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■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)

■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)から
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)


13.鷲峰山 覚園寺(かくおんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市二階堂421
真言宗泉涌寺派
御本尊:薬師如来
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第3番、相州二十一ヶ所霊場第3番、鎌倉十三仏霊場第11番

建保六年(1218年)、薬師如来の眷属・十二神将のうちの「戌神」(伐折羅大将)が北条義時公の夢に現れ、これにより義時公が建立した大倉薬師堂が覚園寺の草創とされます。
永仁四年(1296年)、九代執権北条貞時公は外敵退散を祈念して大倉薬師堂を正式の寺に改めた(覚園寺の創建)といいます
開基は北条貞時公、開山は京・泉涌寺の智海心慧律師とされます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 大河ドラマ関連の掲示

現在は真言宗泉涌寺派となっていますが、当初は北京系律の本拠地で、律を中心に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場であったと伝わります。
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が勅願寺とされ、足利氏も祈願所として保護した名刹です。

『新編相模國風土記稿』の覚園寺の項に「覺園寺。鷲峰山 眞言院ト号ス。四宗兼学。京師泉涌寺末。本尊薬師。長八尺。運慶作。鎌倉志ニハ。宅間作ト云ヘリ。及日光。月光。十二神。各長五尺。宅間作。古昔大倉薬師堂。或ハ大倉新御堂ト称セリ。(略)此堂ハ建保六年(1218年)七月。北條義霊夢ニ因テ創立アリシ所ナリ。(略)永仁四年(1296年)。北條貞時本願主トナリ。一寺トナシテ。今ノ山寺号を負セ。僧智海ヲ延テ。開山始祖トス。(略)元弘三年(1333年)十二月、綸旨ヲ下サレ。勅願寺トセラル。延元元年(1336年)足利直義祈祷ヲ命ス。」とあり、後醍醐帝から勅願寺を賜り足利直義も祈祷を請じたことがわかります。

同書には「地蔵堂 舊クヨリ黒地蔵ト呼称シ。又里俗ハ火燒地蔵ト唱フ。此堂舊クハ鎌倉海濱ニ在シヲ。理智光寺開山僧願行。此ニ移セシナリ。時ニ此像霊佛ニシテ奇瑞多カリシ事。(略)住吉社。村の鎮守トス。神明宮。春日社。棟立井。山上ニアリ。古伝ニ弘法大師井ヲ穿テ。閼伽ノ料トセシト云フ。鎌倉十井ノ一ナリ。弘法大師護摩壇蹟。寺後ノ山上ニ平石アリ。其石上ニ護摩ヲ燒シ蹟ト云フ穴アリ。(略)塔頭。昔時四宇アリ。持寶院。龍泉院。比奈寺。五峰寺等ナリ。今ハ其遺●定カナラス。」とあり、弘法大師に所縁の深い寺院であること、また黒地蔵の堂宇は、もとは鎌倉の浜辺にあったことを示唆しています。

また、『新編鎌倉志』には「本尊、薬師、日光、月光、十二神何れも宅間法眼作と云ふ。(略)薬師堂谷(やくしどうがやつ)と有は此地の事なり。健保六年(1218年)七月九日右京兆義時、大倉郷に一堂を建立し、運慶が所造の薬師の像を安置す。(略)建長三年(1251年)十月、薬師堂谷焼亡、二階堂に及ぶ。南の方宇佐美判官が荏柄の家より到るとあり。義時建立の薬師堂、号大倉大御堂とあり。然れば当寺建立の前より薬師堂有しと見へたり。」とあり、永仁四年(1296年)の北條貞時による当寺創建の前に、義時建立の薬師堂(大倉大御堂)があったことを記しています。

入口正面の愛染堂と堂内の諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初胡桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。

