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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1からのつづきです。

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第3番 医王山 薬王院 極楽寺
(ごくらくじ)
葛飾区堀切2-25-21
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(堀切村)天祖社・八幡社(葛飾区堀切)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第64番、荒綾八十八ヶ所霊場第67番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番、(京成)東三十三観音霊場第5番

第3番は葛飾区堀切の極楽寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

極楽寺は、宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨による創立と伝わります。
普済阿闍梨は弘法大師御作と伝わる薬師如来を笈に納めて東国巡化の途、当地の地頭・窪寺内蔵頭平胤夫の帰依を得て当地に一宇を建立し、医晃山薬王院と号したといいます。

当山縁起には数名の千葉氏流の武将が登場します。
千葉一族は分家がすこぶる多く辿りにくい家系ですが、武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤が年代的に符合するので、この武将を手ががりに探ってみました。

宝治元年(1247年)の宝治合戦で千葉氏嫡流の秀胤は縁戚の三浦氏に連座して滅び、以降同族内の嫡流争いが激化します。

享徳三年(1454年)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから享徳の乱がおこりました。
千葉氏第16代当主・千葉胤直と弟の胤賢は成氏討伐に功をあげ、8代将軍足利義政公から御内書をもって賞されました。

しかし康正元年(1455年)これに不満の叔父の馬加(まくわり)康胤と千葉氏庶流で重臣の原胤房に千葉城を急襲され、胤直・胤賢兄弟と胤直の子・胤宣は千田荘(現在の多古町)に逃れました。

同年8月、千田荘の多古城に拠った胤宣は馬加康胤・原胤房に攻められ自刃。
志摩城に拠った胤直・胤賢兄弟も馬加・原勢の猛攻を受けて胤直は自刃しました。

胤賢は2人の息子実胤・自胤を伴って志摩城を脱出し、小堤城(現在の横芝光町)に入ったもののこちらも攻められて胤賢も自刃し、2人の息子は八幡荘(現在の市川市)に逃れました。

実胤と自胤は市河城(現在の市川市市川)に入り足利義政が派遣した同族の奉公衆・東常縁の支援を得て再起をうかがうも、康正二年(1456年)1月足利成氏方の簗田持助らに攻められ市河城も陥落し、ついに武蔵国まで落ちのびました。
武蔵国入りしたこの千葉氏の系統を武蔵千葉氏と呼び、初代が千葉胤賢、第二代が千葉実胤(1442年-)とされます。

東常縁は歌人として著名ですが、武将としての才にも優れ、下総匝瑳郡で体勢を立て直すと馬加康胤の拠る馬加城(現在の幕張周辺)を攻め落とし、康胤と子の胤持を討ち取り原胤房を追放しました。

しかし、分家の岩橋輔胤らの勢力は強く、武蔵へ逃れた実胤らの下総への帰還は叶わず、実胤は寛正三年(1462年)に隠遁したとも伝わります。
千葉氏当主の座は実胤の子・千葉胤将が嗣いだとされますが事績はあまり残っておらず、弟の胤宣が当主を嗣いだといいます。

千葉氏当主は第14代満胤、第15代兼胤、第16代胤直、第17代胤将、第18代胤宣とつづきましたが、胤直、胤宣は上記のとおり馬加康胤に攻められ自刃しています。

遡って、千葉氏第14代当主満胤の長男は第15代当主の兼胤で、その弟は馬加康胤。
兼胤の長男は第16代当主の胤直なので、馬加康胤は胤直の叔父にあたります。
諸説はありますが、岩橋輔胤は馬加康胤の庶子とされています。

千葉氏の実権は馬加康胤から嫡子の馬加胤持、さらに康胤の庶子とされる岩橋輔胤、その子の千葉孝胤、孫の勝胤、曾孫の昌胤と遷ったため、第19代は(馬加)康胤、第20代は(馬加)胤持、第21代は(岩橋)輔胤、第22代は孝胤、第23代は勝胤、第24代は昌胤と数えられます。

しかし(岩橋)輔胤=(馬加)康胤の庶子説はかなり微妙で、諸説が建てられています。

このように、千葉氏嫡流の流れは第15代当主兼胤から次男の胤賢、その子の実胤・自胤へとつながりますが、この名流は武蔵国に流れて武蔵千葉氏となりました。
兄の実胤は石浜城(現在の台東区橋場)主、弟の自胤は赤塚城(現在の板橋区赤塚)主となりました。
なお、千葉自胤は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に「千葉介自胤」として登場します。

