AMASHINと戦慄

~STARLESS & AMASHIN BLOG~
日々ブログレッシヴに生きる

南の島の星の砂

2007年03月11日 | 本わか図書室
以前買いそびれた『文藝 冬 2002年』をヤフオクで入手。
Coccoが活動中止宣言をしてから1年半経った2002年の冬、予てから彼女がなりたかった絵本作家としての第一号作品『南の島の星の砂』が出版された時に、文藝がCoccoとこの絵本を大々的に取り上げた特集号である。

結構希少品なのに競り合う事もなく800円で落札。なんでか?
届いた商品を開けて見ると、表紙の左下がボキっと折れてた・・・・・・
「古い雑誌ですので焼け、折れや、擦れ、切れ、値札あと等があるかもしれませんこと、ご了承くださいませ。」というコメントがあったけど、いや、写真じゃこの折れ目はわかりまへんて!
カラフルなCoccoの絵がカモフラージュになっとったんですな。
他の閲覧者は気づいてたのか?
ま、それはええとして、本書の内容はCoccoのルーツなどが垣間見れてなかなか興味深かった。

まずCoccoが幼い時に読んだ「10冊の絵本」がCoccoのコメント付きで紹介されている。
その中の『つきのぼうや』という絵本は確か幼い頃私の家にもあったような気がする。縦長の形状が実に印象く記憶に残っている。
『ねないこだれだ』は、Cocco3rdアルバム※『ラプンツェル』に同名曲が収録されており、子供を諭すようなオドロオドロしい曲調がこの絵本のイメージとピッタリあてはまる。
ちなみに『ラプンツェル』というアルバムタイトル自体、Coccoの好きなグリム童話『髪長姫』から由来したもので、ジャケのタッチはCoccoの絵本と同じ画法が使われている。
確かにCoccoの歌には、赤子に童話を語って聞かすような母性的な包容力のある曲が多く見受けられる。それはおそらく、自分が幼い頃母親から受けた深い愛情からの影響もあるのだろう。

Coccoは自分と髪長姫とを重ねていた。


あと、“絵”、“海”、“星”など、12のキーワードごとにCoccoが語る「12色のことば」では、この絵本のテーマだとか、画法だとか、沖縄を取り巻く現状とかが綴られているのだが、“歌”のテーマのところでちょっと気になる文があった。

「私はクレヨンで汚れたままの手を伸ばして歌を歌いました。届いたかな?いつかきっと届けるからね」

これは、この絵本の創作が後の『ゴミゼロ大作戦Vol.0』へと繋がり、いずれまた歌手として復活することを、この時ほのめかしていたのではないだろうか?

そして、文藝の表紙にもなっているカラフルなCoccoの自画像。
この自画像は大阪のdigmeoutまで原画展を見にいった時に原寸大のを間近で拝見したが、もう圧倒的な迫力で、そのCoccoの大胆な画法に度肝抜かれずにはおれなかった。
この自画像は絵本には掲載されておらず、現在では2002年12月発行の『SWITCH SPECIAL ISSUE』とこの文藝でのみ見ることができる。


※ラプンツェル:『ちしゃ』と訳されることが多いが、キク科のレタス(ちしゃ)を指してはおらず正しくはオミナエシ科の植物・ノジシャのこと。その栄養バランスから、妊婦が食べるのによいとされる植物である。

今日の1曲:『ねないこだれだ』/ Cocco
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きっかけは復讐

2006年12月29日 | 本わか図書室
Coccoが表紙の『広告批評』1998・6(NO.217号)をヤフオクで落札購入。
これはかなりの希少本であるかと。


1998年といえば、2nd『クムイウタ』がちょうどリリースされた頃で、私が初めてCoccoの音楽に触れた年でもある。




本書の内容はかなりよかった。
まず壁の隅に後ろ向きで立っているCoccoの表紙がシュールでええ感じ。
ほんでこの頃のCoccoの定番のファッションである水色のNIKEのジャージにGパンスタイルがいい。
ジャージ正面には“雛豚(ひよこぶた)すき”という、わけのわからぬ言葉がマジックで殴り書きされてある。
やっぱ変わった娘だ。




インタビューの内容もなかなかディープで、デビューして1年目の等身大のCoccoが浮き彫りにさており、Coccoを形成したルーツ的な背景などもかなり掘りおこしてくれている。

その印象深かった箇所をいくつか紹介しよう。

「バレリーナになるために東京にきた」

このことは今となっては周知のことだが、現在でも一番好きなのは踊る事らしい。
「やわらかな傷跡」のPVでも草原で伸びやかにバレイを踊っている姿が実に印象的である。
子供の頃はバレイ教室に通うためお金を稼いで全部自分で授業料を払っていたそうな。好きなことに打ち込む根性はハンパないのだ。


