夢のあと

釣りには夢があります。夢を釣っていると言っても過言ではありません。よって、ここに掲載する総ては僕の夢のあとです。

追跡調査の必要性

2011年04月30日 00時34分31秒 | 社会
今回の政府発表で有名になった『直ちに・・・』発言が正しい事は今までのスレを見ていただければ分ると思います。直ちに被害が出現しないのが放射能の恐さであり、遺伝子の問題ですから、それは次々に子孫に継がれて行くので子に出なくても孫に出たりひ孫に出たりといつの子孫に出るかわからないので尚更怖いのです。
 ですから、今回の被曝で癌になったり白血病になったり不妊症になったり死産になったり奇形児が出産されたとしても、それはかなり先の事であるため、例え裁判を起こしてもその『因果関係は認められない』として原告の意見は却下されてしまうのは当然であります。よって、東電と政府によってもたらされた今回の事故で馬鹿を見るのは我々であることは当然であります。もっとも認められたとしても癌、白血病、不妊症、死産、奇形児などが治るわけではありませんので結局馬鹿をみるのは我々です。ですから我々は、せめてその責任を認めてもらい、僅かではありましょうが賠償金を支払わせる義務があります。これが子孫にツケを残さないことなのです。
 ところが、今のままでは先に書いたように責任の所在がありません。よって、後発の傷害に政府や東電は何も賠償をしなくていいのです。
 ではあきらめるしかないか?というと、唯一あきらめないで済む方法があります。それは今回の事故で被曝した人たちの追跡調査を永久に行う事です。それも第三者機関による追跡調査です。本来は政府が行わなければならない事ですが、政府は当事者ですからいつものように隠蔽してしまうに決まっています。第三者機関だって買収されてしまうかもしれませんが、それでも当事者がやるよりはまだ正しく判断されることと思います。ですからこの追跡調査は出来れば複数の機関がやるのがいいと思います。
 やり方としては、まず被曝者の名簿を作ることです。これは被曝当時の住所と氏名だけでOKです。勿論名簿には今回の福島原発事故にかかわった関係者も載せるべきと考えます。そして、その名簿を各医療機関に配布し、その人たちが上記のような被曝による可能性が少しでもある場合にその第三者機関に報告する義務を課します。勿論、被曝者本人からでも受け付けます。そして、その発生が他の地区や(もしも分かればですが)その地区での災害前の発生率と比較して、明らかに高確率であれば被曝によるものであることは明白になるので、これによって責任の所在がはっきりしてくるのです。
 そして、この事は今後に必ず生きます。こんな事故はそうそう起こらないのでそのデータは皆無と言っても過言ではありません。ですから政府も『直ちに・・・』答弁で居られるのです。しかし、世界には沢山の原発があって、それらの原発がいつこのような事態になるかもしれません。そして、こういう正確な追跡調査があれば原発事故が起きた場合に政府は今回のようないい加減な答弁は出来なくなり、それが全世界の人々を僅かでも救うことになります。また、医学的にもとても貴重な資料となるはずです。
 ただし、ひとつだけ問題があります。我々がチェルノブイリで学んだことですが、被曝者たちはこの現状を悲しんで自殺してしまったりしているので正しくデータが反映されないことがあるからです。例えばある人が被曝し、しばらくしたら体調が良くないので医者に行ったら悪性リンパ腫の診断を受けたとします。その人は悲しみ自殺してしまった場合、この死因は自殺であって被曝による悪性リンパ腫ではなくなってしまうのです。また、例えば被曝して、公表値が高かったりして『もう自分はこんなに被曝してしまったのだ。普通ではいられない。』と悲観し、毎日酒浸かりになって廃人になってしまって自殺した人も直接の関係はないので原発事故との関係は無視されてしまいます。