文芸評論家の百分の一の読書量だが昭和の鴎外と漱石を思い浮かべた。作家と料理人では違うかもしれないが料理は一口食べれば味は分かるというから、少ない読書量でもなにがしかのことは言えるだろう。
この思いつきには種がある。それは半藤一利さんの「清張さんと司馬さん」だ。清張さんは鴎外に司馬さんは漱石に近しいものを感じていたそうだ。鴎外と清張、漱石と司馬と並べて私はさほど共通点を見出せないけれども、抜きんでた読者数と人口に膾炙したいう点と対称的な組み合わせという点で、このお二人が昭和の鴎外と漱石と言えるかも知れないと夢想した。
異論続出というか、噴飯ものというか、呆れられるだけかもしれない。
思うに、鴎外と漱石は異質で対称的で二人を合わせればで文学だけでなく人間の考え方感じ方生き方を広範囲に包含する大きな存在であるが故に並び称せられるのだろう。そして誰もが二人の作品を一つ二つは読んでいたと思われる点も重要だ。
昭和にそうして並び称するにふさわしい大作家が居るかどうか、問えば百家争鳴となるのは必至だ。中に松本清張と司馬遼太郎が、挙げられるのは間違いなかろう。
心配というか疑問に思うのは、明治は遠くなりにけりと鴎外や漱石を読んだことのある人は減っているようだし、清張さんや司馬さんの作品もあまり読まれていないようだ。そんなことはない読まれていますよと言われれば、僭越ながら理解されていないとまで言いたくなる。本当に読まれていれば、この安倍的な気配にもっと慎重な動きが出てくるはずだと思うからだ。