ベスト8が出揃った。
準々決勝は、明日と明後日の、二日間に分けて行なわれる。
しかし、以前は準々決勝といえば、
一日四試合が行なわれた。
それが「準々決勝」であり、当たり前のことであった。
28年前。
1979(昭和54)年、4月5日。センバツ準々決勝。
この日は朝からどんより曇り空。
そして、午前中には雨が降り始めた。
この大会は、3日目の朝に痛ましい事故が起きた。
地元の、PL学園と浪商高校が揃って登場した日だったが、
観衆が多く、甲子園球場入口で将棋倒しになる事故が発生。
PLを応援に来た小学生二人が、犠牲になった。
降りだした雨の中。
この日は、二人の葬儀がしめやかに行なわれた日でもあった。
二人が楽しみにしていたPLと浪商は、ともに勝ち上がり、
この日の準々決勝も勝って、ベスト4へと進んでいった。
午後から、雨脚はいっそう強くなった。
普通ならば、そのあとの試合は中止・順延となるはずだ。
しかしこの大会は、すでに雨で二日伸びていた。
これ以上、順延はできないと判断された。
その、大雨の中、準々決勝第四試合は強行された。
東洋大姫路 対 池田。
プレーボールから、すでにグラウンドはぬかるんでいた。
しかし、試合はきびきびと進行し、
東洋大姫路が8-2、6点リードで、
とにもかくにも、最終回まで来た。
しかし、池田はここから「伝説のような」攻撃を仕掛けた。
ぬかるんだグラウンドのため、とにかく打球は止まる。
打者は、全員一塁へヘッドスライディング。
水しぶきを上げ、滑って、ことごとくセーフになった。
ベンチ前では、池田・蔦監督(故人)が、
ずぶ濡れになりながら、選手と一緒に立っていた。
「選手が濡れとるんやから、監督も一緒になるのが普通じゃろ」
それは翌日の新聞で、「胸を打つ光景」と紹介された。
池田は、粘ったが、
5点を返したところで、ゲームセット。
あと一点が届かなかった。
選手は、ユニフォームも顔も泥だらけだった。
今は、選手の健康管理が第一である。
たとえ一試合でも、極力順延するようになっている。
そして、準々決勝も、選手の疲労を考え、
春も夏も、二日間、二試合ずつに分けられるようになった。
28年前の、
このカクテル光線の中の壮絶な試合は、
記録に残るゲームではない。
しかし、ファンの間では語り継がれている「雨中の試合」。
そして、センバツ準々決勝というと、
私も必ず思い出す「名勝負」である。
写真は、蔦監督。
試合後、「しんどい試合じゃったが、よう頑張った」と、
選手をねぎらったという。