『新編相模國風土記稿』の大楽寺の項に「覚園寺域内左方ニアリ。古ハ胡桃ヶ谷(浄妙寺村ノ麓)ニ在シトソ。故ニ胡桃山 千秋大楽寺と号ス。此ニ移セシ年代伝ハラス。開山ハ公珍ト云フ。本尊不動。鐵像願行作。俗ニ試ノ不動ト云フ。是大山寺不動ヲ鋳シ時。先試ニ鋳タル像ナリトソ。及薬師。願行作。愛染。運慶作等を置ク。暦應四年(1341年)二月。基氏ノ慈母。十三年ノ忌ニ佛事ヲ執行ス。永享元年(1429年)二月回禄ニ罹レリ。鎌倉九代後記曰。永享元年二月永安寺並大楽寺炎上。按スルニ此所ヨリ永安寺二程近シ。サテハ此頃。既ニ当所ニ移レルコト識ルヘシ。」とあり、不動尊像は大山寺と所縁をもたれること、大楽寺の焼失と移転の経緯などが記されています。

胡桃ヶ谷は浄明寺と瑞泉寺の中間あたりで、永安寺は瑞泉寺総門近くにあったとされます。
これに、↑ の『新編相模國風土記稿』『新編鎌倉志』の記述を重ね合わせると、胡桃ヶ谷の大楽寺は永享元年(1429年)に大火で焼失し、覚園寺のある薬師堂谷(覚園寺の左方)に移転、明治初年に廃寺となり覚園寺に吸収され、堂宇や尊像は覚園寺愛染堂として遺された、という流れも考えられます。

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覚園寺には広めの駐車場がありますが、やはりアクセス道が狭いのと、鎌倉宮あたりからの道行きは雰囲気もあるので、徒歩でのアクセスをおすすめします。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山内入口

鎌倉宮の社頭を左に折れて北側に向かう小川沿いの道を進みます。
途中、蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)があります。
この道は鎌倉有数のハイキングコース・天園ハイキングコースの登り口にもあたるので、週末など、かなりの数ハイカーが入り込みます。

進むにつれて、正面の風格ある山門が近づいてきます。
参道をまっすぐに受けずやや斜に受ける階段と山門が、かえって安定感を感じさせる粋な構えです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号提灯

石段の上に構える山門は、桟瓦葺切妻屋根の四脚門。本柱からの腕木、肘木の持ち出しが長く、実質は棟門ないし高麗門と見る専門家もいるようです。


【写真 上(左)】 山門から
【写真 下(右)】 庫裡?

こちらをくぐって右手に、北条氏の「三つ鱗」紋が掲げられた庫裡?。

適度に木々が茂った山内は、四季折々に落ち着いた風情を楽しめます。


【写真 上(左)】 早春の山内
【写真 下(右)】 梅雨の山内


【写真 上(左)】 秋の山内-1
【写真 下(右)】 秋の山内-2

正面の仏殿が本堂のようにみえますが、こちらは愛染堂で、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。
その右手には客殿らしき建物があります。


【写真 上(左)】 愛染堂と客殿?
【写真 下(右)】 客殿?


【写真 上(左)】 梅雨の愛染堂
【写真 下(右)】 秋の愛染堂

愛染堂手前右に手水舎、左手には鐘楼。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 鐘楼


【写真 上(左)】 愛染堂
【写真 下(右)】 愛染堂向拝

銅板葺入母屋造(違うかもしれぬ)で、軒を重ねて向拝が張り出されています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ梁で、その両よこには端正な花頭窓はあるものの、全体にスクエアできっちりまとまった印象です。


【写真 上(左)】 よこからの向拝
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向かって右の向拝柱には「第十一佛阿閃如来」の鎌倉十三仏霊場の札所板。


【写真 上(左)】 鎌倉十三霊場仏の札所板
【写真 下(右)】 露天

向拝正面は4枚の腰付き格子硝子扉の引き違いで、正面がわずかに開かれていますが、中は暗くてはっきりとは見えません。

向拝の掲示によると、中尊が愛染明王(鎌倉時代後期)、左脇侍(向かって右)に不動明王(鎌倉時代後期)、右脇侍(向かって左)に阿閃如来(鎌倉時代)という構成で、阿閃如来は鎌倉十三仏霊場第11番の札所本尊です。

『新編相模國風土記稿』の大楽寺の項には「(本尊)不動。鐵像願行作。俗ニ試ノ不動ト云フ。是大山寺不動ヲ鋳シ時。先試ニ鋳タル像ナリトソ。及薬師。願行作。愛染。運慶作等を置ク」とあります。
大楽寺は室町時代の永享元年(1429年)2月に焼失していますが、上記の尊像は焼失を免れたのかもしれません。

北条義時公所縁の寺院なので、堂前には”鎌倉殿の13人”関連の掲示がありました。


【写真 上(左)】 ”鎌倉殿の13人”関連掲示
【写真 下(右)】 愛染堂と拝観受付

愛染堂前を左手に進むと、本堂エリアの拝観受付です。
新型コロナ禍前は、入山料500円で本堂エリア内のご案内をいただけるシステムでしたが、現在は随時拝観できるようになっています。
詳細は→こちら


【写真 上(左)】 拝観受付と本堂エリア
【写真 下(右)】 本堂(山門前掲示板より)

正直に白状すると(笑)、筆者は本堂エリアの拝観はしたことがなく、御本尊も地蔵尊も拝観受付手前からの遙拝です。
なので、現時点ではこのエリアのご案内をする資格はありません。
機会をみてじっくり拝観し、追記したいと思います。
なお、拝観料をおさめた先の境内(本堂エリア内)での写真動画撮影、写生、飲食はできません。

本堂エリア内には、御本尊薬師如来(薬師三尊)と十二神将が御座す本堂(薬師堂)、旧内海家住宅、十三佛やぐら、千躰地蔵尊、黒地蔵尊の地蔵堂、六地蔵尊などの見どころがあります。
詳細については公式Webをご覧ください。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 「黒地蔵盆」の案内

黒地蔵尊は鎌倉時代の作といわれ、地獄で業火に焼かれる罪人の苦しみを和らげようと、獄卒の代わりに火焚きをしたために焼け焦げてしまったという縁起が伝わります。
そばにある千躰地蔵尊は黒地蔵尊の分身とされ、毎年8月10日の深夜に行われる「黒地蔵盆」は鎌倉の夏の風物詩として知られています。

『新編鎌倉志』には「(覚園寺)地蔵堂 地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ。【鎌倉年中行事】には黒地蔵と有て、(足利)持氏参詣の事みへたり。相伝ふ、此地蔵、地獄を廻り、罪人の苦みを見てたへかね。自ら獄卒にかはり火を燒、罪人の焔をやめらるゝとなり。是故に、毎年七月十三日の夜、男女参詣す。数度彩色を加へけれども、又一夜の内に本の如黒くなるとなん。(略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、黒地蔵尊の縁起を伝えています。


御朱印は拝観受付にて拝受できます。
こちら様もご親切なご対応です。

こちらの札所は、鎌倉二十四地蔵霊場第3番、相州二十一ヶ所霊場第3番、鎌倉十三仏霊場第11番(阿閃如来)の3つ。
別に御本尊・薬師如来の御朱印を授与されているので、御朱印は4種となります。
無申告の場合の御朱印は不明ですが、相州二十一ヶ所霊場の御朱印は申告制だと思います。


〔 御本尊・薬師如来の御朱印 〕



〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
鎌倉二十四地蔵霊場第3番の札所本尊は、地蔵堂に御座す「黒地蔵尊」です。

 
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入
●主印は御寶印で、円のなか中央に地蔵菩薩の種子「カ」、周囲はおそらく六地蔵尊の種子と思われます。

〔 相州二十一ヶ所霊場の御朱印 〕
相州二十一ヶ所霊場第3番の札所本尊はお大師さまと思われますが、御座所はよくわかりません。
愛染堂前と拝観受付前で、御宝号、光明真言などをお唱えしました。

 
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳

〔 鎌倉十三仏霊場第11番(阿閃如来)の御朱印 〕
鎌倉十三仏霊場第11番の札所本尊は、愛染堂に御座す阿閃如来です。


●主印は阿閃如来の種子「ウン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。


14.(西御門/大蔵)白旗神社(にしみかどしらはたじんじゃ)
鎌倉市西御門2ー1
御祭神:源頼朝公

頼朝公が鎌倉入りして設けた御所(居宅)は現在の清泉小学校(雪ノ下三丁目)あたりとみられ、「大倉御所」といわれます。
頼朝公がこの御所で施政したため大倉幕府とも呼ばれますが、この時代に「幕府」の呼称はなかったというのが通説です。

白旗神社はこの大倉御所跡のちょうど北側に御鎮座で、社頭前からの50数段の階段をのぼったところが頼朝公の墓所です。
こちらの白旗神社は、鶴岡八幡宮境内社の白旗神社と区別するため(西御門)白旗神社とも呼ばれますが、ここでは白旗神社と表記します。


【写真 上(左)】 大倉御所跡からの参道
【写真 下(右)】 社頭

白旗神社御鎮座の地はすこぶる複雑な変遷を辿っているので、まずは概略を記した現地掲示を引用します。

「この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。正治元年(一一九九)一月十三日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。その後鶴岡八幡宮の供僧『相承院』が奉仕して祭祀を続け、明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。」(白旗神社)

「この平場は鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。(略)建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。」(頼朝公墓所)

白旗神社の創立は明治5年なので、それ以前の文献に白旗神社の記述はなく、法華堂と記されています。

『新編鎌倉志』の法華堂の項には「西御門の東の岡なり。相傳、頼朝持佛堂の名也。【東鑑】に、文治四年(1188年)四月廿三日、御持佛堂に於て、法華経講読始行せらるとあり此所歟。同年七月十八日、頼朝、専光坊に仰て曰。奥州征伐の為に潜に立願あり。汝留守に候じ、此亭の後の山に梵字を草創すべし。年来の本尊正観音の像を安置し奉ん為なり。同年八月八日御亭の後山に攀登り、梵字営作を始む。先白地に假柱四本を立、観音堂の号を授くとあり。今雪下相承院領するなり。頼朝の守本尊正観音銀像も、相承院にあり。今此には彌陀、幷如意輪観音・地蔵像あり。地蔵は、本報恩寺の本尊なりしを、何れかの時か此に移す。(略)此法華堂を、右大将家法華堂と云なり。」とあります。

また、『新編相模国風土記稿』の法華堂の項には「頼朝ノ墳墓堂ニシテ。元ハ持佛堂ナリ。故ニ土俗ハ頼朝持佛堂トモ称ス。正治元年(1199年)正月十三日頼朝薨ス(略)同二年正月十三日頼朝の小祥ニヨリ。法会ヲ行ハル。此時始テ法華堂ノ称アリ。(略)三尊彌陀ヲ本尊トセシカ。佛体損セシ故。今ハ傍ニ移シ。如意輪観音ヲ本尊トス。地蔵(報恩寺ノ本尊ナリシカ彼寺廃セシ後此ニ安スト云フ)(略)相承ヲ別当タリ。」
「什寶。正観音像一軀 銀佛ニテ立身長二寸頼朝ノ守護佛。髻観音ナリ。」とあります。

一方、頼朝公墓所(頼朝墓)についてみてみると、
『新編鎌倉志』には「法華堂の後の山にあり。【東鑑脱漏】に、法華堂西の岳上に、右幕下の御廟を安ず」とあり、『新編相模国風土記稿』には「堂後ノ山上に五輪塔一基ヲ建ツ。」とあります。

法華堂と頼朝公墓所(頼朝墓)の位置関係がどうもわかりにくいので、上記資料を参考に年表風にまとめてみました。

1.文治四年(1188年)4月23日、御持佛堂に於て法華経講読始行。
2.同年8月8日御亭(御持佛堂)の後山に梵字営作。假柱四本を立て観音堂の号を授く。
(この観音堂に頼朝公の守護佛正観世音菩薩(髻観音)を奉安?。持佛堂とも称す?。)
(もとの御持佛堂には阿彌陀三尊、如意輪観世音菩薩、地蔵菩薩を奉安?)
3.正治元年(1199年)正月13日頼朝公薨す。後に頼朝公御廟を安ず。(→頼朝公墓所)
4.正治二年(1200年)正月13日の法会時、もとの御持佛堂(?)を法華堂と改める。
5.同時期に観音堂(持佛堂)は墳墓堂と改める。
6.法華堂は、鶴岡八幡宮寺の僧坊「相承院」が護持する。
7.17世紀の初頭までに墳墓堂が失われる。
8.安永8年(1779年)頼朝公墓所が薩摩藩主島津重豪によって整備される。
9.明治初年の神仏分離令施行に伴い法華堂は撤去され、明治5年10月白旗神社が建立。
10.現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に造営。

上記のうち、1.4.9.10が現在の白旗神社、2.3.5.7.8が現在の頼朝公墓所を示すとみられますが、頼朝公墓所の広さからみると、堂宇は一旦墓所周辺(山上)に整備され、のちに一部が現社地に移動したのかもしれません。

なお、頼朝公の守護佛正観世音菩薩(髻観音)は、現在扇ガ谷の鎌倉歴史文化交流館で展示されている模様です。(同館twitterより)

頼朝公墓所の下の公ゆかりの法華堂ですから、神社創立の際に御祭神を頼朝公とし、白旗神社を号したことは自然な流れとみられますが、「猫の足あと」様Webページ掲載の「神奈川県神社誌」には、以下のような文章があります。
「然しながら頼朝公を白旗大明神として祀ったのは相当古く、応安六年(一三七三)十一月十五日西御門の報恩寺(廃寺)境内に洞(堂?)が祀られていたと記録にある。」

報恩寺、白旗明神社ともに記録があります。
■『新編鎌倉志』
○報恩寺舊跡 附白旗明神社
「報恩寺舊跡は、西御門の西の谷にあり。当寺の本尊、今法華堂にあり。」
○白旗明神社
「寺滅して社も又亡ぶ。義堂祭白旗神文あり。其略に云、應安六年(1373年)冬、南陽山報恩護國禅寺、白旗大明神靈祠成るとあり。」

■『新編相模国風土記稿』
●報恩寺廃蹟
「南陽山報恩護國寺ト号セシ禅刹ニテ。應安四年(1371年)上杉兵部大輔能憲ノ起立ナリ。(略)其後何レノ頃廃寺トナリシヤ詳ナラス。当時(寺?)ノ本尊地蔵ハ。今法華堂ニ安セリ。境内ニ。白旗明神社在シトナリ。是モ寺滅シ頃。共ニ廃セシナルヘシ。今址タニナシ。應安六年(1373年)十一月起立セシモノナリ。」

報恩寺(廃寺)は法華堂の西側にあり、御本尊地蔵菩薩は廃寺ののちに法華堂に遷られたとされますが、その報恩寺内に應安六年(1373年)の時点で白旗明神社が祀られていたというのです。
こちらの御祭神は不明ですが、上記の「神奈川県神社誌」の文章は、この報恩廃寺の白旗明神社と(西御門)白旗神社の関係性を示唆するものともみられます。

また、報恩寺から法華堂に遷られた地蔵菩薩等は、明治のはじめに法華堂が廃されたときに満光山 来迎寺に遷られたとされています。
詳細はつぎの「15.満光山 来迎寺」をご覧ください。


【写真 上(左)】 正面階段上が頼朝公墓所
【写真 下(右)】 社頭(通常)

海がわから広がる鎌倉の平地が、北山にさしかかるところにあります。
週末は観光客のすがたもちらほら見られますが、ごったがえす若宮大路あたりと比べると落ち着いた趣。

あたりにどこかもの寂びた空気がただよっているのは、山裾という場所柄だけでなく、頼朝公の墓所であること、宝治元年(1247年)の宝治合戦で三浦一族500余名が自刃したという凄絶な歴史も影を落としているのかもしれません。

なお、宝治合戦で三浦一族が籠もった法華堂は、ここから少し東の山腹にある「法華堂跡」(北条義時法華堂跡)という説もあります。
こちらは『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記された地とみられています。
北条義時法華堂跡の山上に、大江広元の墓所があります。


【写真 上(左)】 社頭(正月)-1
【写真 下(右)】 社頭(正月)-2


【写真 上(左)】 正月の拝殿
【写真 下(右)】 本殿

社頭に石灯籠一対、狛犬一対、鳥居は貫の突き出しのない神明鳥居系。
拝殿は銅板葺の神明造、本殿は銅板葺の一間社流造とみられます。


【写真 上(左)】 拝殿扁額
【写真 下(右)】 幟

境内にはためく幟には「白旗大明神」、拝殿向拝の扁額には「白旗明神」とあり、往年の神仏習合の歴史を伝えているかのよう。
法華堂の護持を司っていた相承院(頓覚坊)は『鶴岡八幡宮寺供僧次第』などにみられる「鶴岡二十五坊」のひとつです。

階段上の頼朝公墓所は相当な広さがあり、かつて堂宇があったことをうかがわせます。
墓石や手水石には源氏の「笹竜胆」紋だけでなく、なぜか薩摩の島津家の「轡十文字」紋がみられます。
幕末に墓所が荒れた際、頼朝公の子孫を称する薩摩藩主・島津重豪が整備して「轡十文字」を刻んだものとされています。(島津氏整備・寄進の石碑もあります。)

白旗神社は通常非常駐で、御朱印の授与は原則正月三が日に限られ、書置ながら鎌倉屈指のレア御朱印として知られています


(西御門)白旗神社の御朱印


15.満光山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市西御門1-11-1
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉三十三観音霊場第5番、鎌倉二十四地蔵霊場第2番、鎌倉十三仏霊場第10番、鎌倉郡三十三観音霊場第8番

鶴岡八幡宮の東側、西御門にある時宗寺院で、複数の現役霊場の札所を兼務されています。
鎌倉には来迎寺を号する寺院が西御門と材木座にあり、区別するためからか西御門来迎寺(にしみかどらいこうじ)と呼ばれます。

寺伝(公式Web)によると、永仁元年(1293年)の鎌倉大地震で亡くなった村民を供養するため一向上人により創建。

『新編鎌倉志』の来迎寺の項には「高松寺の南隣なり。時宗、一遍上人開基、藤澤清浄光寺の末寺なり。」とあります。
また、『新編相模国風土記稿』には「時宗。藤澤清浄光寺末。一遍の創建ナリ。本尊阿彌陀ヲ安ス。」とあります。

 
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 八雲神社

横浜国大附属鎌倉中学校の東側の路地を山側に向かいます。
この路地は山裾で行き止まりとなり、みどころは来迎寺のほかには石川邸(旧里見邸)くらいしかないので、週末でも閑静な住宅街です。

T字路の右手に八雲神社、そのよこの階段の上が来迎寺です。
こちらの(西御門)八雲神社は『新編相模国風土記稿』記載の「字大門の天王社」とみられていますが、来迎寺との関係は定かではありません。
西御門の氏神社で、旧村社に列格していたとされます。

また、頼朝公起立と伝わる太平寺(廃寺)はこのあたりと伝わり、来迎寺の参道脇に「大平寺跡」の石碑が建っています。

 
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 札所標

参道階段右手には、鎌倉三十三観音、鎌倉二十四地蔵、鎌倉十三仏の札所標。
真新しい階段を昇ると視界が開け、左手に庫裡。もうひと昇りすると本堂です。

 
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額

参道階段は東向きで、本堂前で南面する本堂に向きを変える曲がり参道です。
本堂は入母屋造本瓦葺の堂々たる構えで、軒下に向拝柱を置いています。

水引虹梁両端に草花紋様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
本瓦葺の軒丸瓦には時宗の宗紋「隅切三(すみきりさん)」が置かれ、向拝正面桟唐戸の上には山号扁額が掲げられています。

 
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

山内掲示によると、本堂には御本尊阿弥陀如来と地蔵菩薩像、如意輪観世音菩薩像が奉安されています。

御本尊の阿弥陀如来は鎌倉十三仏霊場第10番の札所本尊です。

地蔵菩薩像は廃寺となった報恩寺の御本尊で宅間浄宏の作と伝わり、岩を模した台座のうえに御座されることから「岩上地蔵尊」と呼ばれ、鎌倉二十四地蔵霊場第2番の札所本尊です。
中世禅刹で流行した「法衣垂下」の技法を用いた代表作として知られています。

如意輪観世音菩薩像は「鎌倉でもっとも美しい仏像」と賞される名作で、鎌倉特有の技法とされる「土紋」が鮮やかなことで知られ、鎌倉三十三観音霊場第5番の札所本尊です。

〔 関連記事 〕
■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印


『新編相模国風土記稿』の法華堂の項には「頼朝ノ墳墓堂ニシテ。元ハ持佛堂ナリ。故ニ土俗ハ頼朝持佛堂トモ称ス。(略)三尊彌陀ヲ本尊トセシカ。佛体損セシ故。今ハ傍ニ移シ。如意輪観音ヲ本尊トス。地蔵(報恩寺ノ本尊ナリシカ彼寺廃セシ後此ニ安スト云フ)」とあり、地蔵尊は報恩寺→法華堂→来迎寺と遷られたのではないでしょうか。

来迎寺の公式Webには、「客仏として如意輪観世音菩薩、岩上地蔵菩薩、跋陀婆羅尊者が祀られています。客仏の三体は源頼朝公の持仏堂の後身である法華堂(現在の源頼朝公の墓所付近)に安置されておりましたが、明治初年の神仏分離令を機に来迎寺へ移されました。」と明記されています。

ちなみに跋陀婆羅尊者は、寺院(とくに禅刹)の浴室の守護神とされます。
如意輪観世音菩薩像と岩上地蔵菩薩像は県指定文化財、跋陀婆羅尊者像は市指定文化財に指定されている、知る人ぞ知る「仏像の寺」です。

御朱印は庫裡にて拝受できますが、新型コロナ禍中は事前確認してからの参拝がベターかもしれません。

〔 御本尊・阿弥陀如来(鎌倉十三仏霊場第10番)の御朱印 〕



〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入


16.鶴岡八幡宮
鎌倉市雪ノ下2-1-31
御祭神:応神天皇、比売神、神功皇后
旧社格:旧国幣中社、別表神社
元別当:(八幡宮寺)



17.(鶴岡八幡宮境内)白旗神社
鎌倉市雪ノ下2-1-31
御祭神:応神天皇、比売神、神功皇后
旧社格:鶴岡八幡宮境内社、旧柳営社合祀


※正月のみの限定授与です。

18.旗上辨財天社
鎌倉市雪ノ下2-1-31
御祭神:辨財天
旧社格:鶴岡八幡宮境内社
札所:鎌倉・江ノ島七福神(辨財天)



16.鶴岡八幡宮、17.(鶴岡八幡宮境内)白旗神社、18.旗上辨財天社については、ものすごい量の史料が存在するので、別稿でまとめます。


19.巌窟堂 岩谷不動尊(いわやふどうそん)
不動茶屋のWeb 
鎌倉市雪ノ下2-2-21
宗派不明
御本尊:不動明王
札所:

鎌倉ガイドでもあまり紹介されないお不動さまですが、古い歴史をもち、以前は巌窟(イハヤ)不動尊と呼ばれていました。

『新編鎌倉志』の巌窟不動の項には「巌窟(イハヤ)不動は、松源寺の西、山の根にあり。窟の中に、石像の不動あり。弘法の作と云ふ。【東鑑】に、文治四年(1188年)正月一日、佐野太郎基綱が巌窟の下の宅焼亡。鶴岡の近所たるに因て、二品頼朝宮中に参給ふとあり。此所の事あらん。此前の道を巌窟小路と云ふ。(中略)【東鑑】には、巌堂とあり。俗、或は岩井堂と云ふ。巌窟堂、今は教圓坊と云僧持分なり。昔は等覺院の持分なりけるにや。」とあります。

『鎌倉攬勝考』の巌窟不動尊の項には「【東鑑】に、窟堂又は岩屋堂、或は岩井堂と有るも、此所の事なり。日金地蔵のにしの山麓にて、窟中に石像の不動あり。弘法大師のさくといふ。此前の道路を岩屋小路と唱ふ。【東鑑】に、建長四年(1251年)五月五日、将軍家(宗譽)御方違の評定有て、亀が谷の方角を見定可申由仰にて、行義・行方・景頼等、彼六人を具して、巌窟のうしろの山上へ登るとあるも此地なり。昔は等覺院といふが別当なりしが、今は散圓坊といふ庵室の持とす。むかし等覺院別当のときは、日金堂をも兼持せしといふ。●に、等覺院といふは、十二院のうちなる巌覺院なるべし。」とあります。

