シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

ハイドン『天地創造』への想い

2023-05-31 11:00:00 | 音楽を聴く

今日は、 ハイドンの命日である。 

1809年5月31日に没したハイドン。 「交響曲の父」として、あまりにも有名だ。
 
私はハイドンの曲の中では、交響曲第100番・「軍隊」が一番好きである。
高校の卒業を間近に控え、友人と離れる寂しさと、
大学生となる希望への複雑な想いの中、ラジオから流れた曲である。
この曲を聴いて、新しい元気を貰い前を見ていく気持ちになれた。
 
しかし、私の中でのハイドンといえば、 やはり『天地創造』だ。
「創世記」に基づく、 ガブリエル・ウリエル・ミカエルという3人の神の下、
天地・動物・そして人間が誕生する、
3部から成る、壮大なオラトリオだ。
 
 
独身時代、私は都内の合唱団に入団した。
ちょうど、次に取り組む曲が「天地創造」だった。
宗教曲はあまり好きでなかった私だが、 「天地創造」は違った。
レクイエムのような人の輪廻ではなく、 また、神を讃える延々としたメロディでもない、
勇壮で、軽快で、ロマンを抱く曲だった。
 
神は、まず光を創られた、という詩から始まり、
「eine noie wert」 第一日目に、新しい世界を創られた。
そして、二日目、三日目と万物を創られ、
最後は、アダムとイブの誕生まで、 一週間の創世記が歌われる。
 
 
合唱団でこの曲を始めるにあたって、 ちょうど係の改選があり、
私は、テノールのまとめ役を任された。
入団したばかりだったが、 若いということで期待されたのだろう。 一生懸命頑張った。
同じく、 ソプラノのまとめ役に選ばれたのも、
入団したばかりの、私と同い年の女性だった。
必然的に、この女性とは話をする機会が多くなった。
練習期間は半年。 パートの出欠や、練習会場の確保、 そして合宿の準備など、
一緒に頑張ってきた。
 
夜遅くまでの会合もあった。
帰りは一緒に食事をしたり、
新宿の高層ビルの灯りの見える公園で話し込んだり、
明らかに合唱団の中では特別な女性になっていた。
 
当時25歳だった私達。
本番は、1989年の6月。
その直前の練習の帰り道、 私は彼女に言った。
「演奏会が終わったら、結婚してほしい」と・・。
 
 
演奏会は成功に終わった。
そして、 私と彼女は、一緒に暮らしていくという、
まさに、自分達の天地創造に向けて準備を始めた。
その年の10月に婚約。
合唱団の仲間にも報告し、祝福された。
翌1990年6月。 「天地創造」の演奏会から一年後に、私達は結婚した。
 
これが妻との出会いである。
 
 
あれから30年以上が経った。
一昨年、息子が結婚。その時に、
『結婚式の最後にお父さんの挨拶が欲しいから、何か考えておいて』
と言われていた。
 
私は迷わず、『天地創造』の第33曲、ウリエルの言葉をスピーチした。
息子も嫁さんも、とても感激してくれたのだが、
32年前、この曲が縁でお母さんと結婚したんだよ、
という事は言わなかった。
それは私自身の思い出にしたかったし、
息子夫婦に押し売りする気はなかったからだ。
 
 
結婚式で贈った言葉である。
アダムとイブが誕生し、
ウリエルが二人に向かって言った言葉だ。
 
 
O glücklich Paar, und glücklich immerfort,
Wenn falscher Wahn euch nicht verführt,
Noch mehr zu wünschen als ihr habt,
Und mehr zu wissen als ihr sollt!
 
『おお、この世に誕生した一組の幸福な男女よ。
二人はお互いに、相手に対し自分以上のものを求めたり、
知らなくてもよい事まで知ろうとする邪悪な心を抱かなければ、
永遠に幸福なり』
 

祖母と母

2023-05-14 05:32:41 | きょうは何の日?

