と伝わります。

なお、延文二年(1357)の創始は六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)が協力して豪荘な伽藍を建立したという伝えがある一方、寺院としての体裁・格式を整えたのは慶長六年(1601年)、地元津村の国人で日蓮宗の信者であった島村采女の寄進によるという伝えもあって、中世の龍口寺の沿革は諸説ある模様です。

しかし、山内には日蓮聖人が一晩を過ごされた土牢が残り、法華(日蓮)宗各門流の輪番八ヵ寺が龍口寺を綿々と護持してきたことからも、法華(日蓮)宗にとって重要な霊跡寺院であることがわかります。
いまも本山(霊跡寺院)の寺格を有し、「片瀬のお祖師様」とも呼ばれて多くの参拝客を集めています。


【写真 上(左)】 龍口寺
【写真 下(右)】 龍口寺の御首題

東漸寺は旧・津村にあって輪番八ヵ寺のひとつであり、『新編相模國風土記稿』には、開山は日東上人(正蓮阿闍梨)、本尊に三寶祖師を安し、下總國中山法華寺末とあります。
開創は、正平七年(1352年)と伝わります。

境内には、日本薬学の祖ともいわれる長井長義夫妻の記念碑も建てられています。


-------------------------
【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
龍口寺
龍口寺は、腰越村の内なり。寂光山と号す。日蓮遷化の後、弟子六老僧、力を合て建立す。因て日蓮を開山とす。此寺は、八箇寺輪番に住持す。妙典寺(比企谷末寺也)・本成寺(身延の末寺也)・本立寺(比企谷末寺也)・法源寺(中山の末寺也)・本蓮寺(本國寺末寺也)・觀行寺(玉澤の末寺也)・東漸寺(中山の末寺也)・淨立寺(碑文谷末寺也)・是を固瀨(かたせ)の八箇寺と云。皆龍口寺の近邊にあり。
本堂 日蓮の像を安ず。堂内に、日蓮首の座の石とてあり。注畫讚に、文永八年(1271年)九月十二日、日蓮難に遭とあり。
日蓮土籠 堂の西の山の根に、巖窟あるを云ふ。前に日蓮の敷皮石とてあれ共、非なり。堂内に有を以て正とすと云ふ。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
(片瀬村)龍口寺
腰越村の内なり。寂光山と号す。日蓮上人遷化の後に、弟子六老僧、力を合せ建立す。仍て日蓮を開山とし、此寺を八箇寺の輪番にて住職せり。腰越の内、神戸妙典寺(比企谷妙本寺末)、神戸本成寺(身延山末)、神戸本立寺(比企谷の末)・固瀬村法源寺(中山の末)、固瀬村本蓮寺(京本國寺末)、同所觀行寺(玉澤の末)、同所東漸寺(中山の末)、同所常立寺(碑文谷の末) 是を固瀨の八箇寺といふ。皆龍口寺の近所也。
本堂 日蓮上人の像、中老日法の作を安ず。堂内に日蓮上人頸の座石といふ有。注畫讚に、文永八年(1271年)九月十二日、日蓮難に逢とあり。又日蓮一夜土の牢、堂の西の方山際に洞窟あるをいふ。日蓮敷皮石といふもあれど、古えのものは堂内に置けり。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(津村)東漸寺
龍口山と号す 下總國中山法華経寺末 開山は日東 正蓮阿闍梨と号す 本尊三寶祖師を安ず

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
(片瀬村)龍口寺
寂光山と號す法華宗(無本山)文永八年(1271年)九月十二日宗祖日蓮刑に當りし舊蹟たるを以て弘安(1278-1288年)の頃六老僧等力を戮せて創立し(中略)即日蓮を開山となし、近隣八箇寺(村内常立・本蓮の二寺、腰越村本成・勸行・法源の三寺、津村東漸・本龍・妙典の三寺)にて輪番す、本尊は祖師日蓮なり(長二尺二分日法作) 堂内に敷皮石(長二尺三寸五分幅一尺八寸)と稱するあり (中略)
或は首の座石とも呼ぶ、是日蓮斬に當らんとして座を設けし石なりとぞ堂頭に敷皮堂の三字を扁す(寶鏡寺宮、墨蹟と云ふ)毎歳九月十一十二兩日の會式には宗門の緇素群参せり
日蓮士牢 本堂の西山麓にある岩窟を云ふ、日蓮厄難の時假に設けし牢なりと傳ふ、傍に膳窟と呼べるあり、同時膳所たりし遺址と云ふ
經八稲荷社

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
龍口山東漸寺と号する。日蓮宗。片瀬龍口寺輪番八ヶ寺の一。もと中山法華経寺末 開山、日東。本尊、曼荼羅。

-------------------------


江ノ電「腰越」駅東の路地を山手に入ったところに、本龍寺、本成寺、勧行寺、妙典寺、そして東漸寺があります。


【写真 上(左)】 腰越駅と江ノ電
【写真 下(右)】 山門前

東漸寺はもっとも山手で、その奥は行き止まりです。
車の通行量は多くはないですが、「腰越」駅東からの路地は道幅が狭く、通行人も多いので鉄道での参拝をおすすめします。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 お題目塔

路地に面して山門と、その手前にお題目塔。

山門は龍口寺門前で文政十一年(1828年)から饅頭店を営む老舗、片瀬上州屋六代目・新倉守蔵氏が施主となり昭和55年に建立された桟瓦葺の薬医門で、見上げに山号扁額、飾り瓦にめずらしい波形を置いています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内

山手に奥まった山内はすこぶる静かで、よく整備されています。


【写真 上(左)】 よく整備された山内
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 本堂向拝

参道正面が本堂、左手が庫裏です。
本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。流れ向拝部の降り棟が特徴的で、降り棟のうえには牡丹?の飾り瓦を置いています。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上と中備に斗栱を置き、正面桟唐戸の上には豪快な筆致の寺号扁額を掲げています。
身舎の花頭窓がよく効いて、整った印象の本堂です。


【写真 上(左)】 向拝扁額
【写真 下(右)】 庫裏


御首題は庫裏にて快く授与いただけました。


〔 東漸寺の御首題 〕




以下、つづきます。



【 BGM 】 (サザンオールスターズ特集-3)
■ 栞(しおり)のテーマ


■ 涙のアベニュー


■ Oh!クラウディア
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )