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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1

先日完結した「御府内二十一ヶ所霊場の御朱印」にひきつづいてUPしていきます。


お大師さまゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場には、主に八十八ヶ所と二十一ヶ所があります。
ご参考(「ニッポンの霊場」様)

八十八ヶ所はかなりの時間と根気を要し、結願までの道のりはなかなか困難です。
そこで生まれたのが簡易(ミニ)版である二十一ヶ所という説がみられます。

簡易(ミニ)版であれば八十八ヶ所の札所からダイジェスト的に選定すればいい筈ですが、そうはなっていないケースもみられます。

「隅田川二十一ヶ所霊場」もそのひとつです。
東京・下町エリアには荒綾八十八ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの弘法大師霊場があります。

隅田川二十一ヶ所霊場はそのうち荒川辺八十八ヶ所霊場のミニ版という説がありますが、重複していない札所もあります。
また、札所宗派も真言宗、天台宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土宗と多彩で、ほとんどが真言宗寺院で構成される荒川辺霊場とは様相を異にしています。

「東大和と寺院散策」様Webには「一説によると、この当時盛んであった七福神巡りを、もっと広げたものらしく」とあります。
たしかに「隅田川七福神」の3寺院はすべて札所となっています。

この霊場の貴重なガイドブックである『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)にも「七福神参りの延長気分で、気軽にお参りできるのがよい。木母寺や長命寺など名高い霊場もある。」とあります。



「古今御朱印研究所」様Webによると「隅田川七福神」の開創は文政七年(1818年)頃です。

「隅田川二十一ヶ所霊場」は、「猫の足あと」様Webに「明治三十八年から四十一年頃と推定する 弘法大師二十一カ所は大師忌日の三月二十一日の行事である。摂陽奇観巻ノ三〇宝暦三年(一七五三)癸酉大阪弘法大師廿一カ所巡り始まる。毎月二十一日道法凡そ三里三年三月の間参詣すれば諸願成就すると云い伝ふ、とある。(「江戸・東京札所事典」より)」とあり、『葛飾区史』にも「隅田川二十一箇所霊場は明治38(1905)年頃始まったとされ」とあります。

「隅田川二十一ヶ所霊場」よりも「隅田川七福神」の方が先の開創で、「隅田川七福神」前身説は年代的に符合します。


【写真 上(左)】 隅田川
【写真 下(右)】 隅田川から向島方向


【写真 上(左)】 第11番如意輪寺
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺

「ニッポンの霊場」様に札所リストが掲載されているので、こちらにもとづき巡拝しました。

番外、掛所はなく札所総数は21となります。

隅田川から東のエリア、墨田区、葛飾区、足立区、江戸川区の下町の弘法大師霊場で、浅草から隅田川を挟んで対岸の如意輪寺、木母寺、長命寺などが札所となっており、台東区メインの「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」とはエリア的に連続しています。


〔 札所および記事リスト 〕

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1
1番 月光山 薬王院 正福寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田2-6-20
2番 日照山 源光院 普賢寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区東堀切3-9-3

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2
3番 医王山 薬王院 極楽寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切2-25-21
4番 延命山 榮壽院
 曹洞宗 足立区東伊興4-1-1
5番 隅田山 吉祥院 多聞寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田5-31-13

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3
6番 鶴田山 真念寺 遍照院
 真言宗智山派 墨田区吾妻橋1-3-7
7番 牛宝山 明王院 最勝寺(目黄不動尊)
 天台宗 江戸川区平井1-25-32
8番 明王山 不動院 寳性寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区堀切4-54-2

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4
9番 千葉山 薬師寺 西光院(牛田薬師) /荒・綾
 新義真言宗 足立区千住曙町27-1
10番 梅柳山 墨田院 木母寺
 天台宗 墨田区堤通2-16-1
11番 宝珠山 理性院 如意輪寺(牛島太子堂)
 天台宗 墨田区吾妻橋1-22-14

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5
12番 西方山 安養院 九品寺 /荒・綾
 真言宗豊山派 葛飾区堀切6-22-16
13番 牛頭山 弘福寺
 黄檗宗 墨田区向島5-3-2
14番 渋江山 清重院 西光寺 /南
 真言宗豊山派 葛飾区宝町2-1-1

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6
15番 常在山 宝蔵寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広6-9-17
16番 孤竹山 正覚寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広3-5-2
17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
 浄土宗 墨田区吾妻橋1-9-11

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7
18番 宝寿山 遍照院 長命寺
 天台宗 墨田区向島5-4-4
19番 清滝山 金長院 正王寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切5-29-14
20番 榎木山 善福院 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区四つ木3-4-29

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8
21番 清瀧山 観音院 蓮花寺(寺島大師) /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区東向島3-23-17

〔八十八ヶ所霊場の略記凡例〕
 荒:荒川辺八十八ヶ所霊場
 綾:荒綾八十八ヶ所霊場
 南:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)


「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」「御府内八十八ヶ所霊場」よりも東(下町)寄りの霊場ですが、「隅田川二十一ヶ所霊場」はさらに東(下町)寄りとなっているため、御府内八十八ヶ所霊場、豊島八十八ヶ所霊場との重複札所はありません。

真言宗系の札所は荒川辺八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の3つの弘法大師霊場との兼務が多いのに対し、他宗の札所では弘法大師霊場との重複はみられず、鮮やかな対比をみせています。

ここからみても、弘法大師霊場(八十八ヶ所)のミニ版とは言い切れない感じがします。

札番はエリア的に飛んでいるので、順打ち、逆打ちともにきびしいです。
また、駅から離れている札所が多いので、下町の風情を味わいながらじっくり回るのがベターかと思います。
隅田川二十一ヶ所霊場は現況ほとんど知られていませんが、下町ならではの雰囲気のある寺院が多く、回り応えがあるいい霊場です。


21箇寺のうち2箇寺は御朱印不授与なので、いただける御朱印は19となります。
(かなり以前に拝受した札所もあるので、現在は不授与の札所があるかもしれません。)
多くの寺院は5以上の霊場札所を兼務されていますが、ほとんどの寺院は1~2種類のみの御朱印授与なので、隅田川二十一ヶ所霊場の札所印はまずいただくことができません。


 
【写真 上(左)】 第1番正福寺の御朱印
【写真 下(右)】 第5番多聞寺の御朱印

 
【写真 上(左)】 第10番木母寺の御朱印
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺の御朱印


弘福寺、木母寺、長命寺、最勝寺などは書置があるか、ほぼ常駐されているので拝受は容易ですが、その他の札所についてはご不在もあり拝受難易度はかなり高めです。


それでは第1番から順にご紹介していきます。
なお、『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第1番 月光山 薬王院 正福寺
(しょうふくじ)
公式Web

墨田区墨田2-6-20
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番、御府内二十八不動霊場第26番、新葛西三十三観音霊場第18番、墨田区お寺めぐり第4番

発願の第1番は墨田区墨田の正福寺です。

公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正福寺は、慶長七年(1602年)、宥盛法印を開山に創建されました。
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺、御本尊は薬師如来。
別尊として両大師と文覚上人守護の不動明王立像を奉安しました。

安政の大地震(安政二年(1855年))で壊滅しましたが、名主坂田三七郎が邸宅を寄進して再建されました。

隅田川の川浚で川底からあらわれた南北朝時代からの戦死者の頭骨を葬った「首塚地蔵尊」は、首から上の病の快癒に霊験あらたかとされ、多くの参詣者を集めます。
毎月4日には法要が勤修され、釈迦堂(寺務所)で首塚地蔵尊朝粥がふるまわれます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(隅田村)正福寺
同(新義真言宗、寺嶋村蓮花寺)末 月光山薬王院ト号ス 慶長七年(1602年)起立シ 本尊薬師別ニ両大師ヲ安ス