武蔵千葉氏は扇谷上杉家の保護を受けたもののついに上総への復帰はならず、子孫は武蔵国の国人となりました。

『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、当山開基にかかわった窪寺内蔵頭平胤夫は「千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ」とあります。

武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤の家臣・木内宮内少補胤信の舎弟が、窪寺内蔵頭平胤夫ということになり、ここでようやく話がつながりました。
それにしても千葉氏関連の家督は複雑で、しかもほとんどが通字の「胤」がついているので、わけがわからなくなります。

ここまで辿ればあとは楽です。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、「千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年(1456年)六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。」とあります。

実胤・自胤兄弟が市河城を追われ武蔵国に落ちたのが康正二年(1456年)1月。
宿敵・馬加康胤は同年11月に東常縁に討たれたとされるので、窪寺内蔵頭胤夫と嫡男富千代胤茂が討死した同年6月は微妙な時期です。

あるいは東常縁の反撃の前に、実胤・自胤兄弟が馬加康胤に対して反撃を仕掛け、その際の戦で討死したのかもしれません。
(『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』にある千葉馬加陸奥守孝胤(第22代千葉家当主?)は年代が合いません。やはり馬加康胤かその与力との戦かと思われます。)

おそらく満身創痍で落ちてきた実胤・自胤兄弟が、地盤のない武蔵国で石浜、赤塚の二城を得られたのは不思議な感じもしますが、背景として享徳三年(1455年)の享徳の乱などで武蔵の有力武家、江戸氏、豊島氏、葛西氏などが没落していたこと、千葉氏宗家の家柄である実胤・自胤兄弟を扇谷上杉氏や足利氏一門の渋川氏が援助したことなどが考えられます。

史料には「地頭窪寺内蔵頭平胤夫」とあるので、窪寺氏は従前からこの地で勢力を張っていたとみられます。
千葉氏と窪寺氏の関係は不詳ですが、「平胤夫」という標記からみて千葉氏系統の感じがします。(千葉氏は「平」姓、「胤」は千葉氏の通字)
あるいは、千葉氏の庶子がこの地に進出していたのかもしれず、だからこそ大きな戦なく石浜、赤塚の二城を得られたのかもしれません。

石浜城は現在の石浜神社(荒川区南千住三丁目)あたりとされ、極楽寺とは荒川・隅田川を挟んですぐ対岸です。

足立区資料によると、武蔵千葉氏は「中曽根城/渕江城」(足立区本木2丁目/現・中曽根神社付近)も築いたとされます。

資料には「天正18(1590)年に後北条氏が滅ぶと武蔵千葉氏もこの地を去りました。」とあります。

こちらの記事(歴史散歩(武蔵千葉氏の史跡を訪ねる 赤塚))には、第6代千葉直胤までの武蔵千葉氏の系譜が載っています。
Wikipediaで「千葉直胤」をひくと武蔵千葉氏第7代当主で石浜城を本拠とし、北条氏繁(1536-1578年)の四男とあり、後北条氏との関係を深め、戦国時代まで城主の座を保ったことがわかります。

『ガイド』には永禄三年(1560年)8月、大洪水のため本堂以下ことごとく流出したので、同五年(1562年)5月、正済法印が再興とあります。
一方、■ 『新編武蔵風土記稿 』には「(堀切村)神明社 村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ 八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云」とあるので、大洪水の年に堀切村の神明社と八幡社が勧請され、極楽寺がその別当となったことになります。


【写真 上(左)】 堀切天祖神社
【写真 下(右)】 堀切天祖神社の御朱印

八幡社といえば、当山の八幡宮にまつわる奇妙な伝承があります。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には「(窪寺内蔵頭平胤夫は)別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)」とあります。

また、Wikipediaには「開山当初の境内には、八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮だという伝説がある。」とあります。

『江戸名所記』の永代橋八幡宮(富岡八幡宮)の項には「御神体は千葉介乃家●あり」とあり、千葉一族との関連をにおわせています。

「猫の足あと」様では、富岡八幡宮を勧請した長盛法印には先祖伝来の弘法大師作の八幡大菩薩像があり、八幡宮勧請の地を夢告されたという伝承が紹介されています。
また、富岡八幡宮の別当・永代寺は高野山真言宗で弘法大師ゆかりの寺院です。
関連記事