「最初は歌わされた」

Coccoは歌を歌うことは最初べつに好きではなかったらしい。レコード会社の人の前で歌ったら上手いと褒められたので、「作品にしたら儲かるぜ」「そりゃーいい」というノリで歌を作り出したのだという。
最初に作曲したのは「首。」。この曲は最初ビクターから拒絶されたそうだ。この曲を耳にしたプロデューサーの根岸孝宗氏が「あいつらバカだ。なんでこいつを世に出さないんだ?自費で俺が出す。」と言ってbounceレコードからEP『Cocko』がリリースされる。




「ただ自分が眠るために歌ってる」

疲れて寝ようとしたら、タンタターン♪ちゅう感じで字幕みたいに言葉が出てきて、それを歌にして出してやらないと眠れなかったのだそうだ。完全に歌の神様に魅入られたとしか思えない話である。
ほとんど垂れ流し状態で、出してない曲でアルバム作ろうと思ったら3枚は作れるのだそうだ。だったら3枚組アルバムとか出して欲しかったな。
英詩の歌も全部英語で出てくるのだそうだ。ちなみに英語は全然わからなかったらしい(ホンマか!?)。

ところで、沖縄には“ユタ”という霊媒師がいるのだが、子供の頃、Coccoにはユタの資質があったという。
他の人に見えてない人がいっぱい見えたのだそうだ。
ユタの人に「あなたはユタになりなさい」と勧められたが、母親が強く反対したのだという。
英詩の歌が降りてきた時にはCoccoの中には、英語圏の霊魂が憑依してたんではないだろうか?


「あっちゃん(Coccoの自分の呼び名)を捨てた人とか残して死んだ人とか、みんな後悔させるくらいの人になるぞって思ってた」

「復讐からなんにも生まれないっていうのは信用してないの。だって、Coccoは絶対復讐から始まってる。ほかに理由なんてなかったんだから。歌がすきだからとか、そんな理由、こっぱみじんもなかったし、ただもう、すごい人になって後悔させてやるってだけで。」

キレイ事や、体裁を整えるがためのカッコつけた事ばかりぬかしてるやつらに聞かせてやりたい痛烈な言葉である。
この辺が他のアーティストとかとは全然違う点である。
彼女にとって歌を歌うことは“自分が眠る”ため、そして“復讐するため”の手段に過ぎなかったのである。

私はこの記事を読んで、ブラックジャック19巻230話「復しゅうこそわが命」のエピソードを思い浮かべずにはいられなかった。

ブラックジャックが家族を殺したんだと誤解し復讐しようとする患者を敢えて自分のところに置いて、治療、リハビリを施すブラックジャック。



ただ、2nd『クムイウタ』の時点ではもう復讐しようという気持ちは消えてたのだそうだ。
それは歌うことによって“痛い”を出す事でやさしくなれるという事を1st『ブーゲンビリア』を完成させて気付いたからである。
確かにこのアルバムはCoccoのメラメラと渦巻くドス黒い復讐心が生々しく感じられる作品なのだが、女々しくてドロドロしてるというより、聴いていてなんか鬱積したものを全て吹き飛ばすような爽快感がある。
まぁ歌詞だけ読んでいると重いと感じるかもしれないが、Coccoのあの魂の叫びのような生々しい天然ともいえる歌声が、それを全て浄化させているのだと思われる。
それ程に彼女の歌声は強烈なのだ。


そして、Coccoは「復讐してる暇はない。自分のために生きるぞ。」と、達観するのである。


最後にCoccoはこうも言っている。

「でも、復讐するぞって戦ってた自分も嫌いじゃないし、いとおしい。それがなかったら歌おうとも思わなかったし、今のCoccoもいなかったんだしね。」


私もこの頃のCoccoがいとおしい。





今日の1曲:『首。』/ Cocco
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新興宗教オモイデ教

2006年12月03日 | 本わか図書室
11月末で期限切れになるブックオフの100円割引券を消化するため、久々に小説を購入。
昔けっこうファンだった筋肉少女帯のヴォーカリスト大槻ケンヂ著の『新興宗教オモイデ教』という長編小説で、大変読みやすい内容だったので一気に読み終えてしまいました。
カヴァーイラストは丸尾末広さんですね。