『墨田区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正福寺(月光山 隅田町一丁目一、二0七番地)
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺である。慶長七年(1602年)の創建で開山を宥盛法印とし、本尊薬師如来を安置する。
正福寺は通称の猫寺と門前の首塚とによって名を知られていた。
古碑としては宝治二年(1248年)の板碑が所蔵されている。

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小江戸・川越を抜けた新河岸川は富士見市あたりから荒川に寄り添うように流れ下り、北区志茂の岩淵水門で荒川の水を取り込んでからは隅田川と名を変えます。

江戸時代の寛永六年(1629年)、荒川を入間川に付け替える瀬替えで、隅田川の河道は荒川の本流となりました。
明治末期~昭和初期の河川改修で岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、荒川放水路が荒川の本流となり、岩淵水門から下流の従前の河道は「隅田川」と改称されました。(→ 「荒川放水路の変遷」(荒川下流河川事務所)

東武スカイツリーライン「堀切」駅南側の墨田水門から旧綾瀬川の水を取り込んだ隅田川はここで向きを変え、以降一貫して南下します。
ここから南の隅田川両岸には多くの寺社が点在しますが、正福寺は第9番西光院(千住曙町)、第5番多聞寺(墨田)、第10番木母寺(堤通)とともに、その北端の要衝の地に立地します。

正福寺の最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約3分。
下町らしいビルと住居の混在エリアで、正福寺すぐ北の道は「古代東海道」です。

かつての東海道は畿内から常陸国国府へ至る道をさし、大河川の乱流地帯である東京湾沿岸は屈指の難所で、律令時代は相模国から東京湾を船で渡って上総国へ向かったといいます。
時代を追って陸路も整備されていきますが、なお東京湾沿いに道をとることはできず、現在の白鬚橋付近にあった「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)ないし、隅田川神社そばの「水神の渡し」で隅田川を渡っていたとされています。

『伊勢物語』の「第九段 東下り」で主人公(在原業平ともいわれる)が渡ったのは、「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)とされ、『古今和歌集』(巻九 羇旅歌411)の在原業平の歌は、隅田川の「都鳥」を嘆じて詠んだものとされています。(→ 解説

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

対岸の橋場は大名・豪商の別荘や料亭が隅田川河岸に並び、文人たちで賑わったといい、三条実美公の別荘「對鴎荘」も橋場の渡しの西岸にありました。


■ 「名所江戸百景/墨田河橋場の渡かわら竈」(絵師:広重出版者:魚栄刊行年:安政4、国立国会図書館DCより規定にもとづき転載)

『江戸名所図会』(国立国会図書館)でも「隅田川」にページが割かれ、多くの挿絵が載せられて、隅田川沿岸が江戸屈指の名所であったことがわかります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

路地に面して山内入口。
門塀に山号・寺号の標、門扉には真言宗智山派の宗紋、桔梗紋。


【写真 上(左)】 桔梗紋
【写真 下(右)】 説明板

その左手の説明板には、下記のとおりあります。
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月光山 正福寺
開基 慶長七年(一六0二年) 宥盛法印
本尊 薬師如来 ご縁日 毎月八日
ご真言 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
当山は真言宗智山派に属し 宗祖弘法大師の法灯を継承する
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【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

門前右には附属正福幼稚園創立三十周年記念に建立された「和みの像」。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板

参道右手にある大師堂は、切妻造銅板葺妻入り一間の堂宇です。
説明板には「昭和二十八年六月、篤信の中馬兄弟会、平野材木店より寄進」とあり、堂内に御座す弘法大師坐像の台座には「第八十六番 奉納中馬兄弟会」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の札所本尊・弘法大師像を寄進とみられます。

堂内には、白衣の観音立像と数軆の修行大師像も奉安されています。
見上げには南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の真新しい札所板が掲げられています。