極楽寺の開山・普済阿闍梨は紀伊根来寺(新義真言宗)の出で、弘法大師御作の薬師如来を背負われて東国巡化とありますから弘法大師とのゆかりがふかく、極楽寺と富岡八幡宮ないし別当・永代寺はなんらかの関係があったのかもしれません。

富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座とされています。
極楽寺山内の八幡宮が大洪水で流出?したのは永禄三年(1560年)ですから、富岡八幡宮の深川御鎮座より前で、年代的には符合します。

葛飾区は水害が多い土地で、永禄三年(1560年)の大洪水のほかにも幾多の水害に見舞われたといいます。
昭和22年9月のカスリーン台風で葛飾区を襲った洪水は、東京湾付近まで流れ下りました。(→ カスリーン台風の洪水流路

中世のこのあたりは利根川本流が乱流していたともみられ、現在よりもはるかに水害は深刻だったと思われます。

堀切から隅田川を南下すると深川に至ります。
Wikipediaにある「(極楽寺)開山当初の境内には八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮」という伝説は、このような洪水の歴史を物語るものかもしれません。

門前のいぼとり地蔵尊は、地蔵尊に振りかけた塩を持ち帰りイボに塗り込むと治るとされ、広く参詣者を集めたといいます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)極楽寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 醫晃山薬王院ト号ス 本尊彌陀 当寺ハ永禄三年(1560年)ノ起立ト云 中興榮應 元文元年(1736年)寂ス 薬師堂

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)神明社
村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ
八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
極楽寺
真言宗豊山派 医晃山薬王院と号し、もと青戸村宝持院の末。
宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨の創立。永禄三年(1560年)八月、大洪水のため本堂以下ことごとく流失したので、同五年(1562年)五月、正済法印が再興した。
過去数回にわたる水害のため、多くの記録を失ったが鎌倉-室町時代の板碑を保存(略)
薬師堂の本尊は<寅薬師>または<砦内(とりでのうち)の薬師>ともいい、室町時代に領主窪寺氏の城内にあったものという。

〔医晃山薬王院極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起〕(極楽寺第三十一世実照房了諦)
抑々コノ尊像ハ弘法大師ノ直作ニシテ(略)宝徳元年(1449年)、学匠普済阿闍梨、一笈ノ中ニ尊像ヲ納メ東国巡化ノ砌リ、当初ノ地頭窪寺内蔵頭平胤夫(千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ)師ヲ尊敬シテ当所ニ止メ、一宇ヲ創立シテ医晃山薬王院ト号ス。
砦ノ内薬師(城内ノ薬師)コレナリ。
傍ニ別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。
(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)
其頃、千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。
遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。
当寺第二世栄宥法印(内蔵頭胤夫ノ二男、普済阿闍梨ノ嗣法ナリ)徳行ノ聞ヘ世ニ高ク(略)永禄三年(1560年)八月、大洪水ノ為ニ堂宇悉ク流失ス。同五年(1562年)仏閣僧坊ヲ再興シテ旧ニ復セリ。
因テ正済法印護持ナス所ノ興教大師直作ノ阿彌陀如来ヲ本尊トナシ、当寺ヲ中興シ極楽寺ト称ス(旧本尊薬師如来ヲ別座ニ安置ス)云々。

阿彌陀如来坐像(本尊) 厨子入 江戸時代作
不動明王立像 室町時代の作か
弘法・興教両大師坐像
薬師如来像 宮殿中に安じ、古来秘仏として開扉されない。
宮殿前に日光・月光二菩薩像、左右に十二神将。
不動明王立像岩座付 佳作
紅頬梨色阿彌陀如来像
聖徳太子立像 

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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。
堀切菖蒲園東側の住宅と工場の混在地にあります。

前面道路から石畳の参道が伸び、その先に石の門柱と堅く閉じられた鉄扉。
門柱には「極楽寺」の寺号札。

門まわりは雑草が生い茂り、ちょっと荒れた印象もあります。

鉄扉の横のくぐり戸は開くのでここから参内できますが、札所めぐりという目的がなければ、檀家さん以外はまず山内には入らないのでは。


【写真 上(左)】 門柱の寺号標
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊-1


【写真 上(左)】 いぼとり地蔵尊-2
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊の札

ただし、門前の参道右手に有名な「いぼとり地蔵尊」が覆屋のなかに御座されるので、こちらをお参りする人はいると思います。
覆屋のなかには三躰の石佛。
中央は舟形光背のおそらく地蔵尊で、こちらが「いぼとり地蔵尊」と思われます。
向かって左手も舟形光背像ですが、観音様のような感じもします。
向かって左の像は塩で溶けてしまったのか、像容はよくわかりません。
像の前に塩の入った容器が置かれ、いまでもいぼとりの願をかける人がいるのでは。

門前には地蔵尊立像が門を守るかのように御座しています。


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 山内

おそるおそるくぐり戸を抜けて山内に入ります。
山内はかなり広く、中央は芝生というか草地で開放感はあります。
中央に本堂、向かって右手に薬師堂、左手に庫裏をコの字状に配置しています。

薬師堂の裏手は下町には希なかなり深い森で、この森のなかに八幡宮跡地や、塚上に稲荷社を祀るという窪寺塚があるのかもしれませんが、参拝時には確認していません。

山内各所に石佛が点在し、元文二年(1737年)に「女人講中」の手で架設されたという「女人橋」の遺構は区の登録有形文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本堂と薬師堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
堂前の天水鉢には真言宗豊山派の宗門「輪違紋」が輝きます。


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 本堂向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には蟇股を置いています。

向拝見上げには山号扁額と、その横にはなんと隅田川二十一ヶ所霊場第三番の札所板が掲げられていました。
札所板に「本尊(阿)彌陀如来」とあるので、札所本尊はおそらく御本尊・阿弥陀如来。
「昭和七年七月」の銘があり、すくなくともその頃までは盛んに巡拝されていたと思われます。

【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所板

向拝柱には「東三十三所観音霊場五番」の札所札が掲げられています。
東三十三ヶ所観音霊場は昭和10年、京成電鉄と安養院(九品寺・東立石)の住職を中心とした札所住職により開創されたという観音霊場です。(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場)様)

この時期、電鉄会社による霊場開設がブームとなり、京王三十三ヶ所観音霊場、小田急武相三十三ヶ所観音霊場、武蔵野三十三観音霊場(西武鉄道)などが開設されましたが、いまでも現役の霊場として活動しているのは武蔵野三十三観音霊場のみで、この東三十三ヶ所観音霊場の札所板は貴重なものです。


【写真 上(左)】 東観音霊場札所板
【写真 下(右)】 薬師堂

本堂向かって左手の薬師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
見上げに「薬師堂」の扁額と五色の帯が掛けられた鈴。
こちらには開山・普済阿闍梨が奉安された弘法大師御作という薬師如来(砦ノ内薬師・城内ノ薬師・寅薬師)が安ぜられている可能性があります。


【写真 上(左)】 薬師堂扁額
【写真 下(右)】 大師堂

山内には大師堂もあります。
切妻造妻入り一間の堂宇で、向拝上には扁額が掛かっていますが読み取れません。
こちらのWebによると、堂内に奉安の弘法大師坐像の台座に「第六十一番」とある由。
「第六十一番」の札番から、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番の札所本尊であることがわかります。

さすがに下町の歴史ある真言宗寺院。見どころがたくさんあります


御朱印は庫裏にて拝受しました。
「堀切 極楽寺 御朱印」でWeb検索しても極楽寺の御朱印はほとんどヒットしないので、現在の授与状況は不明です。


〔 極楽寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の印判と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下には羯磨金剛の中央に金剛界大日如来のお種子「バン」が置かれた御寶印。
右上には「東観音第五番」とある東三十三ヶ所観音霊場の貴重な札所印。
左下には寺号の印判と寺院印が捺されています。


■ 第4番 延命山 榮壽院
(えいじゅいん)
足立区東伊興4-1-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:
司元別当:
他札所:

第4番は足立区東伊興の榮壽院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

榮壽院の創建は、『本所区史』には明暦元年(1655年)、『寺社書上』には明應元壬子年(1492年)とあります。
『寺社書上』の「明應元年」は「明暦元年」の誤記かとも思いましたが、明暦元年は乙未、明應元年は壬子なので明らかに明應元年をさしています。

しかし、『寺社書上』には「当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂」とあり、明暦元年(1655年)の創建と符合します。

気になるのは「当所開山」で、あるいは室町時代の明應元年(1492年)に他の土地に起立され、徳川第4代将軍家綱公治世の明暦元年(1655年)に本所表町に(移転)開山したのかもしれません。

