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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。


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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10からつづく。
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12へつづく。
旧第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。



■ 第80番 萬法山 帰一寺(きいちじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
松崎町Web
松崎町船田39
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第2番
授与所:庫裡

第80番は萬法山 帰一寺。松崎でも屈指の名刹です。
正安三年(1301年)一山一寧によって開かれ、当初は帰一庵と称していましたが、のちに帰一寺に改めたといいます。

Wikipediaによると、一山一寧(いっさんいちねい)は元からの渡来僧で、台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身です。

早くに出家し、律・天台を修めた後、臨済禅に転じて阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだとされます。

二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライの後を継いだ成宗は、日本との国交を結ぶべく、正安元年(1299年)一山一寧を朝貢督促の国使として日本へ派遣しました。

大宰府に入った一寧らは成宗の国書を執権・北条貞時に奉呈するものの、元寇再来をおそれた貞時は一寧らを伊豆修禅寺に幽閉しました。

修善寺に入られた一寧は禅の修養に専念、一寧の名声をきいて赦免を願い出る者もいたことから、貞時は幽閉を解き鎌倉近くの草庵に身柄を移しました。

鎌倉に入った一寧の名望を慕って多くの僧俗が草庵を訪れ、これを目の当たりにした貞時も疑念を解いて、建長寺を再建して住職に迎えたうえで自ら帰依したといいます。

深い学識と傑出した人柄で多くの人々から尊崇され、門下から雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出、みずからも能筆で知られその墨蹟は重要文化財に指定されています。朱子の新註を伝え、日本朱子学の祖ともされる名僧です。

円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和二年(1313年)には後宇多上皇の請願に応じるかたちで上洛、南禅寺3世となりました。

文保元年(1317年)南禅寺で示寂。花園天皇より一山国師と諡号されました。

一寧の開山として、下諏訪の慈雲寺、信州中野の太清寺、そして帰一寺が伝わります。

松崎町Webによると、一山国師のあと数代は公家の帰依僧が跡を継いだものの、しばしば火災にあい、多くの寺宝を焼失しています。
正保年間(1644-1648年)徳川3代将軍家光の治世に、代官伊奈兵蔵は当山が伊豆50ヶ寺の中本山との理由で寺領回復を上申し、御朱印地を拝領しています。

『豆州志稿』には「船田村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊観世音 釋一山正安元年(1299年)豆州ニ流サレシ時 庵ヲ造リ帰一ト称ス 巳ニシテ寺トシ一山ヲ祖トス 建長寺派下タリ 一山ハ即一寧 宗ノ台州胡氏ノ子ナリ 初元主我國ニ寇シテ敗●ス 至是一寧其密使旨ヲ承ケ来テ間諜ヲ為ス 平貞時激怒豆州ニ放流ス 後鎌倉建長寺ニ居ラシム 一山ノ書二●ヲ蔵ム 経蔵(内ニ辨財天ヲ安ス) 領舎 弥勒堂有リ 中本寺格ニシテ末寺廿四ヶ寺ヲ有ス」とあります。

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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

松崎市街から婆娑羅峠を越えて、稲梓に抜ける県道15号松崎下田線。
帰一寺はこの道を松崎市街から数㎞走ったところ、船田地区の小高い丘の上にあります。

参道入口に扁額を掲げて桟瓦葺の重厚な高麗門。扁額には「海南禅林」とあります。
ここから坂道&石段を登っていきます。


【写真 上(左)】 山門からのアプローチ
【写真 下(右)】 霊場供養塔

途中に伊豆八十八ケ所と伊豆横道三十三観音の供養塔がありました。
「伊豆新四国八十八箇所」とありますが、この霊場で「新四国」の表記があるのはめずらしいです。


【写真 上(左)】 参道と門
【写真 下(右)】 門

ひとしきり登ると正面に門。これはふたつめの門で中門かもしれません。
切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、高く立ち上げた大棟に葵紋を掲げています。
控柱に虹梁を渡し、見上げには山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 門の扁額
【写真 下(右)】 山内