隅田川霊場の発願寺だけあって、さすがにお大師さまの存在感がみなぎります。

こちらは、荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?の札所でもありますが、山内に他の大師堂は見当たらなかったので、こちらの大師堂が弘法大師霊場の拝所とみられます。


【写真 上(左)】 お大師さま
【写真 下(右)】 手洗水鉢

大師堂の本堂寄りには水鉢としては区内最古の銘(寛文七年(1667年))を有する手洗水鉢。
庚申供養をあらわす水鉢として貴重との由。

さらにその先には数基の板碑。
説明板には、宝治二年(1248年)銘の板碑は在銘の板碑としては都内最古で、高さ116㎝、幅46㎝は区内随一の大きさとあります。
阿弥陀如来のお種子「キリーク」が刻まれています。

宝治二年(1248年)銘は当山創建の慶長七年(1602年)よりずいぶんと古いですが、これらの板碑は江戸時代に付近の御膳栽畑から発掘されたものとあります。


【写真 上(左)】 板碑
【写真 下(右)】 阿弥陀如来立像

板碑の並びには、萬治四年(1661年)銘の阿弥陀如来石仏立像も御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 薬師如来と扁額
【写真 下(右)】 御本尊の幟

参道正面の本堂は頂部に相輪をいただいた二層の宝形造。
二階が御内陣と思われ、向拝正面には背後に光輪を負われた立像の薬師如来が御座し、上方には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 首塚地蔵尊
【写真 下(右)】 寺務所(釈迦堂)

首塚地蔵尊はいったん門外に出て、右手に進んだところにあります。
入母屋屋根妻入りの覆堂で、数軆の地蔵尊石像を奉安。
赤い奉納幟と覆堂にかかる御詠歌の板が、信仰の篤さを物語ります。


御朱印は本堂下の寺務所にて快く授与いただけました。
御朱印は薬師如来の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのこと。

写経会、阿字観会、寺ヨガなどが催され、開かれたお寺を志向されているようです。


〔 正福寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 平成29年の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「薬師如来」の揮毫(印判)と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
令和6年版は、右下に聖観世音菩薩のお種子「サ」、左下に金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印も捺され、新葛西三十三観音霊場第18番の御朱印も兼ねているのかもしれません。



■ 墨田区お寺めぐり第4番のスタンプ


■ 第2番 日照山 源光院 普賢寺
(ふげんじ)
葛飾区Web資料

葛飾区東堀切3-9-3
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(上千葉村)香取社、稲荷社、神明社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第57番、荒綾八十八ヶ所霊場第87番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第55番

第2番は葛飾区東堀切の普賢寺です。

葛飾区Web資料、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

普賢寺は、当地の領主葛西兵衛尉入道寂昌の開基といいます。
壽永の頃(1182-1184年)当所に朽ちた大木があり根元から清水が湧出したため、葛西入道がその樹根を掘ってみると薬師如来の霊像を得たため堂宇を建立し、普賢寺を号したといいます。
この薬師如来像は”鼓薬師”といい、弘法大師の御作とも伝わります。

改修で発見された天井板銘より、当山の開創は治承四年(1180年)とされています。

建暦三年(1213年)の和田合戦で領主葛西民部少輔は討死、当山の堂宇も焼亡して、三歳の遺児六郎常則は薬師像を懐に母とともに一旦この地を退去しました。
14年ののち常則は北條家に出仕し本領葛西の地を賜ってここに住し、弘安六年(1283年)薬師堂を再造、法空阿闍梨を請待し導師となしたといいます。
これにより、法空阿闍梨は中興(開山)とされています。

葛西氏は、桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流です。
初代・葛西清重は豊島氏嫡流豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(葛飾区の葛西城)を本拠に、現在の江戸川区・墨田区一円に勢力を張りました。

豊島清元・葛西清重父子は源頼朝公の挙兵に応じて御家人となり、清重は奥州合戦で武功を立て、奥州藤原氏が滅んだ後に奥州総奉行に任じられて陸奥国に所領を得ました。
後に奥州の大族として発展しますが、葛西清重の代には鎌倉御家人として葛西の地を本拠としていたようです。

清重は頼朝公の寝所警護11名の内に選ばれ、建久元年(1190年)頼朝公上洛の際にも右近衛大将拝賀の布衣侍7人を勤めるなど、頼朝公の信任ことに厚かったといいます。

葛西氏は系図が錯綜している氏族で、二代目以降は諸説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、和田合戦で「葛西民部少輔討死シ」とありますが、葛西清重は和田合戦で討死しておらず、葛西氏の別人とみられます。

また、『江戸名所図会』には、「境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり 按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟」とあります。

葛西清重の子として清親、朝清、時清、清宗などの名が伝わりますが、いずれも事績がはっきりとしません。(諸説は伝わりますが、錯綜している模様。)

葛西清重の生涯は1161-1238年と伝わるので、年代的には当山開基(葛西兵衛尉入道寂昌)=葛西清重ともみられ、当山開基を葛西清重とする資料もみられます。
『新編武蔵風土記稿』には「建治元年(1275年)和田北條合戦」とありますが、和田合戦は建暦三年(1213年)で、年代的に和田合戦で討死した「葛西民部少輔」(葛西六郎?)は葛西清重の子、本領に復した葛西六郎常則は葛西清重の孫ではないでしょうか。

しかし、『江戸名所図会』には「当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒」とあり、これを信じると↑の推測は時系列的にすべて崩れてしまいます。
(『江戸名所図会』もこのくだりについては「尤も不審少からす」と付記しています。)

葛西清重は、親鸞聖人の関東遊行布教の際に聖人に帰依して出家。
名を西光坊定蓮と改め、自らの居館を西光寺(葛飾区四つ木)としたといいます。
(→ 西光寺公式Web

真宗に帰依した葛西清重が真言宗寺院の普賢寺を開基とは、いささか不思議な感じもしますが、あるいは真宗帰依前のことかもしれません。

じっさい東向島の晴河山 法泉寺は、葛西清重が両親供養のために真言宗寺院として建立、戦国時代に曹洞宗に改めたといいます。

■ 関連記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2

「猫の足あと」様Web掲載の『葛飾区寺院調査報告』には「天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹り、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間(1596-1615年)、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建」とあります。

国府台合戦(天文七年(1538年))は、第2代古河公方・足利政氏の子足利義明&房総土着の諸将連合軍vs戦国大名・北条氏綱との戦いです。
この時点ですでに葛西氏は勢力を弱めていたとみられ、古河公方の拠点のひとつとなっていた葛西城(葛飾区青戸)は激戦の地となり、そのときの兵火で当山は伽藍を失ったとみられます。

戦後、北条氏綱が再興したものの、『新編武蔵風土記稿』には「天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失」とあります。
この年、奥州で「葛西大崎一揆」(豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱)が勃発し、これが葛西氏とゆかりのふかい当山にも波及したのかもしれません。

