シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

運命が分かれた列車

2024-03-11 15:48:30 | きょうは何の日?
東日本大震災から13年。

私も東京の物流倉庫で仕事をしていて、あの地震に遭った。
天井には大きな看板や、配水管が剥き出しで通っている。
その下で揺れを感じ、座り込んだ。
その時初めて、これで死ぬだろうと思った。
ガタガタではなく、
ガッタンガッタンという、規則正しい大きな音は
今でも耳に残っている。

収まったあと見ると、
看板はいくつも落ち、配水管からは水が漏れている。
だが、職場でケガをした人はいなかった。
とにかく、お客様宛の荷物を濡らさないように移動する。

その頃、東北では津波が押し寄せていたが、
私達は知る由もない。


後年、スマホの記事でチラっと見ただけなので、
細かいことは覚えていないのだが、
このような記事があった。

あの日、JRの海岸線を走る路線、
たぶん仙石線か気仙沼線だったと思うが、
途中のある駅で上りと下りの列車がすれ違った。
単線のこの線は、
途中駅で上下の列車が待ち合わせをする。

山の中腹にあるその駅で、
14時45分発の上下の列車が、同時に出発した。
一方は、これから山に向かう列車。
もう一方は、海へ向かって下っていく列車。

その1分後、大きな地震に遭遇する。
双方の列車は止まり、その場所で動かなくなった。
やがて津波が押し寄せる。
山に向かった列車は被害はなかったが、
海へ下った列車は、津波に飲まれてしまった。

海への列車に、どの程度津波の接近が伝わっていたかは、
記事からは、はっきりわからなかったが、
おそらく乗員、乗客とも降りて逃げれる場所ではなかっただろう。


同じ時刻に出会い、反対方向に出発し、
そのあと運命を分けることになった2本の列車。
私が、職場の仲間の無事に安堵し、
荷物を移動させているその時、
東北ではこのような出来事が数多くあったのだ。

同じ揺れを体験したが、
東京の私達は、山に向かった列車。
東北の人々は、海に向かった列車。
その列車に乗っていたのだと考えるしかない。

今、出会った人と、
1分後に明暗を分ける人生なんて、誰にもわからない。






ハロウィンを思う

2023-10-31 14:51:57 | きょうは何の日?
今日はハロウィン。
日本でもすっかり定着したが
ただの仮装好きが騒ぎまくる日という風潮になり
毎年この日は、マイナスイメージばかりが報道される。

渋谷も今年は『完全封鎖』のような状態で
一昨日の日曜日は、静かな夜だったという。

それにしてもこのハロウィン。
私にはどうも馴染めない。
私は、正月から大晦日まで、 一年の行事やイベントはどれも好きで
無くしてほしくないと思っている。
でも、このハロウィンだけはなんとも興味がない。
外国の民族祭りが起源だから、というわけではない。
それならクリスマスもバレンタインも一緒だ。
どちらかといえば楽しい部類に入り、 子供も大人も楽しめる行事だ。
嫌いになる理由はどこにもない。

あえて言えば、 仮装やコスプレに興味がないのと、
子供の頃から見てきた行事ではないから、ということだ。
小さい頃から親しんできた日ではないし、 思い出も少ないから・・
というのが本当の気持ちである。

そういえば、何年前かと比べて街にもあまり、
かぼちゃのおばけ「ジャック・ランタン」の姿を見なくなった。
以前は10月に入ったとたん、街を占領していたが
やはり、マイナスイメージのあるこの日、
企業や店も、広告塔としての効果が期待出来なくなった、
そういうことかもしれない。

以前のバイト先で、バレンタインに興味がないという男性がいた。
そういう行事そのものに関心がないという。
単純にお祭りとして楽しめばいいのに、と思ったものだが、
今日は自分が反対の立場になってしまっている。

十数年前に知り合った大学生の女の子は、
一年のうちで、ハロウィンが一番好きで、
10月31日は、とっておきの仮装をして、
学食でみんなにお菓子をばらまくのだと言っていた。