当然ながら現地でやっていた事業が原発事故によって出来なくなってそれを悲観し、自殺した人も居ます。こういう場合もこの自殺に関しては原発事故による被害には含まれていません。このように、チェルノブイリの場合でも、原発事故が直接の原因とされて公表されている小児の甲状腺ガンの5%の増加だけではないのです(5%と言う事は100人に対して5人が今までより増えたということですから、なってしまう確立は飛躍的に上がるのですが)。WHOなどが採用しているIARC(国際がん研究機関)は30km圏内で、事故により増加するがん死亡は約4000人と推定し、高度汚染地域を除いた汚染地域の居住者では約9000人、さらに推定対象をヨーロッパ全体に広げると過剰死亡の数は約16000人と予測しているそうです。つまり、地域を区切らなければ29,000人がチェルノブイリが発した放射線で癌になって死ぬというのです。ということは上記のようにカウントされない人を入れたらどんな数になるのかは想像すらつきませんが、相当な人を苦しめ、命を奪っているのです。注意しなければならないのは、これは過去にあったことではなく、25年経った今でも現在進行形であることです。また、これは癌だけの話で、不妊症、死産、奇形児の発生などはカウントされていない事も付け加えておきます。
 このように国(旧ソビエト)としては出来るだけ被害がなかったことにしたい訳ですから、仕方がないこととはいえ正しい評価はされていないのが現実です。
 このような事が無いよう、日本では第三者機関は現実を正しく評価し(例えば自殺でもそれが原発事故に関係している物かどうかを正しく判断すること)、癌だけではなく、その他の放射線の影響が考えられる僅かな事でも記載し、それを常に公表して放射線障害の影響を世界に発信し続ける事も、世界の加害者となった日本の取るべき行動であると思います。

復興の一案

2011年04月30日 00時24分03秒 | 社会
例えば皆様はチェルノブイリに行こうと思いますか?
仕事があるか、よほど興味があるかでないとわざわざ行こうとは思いませんよね。それが普通だと思います。チェルノブイリの原発事故から25年が経っていますが、いまだに高いレベルの放射能が観測されているのですからわざわざ行こうと思う人はよほどの物好きだけだと思います。
 で、これからの日本を考えた場合、当然ながら我が国も世界からそう言われることは間違いないでしょう。ちなみに日本は小さな国で有名です。歌手などはコンサート会場の移動が少ないので喜ぶそうです。アメリカなんかで西海岸から東海岸に行くには飛行機でかなり飛びますが、日本だったら東京から関西まで飛行機は使わずに電車(新幹線)ですから。そんなことからも日本は小さいので有名です。そこで原発事故が起こったのですから、海外の人たちのイメージとしては日本全国に放射線が飛び交っているのです。現実がどうのこうのではありません。そういうイメージで見られているのです。ですから訪日外人相手の商売はことごとく駄目になっています。そしてこれはいくら大丈夫と発信しても改善されません。当たり前の事です。日本人のように子供や孫にツケを回すことなど絶対にしたがらない人たちですし、そういう人を軽蔑する人たちですから。もしも自分の興味で日本に行って自分の遺伝子が傷ついたら大変です。しかも、以前のように経済的に日本は世界の中心ではなくなり、世界中の人からその興味も失せていたのですから尚更です。
 これから外人は日本によほどの魅力が無い限りはあまり来なくなるでしょう。よって、これからの日本にとっては、日本が如何に魅力的な国になれるか?が大切になってきます。外人が日本に来て『日本の魅力』と感じることは何か?を考えなければなりません。外人の日本への興味は津波避けの大きな堤防だと思いますか?最新鋭の原発だと思いますか?
 以前、僕は海外で釣りをするために英語を勉強しました。その時に来てくれた先生(カナダ人)は『日本は不思議な国。こんなに人がいるのに自然が残されて、素晴らしいテクノロジーと古い文化が融合している』と言っていました。この事を聞いて、僕は自然が残されているという事には少々の疑問はありましたが、外人がみたらそう思えるのでしょう。要は役に立たない防波堤や子孫にツケを残す原発にはまったく興味を示していませんでした。田老町の大きな役立たずの堤防を見に来た外人もいたようですが、あれだけの物を作ったにもかかわらずまったく役立たずだったことから、これからは利己的なあんなものを見に行く外人もいなくなるでしょう。また、世界一の安全性を誇っていた日本の原発も、あんな事故を起こしてしまったのですから、外人が来なくなる原因にはなるにしても、来たいと思う要因にはまったくならないでしょう。

 これからは、自然を残す場所とそうでない場所をしっかりと区別して、自然を残す場所は人が手を加えず、総てを自然任せにし、そうでない場所は最新技術で武装して行くべきだと考えます。よって、(顰蹙を買うかもしれませんが)東北の被災地は出来ればもうあのままで放っておいて(遺体の検索だけは確実に行う事)自然地区にしてしまえばいいのではないでしょうか?そして、いままであの地で暮らしていた方々は、復興資金をそのまま他への移転費用とします。多分、これから瓦礫を除去して、道路を作って、港を作って、大きな堤防を作ってなんてしていたらもの凄い費用が掛かると思います。ですから、その費用を被災者の移転費用に充てます。家なんて千万単位で買えます。道路は一本作るのに何十億もします。ですから、移転費用には充分でおつりが来る計算になります。漁業者は他の海沿いの地に移転してもらったりして、要はいままでやっていた職種に近い仕事ができるように移転先を決めてもらえば、今後についても本人が楽なのではないでしょうか。それでもどうしてもそこ(元住んでいた場所)に住みたいという人はそのままでもいいのですが、人が手を加えない訳ですから道路も舗装されず、堤防も無いわけで、自然災害がなければ、それはそれでまた自給自足のいい自然生活ができると思います。
 とても難しいかもしれませんが、今日の国会で今までの被災地の津波被害を示した議員さんがいましたが、あんなに頻繁に起こっているのですからそもそも人が住むことに問題がある場所です。これからこのような何万人もの犠牲者を出さないためにも、政府としてできるだけ安全な地域への移動を推奨するべきだと思います。
 このような大きな規模の対策を施し、そしてそれが成功した暁にはまた外人たちは沢山来てくれるでしょう。世界的に見ても津波だけではなく、火山や原発など沢山の危険個所があります。日本の政府とは違って、海外の政府は本当に国民を大切にしますので、その対策には困っているはずです。
 是非、大規模な対策を講じてもらって、放射能を瞬時に消せる薬が開発されるまでは、徐々に原発も減らして行き、これからこのような犠牲者が出ないような大規模な変革を政府が主導でやって、外人たちに誇れる日本にしてもらいたいと願っています。

渡波の『山形屋』という旅館

2011年04月30日 00時02分15秒 | その他
僕が人生の師と仰いだI先生。釣りが大好きでしたので、それだけでも尊敬の念を持っておりました。I先生も僕を子供のようにかわいがってくれて(同年齢の息子がいますので)いまだにI先生への感謝の気持ちは変わりません。
 I先生と初めてお話をさせていただいたのは飛行機の中でした。当時の僕は渓流釣りがメインの釣り師でしたのでI先生の釣りとはちょっと趣を異にしていましたが、飛行機の中で先輩が『I先生がお呼びだよ』って伝えてくれました。I先生は僕らの業界では雲の上の人でしたので、怖くて話もできない人でした。でも直にご指名でしたのでドキドキしながらI先生の席に向かいました。しかしながら話してみるととても気さくな先生で、とても好感が持てました。その上、I先生から『近い将来、一緒に釣りに行こう』とありがたいお誘いまで頂戴し、天にも昇る気持ちで自分の席に戻ったのを昨日のように覚えています。
 その後一か月ほどした時、I先生から直接電話が来ました。緊張して電話に出ると『ハゼ釣りに行きませんか?』とのこと。勿論、僕の中ではハゼなんてチョロイ釣りだと少々バカにした気持ちがあったのですが、I先生と一緒に釣りができることは、僕にとってはこの上ない光栄でしたので、一発返事をしたのを覚えてます。それから一週間後にI先生の取り巻きの先生から電話が来て『二泊三日で仙台方面にハゼ釣りに行くから新幹線のチケットを取る』との電話が来ました。ハゼごときに二泊三日?しかも仙台?・・・?その時の僕にはまったく理解に苦しむ連絡でした。僕がその頃思っていたハゼ釣りは東京湾や江戸川などで10cm~15cmくらいのハゼを釣るものと考えていたものですから理解に苦しんだのです。そこで早速I先生のお宅に電話を入れてみました。僕が思っているハゼ釣りの事を話すと、笑いながら『いいから一回騙されたと思って来てごらんよ。無理とは言わないけれども・・・。』というお返事でした。具体的に仙台のハゼ釣りをについては聞かなかったのですが、お誘いがあって一発目からキャンセルでは信用を失うことは必至ですから、とりあえず騙されてみようと思いました。
 当日、新幹線で仙台に行って、そこから仙石線というローカルな電車に乗って渡波という駅で降りました。駅前だというのにビルもまばらなその駅は思いっきりローカルで好感が持てました。そして、みんなについて歩いていたら『ここ、ここ』と。どうもここが宿らしいのですが、普通の民家みたいにしか見えません。それでもI先生が玄関の引き戸を開けて『こんにちわ』というと、小走りに宿の女将が出てきました。みてくれが上品な女将で、I先生の顔を見るなり『お久しぶりです。お元気でしたか?』となんかとてもいい感じの女将です。新参者の僕も紹介されて二泊三日をここで過ごしました。着いた当日は岸から釣ったのですが、15~20cmほどのハゼが次々に釣れて、僕はもうお腹いっぱいみたいな感じになっていました。みんなは投げ釣りやウキ釣りなど、様々に好みの釣り方でそれなりに釣果を上げていました。僕は渓流釣り師気取りでフカセ釣りで釣りました。釣ったのは万石浦という大きな湾の入り口で、中が広くなった湾ですので、潮の満ち干でその海へ繋がる水路はかなりの潮流がありました。ですから渓流釣りの釣り方は理に適っていました。
 その晩は、みんなで酒盛りです。今日釣ってきた魚たちも女将の配慮で、料理されて食卓に並び、僕らの舌を満足させてくれました。僕は飲まないので少々口を付けただけでしたが、一緒した先生方は酒豪ばかり。最後には女将の『もうお酒がありません』という言葉が出てやっと酒宴が止まる始末です。でも、みんな本当に楽しそうで、それを見ている僕も、まるでお酒に酔ったように楽しい気分になれました。夜遅くまで飲んだのに、翌日は朝早くから、今度は船でハゼを狙います。みんな早起きで、さっさと用意を済ませてまだ暗い中を港まで歩いて行きます。港に着くと数人が乗れるだけの船が待っていて、それに乗ってポイントまで船頭さんが連れて行ってくれます。まだ朝日が上がる前でしたが世間が明るくなって来ている時間帯でした。早速僕の横に座っていたK先生が良いハゼを釣りました。流石に船だと型がいいです。そしてトモに陣取っていたI先生が早速竿を絞っています。ここで、あの竿の曲りはハゼじゃぁないなと僕は思って見ていました。釣りに精通した人ですので見事な竿捌きの後、すんなりと獲物を船の中に抜き上げました。シルエットでその魚をみたのですが、ナマズだろうと思っていました。30cmは優にありましたので。そうしたら、近所に陣取っていた釣り師から一斉に拍手が上がりました。本人も『これだよ、これ!』と満足そうです。僕は???でしたので、ちょっとわざわざ見に行きました。そこで見たのは見事なケタハゼでした。