くぐると正面に千鳥破風+唐破風桟瓦葺の建物。
左手には入母屋造桟瓦葺の立派な建物で「群龍殿」の扁額を掲げています。
右手の建物は庫裡かと思います。


【写真 上(左)】 左の建物(本堂?)
【写真 下(右)】 扁額

正面の建物は複雑な構成で、平入りか妻入りかもわかりませんでした。
正面と左手の建物の関係がよくわかりません。


【写真 上(左)】 中央の建物
【写真 下(右)】 中央の建物と庫裡

左の建物の堂内には寺号扁額と「慈光」の二つの扁額で三間構成なので、本堂御内陣の趣き。
中央の建物は観音堂かとも思いましたが、奥まったところに「萬法帰一」の扁額とその先は格子窓ごしに庭がみえます。
堂前に賽銭箱が置いてあるので、奥庭にある堂宇?の遙拝所的な位置づけなのかもしれません。

本堂の建立は弘化五年(1848年)、当初は茅葺でしたが現在は瓦葺に葺きかえられています。
べつに8代将軍吉宗のころ建立された六角形回転式の経蔵があるはずですが確認できず、伊豆の代表的名園とされる本堂裏の庭園もなぜか拝観していません。

ふつうこれだけナゾがあると、当然お寺の方に聴き込みに入るのですが、ナゾが解けていないところをみると、ご不在だったか、よほど急いでいたかのいずれかだと思います。

これだけの名刹を生兵法で説明するのはどうかと思うので(笑)、山内のご案内はこのくらいにしておきます。

御朱印は(たぶん)庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも「本尊観音」の印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕




■ 第81番 富貴野山 寶蔵院(ほうぞういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町Web
松崎町観光協会Web
松崎町門野173-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:延命地蔵菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第7番
授与所:寺役管理

松崎の山中ふかくに立地する弘法大師ゆかりの古刹。
『こころの旅』記載の『宝蔵院畧縁起』、松崎町Web資料等によると草創は以下のとおりです。
延暦十九年(800年)(大同3年(808年)とも)、27歳の弘法大師は伊豆巡錫中に仁科を訪れました。
弘法大師が当地で読経されていると、森の中の六本の巨木が六条の光を放ちました。
お大師様はこれを六道衆生の苦しみを救済する地蔵菩薩有縁のものと考えられ、ここを富貴野山地蔵金剛法蔵密院と名づけられました。

天長七年(830年)57歳のお大師様はふたたびこの地を訪れ、庵を修復しお堂を建てられて密法修行の地とされました。

室町時代には末寺88を有する大霊場として栄え、一時衰えたものの僧・岩仲によって再興開基され、以来文明年間(1469-1486年)まで伊豆第一の山岳仏教の霊地として繁栄したといいます。

その後荒廃していたところ、文亀年間(1501-1504年)、河津逆川村の普門院4世・清安が堂宇を整備、真言宗から曹洞宗に改宗し寶蔵院と号を改めました。

御本尊・地蔵菩薩の信仰は営々とつづき、とくに作物の虫除けに霊験あらたかとされました。
その参詣道は一色口、白川口、江奈口、門野口など多くあったため、高野山になぞらえて「富貴野の七口」と呼ばれたそうです。

『豆州志稿』には「門野村 曹洞宗 賀茂郡逆川普門院末 本尊地蔵 富貴ハ山名 山嶽ノ部ニ出ツ 弘法大師遊行ノ時 此ヲ見立テ寺ヲ創ム 今名証ナシト雖 古ヨリ的ニ相傳フ 他ノ仮託ニ出ルカ如キニ非ス 大師自所負ノ笈ナリトテ今ニ存ス(略)又庭中ニ手植ノ岩桂車蓋ノ如クナル有リキ 惜ムラクハ巳ニ枯死シテ無シ 尚空海ノ遺物ト傳フル鍋幷杖ヲ蔵ス(略)モト金剛密院ト称ス 僧岩忠ヲ中興祖トス 永禄天文ノ頃普門院四世清安和尚住シテヨリ宗旨改ル 是時ヨリ寶蔵院ト号ス」とあります。
また、子院として寶徳寺(同村 号金剛山)が記載されています。

『霊場めぐり』によると、昭和初期ごろまではご縁日(4月10日と7月24日)、ことに夏のご縁日は賑わって本堂には100人ほども参籠し、山上露店も出たといいます。

松崎町Web資料には「第二次大戦後は訪れる人も途絶えて、山深い寺は次第に荒れていった。戦争中戦後の伐採により、周りの山を失った寺は風雨の影響をまともに受けるようになり、昭和24年(1949年)のパトリシア台風によって山門が倒壊、昭和34年(1959年)8月14年の風台風で本堂も半壊、復旧困難なため取り壊されて、今は山門・本堂ともにその礎石を残すのみとなった。」とあります。