本寺は東駒形(中之郷原庭町)の曹洞宗牛島山 福厳寺なので、「当所開山」の明暦元年(1655年)から曹洞宗寺院であったとみられます。

開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫と伝わります。

御本尊は将軍(勝軍)延命地蔵菩薩で、惠心僧都一刀三禮の尊像といいます。
新田義貞(1301-1338年)の家臣篠塚五郎の守り本尊で、”篠塚地蔵”と称します。
産婦がこの尊像に祈れば霊験あらたかで、安産祈願の地蔵尊として信仰を集めたようです。

しかし『すみだの歴史散歩/P.86』(PDF)、『ガイド』、こちらのWeb(「東京都墨田区の歴史」様)などは、篠塚地蔵尊にまつわるさらに古い縁起を伝えています。

榮壽院の御本尊・篠塚地蔵尊は、一條天皇の御代(993-996年)に恵心僧都(寛仁元年(1017年)寂)によって刻されたと伝わります。
元弘三年(1333年)、北条氏打倒の兵を挙げた新田義貞は当時姉ヶ崎に安置されていたこの地蔵尊の霊験を聞き、家臣の篠塚五郎政景に命じて地蔵尊を上州・世良田に迎えました。
義貞の家臣一同はこの地蔵尊の尊像をうつして護符として肌身につけ、地蔵尊のご加護をもって北条氏を滅ぼしたといいます。

戦勝後、政景は地蔵尊の霊夢を受けて本所の地に地蔵尊を遷座し堂宇を建立しました。
以来、世良田(世来田)地蔵尊、篠塚地蔵尊と呼ばれて人々の尊崇を集めました。

この地蔵尊に掛けられた布を妊婦の腹に巻くと、難産はたちまち安産にかわるとして多くの祈願者を集めたともいいます。

太田道灌(1432-1486年)はこの地蔵尊を尊崇し、その御座の地を延命山榮壽院と号したという説もみられます。
『本所区史』に「(当山の)開基は太田左衛門太夫」とあり、Wikipediaの「太田道灌」の記事には「享徳2年(1453年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。」とあるので、あるいは太田道灌は当山にとって(中興)開基的な貢献をしたのかも。

徳川第3代将軍家光公もこの地蔵尊に帰依し、「安産の地蔵尊」としてとくに毎月四の日の縁日は多くの参詣者でにぎわったといいます。

この地蔵尊にゆかりの上州・世良田の地は徳川家発祥の地とされ世良田東照宮がご鎮座します。
徳川氏は新田氏流徳川(得川)氏の末裔を公称(→ 太田市観光協会Web)していたため、世良田と新田氏ゆかりのこの地蔵尊はことに尊崇されたのかもしれません。

『ガイド』によると、大正天皇御病気平癒の祈願もこの地蔵尊になされたとのことです。

大正12年の関東大震災の震災復興計画に基づき、榮壽院の地蔵堂以外の堂宇は昭和4年府下の足立郡伊興村字狭間耕地(現・足立区東伊興)に移転しました。

昭和20年の東京大空襲で地蔵堂は焼失しましたが地蔵尊は東伊興に運ばれて無事でした。昭和43年、旧地の地蔵堂を建て替え、榮壽院御本尊の勝軍地蔵尊の御分体を造立して安置しました。
これが現在の篠塚地蔵堂(東駒形2-8-1)です。

榮壽院は曹洞宗寺院ですが、篠塚地蔵尊の尊崇すこぶる厚いため隅田川二十一ヶ所霊場の札所に選ばれた可能性があります。


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【史料・資料】

『寺社書上 [92] 本所寺社書上 五』(国立国会図書館)
●本所表町 榮壽院
本所中ノ郷福厳寺末
曹洞宗 延命山 榮壽院
開闢起立 明應元壬子年(1492年)
当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂
中興開基 ●●●
本尊 勝軍延命地蔵尊 立像 惠心僧都一刀三禮作 但し秘佛也
御前立 延命地蔵尊 立像
両立 阿●迦葉木像(摩訶迦葉?) 二躰
達磨大師木像
ビンズル尊者木像
十一面観音木像 立像
正一位●●壽稲荷社
地蔵菩薩畧縁起