ケタハゼとは尺を超えるハゼの俗称です。その後も止まる事を知らないかのようにハゼは釣れ続けて、僕らの笑顔も止まらないままその日の船釣りを終えました。相当な数のケタハゼが釣れてびっくりです。そして釣行前にI先生に『騙されたと思って来てごらんよ』と言われたことがやっと理解できました。ケタハゼは利根川の河口や伊豆の某河川の河口で時々釣れることは知っていましたが、現物を見たのは初めてで、しかも一匹や二匹ではなく、数十匹のケタハゼを見せつけられたのですからこれはもうびっくりです。そして、その晩生まれて初めてハゼの刺身というのをご馳走になりました。勿論、宿の女将がさばいてくれたものです。あっさりしていて癖がなく、いくらでも食べられるような刺身でした。みんなも『美味いっ!』を連発し、舌鼓に酔いしれ加えて地酒がそれを加速させ、再び女将が『もうお酒がありません。今日は昨日より買って来ておいたのですが』と。
 こんな楽しい二泊三日を過ごさせていただき、I先生には感謝・感謝でした。そして、気の利く女将がより一層僕らの旅を楽しいものにしてくれました。それから毎年例会のようにここにハゼ釣りに行ったのですが、徐々にハゼが小さくなって来てしまい、最後の方はケタハゼなんて夢のまた夢みたいになってしまいました。それでもI先生をはじめ、全員が山形屋が大好きで、僕が幹事をやっていた時も『人数が多いので他の宿にしませんか?』と提案しても『他の人はどこに泊まってもいいけど、俺は山形屋に泊まる。』と言い張ってしまいます。上記したように、山形屋は普通の民家の構造ですから6人以上は無理と言われていました。現実に泊まるだけなら20人位はOKでしょうが、そこは山形屋の女将、「みんな楽しみに来てくれるのに充分な事が出来ないならやらない方がいい」という考えを持っていたのだと思います。これは僕らの時だけかもしれませんが、明らかに採算度外視でした。それにしても、とても楽しい釣行がこの山形屋さんありきで成り立っていた事に深く感謝を述べたいと思います。
 その後、どんどんとハゼの型は落ち、魚影も薄くなって、とうとうI先生が苦情を言いました。特にポイントがI先生が思っているポイントを避けて釣っていると言うのです。他誌かに一般的な釣り船は翌日に来る客の事を考えて、魚を残しておかなければなりません。客がそこそこ満足する程度の釣果があればいいのですから、沢山釣らせる必要はないのです。船釣りをやられる方なら経験があると思いますが、釣れているのに船頭さんが『ハイ上げてぇ~』と言ってポイントを変えてしまうことってありますでしょ?あれはまさにこのことなのです。しかしながら、昔の良い状態をご存知のI先生は満足できなかったようです。少なくとも自分が言うポイントに連れて行ってもらって釣れないのなら納得するのですが、ポイントに連れて行ってくれないヮ、型も数も少ないヮではこういう苦情がでても当たり前です。そして、その翌年から僕が船頭をすることになりました。僕が船頭をするなら、好きなだけ釣ってもいいわけですし、好きなポイントで好きなだけ釣れるから、釣果はどうでも、納得できる釣りとなるわけです。案の定、僕の船頭はみんなにバシバシ釣らすことができ、みんなから過剰なるお褒めを頂きました。勿論、他のプロの船頭さんが集まっている場所は荒らさない(行かない)ようにして、その日の潮の流れや水温から自分なりにポイントを絞って釣ったのですが、マグレの連続でみんなプロの船頭さんの船の2~3倍の釣果を出してくれました。勿論船頭の僕は釣りはほとんどできませんのでほとんど竿を出す事はありませんでしたが、楽しい思い出の一コマとして、今でも新鮮な記憶として残っています。
 その後I先生が体を壊し、他界されてしまったので、この楽しい恒例釣行も止まってしまったのですが、今でも女将さんとご主人にはみんな感謝しております。
 しかし、この山形屋さん、津波を被った区域にまともに入っています。御主人も含めて女将さんも元気にしているのでしょうか?元気にしていることを望んでいます。