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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-7

Vol.-6からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第21番 寶珠山 東福院
(とうふくいん)
公式Web
新宿区若葉2-2-6
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第21番、弁財天百社参り第34番
司元別当:
授与所:寺務所

第21番はふたたび四谷に飛びます。
公式Webによると、天正三年(1575年)に開基(開山)法印祐賢上人、外護者大沢孫右衛門尉によって麹町九丁目(横町)に創建。
寛永十一年(1634年)に現在地に移転といいます。

大沢氏は藤原北家持明院流とされ、本拠は遠州堀江城(浜松市西区)。
今川家家臣から徳川家に仕え、大沢基宿は最初の高家職を勤めたことで知られています。

高家は幕府の職制のひとつで、老中の管轄下で将軍の代参、勅使・院使の接待や饗応役の大名への儀典指南などの職務を果たしました。
ちなみに忠臣蔵の敵役、吉良上野介義央は高家で、赤穂事件の直前まで浅野内匠頭長矩に対して勅使饗応役の指南を行っていたといいます。

高家職に就けるのは「高家旗本」(「高家」の家格にある旗本)のみで、主に有力大名・守護系戦国大名の子孫や公家の分家など、「名門」の家柄で占められたといいます。
大沢氏は藤原北家持明院流という家格もあって、高家に任ぜられたのでは。

東福院は『御府内寺社備考』では「常陸国(筑波山)護持院末」とあり、もともとは筑波山知足院中禅寺(大御堂)の末寺だったようですが、いまは根来寺を祖廟(本山)とする新義真言宗寺院です。

なお、筑波山知足院中禅寺(大御堂)は、真言宗江戸触頭四箇寺および徳川将軍家祈祷寺と強い関係をもち、具体的には筑波知足院 → 江戸知足院 → 江戸護持院 → 音羽護国寺という流れがみられますが、これについては第87番護国寺でふれます。
(→『近世初期の知足院』坂本正仁氏/PDF』

『御府内寺社備考』によると、御本尊は大日如来。
脇士に不動明王と毘沙門天を奉安し、両界八祖画像、弘法大師像を安ずる保守本流的な真言宗寺院であったようです。
江戸八十八ヶ所霊場も同番なので、開創当初からの札所とみられます。

弁天堂の御本尊辨財天(秘像)は弘法大師の御作と伝わり、お前立の辨財天座像も奉安、「出世辨天」として尊崇をあつめた弁財天百社参り第34番の札所本尊は、こちらの弁財天尊ではないでしょうか。

なお、『ルートガイド』によると地蔵堂の地蔵菩薩は「豆腐地蔵」と呼ばれ、由来の逸話を載せていますが、『寺社書上』『御府内寺社備考』にはこの縁起は記載されておらず、江戸後期以降の伝承かもしれません。

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【史料】
『寺社書上 [44] 四谷寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.62』
四谷南寺町
本寺常陸国(筑波山)護持院末 
阿祥山 宝壽寺 東福院
新義真言宗
起立慶長十六年辛亥(1611年)麹町九丁目横町 
開山 法印祐賢
本尊 大日如来
脇士 不動尊 毘沙門天
両界八祖画像
弘法大師木像

弁天堂
本尊辨財天(秘像) 弘法大師作 前立辨財天座像
脇立 大黒天立像 毘沙門天
不動尊 十一面観音

地蔵堂
地蔵尊立像 疱瘡神 愛宕

稲荷社
神体無之 本地十一面観音立像 石地蔵尊

寺中 泉蔵院 

『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
阿祥山寶壽寺東福院は大塚護持院末の新義眞言宗で、四谷南寺町今の寺町にある。境内は古跡拝領地で千九百三十四坪餘、慶長十六年辛亥(1611年)麹町九丁目横町に起立し、寛永十一年甲戌(1634年)此地に転じた。開山法印祐賢の示寂年月は明かでない。府内八十八箇所廿一番の札所である。猶寺には辨財天木像涅槃画像其他を蔵していて、中にも辨財天は出世辨天と称して有名である。(略)

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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標

四谷寺町に立地し、寛永十一年(1634年)麹町九丁目横町から現在地に移転しているので、寛永年間(1624-1645年)家光公の治世に江戸城外堀工事のため四谷に移転させられた麹町の寺院のひとつとみられます。

第18番愛染院と東福院坂(天王坂)を挟んだほぼ対面にあります。

【写真 上(左)】 根来寺の寺紋「三つ柏」
【写真 下(右)】 参道

東福院坂の途中に山内入口。
根来寺を祖廟(本山)とする新義真言宗寺院は、御府内霊場では3箇寺(当山、自性院(谷中)、加納院(谷中))。
門扉には新義真言宗総本山根来寺の寺紋「三つ柏」が掲げられています。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂

正面が近代建築の本堂。
参道右手に御府内霊場札所碑、子育?地蔵尊、聖観世音菩薩、地蔵堂と並びます。
地蔵堂は『ルートガイド』に載っているもので、堂内扁額には「豆腐地蔵尊」とありました。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 豆腐地蔵尊


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂は寺務所を兼ねていて仏堂のイメージはうすいですが、正面に山号扁額が掲げられているので、こちらからの奉拝と思われます。

御朱印は寺務所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印。
「豆腐地蔵」の印判も捺されています。
右上に「第二十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第22番 天谷山 龍福寺 南蔵院
(なんぞういん)
新宿区箪笥町42
真言宗豊山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所本尊:千手観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第22番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第27番、弁財天百社参り第40番
司元別当:
授与所:庫裡

御府内霊場には南蔵院と号する札所が練馬(第15番)、牛込(第22番)と高田(第29番)の3箇寺あり、それぞれ練馬南蔵院、牛込南蔵院、高田南蔵院と呼んで区別されます。

下記史料類と『ルートガイド』をもとに牛込南蔵院の縁起・由緒をたどってみます。
牛込南蔵院は、元和元年(1615年)、牛込城主の牛込勝重が正胤法印を請じて早稲田の地に吉祥山福正院と号して創建。
当初は弁財天二尊を上宮・下宮として祀っていたといいます。

延宝九年(1681年)、旧寺地が御用地として召上げられ、替地として現在地を拝領して移転し元号に改めました。
弁財天上宮は現在地に遷られ、下宮は弁天町の宗参寺(曹洞宗)にご遷座して奉祀といいます。

宗参寺も江戸三十三ヶ所弁財天霊場第26番、弁財天百社参り第41番の兼務札所ですから、こちらも代表的な弁財天霊場となっていたことがわかります。


【写真 上(左)】 宗参寺
【写真 下(右)】 宗参寺の御朱印

当山、宗参寺ともに牛込氏とのゆかりがふかい寺院です。
新宿区の新宿文化観光資源サイトでは宗参寺山内の牛込氏墓が紹介され、説明文には下記の内容が記されています。
・牛込氏は上野国勢多郡大胡(現・前橋市大胡町周辺)の領主・大胡氏の出で、15世紀末に武蔵国に進出して北条氏に従った。
・大永六年(1526年)には牛込に定住し、天文二十四年(1555年)北条氏康により牛込姓への改姓を認められ、牛込から日比谷あたりまで領有。
・その城館は現在の光照寺(袋町15番地)一帯の「牛込城跡」(新宿区登録史跡)に築かれ、「牛込家文書」は東京都指定有形文化財。
・天正十八年(1590年)の北条氏滅亡後は徳川氏に従い幕臣となった。
・宗参寺は天文十二年(1543年)に没した大胡重行(法名宗参)の墓所として子の勝行が創建した寺院で、以来牛込氏の菩提寺となっている。

また、Wikipediaには「徳川家康の江戸入城の後、館(牛込城)は廃止され、跡地に神田光照寺が移転してきたのは1645年のことであったとされる。」とあります。

『ルートガイド』によると、正胤法印は上総千葉一族とのこと。
たしかに千葉氏の通字は「胤」ですが、千葉氏は一族が多いので簡単には追い切れません。

『御府内寺社備考』をみると、南蔵寺は当初から弁財天とのゆかりがふかく、旧来は弁財天が御本尊であった可能性があります。
山内に宇賀神、十五童子立像も安置され、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第27番、弁財天百社参り第40番のふたつの弁財天霊場の札所でもありました。

現在の南蔵院の御本尊および御府内霊場の札所本尊は千手観世音菩薩です。
ところが、不思議なことに『御府内寺社備考』には千手観世音菩薩にかかわる記載がありません。
弘法大師については、寺中薬王院に弘法大師木坐像を奉安しており、御府内霊場札所の要件を満たしています。
江戸八十八ヶ所霊場も同番なので、開創当初からの札所とみられます。

東京都公文書館によると、『御府内寺社備考』は文政九年(1826年)から3年程度で作成されました。
御府内霊場の開創は宝暦五年(1755年)頃とみられるので、『御府内寺社備考』は御府内霊場開創後の作成です。

なので、当初の南蔵院の御府内霊場札所本尊は、弁財天と弘法大師であった可能性もあります。

弁財天と千手観世音菩薩の尊格的なつながりはよくわかりませんが、日本三大弁天のひとつ竹生島宝厳寺の千手千眼観世音菩薩は、西国三十三所第30番の札所本尊で当山御本尊の弁天様と同じく60年に一度の御開扉です。
また、江ノ島の岩屋内には弁財天とともに千手観世音菩薩が祀られています。