私が小学校2年の時だ。

母の母、つまり祖母が病気で入院した。
ある時、お見舞いということで
家族で、山梨県の母の実家まで行った。
 
なぜかその日は、母の姉妹も大勢来ていた。
午前中お見舞いに行き、
そのあと母が一人でまた病院に行った。
しかし、なかなか帰ってこない。
 
私は叔母に、「お母さんいつ帰ってくるの?」と聞くと
叔母は「あんたもお母さんいないとさびしいでしょう?
だからお母さんも、おばあちゃんのそばにいたいの」と答えた。
「お母さん大人なのに、何でさびしいの?」
と聞いたが、叔母はそれ以上何も言わなかった。
 
 
何日後かに、祖母は亡くなった。
再び山梨に向かう。
当時はどこも、斎場ではなく家で葬儀を出していた。
私は生まれて初めて見る葬儀だった。
祭壇や花輪、お坊さんに多くの弔問客など、
不謹慎ながら興味津々の席だった。
 
しかし、通夜ではどこか賑やかだった雰囲気も、
翌日の告別式は、重苦しい空気に包まれていた。
そして出棺となった時、
母も、気丈だった叔母も、
人目をはばからずに泣いた。
 
のちに知ったのだが、
あの時、お見舞いといって大勢集まったのは、
医者から、早いうちに会いに来るように言われていたからだった。
母も叔母もあの時は、
母親ではなく娘だったのだ。
 
 
 
知人の女性で、とてもしっかりした人で、
めったに泣き言や落ち込む事がない人がいる。
しかしその人は言った。
『私は本当に困った時、今でも仏壇の母に相談します』
 
 
母の存在の大きさは、
いつまでも変わらないものなのだろう。
 
 
きょうは、母の日。
 
 
 
母ありて われかなし 
母ありて われうれし
母ありて われよぢれ 
母ありて われすなおなり 
母ありて われ寒し 
母ありて われあたたかなり
 
これが不思議ではないのが不思議です
 
サトウハチロー
 

タッチパネルの功罪

2023-05-07 16:33:17 | 世の中あれこれ

牛丼の松屋の券売機が新しくなったが、

使いにくくなったと批判や苦情が寄せられているらしい。

 


なんでも、牛丼一杯を頼むのに、

あちこちの表示を十数回押さないと

発券されないらしい。

わかりづらいレイアウトや、ムダなメニューが次々に登場、

一つ押し間違えると、希望してないものが送信されたり、

あるいは「最初からやり直し」になってしまうなど、

客側にとっては不便極まりないようだ。

各席にある、注文タッチパネルではなく、

入口の券売機なので、当然モタモタしてると後ろに客が並ぶ。

高齢者の客などは、途中で諦めて出ていってしまうという。

 

券売機の本来の目的は、牛丼店に限らず、

店側の負担軽減にあったはずだ。

だが、会社側が売りたい品を目につく画面に設定し、

誘導したい思惑が出たのと、

システムを、現場の事を知らない人間に丸投げするから

このような事態が起きているのだ。

牛丼店は、廉価で気軽に入れる向きの客商売。

客が諦めて出て行くようでは本末転倒だ。

 

 

私は、中華の日高屋が好きでよく行くが、

ここも席のタッチパネルが主流だ。

写真を見ながらゆっくり選べるのはありがたいが、

『何名様ですか?』

『未成年者、運転手へのアルコール販売禁止に同意しますか?』

『この内容でよろしいですか?』

『注文は以上でよろしいですか?』

『送信いたします』

『送信確認ボタンを押して下さい』

『画面を閉じて下さい』

 


と、こんなふうにしつこくタッチをさせられる。

そのたびにOKを押す作業を求められる。

店員を呼んで、「チャーハン!」の一言で済む時代ではなくなった。

当然、店員との会話は減る。

 


逆に吉野家は、店員に直接注文して

帰りに代金を払う昔ながらのシステムである。

なので「ツユだく」だの「ネギぬき」だの、

細かい要求がその場で出来る。

しかしこれはこれで、注文と支払いで二度店員を呼ぶことになるし、

混みあっている時は、後払いだと待たされてすぐに出られない。

タッチパネルの善し悪しは、たしかにある。

 


ファミレスもタッチパネルが主流だ。

家族で行く時は、娘に操作をすべて任せている。

若い世代は良いかもしれない。

でも私みたいに、子供の頃の買い物は現金を持って、

必ずお店の人と話しながら買っていた身としては、

食事も機械に振り回され、

無言で食べて出て行く現代を、少し寂しく思う。