その子はもう、とうの昔に卒業してしまったが
きっと、大学では今もまた同じように楽しむ子がいて、
今日は張り切っているのだろうな・・と思う。
若い人たちには、今日はマイナス要素はないかもしれない。

今日のスーパーでは、
ジャック・ランタンの隣に、もう鏡餅が売られていた。

敬老の日なので

2023-09-18 11:37:44 | きょうは何の日?
今日は敬老の日。

敬老の日は、
「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」
(国民の祝日に関する法律『祝日法、第2条』)
という趣旨である。

との事で、自分自身には全然関係ない日であった。
しかし、還暦となって最初の敬老の日。
該当者の仲間入りをするのかと思っていたそんなタイミングで、
先日息子から電話があった。

12月7日に子供が生まれる。
男の子らしい。
お父さん、ついにおじいちゃんになるのでよろしく。

私の第一声は「おじいちゃんなんてイヤだよ」
もう、これは本音なのだ。
初めての親となる息子夫婦には悪いが、
とにかく私は、おじいちゃんになるなんてイヤなのだ。

若ぶっているわけではないし、
歳相応に暮らしていくのが理想と考えている。
でも、子供自体があまり好きではない。
他人の赤ちゃんを見ても可愛いと思えたことがない。

これは、私の性格なので仕方ないと思って頂くしかない。


でも、近所の人にその話をしたら、
『○○さんも子供嫌いの人だったのに、
初孫が生まれた途端、ジイジ、バアバと呼ばせて
もう孫にべったりだよ。Kさん(私のこと)もそうなるよ』

新しい職場でもその話をしたら、同僚の女性が、
『それじゃ、おじいちゃんと呼ばせずに、
Kさんの下の名前で呼ばせたら?』

孫が祖父を下の名前で呼ぶ。
それも聞いたことがないが、
私としては「いや、そういう問題ではないんです(^^; 」

要は、子供があまり好きではないところに、
祖父という立場になってしまうのがイヤなわけで、
実は避けようのない話なのだ。

でも皆共通しているのは、
『孫ができたら可愛いと思えるよ』との言葉だった。


ともあれ、3ヶ月先におじいちゃんになってしまうが、
しっかりした、いい祖父になれるよう
今の二つの仕事を頑張ってやっていきたいと思う。
それから趣味もそうだ。
孫が、おじいちゃんの趣味っていいなと思えるようなもの。
私の場合、今は寺社めぐりであるが、
それでもいいかなと思っている。
自慢出来るもの、誇れるもの。
祖父として必要なことは多い。

「恥ずかしくないおじいちゃんに」
これが、私の敬老の日の誓いの言葉になるかな・・。

父から母への手紙

2023-06-18 10:01:11 | きょうは何の日?

一昨年、母が亡くなった直後、

私は棺に納める品を選んでいた。

その中で手紙の山が出てきた。

かなり古い手紙も残っていたが、

その内の一通が目に止まる。

父が母に宛てた手紙だった。

 

結婚前の日付だったので、

お付き合いをしていた頃だったのだろう。

人の手紙を読むのは好きではないが、

さすがにこれは一読したいと思い、開けてみた。

 

白い便箋に万年筆のタテ書き。

この時代の典型的な手紙スタイルだ。

達筆でもヘタでもない父の字だったが、

目を通してみた。

 

 

母の事を「ちゃん」付けで呼んでいる。

『逢いたい』などという字も使っている。

そして、『今度お父様に挨拶に行きたい』という、

かなり最終章に近い状況での内容だったと知る。

 

ラブレターだのラブコールだの、

こういった言葉とは無縁と思っていた父の、

衝撃的な手紙である。

 

見てはいけないものを見てしまった・・。

と同時に、

この手紙を大切に保管していた母をも思う。

父からの手紙は、この一通だけだった。

 

手紙は棺の中に納め、

母と一緒に、差出した父の待つ所へ旅立った。

60数年ぶりの手紙を見て、おそらく父は、

『こんなの書いたっけな。覚えてないや』と

しらばっくれたに違いない。

 

 

父が亡くなって7年。

母は2年になる。

 

この話は、家族にも弟にも親戚にもしていなかったが、

父の日の今日、

ここでエピソードを残したい。

 


祖母と母

2023-05-14 05:32:41 | きょうは何の日?