栃木県の大谷寺(坂東観音霊場第19番)にも千手観音と弁財天にまつわる伝承が伝わります。
その昔、この地に毒蛇が棲みつき、毒蛇が吐き出す毒水の害で人々が苦しみ、毒蛇の住処は「地獄谷」と呼ばれて畏れられていました。
東国を巡錫中の弘法大師がこの話を聞かれると、秘法をもってこの毒蛇を退治されました。
大師が去られた後に人々が地獄谷を訪れると、高い岩山には千手観音が光り輝き、その脇侍として不動明王と毘沙門天が彫られており、これが大谷寺開山の縁起とされます。
大谷寺には弁天堂があり、こちらの弁財天には、弘法大師の秘法により心を入れ替えた毒蛇がお仕えしているそうです。(同山パンフ記載の縁起より抜粋)

以上から、弁財天と千手観世音菩薩はなんらかの関係があるとも考えられ、その縁から千手観世音菩薩が御本尊となられたのかもしれません。
(かなり牽強附会的なこの見方は、あくまでも筆者の憶測です。)

弘法大師とのゆかりは強く、聖天堂の本地佛・十一面観世音菩薩は弘法大師作、寺宝の獨鈷杵は弘法大師が唐より招来されたもの、般若心経も弘法大師御筆と記されています。

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【史料】
■ 『御府内寺社備考 P.35』
牛込御箪笥町
京都大佛智積院末 
天谷山 竜福寺 南蔵院
当寺開闢之儀者元和の初年(1615年)下総國香取妙幢院正胤法印 武蔵國牛込之領主何某請ふより同國豊嶋郡早稲田の里●褐をとて●上宮下宮乃二宇を造立し辨財天二体を勧請し正胤法印上の宮を別当し吉祥山福正院といふ ●後第四世日胤代延宝九年(1681年)右地所御用地ニ付召上替地として南●之地所を拝領 仕以地名を蟇谷といへ(略)当所に称し天谷山南蔵院と改む。下の宮を●猶旧内地に安置●●弁天町●なり。

弁天木座像
十五童子木立像
唐●●●
 右●宇賀神安置
薬師木座像
金毘羅木立像

獨鈷杵 弘法大師大唐より渡来開山正胤所持是什宝とす
般若心経 弘法大師筆
辨財天縁起 一巻

聖天堂
本尊観世音 黄金鋳像 秘佛
本地佛 十一面観世音 弘法大師作 木立像 水戸家御寄附宝暦六年(1756年)
歓喜天●尊● 一基

護摩堂
本尊不動明王木立像

阿弥陀堂
本尊阿弥陀如来 安阿弥作木坐像

稲荷社

寺中二軒
安養院 当時廃地
薬王院 本尊薬師如来 地蔵尊木立像 弘法大師木坐像

『牛込区史』(国立国会図書館)
天谷山龍福寺南蔵院 智積院末
元和初年(1615年)、早稲田在辨財天上宮(今の辨天町でゝもあらう)の別當として、正胤法印開山、寺号を吉祥山福正院と云つたが、延寳九年箪笥町に移り、寺號を改めた。開山法印正胤寛永七年(1630年)二月廿九日遷化。(略)
本尊辨財天は弘法大師の作といひ伝ふ。
寺中 安養院
同上 薬王院

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【写真 上(左)】 前面道路からの山内
【写真 下(右)】 山内入口

新宿区の牛込周辺はいまでも古い地名が住所として残っています。
箪笥町もそのひとつで、「箪笥」とは"武器"のことで、江戸時代に幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があったことに由来するとのこと。(→東京都公文書館(江戸東京の町名)より)

かつては陸の孤島的だった牛込辺も、都営大江戸線の開通により俄然便利になりました。
南蔵院は、都営大江戸線「牛込神楽坂」駅直近にあります。

通りに面して門柱。門柱には院号の表札。
門柱右に「大聖歓喜天」の石標、門柱左には御府内霊場札所標。


【写真 上(左)】 札所碑
【写真 下(右)】 山内

正面が本堂、向かって右手に聖天堂の伽藍配置です。
本堂はコンクリ造の近代建築ですが、切妻の妻の下に銅板葺の唐破風向拝を附設。
見た目の印象からすると入母屋造ないし切妻造の妻入りかもしれません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

唐破風鬼に経の巻獅子口。その上の妻部は格子仕上げで拝みに蕪(三つ花)懸魚と鬼板には真言宗の輪違い紋を掲げて本堂の風格を備えています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

