超人日記・俳句

俳句を中心に、短歌や随筆も登場します。

#俳句・川柳ブログ 

雪残る春のマイライフ

2020-03-19 19:54:55 | 無題
今日は歩いてジェラーボというお店に行き、
ピスタチオのジェラートを久しぶりに味わって、
雪の残る川や畑を見て帰ってきた。明日も雪の予報。
家ではジュリーニのソニー録音箱の
ベートーヴェンの英雄や運命を聞き、
その遅いテンポと贅潤な響きに耽溺する。
昨年度の疲れを束の間癒している。
だいぶ疲れが溜まっていたようで
いくら寝ても寝足りないぐらいだ。
この春は、自由作文も完成し、
臨時作文も二つ仕上げ、
法哲のメモ書きも目標の90枚に達したので、
流行り病が収束するまで、できるだけ
休息して力を蓄えたい。
片山杜秀氏の本の読書感想文の評判もいいので
また折をみて、読書感想文を書いてみたい。

雪残る畑や川で伸びをしてしばらく家で深い休息

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クラシックと世界史話

2020-03-17 23:11:45 | 無題
片山杜秀著「ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」文春新書読む。
クラシックはグレゴリオ聖歌から始まる。
グレゴリオ聖歌の理念は声は神に仕える道具という考え。
世界のハルモニア・ムンディ(宇宙の調和)を声で表わす。
ルネッサンスはポリフォニー主体の様式美の世界。
ルターは自分で賛美歌を作って宗教改革を広めた。
バッハはホモフォニーの時代に対位法に拘り時代遅れと言われた。
モーツァルト時代、没落貴族が多くモーツァルトはフリーランスだった。
ベートーヴェンはナポレオンの時代の市民の喧騒と戦争の音楽。
ベートーヴェンのソナタはパトロンに献呈された作品が多い。
ベートーヴェンの特徴は、喧騒と覚え易さと新機軸の連発。(それだけじゃないよ)
メンデルスゾーンやシューマンは曲作りに困って、バッハをメロディアスにした
ような曲を多く書いた。
ロマン派の時代は旅と遠くのものへの憧れが支配した。
ワーグナーはルートヴィッヒ2世の庇護のもと
心ゆくまで自分の思い描く世界をゲルマン神話で創作できた。
反グローバリズムの民族主義音楽。ドヴォルザークやグリーグもある意味そう。
リヒャルト・シュトラウスもマーラー3番もニーチェの超人思想に乗っかっている。
ラヴェルやストラヴィンスキーやシェーンベルクは廃墟の後の壊れた音楽。
片山杜秀の立場は音楽は天才の独創というより、時代の産物だという。
それでは汲み尽くせないのが音楽の凄いところ。

音楽は時代によって作られるそれでも光る曲の独創
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ルター・仕事は天命説

2020-03-12 15:32:46 | 無題
今日もメモ書きする。
今日も宗教改革のルターの考え。
ルターは、すべての職業は神の思し召しだと主張した。
農夫も主婦も判事も坑夫も神の与えた天職だと言う。
聖職者は特別な力はなく、信徒は一人ひとりが
お互いにお互いの聖職者である、という。
つまり、相手に奉仕し、教え合う仲だと言うのだ。
すべての職業が神の思し召しだとすると、
当然、君主というのも神の思し召しである。
だから君主は、国民に奉仕し、福祉を行う。
また、聖書のモーゼの十戒の第5戒、汝の両親を敬え
というのが、君主の根拠だと言う。
君主は国の父なのである。
子どもが父に従うように、妻が夫に従うように
(この辺は今では古い考えにみえる)
国民は君主を敬するべきである。
ルターは君主が専制君主になるのを危ぶんでいたが
専制君主であっても国民は仕えるべきだとする。
ただし、君主が聖書に反することを命じたら、
それを拒む権利が人にはある。ルターはカトリック教会を
廃止したら、代わりに誰が不道徳をとがめ、教えを導くか
当初は答えを用意してなかった。それでもドイツ革命=宗教改革は
動き出して止まらなかった。仕事は神の思し召しという考えは
プロテスタントを明るく勤勉にした。ウェーバーも説くところだ。

人々の仕事は神の思し召し天の栄えを地上で示す
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教会へのルターの反論

2020-03-11 11:06:00 | 無題
宗教改革のメモ書き。
グレゴリウス7世をはじめ、ローマ・カトリック教会は両剣論というのを説いていた。
この世は、聖と俗の二つの権力に支えられている、という考えである。
これに対して、ルターは両国論というのを主張した。
教会は天の国に属しているべきで、法制度を必要とする地上の国に教会は属さない
というものである。
ローマ・カトリック教会では、洗礼によって人間の原罪は消えて、個人の犯した罪が残る。
個人の犯した罪は聖職者が命じる善行を果たすことで許され、天国行きが約束される。
 
これに対して、ルターは、洗礼によって、天国行きの可能性が開かれるだけで、
天国行きが可能かどうかは、人には知ることができないと言う。
人間はとことん堕落していて、天国行きが可能になるのは、神の一存に掛っている。
聖職者はその橋渡しなどできるはずがない。
地上は罪と死の国であり、腐敗と堕落に満ちている。
けれども、そんなこの世と人間を創ったのも神である。
人間のなかには、「隠れた神」がそなわっている。
だから人は神の命ずることを地上の国で実現すべく尽力しなければならない。
そのうえで、神が天国行きを決めてくれるのを願うしかない。
このような考えが、ルターの神学の教えであった。

教会に罪を清める権利なく天国行きは神の御こころ
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