私が小学校2年の時だ。

母の母、つまり祖母が病気で入院した。
ある時、お見舞いということで
家族で、山梨県の母の実家まで行った。
 
なぜかその日は、母の姉妹も大勢来ていた。
午前中お見舞いに行き、
そのあと母が一人でまた病院に行った。
しかし、なかなか帰ってこない。
 
私は叔母に、「お母さんいつ帰ってくるの?」と聞くと
叔母は「あんたもお母さんいないとさびしいでしょう?
だからお母さんも、おばあちゃんのそばにいたいの」と答えた。
「お母さん大人なのに、何でさびしいの?」
と聞いたが、叔母はそれ以上何も言わなかった。
 
 
何日後かに、祖母は亡くなった。
再び山梨に向かう。
当時はどこも、斎場ではなく家で葬儀を出していた。
私は生まれて初めて見る葬儀だった。
祭壇や花輪、お坊さんに多くの弔問客など、
不謹慎ながら興味津々の席だった。
 
しかし、通夜ではどこか賑やかだった雰囲気も、
翌日の告別式は、重苦しい空気に包まれていた。
そして出棺となった時、
母も、気丈だった叔母も、
人目をはばからずに泣いた。
 
のちに知ったのだが、
あの時、お見舞いといって大勢集まったのは、
医者から、早いうちに会いに来るように言われていたからだった。
母も叔母もあの時は、
母親ではなく娘だったのだ。
 
 
 
知人の女性で、とてもしっかりした人で、
めったに泣き言や落ち込む事がない人がいる。
しかしその人は言った。
『私は本当に困った時、今でも仏壇の母に相談します』
 
 
母の存在の大きさは、
いつまでも変わらないものなのだろう。
 
 
きょうは、母の日。
 
 
 
母ありて われかなし 
母ありて われうれし
母ありて われよぢれ 
母ありて われすなおなり 
母ありて われ寒し 
母ありて われあたたかなり
 
これが不思議ではないのが不思議です
 
サトウハチロー
 

50年前の鉄道の記憶

2022-10-14 09:17:47 | きょうは何の日?

今日は鉄道開通150年の日。

全国各地で記念のイベントが開かれている。

 

自分の最大の趣味であった鉄道。

でも歳を取るにつれて魅力が無くなっている。

元々、廃線やら昔のものに目が行く方だったので、

進化し続ける新しい電車や駅には関心が薄れている。

 

1972年(昭和47年)は私が鉄道を好きになった年。小3だった。

たまたま学校で、西武線の駅名を順に言ったところ

友達から「鉄道の神」扱いされたのが始まりだったと思う。

そしてこの年は、鉄道開通100年の年だった。

 

その100年イベントの一つとして、夏の小海線にSLが走った。

山梨出身の父は、突然このSLに乗りに行こうと言い出したが、

元来鉄道など興味のない父は、出かける数日前に時刻表を買ってきて、

小淵沢発が午前4時台と知って諦める。

が、11時台の普通列車に乗れば途中の甲斐大泉で

折り返しで戻ってくるSLとすれ違う事を知る。(これは私が見つけたのだが)

そして小淵沢までは車で行き、その11時発の普通に乗った。

 

時刻表通り、甲斐大泉では対向のSL「C56」が停車していた。

一番前で、運転席のすぐ横で立って見ていた私に運転士が

汚れた軍手のまま私の手をつかみ『ほら、SLだよ!』と声をあげた。

気動車だったこの列車は、今の運転室のような囲いがなかった。

この時の軍手の運転士さんへの感激は今も忘れない。

 

その2年後の夏には、親戚と北海道に行った。

鉄道好きな私のために、叔父は東北本線のブルートレイン「ゆうづる」や

函館からの特急の指定席を求めたが、どれも満席だった。

やむなく飛行機で行ったが(飛行機に乗ったのはこの時が初めてだった)