がっしりとした向拝柱と見上げに院号扁額。
堂前向かって右の通常修行大師像が御座す場所には地蔵尊立像の安置なので、弘法大師御像は本堂内と思われます。


【写真 上(左)】 本堂(手前)と聖天堂(奥)
【写真 下(右)】 聖天堂

本堂向かって右手の堂宇は聖天堂。
おそらく入母屋造瓦葺の妻入りで、妻部に向拝を附設したかたちかと思います。
こちらは伝統的な寺院建築で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股などを備え、向拝上部に「歓喜天」の扁額を掲げています。

『御府内寺社備考』記載の「聖天堂」の系譜をひく堂宇かと思われます。

御朱印は本堂右手の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙貼付)
中央に「本尊 千手観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と千手観世音菩薩のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第弐拾貳番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第23番 川崎大師 東京別院 薬研堀不動院
(やげんぼりふどういん)
公式Web
中央区東日本橋2-6-8
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:関東三十六不動尊霊場第21番、御府内二十八不動霊場第9番
司元別当:
授与所:本堂内

第23番札所は川崎大師東京別院の薬研堀不動院です。
公式Webには、薬研堀不動院は、古くから目黒(不動尊)、目白(不動尊)と並び江戸三大不動として知られ、『江戸名所図会』をはじめ多くの文献に紹介されているとの由。

公式Webおよび『ルートガイド』『関東三十六不動霊場公式ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

保延三年(1137年)、真言宗中興の祖・興教大師(覚鑁上人)は43歳の厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼で不動明王尊像を敬刻、紀州・根来寺に奉安されました。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭った際、根来寺の大印僧都がこの尊像を守護して葛籠に納め、みずから背負われて東国へ下りました。

大印僧都は隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、天正十九年(1591に)堂宇を建立されたのが薬研堀不動院のはじまりといいます。
こちらの不動尊の霊験まことにあらたかで、人々は「葛籠不動尊」と称し、目黒不動尊、目白不動尊とあわせて「江戸三大不動尊」と奉じて篤く尊崇したといいます。

とくに薬研堀不動尊の歳の市は、江戸の一年を締めくくる風物詩としてたいへん賑わったそうです。
(「歳の市」は12月14日の深川八幡に始まり、浅草観音、神田明神、愛宕神社、平河、湯島天神を巡って28日の薬研堀不動院で納めとなりました。)

山内の「収めの歳の市碑」(歳の市保存会)には、往年の歳の市の賑わいがつぎのとおり描写されています。
「戦前は何十軒もの羽子板屋が出店し 当時の千代田小学校の通りには『がさ市』が立ち 〆飾り 角松 竹 海老 こんぶ等が威勢よく売られ 身動き出来ぬ位の人出に下町情緒豊かな歳末風景がみられた」

また、当山は講談発祥の地という説があり、山内には「講談発祥之地碑」が建てられて、いまもご縁日の28日には講談が奉納されています。

明治二十五年(1892年)川崎大師平間寺の別院となり、都内有数の弘法大師霊場・不動尊霊場としていまに至っています。

江戸中期に変遷があったとみられ、「猫の足あと」様掲載の『中央区史』には「天保年中(1831-1845年)、本所弥勒寺中へ移され、維新後、有縁の旧地に移り咲いて仏殿を造営」とあります。

御府内霊場の開創は宝暦五年(1755年)頃とされるので、薬研堀不動院の弥勒寺中への移転(天保年中(1831-1845年))前です。
弥勒寺は御府内霊場開設当初からの札所(第50番)とみられるので、薬研堀不動院が当初からの札所(第23番)だとすると移転り際に弥勒寺の札所兼務問題がでてきます。

一方、江戸八十八ヶ所霊場の第23番は、市谷川田ヶ久保の稲荷山 薬王寺で、明治はじめの神仏分離で廃寺となっています。

『御府内八十八ケ所道しるべ』によると、御府内霊場第23番は明治のはじめまで市ヶ谷の薬王寺とあります。
よって薬研堀不動院は、明治二十五年(1892年)までに本所の弥勒寺内から旧地に移り咲き、御府内霊場第23番は川崎大師平間寺の別院となった薬研堀不動院に引き継がれたのではないでしょうか。

真言宗智山派の大本山・平間寺(川崎大師)の東京別院だけに、札所承継にあたり様々な動きがあったのかもしれませんが、詳細はわかりません。

薬王寺は大塚護國寺末だったので現在の真言宗豊山派系、平間寺は真言宗智山派の大本山ですから、札所の承継にやや疑問はありますが、なにぶん天保年中(1831-1845年)から明治初期までの薬研堀不動院の動静がほとんどたどれないので、下記史料類から薬王寺についてたどってみます。