『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
榮壽院
榮壽院は表町五十三番地に在り延命山と号し曹洞宗にして原庭町福厳寺の末である。明暦元年(1655年)の創建にて開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫である。
本尊は将軍延命地蔵で惠心僧都一刀三禮の尊像である。新田左中将義貞公の家臣篠塚五郎の守り本尊で、一名之を篠塚地蔵と称した。産婦之に祈れば靈験新たかなりとて安産を祈るものが多い。同寺も昭和四年二月十九日付をもつて府下足立郡伊興村字狭間耕地に移転する事になった。

あだち観光ネット(一社足立区観光協会)
伊興寺町散策路(足立区東伊興四丁目)
関東大震災後、都心及び各地より、14の寺院が伊興に移転してきました。
13の寺院(長安寺・善久寺・浄光寺・法受寺・栄寿院・正楽寺・専念寺・正安寺・東陽寺・本行寺・常福寺・易行院・蓮念寺)は、東伊興四丁目(古くは伊興狭間)の一地域に移転し寺町を形成しています。
少し離れた伊興本町一丁目に歌川広重で有名な東岳寺もあります。
伊興本町二丁目にある伊興最古のお寺・応現寺を含めてお参りできます。


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足立区東伊興四丁目は「伊興寺町」とも呼ばれ、13の寺院が集中しています。
いずれも関東大震災の震災復興計画に基づき、都心および各地より移転してきた寺院です。
なかには旧地で担った札所を承継している寺院もあり、榮壽院もそのひとつです。

最寄りは東武スカイツリーライン「竹の塚」駅で徒歩約12分。
東伊興あたりは寺院が移転してきただけあって、いまでも比較的ゆったりとした町並みです。

榮壽院は寺院が集中する寺町の東寄り、埼玉県道・都道103号吉場安行東京線(尾竹橋通り)に面してあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 本堂

街路沿いの門柱に院号標。
そこからすぐ正面に本堂がみえます。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

木々は少なく、開けてシンプルな山内です。
本堂は切妻造妻入りの近代建築で、向拝サッシュ戸の上に山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 六地蔵尊

本堂前右手に石灯籠と院号標。
左手には六地蔵尊が御座します。


御朱印は寺務所にお伺いしたところご不在だったので、郵送をお願いしたところご対応いただけました。

〔 榮壽院の御朱印 〕



中央に「本尊 篠塚子育延命地蔵尊」の揮毫と三寶印。左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第5番 隅田山 吉祥院 多聞寺
(たもんじ)
公式Web

墨田区墨田5-31-13
真言宗智山派
御本尊:毘沙門天
札所本尊:毘沙門天
司元別当:隅田川神社(墨田区堤通)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場旧第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番、新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番、御府内二十八不動霊場第12番、隅田川七福神(毘沙門天)、墨田区お寺めぐり第3番

第5番は墨田区墨田の多聞寺です。

公式Web『すみだの歴史散歩/P.7』(PDF)、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

多聞寺は天徳年間(957-960年)に隅田千軒宿(墨田堤の外側、水神森近く、現在の隅田川神社付近)に草創され、当初は大鏡山明王院隅田寺を号しました。
縁起開山は不明ですが、御本尊として不動明王を奉安といいます。

『天正日記』には天正十八年(1590年)に隅田川が大氾濫を起こし、家康公が堤防修復を命じたとあり、多聞寺はこのときに堤防そばの隅田千軒宿から現在地に移転という説があります。
(『ガイド』には慶長十一年(1606年)、実圓による開山とあります。)

現在地に移転後は御本尊に毘沙門天を奉じ、隅田山吉祥院多聞寺と改めました。
天正年間(1573-1591年)、41代鑁海上人が霊夢に毘沙門天尊像を感得し、毘沙門天を御本尊として奉戴したといいます。
こちらの毘沙門天は、弘法大師の御作とも伝わります。

しかし、明治42年開創とされる御府内二十八不動霊場第12番の札所となっているので、旧御本尊の不動明王も著名な尊像であったとみられます。

多聞寺の毘沙門天は、隅田川七福神の一尊です。

隅田川七福神は文化年間(1804-1818)に開創といいます。
文化元年(1804年)に向島の百花園が開かれ、園主佐原鞠塢(きくう)のもとに多くの文人墨客が集まりました。

