私は蟹座なので誕生日の頃は梅雨である。
紫陽花が通り道に咲き始めるとそろそろ誕生日だな、と思う。
誕生日の前日には普段と違ったことがしたくなる。花屋で季節の花、たとえば青いデルフィニウムを買って部屋に飾ったりする。
それから必ずと言っていいほど、ベートーヴェンやシューベルトのピアノソナタを聞く。
ベートーヴェンのピアノソナタ30番、31番、32番など心が落ち着く。CDではシュナーベルをよく聴く。私はこの三曲をサントリーホールでヴァレリー・アファナシエフの演奏で聞いたことがある。アファナシエフは指を立てずに、鍵盤に平たく指を伸ばして、度外れにゆっくりと弾く。アファナシエフのCDでは「ブラームス後期ピアノ作品集」が瞑想的でよい。
今年の誕生日はアンドラーシュ・シフのシューベルトのピアノソナタ集を取り寄せて聞いた。
シフは顔が貴公子然としてついていけないが、演奏は目映い。
シューベルトのピアノソナタでは、ヴィルヘルム・ケンプが定番で、朴訥とした味わいは格別だ。
その他、ミヒャエル・エンドレスも骨太で優しい。
誕生日の前日に、そんなピアノソナタを聞きながら、買ってきた青い花を見る。
それが私の誕生日の定番である。
「届かない思いを胸に抱くひとの野生のソナタ一人一人の」
「終わらない歌を頼りに暮らしゆくシューベルト弾きここにあそこに」
などの短歌はそんな経験から生まれた。ジョージ・ハリスンは「パイシズ・フィッシュ」という自分の魚座の人生を振り返る歌を遺作「ブレインウォッシュド」に収録している。
そこで「静かなる魚座の人の遺言が60億の闇を照らして」という短歌を書いた。星座の占いは当たらないが、人々の想いを乗せる受け皿になっている。
父は病で会話ができなくなってしまったが、最後に交わした会話は知り合いの心理学の先生についてだった。
父が倒れる前、電話で何気なく話したのだが、その心理学の先生は日本映画マニアで、子どもの頃から見た映画を細部まで記憶している、という驚異的な人物だった。
私はあの先生はまだ映画の本を書いていないが、話し出すと止まらないので、インタビューの上手い編集者にインタビューしてもらったら、相当な量と質の本ができるんじゃないかな、と父に話した。父はそうだな、考えてみるといいかも知れないな、と普通に受け答えしていた。
それから二、三日して父が倒れて「遠い人」になってしまった。
それでも初期の頃は「桜が見たい」「アビアント」など断片的な言葉を発していた。頭の回線が繋がるときがたまにあり、メモ書きに「街の景観の再考」とか「友との邂逅」など、往年の父を思わせる難しいアイディアがひょっこりと飛び出してくることもあった。けれども最近では誰が誰だかさえわかっていない様子だ。
入院して間もない頃は判っているのかいないのか知らないが、プロコフィエフの「三つのオレンジの恋」のDVDを黙って見ていたと言う。最近では聞かせて貰っているバッハの無伴奏フルート曲や小沢昭一の歌う昭和の流行歌やプーランクの歌曲を穏やかな顔で聞いている。
食事も摂れない今、ポータブルCDから流れてくる響きに耳を傾けるのが数少ない楽しみである。
全てにおいて自信家であった父と、教室の隅で短歌を書いているような性質の私とは様々な葛藤があり、最近の多くの高校生のように「尊敬している人は父です」などと簡単には言えない関係だった。
けれども桜が満開の時に母と車椅子を押して、病院の近くの脇道の、駐車場の前の大きな桜まで連れて行くと、普段は意志が通じない父が笑顔で見上げていたのが、せめてもの救いである。
ブリティッシュ・ポップの大御所XTCのアルバムに「オレンジズ&レモンズ」というのがあり、その中の曲「ホールド・ミー・マイ・ダディ」の歌詞を思い出してしまう。「お父さん、しっかりして、僕はこれまでこんなに洪水みたいに泣いたことはなかった、お父さん、しっかりして、僕Ilove youというのを忘れていたよ。」私も父に愛情を伝える機会を逸してしまったようだ。