その内容は・・・

主人公ジローの同級生だった不思議少女なつみさんが、“オモイデ教”という新興宗教の信者になってしまい、ジローも彼女に誘われるがままオモイデ教に入会してしまう。そこで“メグマ波”なる電波を使って人を発狂させてしまう「流誘メグマ祈呪術」という業を身につけ、“つまらない人間(悪しきもの)”を始末するという計画に巻き込まれていく。
そして他の宗教団体との泥沼の抗争へと発展していくのであった・・・

まぁいかにもオーケンらしいドロドロとした世界が展開されており、ところどころでオーケン個人の音楽的趣味のギミックが使用されているのに気づく。たとえば、主人公と中間というミュージシャンくずれの信者が談話するいきつけのバーの店名が「ポセイドンの目覚め」だったり。

筋少の詩世界も物語の随所にちりばめらている。
「新興宗教」というカルト的な発想は“僕の宗教へようこそ”、“新興宗教オレ教”など、筋少の詩の中ではもうお馴染みのテーマとなっている。
「つまらない人間を抹殺する」という発想なんかは“飼い犬が手を噛むので”の詩の内容そのものだし、「電波で人を殺す」という発想は“電波Boogie”、“妄想の男”の詩に出てくる。
あと物語の中で「トー様の足下にすり寄って来た猫のお腹がパックリと割れて、赤いバラの花が溢れだしたり」という下りは、筋少の楽曲を嗜んでいる者なら“猫のお腹はバラでいっぱい”の歌詞を思い浮かべて思わずニヤリとしてしまうだろう。
まぁ筋少うんぬんを抜きにしてもクセのある登場人物といい、わかりやすいストーリー展開といい、エログロナンセンスな描写といい、構成はかなりシッカリとしており、オーケンの卓越した文才が光るなかなかオモシロい物語です。(巻末の解説でも永井豪先生がマンガでそれを力説しておられます)

大槻ケンヂという人物は、インディーズ時代から新興宗教の教祖様というキャラ設定が好きらしく、カリスマというか、そういうキャラを自ら演じていた節があり、これは一種のコンプレックス、あるいは変身願望だったのではないか。
ナゴム時代のテクノバンド、空手バカボンのアルバム『バカボンのススメ』の冒頭でも、“バカボン教教祖伊集院明美”というキャラで登場したり、筋肉少女帯の名曲“キノコパワー”のPVでは、“ラリパッパ教教祖大槻ケンヂ”として登場している。



私も女の子としゃべれなくてクラスでハミってた高校生の頃、筋少の音楽と出会い彼を教祖的な存在として崇めていたような青い時期があり、筋少のアルバムは全て所持していたし、彼の詩集『リンウッド・テラスの心霊フィルム』なんかも購入するぐらいの妄信ぶりであった。
しかし、シングル『元祖高木ブー伝説』が爆発的に売れ、その独特のカルト的キャラにより人気を博しメディアに進出し始め、CMやゲーム音楽とのタイアップなどによる商業的な開き直り、気の弱さを売りにしているような胡散臭さが鼻につくようになり、第一に音楽そのものがつまらなくなったので(正直筋少がよかったのは『踊るダメ人間』までだと思う)もう大学に入った頃にはすっかり醒めてしまっていた。

この小説の最後の方に登場するオモイデ教の教祖“トー・コンエ”という山師的な人物がオーケンとかなり重なり合うものがあり、主人公ジローは彼と出会い、この開き直った教祖が実は単なる妄想家の小心者で、“つまらない人間を抹殺する”という名目を掲げてはいるが、それは自分がコンプレックスや嫉みを抱いている者に向けられてたものであり、結局はこの教祖も自分自身も“つまらない人間”のひとりであることに行き着くのである。

最後に小説の中でトー・コンエがジローに歌って聞かせる唄の歌詞を以下に紹介しよう。

誰も詩など聞いてはないし この世界が皆、作りものなら
青い月夜に緑色の マストを広げて旅に出ようか
パノラマ島へ帰ろう

これは筋少の大ヒットアルバム『サーカス団パノラマ島に帰る』に収録されている“パノラマ島へ帰る”の歌詞の一部が引用されている。
今聴くと、世間に認められなかった負け犬の逃避行を歌ってるような、むなしく暗い歌である。

まぁでも、こういうのキライじゃないんだよなぁ。



今日の1曲:『詩人オームの世界』/ 筋肉少女帯
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダライ・ラマの本

2006年11月25日 | 本わか図書室
皆さんはダライ・ラマ猊下法王14世テンジン・ギャツォを知ってはりますか?