北海道の地平線が見え、飛行機も千歳に近づき高度を下げた時

その地平線と平行するように走るSLと白い煙が見えた。

室蘭本線の下り列車だった。

この年限りで、日本全国のSLが全て廃止になったが、

この光景は、今でも忘れられない。

 

 

その後は鉄道というものに近付いたり離れたり、

150年の鉄道だが、私はちょうど50年の歴史だ。

普通列車だけを乗り継いで青森まで行き青函連絡船に乗り

稚内まで行ったりもしたが、もうこんな旅は体力的に無理だ。

でも新幹線で一気に日本の端まで行きたいとも思わない。

やはり自分の中では、ディスカバージャパンのような旅が残っているのだ。

 

子供の頃感激したSL。

今は各地で走り、乗る事が出来る。

しかし、これまで生涯一度も乗った事はない。

観光用ではなく、普通に生活として走る列車が好きなので

SLにもそれを求めてしまっているのかもしれない。

 

 

撮り鉄やら指定席のネット予約やら

限定販売やら即時完売やら

そして次々に廃止される駅や線路と、やたら力の入っている『新幹線』。

どこか今の鉄道には付いていけない。

私はあの小海線と室蘭本線のSLの感動を忘れずに

今後も、失われた線路を見つける旅に出たいと思う。

 


日本一の妻でした

2015-11-22 16:24:54 | きょうは何の日?
今日は、いい夫婦の日。

私と妻も、今年結婚25周年。
銀婚式だった。

だった、というのは、
6月の結婚記念日の時に
特に何もしなかったからだが、
まあ、空気のような存在でも
それはそれで良いと思っている。


夫婦の理想とか、
感謝の気持ちとは何か。
答えの表しにくいものだと思うが、
ある言葉が、今も心に残る。


もう10年前くらいだったが、
近所の商店のおばさんが亡くなった。
私も子供の頃から買い物に行くと、
ハキハキと応対してくれる、
元気者のおばさんだった。

しかし、歳をとるにつれて、
近所付き合いも減ってきた。
認知症になられたとの事で、
人前に出る事がなくなった。
そして、間もなく亡くなられた。


葬儀には、商店会の人を中心に、
多くの参列者が見送りに来た。

出棺の前の、喪主の挨拶で、
夫が言葉を述べた。
このおじさんも、人の良い商店主だった。

認知症の妻を支えて、
さぞ苦労した事だろう。
もしかしたら、ある意味ホッとした、
そんな思いでは・・?と思った。
しかし、おじさんは述べた。

『女房は、最後は皆様の前に出る事も出来ず、
本当に皆様には失礼いたしました。
私の顔もわかっていませんでした。
でも、私にとって、
女房は日本一の妻でした!』

そう言って号泣された。


夫婦を考えた時、
このおじさんの言葉を思い出す。
『日本一の妻だった・・』
私は、妻に先立たれたら、
大勢の人の前でそう言えるかと。

ホッとしたかもなんてバチが当たる。
おじさんとおばさんは、
日本一の夫婦だったのだ。


おじさんも数年後、
奥様の元へ旅立たれた。
日本一の妻と、
どんな会話をなさっているだろう・・。

銭湯の日

2013-10-09 12:10:26 | きょうは何の日?
明日、10月10日は「銭湯の日」。

言うまでもなく、千と10のごろ合わせである。
さらに、もう一説として、
1964年の、東京オリンピック開幕日であり、
長く「体育の日」でもあった。
『運動と入浴は密接な関係』ということで、
この日に決まったという。

制定したのは、東京・江東区の浴場組合だという。
ここから、全国的に広まった。
一つの区の業者の提案から、というのも珍しい。

ごろ合わせにしても、
運動との関係の、ややこじつけにしても、
秋のこの季節は、銭湯への魅力を感じる時期でもある。


ところで、銭湯にはルールがある。
入った時に、どこのカランを使うかということだ。

その銭湯に初めて行った者は、
入ってすぐの、目の前のカランを使う。
入口近くで、人の出入りや扉の開け閉めなど、
一番落ち着かない場所に、
「新人」が座りなさい、という事だそうだ。

端の、大きな鏡のある列は、
そこの常連が使う。
もちろん、決まりではないし、
銭湯のカランなど、基本は「自由席」。
だが、言われてみれば一理ある。

昔は、こういった常連が、
ふざけている他人の子供でも注意したものだ。
銭湯を通じて、地域の人達のつながりを持ち、
叱ったり叱られたりの関係で、マナーを学んだのだ。


今は銭湯自体が減り、
スーパー銭湯や、レジャー施設のような店が増えた。
ルールやマナーなども希薄になり、
書いてあるのは、『入れ墨お断り』の文字だ。
そういえば、私も子供の頃銭湯に行ったが、
立派な入れ墨の人が、必ずいたように思う。
昔はおそらく、
そういう人は、銭湯でトラブルなど起こさなかったのだろう。
でも今は、お断りという時代になったのだ。

銭湯の日は、無料になる店も多いらしい。
かなり混雑する店もあるようで、
本当の意味で、銭湯の風情や良さはわからないのではないか。

江東区の知人の、中学生の娘さんも、
明日は友達と行くのだという。
中学生くらいが一番、風呂のマナーを知ってほしい頃であるが、
友達とワイワイ行くのも楽しいことだろう。


写真は、東京都内で一番古い銭湯だという、
江戸川区の「あけぼの湯」。
銭湯の日を制定したのも江東区だったし、
朝風呂の発祥は台東区の銭湯と聞く。


風呂の文化は、東の下町からやって来る。

東京スカイツリー開業一年

2013-05-22 10:40:10 | きょうは何の日?
東京スカイツリーが、今日で開業一周年となった。

東京に住んでいて、高い所が好きな私だが、
スカイツリーはまだ行ったことがない。

建設中の頃から、何度か近くまで見に行ったことがある。
東京の新しい顔として興味はあった。
しかし完成後は、絶対に行きたい・・という思いがない。


東京タワーのように、
華やかで見栄えのする・・という塔ではない。
どちらかといえば、京都タワー的な地味な外観だ。
いや、京都タワーのほうが目を引く。

そして、東京タワーは東京の中心にあるが、
下町の一角というスカイツリーは、立地的にも今ひとつだ。
浅草や隅田川など、下町の風景は、
平面から見るのが美しい部分が多い。
上から見下ろすのは・・という気もする。


何はともあれスカイツリー。
東京タワーと一緒に、東京の顔となってほしいものである。





瀬戸大橋25周年

2013-04-10 09:29:30 | きょうは何の日?
本州・児島と、四国・坂出を結ぶ瀬戸大橋が、
今日で開通25年を迎えた。

1988年4月10日。
本州と四国が、初めて橋で結ばれた。
道路と鉄道の併用橋であり、
車と列車の両方で渡ることができるようになった。


翌年、1989年の1月。
私は、ひとりで瀬戸大橋への旅をした。

岡山からの「マリンライナー」で丸亀に渡り、
そこからは船で児島へ戻った。
鷲羽山からの瀬戸内海を眺め、
下津井電鉄に乗る、のどかな旅だった。


高校二年の修学旅行が四国で、
その時は宇高連絡船に揺られていった。
それから8年後の四国だったが、
白く巨大な橋は、瀬戸の青い海に映えて美しく流れていった。

瀬戸大橋が昔からあったら、
「瀬戸の花嫁」も、「瀬戸内少年野球団」も、
あるいは「二十四の瞳」も生まれなかったかもしれない。


このころ、一人の好きな女性がいた。
何を買ったか忘れてしまったが、岡山でお土産を買った記憶がある。
そして、そのお土産とともにお付き合いが始まった。
それが今の、私の妻である。

この旅が、独身時代の私の最後の一人旅となった。


今はもう、宇高連絡船はない。
下津井電鉄も廃止された。
本四も、3つの橋が架けられて、
四国は本州と同じ感覚になった。


先日、職場で高松出身の若い女の子と話をした。
彼女は、宇高連絡船どころか、
生まれたのが瀬戸大橋の開通後だという。


あれから四半世紀が過ぎた。