ルナです。
今日、また、大きな余震があって、津波警報が発令したね。。。
ママさんの携帯も、久し振りに、あの音でエリアメールがなっていた

実は、その頃、ルナはパパさんの車で、石巻に行って来た帰り道だったんだよ。
三陸道から、東部道路に入って間もなくだった。。。
道路標示は、「地震・ここで降りよ」と指示していたけど、
津波警報が出ている中、海岸線に沿って走っているのに、高速道路を降りれるわけがない。
入口は封鎖されたようだったけど、名取まで走って来てようやく降りた


昨日、松島から塩釜・多賀城を見て帰ってきたパパさん・・・
沿岸部の大きな爪痕をみて、
震災直後から気になっていたお世話になったE先生のことをネットで探し始めたんだよ。
そうしたら、東日本震災ボランティアのブログで、
宮崎の医大生がE先生から聞いた話を記事にしていたものを偶然に発見したんだよ。
それを読んだパパさんは、E先生の無事を確認出来たけど、
会いに行ってみよう・・・・って、今日は、石巻まで行くことにしたんだよ。

E先生とは、パパさんが、36歳で病気を発症した時から、
ずっと、パパさんを支えてくれたお医者さんだよ。
まだ、病状の本人告知をしない時代で、ママさんは、E先生から、初めてパパさんの病気を説明されて、
何処まで話すかを先生と相談した日、
その時から、8ヶ月、毎日のように病院へ通っては、先生と会っていた。
新しい治療方法が出来て、それを試すのに高額な費用がかかるのも、
研究費で何とか・・・とかけあってくれて・・・
その代わり、その時の助手はママさんだった。
先生の言うとおりに、パパさんの脇で、画像に目をやり、ある瞬間を先生に教える・・・・
その方法は、3年後には、みんな普通にやっていた。
病気は後でしろ!!って言うのはまさにそのことだと思った・・・・ってママさんが言っている。
そんなママさんが体調を崩した時も、
その病気を見つけてくれたのもE先生だった。
でも、専門外だからと紹介状を書いて画像をいっぱい持たせてくれたって。。。
約7年ほど、ずっと、パパさんの主治医だったけど、
その後E先生は、公立病院をやめて、石巻にクリニックを開業していたんだ。
いつか、病気が良くなったら、先生に会いに行こうって思いながら、月日は流れていたんだね。

その医学生は、ボランティア活動の中で、E先生と出会い、共に、支援活動をした時間があったようだよ。
一階が病院で、二階が自宅だった先生の家は二階の入り口まで津波で水が入って、
水が引いた時は、瓦礫の山だったとか・・・
瓦礫の撤去や、修復は、一般家庭が優先で、
先生の病院は、自分たちで、2ヶ月ほどかかって片づけるしかなかったらしい。
その間にも、医師である先生は、避難所で、救護の活動をされていたようだった。
ナビで、先生の病院を探して行ったけど、
「目的地周辺です・・・・」
そう言われて周りを見ても、それらしき看板が見つからない・・・・・

近くで、家の片づけをしている方に、パパさんが聞きに行ったよ。

周辺は、こんな景色・・・・
石巻の中心部から少し入った辺りだった。

パパさんが聞いて来たところによると、
さっき、パパさんが立っていた所がそうだった。。。
先生は、すっかり元気をなくしているらしい。
「励ましてやって欲しい・・・・」って、その方に言われたそうだ。
でも、先生は、当時、パパさんよりも10歳ぐらい年上だった。
もう、60代半ばになっているはず。。。
もう一度、病院を再開できるのだろうか・・・・
先生に、今もちゃんと頑張っているよと伝えに来たけど、
残念ながら、E先生の家は住んでいる様子はなく、会うことは出来なかった。
パパさんの名刺に、ママさんがお手紙を託して、そこに思いを残して来たよ。
読んでくれると良いなぁ~

石巻の市内は、まだまだこんな状態が延々続いていて、
信号が作動していないから、交差点には警察官が立って、交通整理をしてくれているんだ。
あれから5ヶ月もの間・・・・ずっと・・・・
パパさん、また、ルナは一緒に行っても良いよ。
E先生にきっと会えるよ。

震災直後、多くの被災者の避難場所になったという、ショッピングモール。
がんばろう 石巻!!
