東海地区で
「長島(ナガシマ)」
ときけば、遊園地のナガシマスパーランドや、イルミネーションが美しい「なばなの里」、さらには、「長島温泉」とまさに楽しい場所、ワンダーランドのように感じる地名の響きですが…
今回、このブログで紹介するのは、そんな楽しい場所とは真逆の「裏」長島…のエピソードをば…
それは今から400年以上前に起きた
長島一向一揆
織田信長による残虐行為の中でも有名なのが比叡山の延暦寺焼き討ちが思い浮かぶ人が多いでしょうが
織田信長の残虐性を表す戦いでは、その比叡山の延暦寺焼き討ち事件に匹敵するほど…いや、それ以上にインパクトのある戦いであったのが
今回紹介する
長島一向一揆…なんだな…
なんでも長島一向一揆では、織田信長の命令により2万人が焼死したらしいのよ!!
今となっては、そんな残虐な事件が起きたとはとても想像できないほど、こんな穏やかな田んぼに囲まれた風景のこの「長島」ですが…
伊勢・長島城は鎌倉時代の1245年、関白・藤原道家が長島館を築いたとされ…1482年になると伊藤重晴が再び築城します…
伊藤重晴は桑名城・長島城・松ヶ島城の3つを領していたようですが
1570年、石山本願寺から願證寺へ送り込まれた寺侍も含めて、一向宗・願証寺の門徒は落ち武者とも合体して武装組織のように…願証寺の門徒たちは伊勢・長島城を攻め、伊藤家の一族を追放し滅亡させた…
これが、長島一向一揆
それに対して、動いたのは織田信長
1571年5月12日、柴田勝家と佐久間信盛を引き連れた織田勢2万が長島へ向かいましたが…当時の長島は、まさに「島」で…
騎馬での戦いができず、川が城壁のようになって取り囲んでおり、織田軍は撤退を余儀なくさせられる
この戦いでは、柴田勝家も大怪我、撤退時には氏家卜全も討ち死したとのこと
織田軍は、1573年に、第二次長島侵攻を試みる
このときは直接長島へ出向くのではなく、伊勢の桑名郡や員弁郡に散っていた一向一揆勢の拠点を攻撃
数万の軍勢で北伊勢に出陣すると、一揆勢が囲んでいた西別所城を攻め落としたり、
他にも坂井城、近藤城をも攻略
しかし、船の調達がままならず、伊勢・長島城への攻撃はできず、それどころが兵を引き揚げるとき、願証寺の門徒たちの敵襲に遭い、織田軍は撤退
2度撤退するも、織田信長は、伊勢・長島城を諦める訳にはいきません!それどころか、これまでの、2回とは、まったくスケールの違う規模で、伊勢・長島城を攻めることに!!
1574年の第三次長島侵攻は
織田家の全兵力8万以上が尾張・津島に移り
伊勢・長島城への総攻撃が開始
一向一揆勢も武士階層も混ざった武装集団、尾張服部党の服部政光など、各所の出城にこもって徹底抗戦するも
織田勢の布陣は、まさにその伊勢・長島城を囲むように…
今までと大きく違うところは、織田信長と親交の篤かった九鬼嘉隆の水軍大船団が長島城を囲んでしまっていたこと、九鬼嘉隆の九鬼水軍ほか、尾張や伊勢の船団も引き連れ、海上封鎖をしたこと…これによって、戦況は完全に織田軍側に傾いていく…
織田軍に囲まれて約1ヶ月半
もはや、抵抗できず伊勢・長島城では餓死者が出始め、長島城の一揆勢は、信長に降伏を申し出る
信長は、一揆勢の降伏を赦したかのようにふるまい、長島城を明け渡すよう取り決めがされたと思わせて
降伏を申し出た一向一揆勢が船で退去しようとしたとき、織田信長は許さず、一向一揆勢の人たちを斬り捨てる…
これに怒った一向一揆勢の民衆が捨て身の攻撃を行ったため、織田信広や織田秀成など織田一族も戦死者がでることに…
そこで、織田信長は、誰も逃げられないよう、長島城の周りを柵で囲み、火攻めを行ったとのこと
伊勢・長島城では約2万が焼死したとか…
こうして長島一向一揆を鎮圧すると、伊勢・長島城には滝川一益が入り、天守も築いたとのこと
そんな長島城跡
長島城は、今は長島中学校の敷地になってます…
魚の形をしたオブジェは、遊具でもなく、何を意味するのか知りたいところですが…
まあ、これをみて「ウォー(魚ー)」と驚いたことだけ記しておく???
長島中学校…校門がカッコイイのよ!
城門っぽくて
さらに校舎も…
この学校に通えば滝川一益さんの気分が…味わえる???はず…
えっ??
一向宗門徒の気分は??って、そうだな、4時間目には感じられるかも…お腹が空いた、餓死しそう??ってね???
伊勢湾台風では、ここまで水がやってきたと、示す看板…
ここの住民にとっては、織田信長同様、伊勢湾台風も脅威だったことでしょう??
さてさて、織田信長の長島攻めに対抗するために、石山本願寺から願證寺へ送り込まれた寺侍は、長島一向一揆で敗れ、北陸などに逃れ、秀吉の時代以降に戻って6ヶ寺(長島六坊)を開創している…その寺侍の一人・飯田九蔵が開創したのが長良川沿いにある…
光栄寺
寺侍の他の5人が創建した深行寺・善明寺・源盛寺・安養寺・中島寺とともに「長島六坊」の一つに数えられるお寺
鐘楼門がめちゃ立派でした
そして、最後に紹介するのは、その一向一揆の拠点となった
願證寺(願証寺)
長島水辺のやすらぎパークのすぐ近くにあります…
長島一向一揆の舞台となった願證寺(願証寺)寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまったとのこと…
現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものだそうな…
長島城から東に600mほどの田園の中に、目を見張るほどの建物が…
山門には「長島御坊」と
山門の扉の紋章が目に留まります…
「桐紋」と「菊紋」
ではでは手水舎で手を清めようと思ったら
水のでる気配はありませんでした…
なので、持参の手指消毒液で…手を清めて…??
手水舎には、ほっこりする少女の石像が
鬼瓦…以前の本堂のものでしょうか…
鐘楼と
なにかわからないけど風情の感じる建物
ではでは、本堂にて合掌
山号は長嶋山、浄土真宗のお寺で
本堂の中に入ることができました…
手指消毒どころか検温もセルフサービス…
37.5度以上あったら、また出直してくださいね!私は、大丈夫でした!!
ご本尊様に合掌
当時の願證寺(願証寺)の図でしょうか…
境内「本堂」左前にあった
「長島一向一揆殉教之碑」
手を合わせながら、「長島一向一揆」の頃とは、真逆の楽しい観光地となっている「ナガシマ」
「長島一向一揆」で亡くなったみなさんが、長島温泉でまったりしてる図を心に描いたら、ちょっとだけ、心が軽くなったような気も…
長島水辺のやすらぎパークに軽四を停めて、「長島一向一揆」を訪ねて歩き廻った一日…
ウォーキングで、健康的な1日で、お金も遣わず、充実した一日が過ごせて
「裏長島??」に
「いっこういっき(一向一揆)」
ならぬ
「いこう、いいき(行こう!いい気!!)」
の気分なのです!!
これで、終わろうと思うけど、なんだかオチのインパクトが弱いような…
オチをさぐって、
これぞ
「一考、日記(いっこうにっき)」
チャンチャン!!
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