慶長二年(1597年)斎海により中興。
新義真言宗の古刹として名声を保ち、荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)の3つの弘法大師霊場(八十八ヶ所)の札所となっています。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云」とあります。
足立郡普賢寺村は現在の足立区綾瀬二丁目あたりですが、普賢寺のあった(上千葉村)のむ一部がのちに足立区綾瀬に編入されているので、東堀切(上千葉村)の普賢寺の寺領が
足立郡普賢寺村にあったとみるのが妥当かもしれません。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「香取社 村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社」とあるので、(上千葉)香取社、稲荷社、神明社の別当は普賢寺が務めていたことになります。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)普賢寺
新義真言宗青戸村寶持院末 日照山源光院ト号ス 開山法空 弘安六年(1283年)三月朔日寂ス 本尊ハ鼓薬師ト号シ長二寸 弘法大師ノ作ナレト 今ハ別ニ木佛ヲ造リテ其腹籠ニ安スト云縁起ニヨルニ壽永ノ頃(1182-1184年)当所ニ朽タル大木アリ 其根ヨリ清水湧出セシカハ領主葛西兵衛尉入道寂昌 其樹根ヲ堀ラシメテ薬師ノ像をヲ得タリ ヨリテ堂宇ヲ創シ普賢寺ト名付 寺領等ヲ寄附セシニ 建治元年(1275年)和田北條合戦ノ時 領主葛西民部少輔討死シ 堂宇モ焼亡セラレシユヘ 其子六郎常則ハヤウヤク三歳ナリシカハ 母ナル人此薬師ノ像ヲ懐ニシテ母子共ニ此地ヲ退ケリ 其後十四年ヲ経テ常則再ヒ北條家ニ属シ 本領葛西ノ地ヲ賜リテコヽニ住セシカハ 弘安六年(1283年)薬師ノ堂ヲ再造シ 法空阿闍梨ヲ請待シテ導師トナセリ 其後北條氏綱中興セシカ 天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失シテ僅カニ昔ノ蹟ノミ存スル事トナレリ 又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云(中略) 稲荷社

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)香取社
村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社

『江戸名所図会』(国立国会図書館)
日照山 普賢寺
上千葉村普賢寺にあり 新義真言宗にして本尊薬師如来ハ佛工春日の作なり 弘安年間(1278-1288年)法空阿闍梨開基 境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり
按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟 当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒 栄照院常山大居士とあり 当世の法号の如し 尤も不審少からす


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JR常磐線・メトロ千代田線「綾瀬」駅、京成本線「お花茶屋」駅からいずれも1㎞ほどで、鉄道利用ではやや行きにくいところ。
落ち着いた住宅地の一角に、古刹らしいゆったりとした山内を構えています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

前面道路から参道がまっすぐに伸びています。
参道手前に風格のある寺号標を置きで、参道の先に山門。
松樹に囲まれ、古刹ならではの雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号板

山門前左手には「願掛け水掛け不動尊」の石標。
山門は脇塀付切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で、柱に寺号板、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 石佛群

山門をくくった山内。右手に石佛群、左手には石佛群と大師堂。

大師堂は切妻造桟瓦葺妻入一間の堂宇で、見上げに「弘法」の扁額。
お堂向かって左には「荒綾八十八ヶ所第八十七番」とある荒綾霊場の札所標、右には弘法大師一千年塔。
堂前の灯籠は区の指定有形文化財、庚申灯籠と思われます。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額


【写真 上(左)】 荒綾霊場札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師一千年塔

堂内にはお大師さまの坐像が奉安され、台座の「第五十五番」は南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の札番です。


【写真 上(左)】 大師堂堂内
【写真 下(右)】 願掛け水掛け不動尊


墓域にある三基の宝篋印塔は都の指定文化財で葛西氏の墓であるといわれますが、墓域にあるので撮影は控えました。

本堂右手奥の覆屋に御座す不動明王坐像が、おそらく「願掛け水掛け不動尊」と思われます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は近代建築で、唐破風様の大がかりな屋根と棒瓦の直静的な向拝屋根の対比が個性的な意匠。

『新編武蔵風土記稿』によると、当山御本尊の薬師如来は弘法大師の御作で、のちに木佛の薬師如来の胎内に籠安されたとのことです。


本堂向かって左手奥の庫裏にご住職?はいらっしゃいましたが、御朱印は授与されていないとのことでした。

ゆかりのあるところで、普賢寺が別当を務めていた(上千葉)香取神社の御朱印を掲載します。


〔 (上千葉)香取神社の御朱印 〕



■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2へつづきます。



【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)


■ ナツノカゼ御来光 - 花たん


■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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