1935年、チベット東北部アムド地方に生まれ、2歳のとき先代13世の生まれ変わりと認められ、ダライ・ラマ14世となる。1949年の中国のチベット侵略に伴い、15歳で国家最高指導者となり、1959年に亡命しインドのダラムサラにチベット亡命政府を樹立。1989年にノーベル平和賞を受賞。


実は先月来日されており11月12日まで滞在し、東京都内や広島県内などで法話などの宗教活動や講演を行なっておられました。
チベット独立の精神的象徴でもある14世猊下を「分裂主義者」と位置付ける中国政府は入国させないよう日本側に求めていたが、“政治活動を行わないことを条件”に政府は入国を認めたとのことらしい。
このことはまず日本のニュースなんかではあまり取り上げられない。というのは、日本政府が中国のご機嫌とりをしているからというのだから情けないというほかない。
中国の圧力に負けてるから、日本の言論の自由指数は世界51位とのことらしい。


まぁ私自身ダライ・ラマやチベットの現状についてはビースティ・ボーイズのアダム・ヤウチが主催した「チベタン・フリーダム・コンサート」を通じてなんとなく知っておったのですが、ブラッド・ピット主演映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』でその経緯は大体把握できた。
中国共産党のチベット人民に対する虐殺行為の程度については、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言 第9巻』に詳しく載っているが、そのあまりの残虐な内容に(例えば年端もいかぬ子供に自分の親を銃殺するよう強要するなど)これがどうかよしのり氏のデタラメもしくは誇張であってほしいと願ってしまうくらいである。


Beastie Boys Clips From " Free Tibet " - 1998



そんな矢先、私の家に一冊の本がころがっていた。どうやら姉が買ってきたらしい。
『抱くことば』というタイトルで、帯に広末涼子の直筆コメント文がプリントされてある。
何の本だと思ったら、ダライ・ラマ14世が「生きる意味・愛・家族・怒り、悲しみ・望み」といったテーマに基づき、シンプルな言葉で綴ったエッセイ集というか名言集みたいな本で、グレート・ザ・歌舞伎町とかいうカメラマンが撮影したダライ・ラマのチャーミングな写真や、チベットの人々の素朴な生活の様子(この平和的なチベットの人々の顔ぶれからは迫害を受けているなんてとても想像がつかないのだが)の写真なども掲載されている30分程度で読める内容のもの。

とにかくダライ・ラマのことばは非常にシンプルなもので、宗教的な押しつけがましさや胡散臭さもなく、日常私たちが生活していて気付かないでいる当然の事柄を的確に述べていらっしゃる。
特に私のような心の狭い人間が読むと、本当に自分の器の小ささを痛感させられる。
とにかくことばのひとつひとつにダライ・ラマのサッパリとした寛大な人柄を窺い知ることができた。

本書の中で非常に印象深かったのが、

「本当の愛と執着を区別しましょう。前者は、理想的にはなんの見返りも期待せず、状況に左右されません。後者は、出来事や感情しだいで変わります。」

ということば。
なるほど、俺が特定のアーティストに対する想いは、愛ではなくて執着なんやな~って思い当たる節がありました。


一昨日インドのホテル前で(なにやら中国の要人が泊まっていたらしい)チベット人が抗議デモを行い、なんと自分の体に火をつけたらしい。
あの、RAGE AGAINST THE MACHINEの1stのジャケットで有名な、サイゴンのティック・クアン・ドゥック師を模倣したのか、とてもバカげた行為だと思うが、人々の関心を集めるという方法としては見事である。




日本人は、チベット自治区の現状にもうちょっと関心を持った方がいいと思う。

今日の1曲:『SHAMBALA』/ BEASTIE BOYS
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂本慎太郎君のアートワーク本

2006年07月28日 | 本わか図書室
水曜日はワクワク待ちに待ったVOIVODの新譜発売日!
予めHMVに予約していたので予約カードを握りしめ店のレジに並んでいたのだが、前の客がキャッシュカードかなんかでゴチャゴチャもめとった。もうこれだけでもイライラ~っときていたのだが、それに輪をかけるような出来事が待ち構えていた!!
予約カードを店員に手渡しなにやら商品探しにモタついとるなぁ~と思ってたら、なんとまだ入荷してないとのことだった!!
ハァ?どういうこっちゃ??発売日が延期になったのか、こいつらの手違いなんか知らんけど、ただでさえ品揃えが悪いのに予約してもこれかい!!
とことん使えない店である。


まぁそれはさておいて、実はもう一品予約していたのであるが、それはちゃんと入荷してあった。といってもこれはCDではない。

日本最大のサイケロックバンド、ゆらゆら帝国のギターヴォーカリスト坂本慎太郎君の初のアートワーク集『SHINTARO SAKAMOTO ARTWORKS 1994-2006』である。