薬王寺は室町時代、武将・太田道灌(1486年没)が築いた城の守護として京都稲荷山の神霊を勧請して市ヶ谷御門のあたりに草創と伝わります。

開山は法印澄覺(寛文三年(1663年)十月遷化)。
当初は愛染尊(明王)を安置し、愛染院と号していたようです。

元和の頃(1615-1624年)、稲荷社は当寺より二町ばかり北の方へ遷られたといいます、

中興開山は法印證覚(正(徳)三年(1713年)十月遷化)。
貞享年中(1684-1688年)に弘法大師御作の薬師如来像を奉安し、愛染院から薬王寺に号を改めたといいます。
『江戸名所図会』には「(稲荷社を)其後又此地へうつして当寺の護法神とせり。」とあるので、法印證覚の頃に稲荷社が当地に戻られて護法神となったのかもしれません。

史料類をみると、弘法大師御作の御本尊・薬師如来をはじめ、弘法大師の御自作像、(興)教大師御作の顧不動尊を奉安するなど、堂々たる新義真言宗寺院の内容を備え、弘法大師霊場札所としての資格も充分備えていたものとみられます。

桂昌院(5代将軍綱吉公の生母)、常憲院(徳川綱吉公)の帰依が篤かったらしく、仏像・仏画の寄附の記録が残ります。

このような由緒ある寺院が明治の神仏分離で廃寺となってしまったのは、いささか不思議な感じもしますが、いまは「市谷薬王寺町」の地名にその名を残すのみです。

なお、Wikipediaなど複数のWeb資料で「(薬王寺の)法灯は文京区大塚の護国寺に移された。」とあります。

護国寺は御府内霊場の第87番札所。
護国寺での重番を避けるとしても、豊山派系の寺院が承継すればよさそうですが、智山派大本山・平間寺(川崎大師)の東京別院が引き継いだ背景には、やはり特段の事情があったのかもしれません。

いずれにしても、平間寺(川崎大師)は東京別院を通じて御府内霊場の一画を占めることとなりました。


「薬研堀」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[1],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
※本所移転前の絵図と思われます。

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【史料】
『寺社書上 [38] 市谷寺社書上 三止』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.39』
市谷南寺町
大塚護國寺末 
稲荷山 東光院 薬王寺
新義真言宗
開山 法印澄覺(寛文三年(1663年)十月遷化) 
中興開山 法印證覚(正(徳)三年(癸巳)(1713年)十月遷化)
本尊 薬師如来 弘法大師作 石像秘佛
前立 薬師如来 木座像丈七寸
日光 月光 十二神将

・桂昌院様御寄附
正観世音 唐佛金之像 丈壱尺二寸
顧不動尊 (興)教大師作 木坐像丈九寸
幷両脇士

・桂昌院様ヨリ拝領
愛染尊 運慶作 木像 丈八寸
毘沙門天王 聖徳太子作 木像 丈三尺許
阿弥陀如来 行基菩薩作 木立像一尺二寸
地蔵尊
弘法大師御自作像 椅子座 丈ヶ壱尺壱寸
歓喜天 唐金鋳像秘佛

・寺寶
嵯峨帝御守本尊 佛眼佛母尊 天竺佛

・常憲院様ヨリ拝領
不動尊 一幅 弘法大師筆 二童子 倶利伽羅 後●院後持尊
涅槃像
(略)

稲荷社
稲荷大明神 神躰木立像
御本地佛 十一面観世音 鋳佛坐像
天神木坐像 辨才天木坐像

唐寺開闢之義 往古太田持資入道道灌 御城築●●為 城内乾●護 京都稲荷山●神霊を勧請し ●愛染尊を安置依●稲荷山愛染●と号し市ヶ谷御門之(略)貞享年中(1684-1688年)弘法大師彫刻之石像坐像●来安置と依て本院改号薬王寺とす

桂昌院様依●帰依薬師如来(略)寄附
 
『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
稲荷山 薬王寺
東光院と号す。同所より西方の方、河田ヶ窪にあり。新義の真言宗にして、大塚の護國寺に属せり。
開山を法印澄覺と号く。
本尊薬師如来の像は、弘法大師、天台四明の洞の霊石を得て、彫刻し給ひし霊像なりといふ。貞享(1684-1688年)の初、須田氏某、当寺に安置なし奉るとなり。
当寺昔は愛染院と称したりといふ。

稲荷祠
境内にあり。相傳ふ。太田道灌(1486年没)の勧請にして、むかしは今の市ヶ谷御門の辺にありしとなり。元和の頃(1615-1624年)当寺より二町ばかり北の方へ遷し、其後又此地へうつして当寺の護法神とせり。


「薬王寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【写真 上(左)】 街路にはためく幟-1
【写真 下(右)】 同-2