現在は「富貴野山21世紀の森」のなかに堂宇や遺跡が点在するかたちとなっています。

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【写真 上(左)】 登り口
【写真 下(右)】 参道-1

富貴野山は松崎市街地の北東にそびえる標高550mの山で、当山はその山腹にあります。
「富貴野山21世紀の森」というリラクゼーションエリアとなっていますが、かなり山深く、そのアプローチの長さは第8番益山寺と双璧です。
ただし路面はしっかりした舗装路なので、益山寺よりはアプローチは楽です。

「富貴野山21世紀の森」の駐車場に停めて、参道をのぼっていきます。
本来の参道は下の駐車場から少し下って大師橋を渡り、男坂ないし女坂経由の行程とみられます。

上の駐車場は本堂下にあるので、横着にもこちらに停めました。
さすがにお大師様ゆかりの霊山。あたりは清々しい空気に包まれています。


【写真 上(左)】 富貴野山稲荷
【写真 下(右)】 参道-2

駐車場そばに御鎮座の富貴野山稲荷は、当山の地主神あるいは鎮守かもしれません。
現地掲示によると、こちらには白山大権現が祀られているそうです。

舗装道をトラバース気味に歩いていくと、両側に石仏が並ぶ苔むした参道階段が出てきます。
そびえる杉木立の相間から陽射しが射し込み、雰囲気は抜群です。

こちらの石仏群は「宝蔵院石仏群」と呼ばれ、江戸時代に奉安されたもの。
約120体もの石仏はお大師様、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、地蔵尊、観音菩薩などさまざまで、信仰厚い村人たちが一体づつ背負って運び上げたとのこと。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道-3

参道階段をのぼり切ると広々とした平地が広がり、かつては伽藍が建ち並んでいたと思われるスケール感を感じます。
建物は3つ。
右手に長屋門?。正面がおそらく本堂、左手が開山堂です。


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2


【写真 上(左)】 長屋門
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造銅板葺で、比較的新しい建立と思われます。
向拝柱はなく、左右の身舎柱に「豆國八十一番札所」「伊豆横道七番札所」の札番が掲げられています。
向拝見上げに院号扁額。右手には「富貴峯」の扁額も掲げられています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額-1


【写真 上(左)】 本堂扁額-2
【写真 下(右)】 御朱印案内

左手の開山堂は銅板葺宝形造で流れ向拝。
周囲に縁をめぐらし、相輪を立てた塔身の周囲に庇を降ろし、内側に身舎を抱く密教建築の山上伽藍です。


【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂向拝

水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に彫刻入りの板蟇股で、見上げに山号扁額。
正面の花狭間戸と左右の蔀戸が引き締まったイメージの意匠。
撮影角度が悪くて断言できないのですが、ひょっとすると天竺様の隅扇垂木かもしれません。

開山堂左手にある杉の大木は樹齢約400年。弘法大師の徳をしのび昔から「弘法杉」と呼ばれているそうです。
また、杉の根元にある二基の宝篋印塔は、曾我兄弟ゆかりと伝わります。


【写真 上(左)】 弘法杉
【写真 下(右)】 富貴野山からの展望

江戸時代の中期まで、寺庭に弘法大師お手植えと伝えられるモクセイ(モッコク・カツラとも)の巨木があったといいます。
また、お手植えのときにお大師様が遺された笈がいまも遺されているといいます。

御朱印は、本堂前に掲示されていた寺役さんに連絡をとり拝受しました。
寺役さんの納経所は山を下りた道沿いで、すぐにみつかりました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕




■ 第82番 大悲山 慈眼寺(じげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町一色56
臨済宗建長寺派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第6番
授与所:第83番東福寺

情報の少ない札所です。
始祖とされる復岩が明応三年(1494年)入寂であることから、開山はそれ以前、文明年間とみられています。
(延徳元年(1489年)、復山による開山という説もあり。)

正保元年(1644年)、僧・明山により再興されました。

赤穂四十七士のひとりで討ち入り後、大石の命を受け離脱した寺坂吉右ヱ門の墓があることで知られています。

『豆州志稿』には「一色村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊如意輪観世音 復岩ヲ祖トス(明応三年(1494年)寂ス) 正保元年(1644年)僧明山再興ス 地蔵堂寺域ニ有リ」とあります。

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伊豆の湯めぐりに没頭していた一時期、この山深い場所を一度通りかかったことがあります。
このお寺の先に、温泉マニアの間では有名な名湯、祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」がありそこに入湯したためです。

この札所へのアプローチとなる静岡県道59号伊東西伊豆線は、伊豆最悪の険道ともいわれます。
筆者は祢宜ノ畑温泉入湯後にこの県道を走って修禅寺に抜けたのですが、二度と通りたくないと思えるほどのキツイ道でした。
(険しいというか、細かいカーブが異様にしつこくつづく。)

この霊場巡りでは札番からいって慈眼寺から修禅寺に向かうことはないかと思いますが、「県道だから・・・」と安易に入り込むのは避けた方がいいかと思います。

こんな感じ↓です。
■ 怖っ!静岡険道(県道)59号(伊東西伊豆線) 松崎⇒仁科峠 バイク走行動画


慈眼寺へは大浜から仁科川沿いを3㎞ほどで、このあたりまでは川沿いのいたってふつうの道路なのでとくに問題はありません。


【写真 上(左)】 六地蔵群
【写真 下(右)】 参道入口


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂のすぐ横が駐車場なのでアプローチはすこぶる楽です。
昭和四十年代の建立の本堂はアーチ状の屋根の近代建築ですが、向拝はきっちり設けられています。
向拝見上げに山号扁額。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

御本尊は小さな如意輪観世音菩薩像とのことで、伊豆横道三十三観音霊場第6番の札所本尊もこちらの観音様かと思われます。

こちらの鈴木氏墓地のなかに赤穂四十七士のひとり寺坂吉右ヱ門の墓と呼ばれてきた地蔵尊(あるいは石像とも)が安置されているそうです。
言い伝えによると、討ち入り後、義士供養のため僧形となり、諸国遍歴の途に鈴木権内方に滞在し一生を終えたといいます。

市資料によると、当寺過去帳に「寺坂吉右ヱ門事一相西円上座」、「但し、江戸の人四十七人の一人」とあるそうで、富貴野山宝蔵院に梵鐘を献納した話なども伝えられています。

御朱印は第83番東福寺にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 如意輪観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕


祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」の入湯レポ


■ 第83番 照嶺山 東福寺(とうふくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町観光協会Web
西伊豆町中24-2
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

現地掲示の由緒書、『豆州志稿』等によると、濱村字澤田カ原(仁科字浜村、弘法大師遊行の折に安居された旧跡とも)に石室(岩の堂)として草創。
天福元年(1233年)、真言宗の一寺をなし草創時の年号から天福寺と号しました。

嘉元(1303-1306年)の頃(嘉元二年とも)災害に遭い、雲林和尚が濱村中村字中の島に移し旧天福寺の号に因んで天福山と号したといいます。(このとき東福寺と号したという説もあり。)

永和三年(1377年)災害のため諸堂が大破、應永二年(1395年)佛印大光禅師を中興開祖とし、真言宗から臨済宗へと改宗。
文明九年(1477年)激しい波浪に見舞われ堂宇は漂流、同十八年佐々木(山本)盛季が現在地に移して再興し、寺号を東福寺と改めたと伝わります。
よって、佐々木(山本)盛季を東福寺殿と称し、当山開基としています。

当山の本堂天井には漆喰の見事な五百羅漢が描かれているため、「五百羅漢の寺」としても知られています。

『豆州志稿』には「中村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊阿彌陀 嘉元(1303-1306年)ノ頃 雲林和尚濱村ノ天福寺ヲ引ク 因テ天福山ト称セリ 天福ノ紀号僅ニ一年ナリシ故 之ヲ忌テ照嶺ト改ム 天福元年(1233年)濱村字澤田カ原ニ創立ス 後僧雲林当村中島ニ移ス 應永中(1394-1428年)真言ヲ改テ臨済宗ト為シ 僧佛印ヲ祖トス 文明九年(1477年)激浪ノ為ニ漂流ス 同十八年佐々木盛季復現地ニ移ス 寺域地蔵堂観音堂有」とあります。

