「神、人を喰う―人身御供の民俗学」
という本を読む。
結論としては、神事のために人や巫女を殺す行為は、日本では確認できないし、
おそらくなかった。
けれども、今村仁司や赤坂憲雄の説を引用して、
祭りや神事の起源に人身御供を想定することは、
暴力を定期的に装置として導入するために、
必要とされた。
そこで、神事の起源としての人身御供が採用され、
疑似的に再現されてきた。
というものである。
ただし、著者によれば中国やその他東アジアの国では、
生け贄として場合によって人間が殺されることが「あった」。
ただ、この部分は著者の専門分野ではないので、実際のところは
要検討である。
世界的に見ると神を鎮めるための人身御供は広く「あった」とされる。
ここのところも、不確かな部分が多いように思う。
日本の場合と同じように、すでに伝説化していて、「昔はあった」という
伝承が広く残っているのが実情ではないか。
アステカで太陽神が滅びないように定期的に生け贄の心臓が生きたまま黒曜石の
ナイフで取り出されたという、絵や資料が残っている僅かな例は除き、
世界的に見ても人身御供は一般的に避けられ、事実として確かめられず、
暴力を装置として取り入れるために、「昔はあった」という伝承が残っている場合が
ほとんどだと考えられる。
狂信的な突発的なカルトを除き、人身御供というのは、伝説としてはあっても、
実際は避けられてきたのではないか。
その点、人食い伝承と似て、「昔はあった」という伝承だけが流布していて、事実は
ほぼ、少数の例外を除き、なかったのではないか、というのが私の所感である。
という本を読む。
結論としては、神事のために人や巫女を殺す行為は、日本では確認できないし、
おそらくなかった。
けれども、今村仁司や赤坂憲雄の説を引用して、
祭りや神事の起源に人身御供を想定することは、
暴力を定期的に装置として導入するために、
必要とされた。
そこで、神事の起源としての人身御供が採用され、
疑似的に再現されてきた。
というものである。
ただし、著者によれば中国やその他東アジアの国では、
生け贄として場合によって人間が殺されることが「あった」。
ただ、この部分は著者の専門分野ではないので、実際のところは
要検討である。
世界的に見ると神を鎮めるための人身御供は広く「あった」とされる。
ここのところも、不確かな部分が多いように思う。
日本の場合と同じように、すでに伝説化していて、「昔はあった」という
伝承が広く残っているのが実情ではないか。
アステカで太陽神が滅びないように定期的に生け贄の心臓が生きたまま黒曜石の
ナイフで取り出されたという、絵や資料が残っている僅かな例は除き、
世界的に見ても人身御供は一般的に避けられ、事実として確かめられず、
暴力を装置として取り入れるために、「昔はあった」という伝承が残っている場合が
ほとんどだと考えられる。
狂信的な突発的なカルトを除き、人身御供というのは、伝説としてはあっても、
実際は避けられてきたのではないか。
その点、人食い伝承と似て、「昔はあった」という伝承だけが流布していて、事実は
ほぼ、少数の例外を除き、なかったのではないか、というのが私の所感である。