以上から、弘法大師の御作と伝わる由緒正しい不動尊であることがわかります。

また、『新編相模国風土記稿』には「村西ニ巌窟アリ。濶三間許。高七尺。其中巌面ニ。不動ノ像。弘法ノ畵ク所ト云。ヲ彫ルノミ。今ハ堂宇ナシ。(中略)建久三年(1192年)五月。南御堂ニシテ。後白河法皇ノ御佛事。百僧供ヲ修セラレシ時。僧衆ノ内ニ。当堂ノ住侶ヲ加ラル。(中略)鎌倉志ニハ。巌窟不動ト挙。俗或ハ岩井堂ト云。今ハ教圓坊持ナリ。昔ハ等覺院鶴岡供僧。」とあります。

『吾妻鏡』(建久三年五月八日条)には、南御堂(勝長寿院)で行われた後白河法皇の四十九日法要には僧百が勤修し、その内訳は「鶴岡八幡宮供僧二十口、六所宮(六所社)二口、伊豆山(権現)十八口、筥根山(箱根権現)十八口、大山寺(阿夫利神社)三口、観音寺(不詳)三口、勝長壽院十三口、高麗寺(大磯・高来神社)三口、岩殿寺(逗子・岩殿寺?)二口、大倉観音堂(杉本寺)一口、巌窟一口、慈光寺(都幾川・慈光寺)十口、眞慈悲寺(日野・眞慈悲寺?)三口、浅草寺三口、弓削寺(小田原・飯泉観音?)二口、国分寺(海老名・国分寺?)三口也」と記され、巌窟堂が関東の大寺と並ぶ格式(ないし役割)をもっていたことがうかがえます。

『鎌倉攬勝考』の日金地蔵堂の項には「岩屋堂の東にて、山の半腹にあり。本尊地蔵、運慶作。右大将家、豆州謫居の頃より、御誓願有て、爰(ここ)に移し給ふといふ。別当日金山彌勒院松源寺といふ。真言新義。御室御所の末なり。」とあります。

こちらは、頼朝公が伊豆の日金山から勧請した日金地蔵尊(日金山松源寺)のとなりで、この界隈は頼朝公の信仰の場であった可能性がありますが、松源寺は廃寺となり、現在、日金地蔵尊は横須賀の東漸寺に遷られています。(→■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3


【写真 上(左)】 横大路(窟小路)と入口
【写真 下(右)】 参道入口

鶴岡八幡宮から扇ガ谷に抜ける横大路(窟小路)は観光客の姿もみられますが、小町通りほどの雑踏はなく、落ち着いたたたずまいです。


【写真 上(左)】 石碑
【写真 下(右)】 境内

岩谷不動尊はこの道の北(山側)の小径を入った不動茶屋横に御座します。
横大路(窟小路)沿いの門柱には「巌窟不動尊」、その横には「不動茶屋」の幟、ラーメンが売りらしく、美味しそうなメニューも掲出されています。

左に古色を帯びた「不動尊」の石碑、右手に整然と庚申様や板碑、石塔が並ぶブロック塀沿いに進むと、そのおくに木の鳥居と不動堂。
左手の覆堂のなかにもお不動さまが御座しています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 不動堂

堂宇の背後は岩壁でやぐららしきものもみえます。
周囲はほの暗く、パワスポ的雰囲気が感じられます。

御本尊は石佛の不動明王立像です。
不動茶屋のWebには「この像は弘法大師の作とも言われています。永い年月の間にお不動様の像も風化し、後に石の像が作られ今に至っております。」とあります。
こちらのお不動様は、古くは背後の岩窟のなかに祀られていたようです。 

御朱印は不動茶屋にて書置のものを拝受しましたが、当然のことながら営業時間内しか拝受できません。

〔 御本尊・岩谷不動尊の御朱印 〕




これでA.朝夷奈口はひとまず校了です。
つぎは南側のB.名越口に進みます。
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)へ。


【 BGM 】
■ 地上に降りるまでの夜 - 今井美樹

■ 今井美樹の名バラード25曲!

■ 永遠 ~小さな光~ - 詩月カオリ


■ YOU ARE NOT ALONE - 杏里

■ 杏里の名バラード20曲!

■ 夢の途中 - KOKIA

■ KOKIAの名バラード12曲

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
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