都営浅草線「東日本橋」駅徒歩約3分、都営新宿線「馬喰横山」駅徒歩約5分という交通至便の札所です。

あたりは完璧なビル街で、その道路沿いにお不動様の幟が並び立つさまはなかなか絵になります。


【写真 上(左)】 改修後の現山内
【写真 下(右)】 本堂

ビルに囲まれた一画に急な階段と、その上に重層八角堂的なお堂。
参道階段脇には幟がはためき、不動尊霊場の趣きがあります。

こちらは数年前にリニューアルされ、手前に数台分の駐車場ができました。
本堂内にあった納経所は、駐車場前に移されて全体に山内はすっきりとしています。


【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 向拝

階段をのぼった正面が向拝で五色幕が張り巡らされて華やかです。
「不動尊」の提灯のおくに「薬研堀不動院」の扁額。
以前は本堂内でお参りできましたが、現在は不明です。
正面お厨子のなかにお不動さまと向かって右に観世音菩薩像。
左手の尊像は金剛界大日如来でしょうか。

その両脇には弘法大師像と興教大師像という、真言宗寺院らしい堂内です。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 講談の会の案内

公式Webで「不動院の鎮守」として紹介されている矢ノ庫稲荷神社は、「東日本橋」駅寄りの薬研堀不動院信徒会館のよこの角地に御鎮座で、薬研堀不動院納経所で御朱印を拝受できます。


【写真 上(左)】 矢の庫稲荷
【写真 下(右)】 矢の庫稲荷の御朱印

境内の縁起書によると、かつて当地に隣接する日本橋一丁目あたりは谷野と呼ばれ、正保二年(1645年)幕府が米蔵を建て谷野蔵矢之倉と称されました。
米蔵の庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿し三社稲荷神社を祀りました。

中央は谷野蔵稲荷、左に福富稲荷、右には新左衛門稲荷で、元禄十一年(1698年)に御蔵を鉄砲洲に移転した際に三社稲荷は一緒に御遷座されました。
御蔵跡周辺の人々は三社稲荷の名を惜しんで、新左衛門稲荷と福富稲荷を初音森神社に合祀、谷野蔵稲荷は変遷を経て現在地に御鎮座となり、社号も矢の庫稲荷と改められました。

経緯は明らかでないですが、薬研堀不動院公式Webには「不動院の鎮守」として矢の庫稲荷が紹介されています。

上記のとおり、旧第23番札所の稲荷山 薬王寺には太田道灌ゆかりの稲荷社が祀られていました。
三社稲荷のうち新左衛門稲荷と福富稲荷が合祀された初音森神社も太田道灌ゆかりの神社で、三社稲荷神社・太田道灌を介してなんらかの繋がりがあったのかもしれません。
ちなみに、初音森神社は墨田区千歳の御鎮座ですが、元地とされる東日本橋二丁目は薬研堀不動院(矢の庫稲荷)のそばで、昭和23年に旧跡地に初音森神社摂社(儀式殿)が創建されています。


【写真 上(左)】 やげん堀七味の奉納サンプル
【写真 下(右)】 聖徳太子碑

不動院に戻って、本堂向かって右手にはやげん堀七味の奉納サンプル、手水舎、聖徳太子碑など。


【写真 上(左)】 講談発祥記念之碑
【写真 下(右)】 遍路大師尊像


【写真 上(左)】 順天堂発祥之地碑
【写真 下(右)】 収めの歳の市碑

本堂向かって左手には講談発祥記念之碑、遍路大師尊像、順天堂発祥之地碑、収めの歳の市碑、梵字不動尊、子寶地蔵尊と並びます。


【写真 上(左)】 梵字不動尊
【写真 下(右)】 子寶地蔵尊

梵字不動尊は、薬研堀不動院開創四百十五年を記念して梵字書家により不動三尊として揮毫、石刻されたものです。
中央は不動明王のお種子「カンマーン」、向かって右は不動明王の左脇侍である矜羯羅童子のお種子「コンカラ」、向かって左は不動明王の右脇侍である制多迦童子のお種子「セイタカ」と思われます。


【写真 上(左)】 納経所
【写真 下(右)】 御朱印見本

御朱印は納経所にて拝受しました。
お不動様の御朱印は御本尊、御府内霊場、関東三十六不動尊霊場の3種です。
べつに矢ノ庫稲荷神社の御朱印も授与されています。
また、オリジナルの御朱印帳も廉価にて頒布されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「大聖不動明王」「川崎大師別院」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の揮毫と御寶印(火焔宝珠)。
右上に「御府内第廿三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 御本尊の御朱印 〕