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【写真 上(左)】 山内入口&山門
【写真 下(右)】 山門扁額

静岡県道59号伊東西伊豆線沿い、第82番慈眼寺から大浜(伊豆西海岸)に戻る途中の仁科川沿いにあります。

参道入口の寺号標には「五百羅漢の寺」。
その先の山門は入母屋屋根桟瓦葺、上層鐘楼四脚の高欄付楼門で上層に山号扁額を置いています。
異様に高い礎盤は水害から護るためでしょうか。

小高い山を背に、こぢんまりとまとまった、落ちついた雰囲気のお寺さんです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

正面の本堂は寄棟造銅板葺で、向拝部に顕著な千鳥破風を附設しています。
平入りと思いますが、千鳥破風があまりに目立つので、一瞬妻入りかと思いました。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号の表札?

水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ梁、中備に龍の彫刻。
左右の繋ぎ虹梁上には板蟇股を置いています。
見上げには扁額というか、寺号の表札?を掲げています。

本堂向かって右手前のお像は修行大師像のようにも思えるのですが、確信もてず。

本堂内の天井には、昭和初期に浅草の仏師・田村利光(酒豪だったので「のん兵衛安さん」と呼ばれた)により漆喰で描かれた五百羅漢があり、御内陣の花鳥・龍・天女とともに秀作とされています。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 身代り地蔵尊

山内には地蔵堂があり、端正な地蔵尊坐像が御座します。
現地説明書によると、こちらは百五十余年前に当山第14世住職が両親菩提と諸民の災害除のために、大本山鎌倉建長寺の御本尊・身代り地蔵尊のお今身を願い当山に勤把したお地蔵様とのことです。

 
【写真 上(左)】 鎮守?
【写真 下(右)】 足神社

山内には鎮守とみられるお社、足神社が祀られています。
足神社は安政時代の創祀でもともと旧道に御鎮座でしたが、道路拡張に伴い平成元年当山に勧請とのことです。(山内石碑より)

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第84番 正島山 法眼寺(ほうげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
西伊豆町仁科860-1
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡

ここから松崎町を離れ、西伊豆町に入ります。
第84番は、西海岸を走る国道136号に戻り仁科の街なかにある法眼寺です。

『こころの旅』によると、初めは仁科の安城山麓にあった法眼庵という小庵でしたが、波濤により大破、荒廃。

永享年間(1429-1441年)ののち、幽岩和尚が濱村長平寺を合せて起立・開林。(『豆州志稿』)
享保年間(1716-1736年)にこの地を修行で通りかかった僧、幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としたという説もあります。(『こころの旅』)

法眼庵から数えて約四百年の間、西伊豆・仁科の海で働く人々の安全と繁栄のための鎮守の寺として続いてきたといいます。

『豆州志稿』には「濱村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦阿彌陀薬師 初法眼庵ト称ス 永享十六年(註:永享は十三年まで、1429-1441年)同村長平寺ヲ合セテ当寺ヲ起立ス 幽岩和尚開林(寛正六年(1465年)寂ス) 此寺安城山ヲ後ニシ 門前清渓ヲ帯ヒ 風景極テ幽邃」とあります。

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【写真 上(左)】 隣接する仁科港
【写真 下(右)】 山内入口

風光明媚な仁科港に面した、明るい雰囲気のお寺さまです。
なお、この仁科港の北側には西伊豆屈指のシーサイド露天として人気が高い「沢田公園露天風呂」があります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

開放的な山内で、正面に寄棟造本瓦葺流れ向拝の本堂。
水引虹梁両端に禅宗様の木鼻、身舎側に繋ぎ梁、中備に寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 堂内扁額
【写真 下(右)】 堂内天井画

本堂内は綺麗に整頓され、天井の格子には綺麗な花の天井画が施されていました。


【写真 上(左)】 天王神社
【写真 下(右)】 天王神社の扁額

隣接してスサノオノミコトを御祭神とする天王神社が御鎮座。
稲ワラを編み上げ社の頭上に張り渡す「天王様のお注連あげ」で知られる神社です。

位置関係からして法眼寺は元別当のような感じがしますが、これを示す史料はみつかりませんでした。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第85番 満行山 航浦院(こうほいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
沼津市西浦江梨149
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡

この札所は、札番からするとかなり離れたところにありますが、札番順にご紹介していますのでここでとり上げます。

こちらはもともと旧別格第8番の札所でしたが、平成31年4月24日より第85番霊場になっているようです。

もともと第8番霊場についてはナゾがありました。

〔 「こころの旅」掲載地図より 〕


第5番玉洞院は狩野川右岸の牧之郷、第6番金剛寺・第7番泉龍寺は狩野川左岸の山田川、第8番益山寺は山田川支流の小山田川を山側にふかく遡ったところにあります。
一方、旧別格第8番の 航浦院は駿河湾に面した西浦江梨にあります。

山田川筋から西浦江梨に向かうには、峠越えをして内浦に降りそこから駿河湾沿いを延々と西進する必要があります。

第9番澄楽寺は第5番玉洞院のそばなので、帰路もその行程ないし三津浜経由の大回りの行程となります。
航浦院は伊豆水軍の名族・鈴木(杉本)氏ゆかりで、白隠禅師が受戒したという名刹なのでこれを外すわけにはいかず、(旧)別格第8番というかたちで設定されたのかもしれません。

ルートからすると戸田の第87番大行寺のつぎに別格ないしは掛所として設定した方が巡礼者の負担は少ないですが、そうはできない何らかの事情があったのかも。

いずれにしても、この札所は西伊豆・戸田からも中伊豆からも遠く隔たった場所にありますが、正式に第85番札所となった以上、避けて通れない存在となりました。

かなりの大回りにはなりますが、近くには伊豆の七不思議とされる大瀬崎大池・大瀬神社もあり、駿河湾の浦々を辿る県道17号沼津土肥線は優れたドライブ・ルートなので、訪れる価値は充分あると思います。

航浦院は、紀州から西浦に移住し、伊豆水軍の雄として約二百数十年間にわたり西浦一帯を治めた鈴木氏(杉本氏)の菩提寺です。

『豆州志稿』には、文明年間(1469-1487年)に地頭の鈴木繁用が父・繁郷冥助の為ニ造立とあり、僧・業道(業堂寿和尚大禅師とも)による開山とされています。
(1330年頃の創立という説もあり。)

開基の鈴木(杉本)氏は西浦江梨を根拠地にした伊豆水軍の雄で、その経済力を背景に菩提寺として営々当山を外護してきたものとみられます。
杉本左京大夫繁郷の法名は「航浦院殿江巖道海大居士」で、当山の院号はこちらと関連のあるものと思われます。
また、萬行山の山号は近くにあった萬行寺ゆかりのものとみられています。

『豆州志稿』によると、寛政年間(1789-1801年)僧・神洲が再興しています。

『豆州志稿』には「江梨村 臨済宗円覚寺派 田方郡奈古谷國清寺末 本尊阿彌陀 文明中(1469-1487年)地頭鈴木繁用其父繁郷冥助ノ為ニ造立ス(略)僧業道ヲ開山トス 後寛政中(1789-1801年)僧神洲再興ス 本尊ハ鈴木繁用ノ男繁宗ノ女ノ祈念佛也 観音堂在リ」とあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

このエリアは伊豆半島にはめずらしい北向きの海岸ですが、当山は南傾の高台にあるので陽光降りそそぐ明るい山内です。

航浦院はこの高台に、円覚寺百観音霊場第32番廣大山 海蔵寺とともにあります。
城郭を思わせる石垣を幾重にも巡らし風格がありますが、山門はありません。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂

参道手前に寺号標。その先には札所標もありました。
曲がり参道で階段を昇った中庭の左手に本堂があります。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂札所板

寄棟造銅板葺で向拝柱はありません。
向拝正面硝子扉のよこに札所板、上には山号扁額が掲げられています。

御本尊は開基・鈴木繁用の男(子)繁宗の女(室)の祈念佛と伝わります。


【写真 上(左)】 半僧坊大権現の堂宇
【写真 下(右)】 同扁額

庫裡のそばにもうひとつ堂宇があり、こちらは半僧坊大権現のお堂かと思われますがこちらにも伊豆八十八ヶ所の札所板が掲げられていました。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 半僧坊大権現の御朱印 〕





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