塚原史氏の「言葉のアヴァンギャルド―ダダと未来派の20世紀」を読んだ。この本は20世紀の終わりに書かれ、世紀末の変革への期待や漠然とした不安を反映している。そうは言っても廉価でダダと未来派について教えてくれるご機嫌な本であることは間違いない。1909年未来派宣言がマリネッティによって発表される。未来派宣言にはスピードに憧れてドライヴに繰り出し自損事故に終わった笑い話が前段として載っている。その後本格的な宣言が表明される。
○われわれは危険への愛、活力と無謀さの習慣を歌うことを欲する。○われわれの詩の不可欠な要素は、勇気と大胆さと反逆であるだろう。○世界の華麗さが新しい美によってゆたかになったことをわれわれは宣言する。それは速度の美だ。爆音をとどろかせる蛇のような太い管で飾られたボディを持つレーシング・カー…咆哮をあげて機械掃射のうえを走りぬけるような自動車はサモトラケのニケの像よりも美しい○われわれは歌うだろう。労働、快楽あるいは反逆に煽動された大いなる群衆を(略)。○われわれは歌うだろう…プロペラが風に吹かれる旗の音と熱狂した群衆の拍手喝采の音を立てる飛行機のすべるような飛翔を。それは宣言で始まり集会で広められる大衆煽動的な芸術の誕生であり、美意識の徹底的なモダニズム化だった。
詩を書くうえでどうすべきかを続く「未来派文学の技術的宣言」でマリネッティは述べる。○名詞を思いつくままに並べて統辞法を破壊せよ○動詞を不定法のままで活用させずに用いよ○形容詞を廃止せよ○副詞を廃止せよ、つまり刺激的な名詞の羅列で詩を作れというのだ。さらに彼が提唱したのは無意味言語の羅列である。
これに対しトリスタン・ツァラのチューリッヒ・ダダはさらに徹底したハプニング的な無意味と破壊の祝祭だった。1916年のダダ宣言では、「ダダはぼくらの強烈さだ。それは一貫性もなしに銃剣を打ち立てるドイツの赤ん坊のスマトラ頭。ダダはスリッパも地図の緯度もない生活だ。それは統一に反対で賛成で、未来にはきっぱりと反対する。」と言う。ダダ宣言1918でツァラは言う。「ダダは何も意味しない。」ダダの言語はイメージを喚起する語の無秩序な羅列だった。
パリに飛び火したパリ・ダダの無意味化の上にシュルレアリスムがやがて花咲く。スローライフの今日的空気と当時の前衛の時代とは決定的に美意識が違う。ただ、意識の先鋭的な部分を生きたいという叫びは、失われた実験精神とともに訴えかけてくるものがある。
いつの世も変わらぬ青さ抱きつつ振り返らずにただ走りたい