〔 関東三十六不動尊霊場の御朱印 〕



■ 第24番 高天山 大徳院 最勝寺
(さいしょうじ)
新宿区上落合3-4-12
真言宗豊山派
御本尊:釈迦牟尼如来
札所本尊:釈迦牟尼如来
他札所:
司元別当:中井御霊神社(新宿区中井)、東山藤稲荷神社(新宿区下落合)
授与所:庫裡

第24番札所は新宿区上落合に飛んで豊山派の最勝寺です。
上落合は府外で、『新編武蔵風土記稿』の範疇ですがごく簡単な記載しかありません。
これでは詳細のたどりようがないので、「猫の足あと」様記載の『新宿区の文化財』から抜粋引用させていただきます。

・創建時期や開基は不明だが、江戸時代には中井御霊神社、下落合東山藤稲荷神社の別当寺であった。
・最勝寺の塀際にある弘法大師の石標(御府内霊場道標/安政五年(1858年))には「弘法大師24番」「従是四谷北町和光院ニ11町」「従是新町多聞院ニ1町」とある。
・これは、内藤新宿の三光院にあったもので、明治初年に三光院が廃寺になった際、その大師堂が最勝寺に移された時、一緒に移ったと思われる。

『ルートガイド』には、開創・建立の詳細不明ながら鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の開創と伝わり、中井御霊神社、下落合東山藤稲荷神社の別当であったこと、度々戦火や自然災害に遭ったことが記されています。
また、現地案内書にも「開創 鎌倉時代 北条時頼(西暦1250年代)」とあります。

かなりの大寺でありながら、戦火や災害により寺伝類を逸失してしまったようです。

『御府内八十八ケ所道しるべ』には、第24番札所は内藤新宿の稲荷山 三光院とあり、同書の札所異動表によると、おそらく明治の初頭に三光院から四ッ谷寺町の愛染院に遷っています。
なので第24番札所は、三光院(内藤新宿)→愛染院(四ッ谷寺町)→最勝寺(上落合)の順に異動したとみられます。

まずは江戸期の札所である三光院から当たってみます。

三光院は明治初期に廃寺となっており、記録は多くありません。
『寺社書上』(国立国会図書館)には、内藤宿追分の稲荷社(現・花園神社)の項に「導師愛染院兼別当三光院」とあり、「別当所 ●御府内八十八ヶ所之内廿四番札所」とあります。

花園神社公式Webには「花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれています。しかし、その三光院は明治元年(1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となりました。」とあります。

以上より、四谷(内藤新宿)追分の三光院が江戸期の御府内霊場第24番札所であったこと、三光院は内藤宿追分の稲荷社(現・花園神社)の別当であったことがわかります。

下記史料より、三光院の御本尊は現・花園神社の本地佛であった十一面観世音菩薩とみられ、こちらは明治初期の三光院廃絶を受けて本寺である四ッ谷愛染院に遷られています。
また、弘法大師御像も同時に遷られたとみられます。

第24番の札所本尊は十一面観世音菩薩・弘法大師であったので、第24番札所もおそらくこの際愛染院に異動しています。

しかし愛染院は御府内霊場第18番の札所なので、おそらく札所の重複がおこりました。
これを解消するために、上落合の最勝寺に第24番が異動したのでは。
愛染院、最勝寺とも新義豊山派なので、以前から両寺の交流があってこの異動が成立したものとも思われます。

最勝寺は落合エリアの有力寺院で、これは中井の御霊神社(落合村小名中井鎮守)、下落合の東山藤稲荷神社(東国源氏の氏神)の別当を司っていたことからも裏付けられます。


【写真 上(左)】 (中井)御霊神社
【写真 下(右)】 (中井)御霊神社の御朱印


【写真 上(左)】 東山藤稲荷神社
【写真 下(右)】 東山藤稲荷神社の御朱印

明治に入ると”御府内”の意味合いがうすれ、御府内霊場札所も郊外に遷る例が増えてきますが最勝寺もその例かと思います。

せっかくなので、三光院が別当を司った花園神社の由緒・沿革を主に花園神社公式Webを参考として追ってみます。


【写真 上(左)】 (中井)花園神社
【写真 下(右)】 (中井)花園神社の御朱印

花園神社は、徳川家康公入府の天正十八年(1590年)より前に吉野山より勧請されたといい、江戸開府以前から新宿の総鎮守として重要な神社であったとみられています。
寛永年間(1624-1644年)までは現在より約250m南の現・伊勢丹付近にありましたが、
寛永年間、旗本・朝倉筑後守の下屋敷に囲い込まれてしまったため、幕府に訴えて現社地を拝領しました。
そこはもと尾張藩下屋敷の庭園で、花が咲き乱れていたため「花園稲荷神社」と号したと伝わります。

かつては四谷追分稲荷とも三光院稲荷とも呼ばれ、三光院が古くから別当を務めていたことがわかります。

明治に入って「稲荷神社」を号しましたが、江戸期から「花園社」として親しまれていたため、大正5年1月、東京府知事に改名を願い出て正式に「花園稲荷神社」となったそうです。
さらに昭和40年、末社の大鳥神社を本社に合祀した際に社号を「花園神社」に改めています。


花園稲荷社と弘法大師については、『寺社書上』に「弘法大師吉野(不明)吉野山●●●●花その稲荷と称す」とあり、吉野山からの稲荷神勧請にあたって弘法大師が関与されたことを示唆しています。

御神躰は正一位花園稲荷大明神。相殿に不動明王、愛染明王、随神二躰を奉安し、別当所(三光院)には稲荷大明神の本地佛として(十一面)観世音菩薩、弘法大師の木坐像も奉安して、神仏混淆色の強い境内であったとみられます。

現在の御祭神は倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)。
旧社格は郷社。新宿の総鎮守として庶民の信仰篤く、とくに11月の「大酉祭 (新宿酉の市)」は多くの人出で賑わい浅草の鷲神社、府中の大國魂神社とともに「関東三大酉の市」に数えられます。

安永九年(1780年)と文化八年(1811年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して評判となりました。
場所柄、芸能関係者の信仰も篤いといい、とくに境内社の芸能浅間神社の敷地内には芸能人の奉納名が並びます。

もとより稲荷神信仰の色彩が強いですが、史料によっては創祀に弘法大師がかかわられたという伝承もあり、そのような流れもあって別当の三光院が御府内霊場札所となったのかもしれません。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十四番
内藤新宿上裏通り
稲荷山 三光院
四ッ谷愛染院末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 花園稲荷社 弘法大師
三光院→愛染院(札所異動表)

『寺社書上 [46] 四谷寺社書上 五止』(国立国会図書館)
内藤宿追分
稲荷社
本社 文化十一年(1814年)再建
神躰 正一位花園稲荷大明神
弘法大師吉野(不明)吉野山●●●●花その稲荷と称す
相殿 不動明王
   愛染明王
   随神 二躰
奉 造営武蔵國豊嶋郡四谷追分稲荷社大明神本社幣殿拝殿
(略)
導師愛染院兼別当三光院 権大僧都法印栄住

境内末社
牛頭天王社 (千)葉稲荷社 福徳稲荷小祠 毘沙門天王 金比羅宮 第六天 疱瘡神 天満宮 稲荷大明神 秋葉宮 三峯

中興開山 寶盛? 本寺愛染院第二世 元和二?年(1616年)●●中興す

別当所 右後年焼失
観世音菩薩 右稲荷之本地佛
弘法大師 木坐像
●御府内八十八ヶ所之内廿四番札所
興教大師
歓喜天
文政十年(1827年)文月 三光院

『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
最勝寺
同宗同末(新義真言宗多摩郡中野村宝仙寺末)西方山安養院と号す。本尊弥陀。
地蔵堂。


「三光院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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都営大江戸線「中井」駅徒歩2分、東京メトロ東西線「落合」駅徒歩4分、西武新宿線「中井」駅徒歩5分と交通至便で、山手通りに面して駐車場も完備しているのでアクセスは楽です。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

山内入口、山内とも広々としていて大寺のスケール感。往時は伽藍が建ち並んでいたのでは。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 弘法大師碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、正面に軒唐破風を構え、その下に二重の水引虹梁で両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を備えた整った意匠です。
向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 七福神

本堂前にはかわいい七福神像も。


【写真 上(左)】 本堂と堂宇
【写真 下(右)】 堂宇

本堂向かって左に宝形造本瓦葺の真新しい堂宇があります。
お砂踏み場があるので大師堂かとも思いましたが、御府内霊場の札所板は別の宝形造桟瓦葺のお堂に掲げられていたので、こちらが大師堂かと思われます。
ただし、こちらの堂前には聖観世音菩薩の立像が御前立的に御座され、観音堂の雰囲気もあります。


【写真 上(左)】 (おそらく)大師堂
【写真 下(右)】 札所板

二度も参拝し、当然堂宇についてもお伺いしているはずですが、なぜか記憶があいまいで申し訳ありませぬ。

御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「釋迦牟尼如来」「弘法大師」の揮毫と釈迦如来のお種子「バク」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第廿四番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-8



【 BGM 】
■ far on the water - Kalafina


■ Erato - 志方あきこ


■ Goodbye Yesterday - 今井美樹 Miki Imai from LIVE @ORCHARD HALL 2003 TOKYO + JP & ROMAJI SUB
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