このアートワーク集は、私が2年前の彼の個展を大阪北堀江に見に行った時から彼の画集の商品化をメチャクチャ切望しており、今回出版が決定した時はほんとうに嬉しかった。
本作には、彼が今まで手掛けてきたゆら帝のジャケットデザインやフライヤーなどで連載していたマンガ(これがまたおもしろい!!)などが盛り込まれており、その描写手法も様々でスプレー・アート、写真、ポップ・アート、点描という、ありとあらゆるサイケなタッチで描かれております。

しかし、音楽面であれだけ凄まじい世界を繰り広げていて、さらにアート面でもこれだけの才能を見せつけられたらもうグウの根もでない。彼は多摩美術大学美術学部デザイン科出身者なので、どっちかというと絵の方がプロフェッショナルなのかもしれない。
とにかくあの時空を歪めたかのような、彼の脳髄で展開されている音世界を、そのまま絵にぶちまけているとでもいおうか。作品ひとつひとつがディレイがかっていて、サイケデリックなオーヴァーダブが施されてるという感じ。
ほんとにおっそろしい才能である。怪物とでもいおうか。

フライヤーの連載マンガには坂本君本人が登場し、中古レコード屋を案内したり、お気に入りのアーティストを紹介したりしてとっても愉快。
「マンガの世界も~本当は楽じゃないぜ~♪」という、坂本君の気だるい歌が聞こえてきそうです。



ゆらゆら帝国のCD(『ゆらゆら帝国のしびれ』あたり)を聴きながら、このアートワーク集を眺めるとさらにトリップしてしまいそうである。


そういえば、VOIVODのドラマーAWAYさんも自分のアルバムジャケを自ら手掛ける才能の持ち主。VOIVODもある種時空を歪めた音楽性で、私は知らず知らずそういうアーティストに魅かれているのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドイラー

2006年04月12日 | 本わか図書室
いや~しさひぶりに本を読破した。しかも2年がかりで。
その本とは、コナン・ドイル著『コナン・ドイルの心霊ミステリー』とかいう、タイトルからして胡散臭い著書である。

コナン・ドイルといえば、探偵モノの『シャーロック・ホームズ事件薄』つーのが一般的だが、私も小学生の頃オヤジにすすめられた『四人の署名』を読んで感銘を受け、名探偵ホームズシリーズをむさぼり読んでた時期がある。

しかしドイルは晩年スピリチュアリズムに傾倒しだし、本書はそんなドイルの心霊エッセイ集である。

魔術師フーディニ語録や、降霊会での死人との会話エピソードの数々を、これでもかっつーぐらいしつこく書き綴ってある本で、正直極めて退屈な内容だった。
「だからユーレイや霊界は絶対存在するんだよ~う!じゃぁこの話きいてきいて!」という、ドイルの必死の叫びが聞こえてきそうな勢いである。
まぁ電車に乗っている時ぐらいしか読んでなかったので、しかもつまらないのでなかなか読み進まんかった。
ただ、後半の降霊会での話や、正夢の話はけっこう興味深く興奮させられ、その辺のエピソードを読み終えたその晩に、自分自身が降霊会に立ちあって霊魂とハイタッチしてる夢をみたほどだった。
まぁ私もたまに幽体離脱や過去に2回ほど心霊体験みたいなのがあったので、またそのうち紹介しようかと思う。


まぁでも、ドイルはやっぱシャーロック・ホームズの冒険の方がおもしろい。
なんつってもホームズの個性的なキャラがいいんですよね。高慢チキで、変に気取っていて、神経質で、コカイン中毒で、バリツの達人。
確かアルセーヌ・ルパンとも対決したことがあったな。でもあれはモーリス・ルブランの作品の中でだったっけ?
好きな作品は『ヴァスカビル家の犬』、人間椅子の曲にもある『阿片窟の男』、『六つのナポレオン胸像』だったかな?もうだいぶ内容忘れてるけど・・・

映画でもスピルバーグ監督の『ヤングシャーロック ピラミッドの謎』を小学生の時映画館に見に行ってメチャクチャ興奮したのを覚えている。
若かりし頃のシャーロックと彼の教師であったモリアーティ教授との過去の因縁対決みたいな話で、お菓子の大群が襲ってきたり、ステンドグラスの絵の騎士が飛び出してくる映像に驚愕したものだ。

映画『ヤングシャーロック ピラミッドの謎』のシーンより。



久々にホームズシリーズを読み返して、またエセシャーロッキアンでも気取ってみるか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする