それは昨年の暮れ 煮物の鍋を見守っているときでした。
電話のベルが鳴りました。
電話に出ると 「 私 〇〇 美代子よ わかる? ほら 中学生の時 同級だった 美代子よ」
と 次々と 同級生だった 友達の名前が出ます。
けれども 私の記憶の中に 美代子さんの名前は 残っていません。
あたりさわらずの 相槌をして返事をしていると 足も悪いし 週に3日はデイサービスに通っているとのこと そして私に年賀状を出したいので 住所を教えてくれとのこと 何度も何度も繰り返し 私の住所を教えました。
そして最後に 会いたいと 声を詰まらせました。
てっきり故郷に 在住だろうと思っていましたが 故郷なまりで 「いま どこにおるとね?」と聞いたら 「大阪よ」と 返事が返ってきました。
そして お正月 年賀状が 美代子さんから届きました。
私の住所も 苗字もでたらめでしたが 郵便局は大したものです。 ちゃんとどきました。
私も すぐ返事を書きました。
ゴメンね 私も高齢になり どうしても あなたのこと思い出さないのよ と お詫びと相手の健康を祈る 返信の賀状です。
あの 戦争が終結したのは 小学校の一年生の時 中学生の時代は 一学年が9クラスもありました。
それも 一クラス50人くらいでした。 大人も子供も 食べるのが精いっぱいの時代でした。
中学を卒業すると 都会の工場に 駅のホームで泣き別れで 送り出されていました。
そのまま 都会で伴侶に巡り合い 子供を育てて人生の終わりを迎えようとしているであろう 美代子さん。
住んでいる場所こそ違いますが 私も一緒です。
今の 美代子さんの暮らしを あれこれ詮索するのは 失礼と あたりさわらずの 出会いでした。
それからまた 電話が ありました。
「私のこと 思い出した」 「うんん ゴメンね 私の記憶も危ないのよ」
まだ 記憶の中に 出てきません。 危ない話です。
動きが 緩慢になり 元気なのは口だけです。
困ったものです。