鞠塢は福禄寿の陶像を愛蔵していましたが、百花園に集った文人たちで福禄寿にちなむ風流ごとはないものかという話になりました。

隅田村多聞寺の御本尊は毘沙門天、須崎村長命寺には著名な弁財天が祀られていることから、この地で七福神を揃えたいという話に発展し詮索していくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國神の小祠があり、須崎村の弘福寺には黄檗禅ゆかりの布袋和尚の木像が安されていることがわかりました。

残る寿老人が難題でしたが、思案のあげく百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は「白鬚」と申し上げる以上、白鬚をたくわえたご老体のお姿のはずということで寿老人をお受けいただき、ここに七福神が揃いました。(以上、隅田川七福神公式Webより)


【写真 上(左)】 隅田川七福神の幟
【写真 下(右)】 隅田川七福神の案内図

以来、隅田川七福神は正月を中心にたいへんな賑わいをみせ、当山山門の門前右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。

多聞寺は現在地に移転後も、明治維新に至るまで隅田川神社の別当を務めました。


【写真 上(左)】 隅田川神社
【写真 下(右)】 隅田川神社の御朱印

多門寺は区内最北端にあって関東大震災、戦災ともに大きな被害に遭わなかったので、往年の面影を残す寺院として知られています。

また、永信講による「地蔵尊密言流念仏」が知られ、毎月ご縁日の24日に催されています。

多聞寺は御本尊・毘沙門天とたぬきにまつわる伝承があり、「たぬき寺」とも呼ばれています。

江戸開府以前のこの地は、葦が生い茂る寂しい河原でした。
そこには大きな池があり、見るだけで気を失い寝込んでしまうというおそろしい毒蛇が棲みついていました。
また、「牛松」と呼ばれる松の大木の根元の大穴には妖怪狸が宿り、人々をたぶらかすので村人はみなおそれをなしていました。

多聞寺のはんかい和尚と村人たちは、この地にありがたいお堂を建てて祈りを捧げ、毒蛇や妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、「牛松」を切り倒し、毒蛇の棲む池を埋めてしまいました。
しかし、妖怪狸のいたずらはひどくなるばかりで、また和尚さんの夢の中にも大入道があらわれて脅すのでした。

和尚さんはおどろきおそれて、一心に御本尊の毘沙門天に祈りを捧げました。
すると毘沙門天のお使いが現れて、妖怪狸に「おまえたちの悪さは、いつか自身をほろぼすことになるぞ。」と告げました。
翌朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。

和尚さんと村人たちはこの狸がかわいそうになり、また、切り倒してしまった「牛松」や埋めてしまった池への供養のためにもと、塚を築いて尊崇しました。
これがいまも山内に遺る「狸塚」です。


【写真 上(左)】 山内の狸像-1
【写真 下(右)】 山内の狸像-2


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
多聞寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 隅田山吉祥院ト号ス
慶長十一年(1606年)起立ス
法流開山円実寶暦五年(1755年)正月二日寂ス
本尊毘沙門ハ弘法大師ノ作ニテ長一尺二寸 脇士十一面観音及不動ヲ置
五智堂
鐘楼 香取社 稲荷社

すみだ観光サイト((一社)墨田区観光協会)
多聞寺
天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。
多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。
また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804〜1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。
他にも狸塚や映画人の碑があります。

■ 元宿神社大師堂の説明板
荒綾八十八ヶ所霊場 五番札所
開創年 明治四十四年(一九一一年)
葛飾区史によると、明治四十四年「荒川二十一ヶ所霊場」と「綾瀬二十一ヶ所霊場」をもとに開創されたようだ。開創者は不明。同じ時期に行われた荒川放水路開削工事の影響で霊場参拝は根付かなかった。
開創当時の五番札所は、隅田村多聞寺であったが、大正十一年、掃部宿西裏不動堂に移り、元宿の人々がそれを引き継ぐかたちで、大正十四年太子像(ママ)を造立し、すでに神仏分離が行われていたので、鳥居の外に祀ったものと思われる。
現在は、堂宇のみ、廃寺、札所の異動などが多く霊場としての活動は行っていない。

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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約10分。「鐘ヶ淵」駅からも歩けます。
東側を荒川、西側を隅田川、そして北側を隅田水門から流れる旧綾瀬川と、三方を川に囲まれた治水上重要な場所です。
隅田川一帯の守り神で「水神さま」と崇められた隅田川神社の別当を務めた意味がわかるような気がします。


【写真 上(左)】 鐘ヶ淵駅
【写真 下(右)】 香取神社

本所の街はずれのような立地ですが、寺前の道は古代から続く奥州街道の名残ということなので、水運も含めて交通の要衝であったのかもしれません。

門前は狭い路地ですが山内はかなり広く、さすがに古刹の趣があります。
お隣に香取神社が御鎮座ですが、多聞寺との関係は定かではありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

参道入口に立派な寺号標。左手は広めの駐車場。
ここから石畳の参道が真っ直ぐに伸びています。


【写真 上(左)】 参道右手の石佛群
【写真 下(右)】 石佛覆屋


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 弘法大師坐像

参道右手に石佛群が並びます。
手前の切妻屋根妻入りの覆屋はふたつに区切られ、手前に地蔵尊立像二躰。
奥側には台座の上に弘法大師坐像が御座され、奥側の台座にはおそらく「第七十九番」とあります。


【写真 上(左)】 第七十九番の刻字
【写真 下(右)】 石像三躰

当山は荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番の札所でしたが、うち荒綾八十八ヶ所霊場第5番は千手元町の元町神社門前の大師堂に遷っています。


【写真 上(左)】 元町神社参道
【写真 下(右)】 元町神社拝殿


【写真 上(左)】 元宿神社大師堂
【写真 下(右)】 同 説明板

こちらのお大師さまは「第七十九番」ですので、南葛霊場(いろは大師)の大師堂と思われます。


【写真 上(左)】 庚申様
【写真 下(右)】 参道

その横から山門にかけて丸四つ目菱紋付きの手水鉢、尊格不明の立像、地蔵尊立像、観世音(?)立像、数躰の庚申様が整然と並びます。
山門は木造茅葺切妻造の四脚門、当山に残る唯一の江戸期木造建築で山号扁額が掲げられています。

寺伝によると山門は慶安二年(1649年)建立、享保三年(1716年)に焼失し、再建年代は明和二年(1765年)頃とされ、区内最古の建造物と考えられ墨田区の指定文化財です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

門前左手には「南無阿弥陀佛」の石碑、右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。


【写真 上(左)】 毘沙門天案内碑
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐるとすぐ右手に東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨が置かれています。
風雅な山内に突然の鉄塊の出現はインパクトがありますが、十善戒の一、「不殺生行」の教えから、戦争の惨禍を忘れてはならないという戒めでしょうか。

左手には「狸塚」。
「狸」の字が刻まれた石碑とあたりにはたくさんの信楽焼の狸が置かれています。
参道右手には坐像の六地蔵尊。
正徳二年(1712年)~享保元年(1716年)の造立で、墨田村地蔵講中との関係が認められ、区の登録文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 六地蔵尊

左手には像容の整った聖観世音菩薩立像。
新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番という、当山のふたつの観音霊場札所と関連をもつお像かもしれません。


【写真 上(左)】 観世音菩薩立像
【写真 下(右)】 天水鉢と光悦垣

本堂向かって左前の石句碑には、福井県小浜の人で、文政二年(1819)没と伝わる下村義楽の歌が刻まれています。

 たることをしれば浮世も面白や 長く短し夢のうきはし


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 正月の向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、軒唐破風を押し立てて堂々たる伽藍です。
水引虹梁両端に獅子・象?の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻とその上に大瓶束を置いています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 ご真言

向拝格子戸の上に「毘沙門天」の扁額、向拝柱には毘沙門天のご真言を掲げています。

御本尊は弘法大師の御作とも伝わる毘沙門天で、隅田川七福神の札所本尊でもあります。

〔山内掲示より〕
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毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。
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当山の縁起やたたずまいからして、本堂にはほかにも由緒ある仏像が安されている感じもしますが詳細は不明です。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 映画人ノ墓碑

山内には「映画人ノ墓碑」やその横には立派な宝篋印塔もあり、見どころの多い名刹です。


御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。
以前は正月七日までの限定授与だった模様ですが、いまは通年授与されています。
御朱印は毘沙門天の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのことです。


〔 多聞寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 平成30年正月の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「毘沙門天」の揮毫(印判)と毘沙門天のお種子「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印。
平成30年正月の御朱印には隅田川七福神の札所印が捺されています。
左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。



■ 墨田区お寺めぐり第1番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3へつづきます。



【 BGM 】
■ 夏雪 ~summer_snow~ - 西沢はぐみ


■ ふたりでスプラッシュ - 今井美樹


■ LANI ~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
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