↑これは何でしょう?? 答えは記事の中ほどに (^_-)-☆
本證寺は愛知県安城市野寺の碧海平野にあり、二重の堀(内堀・外堀)や土塁が巡ることなどから「城郭寺院」とも呼ばれています。
本證寺は 北の上宮寺、東の勝鬘寺とともに三河三か寺と呼ばれ、浄土真宗本願寺派(当時)(以下、一向宗とも)の有力寺院でした。
三河三か寺は三河の沖積平野(すなわち水田地帯)で農民を門徒に一種の共同体(一揆)を作っていました。
いっぽう、新興勢力の武士は洪積台地(当時は雑木林や荒れ地)に城や砦を構えていました。
三河三か寺は すでに松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を得ていました。
岡崎城に年貢を納めることを免除されていたのです。
主食のコメは当然沖積平野の水田地帯でしか取れませんから、新興勢力の武士たちは既存の一向宗に対し既存権の侵害を試みようとします。
三河一向一揆の発端には諸説ありますが、永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことが発端となったといいます(上宮寺発端説)。
不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃しました。これがのちに三河一向一揆とよばれる 家康三大危機のはじまりです。
↓ 見出し画像の答えです
ハスの花中心部
雌しべ
雄しべ
1560年の桶狭間の戦い後、岡崎城へと戻った家康は、三河の既存勢力を配下に置く三河の領国化政策を進めていました。しかし、この政策は三河の農民や寺院にとっては過酷な収奪と言えるものだったわけです。
一向宗徒と家康の戦いは家康の家臣をも2分する戦いになりました。たとえば、本多正信は、それまで松平氏に仕えていましたが、一向一揆の時には一揆側について、家康と敵対します。
石川康正と数正の親子は 父が一揆勢に、子が家康側について戦っています。
渡辺守綱は熱心な一向宗門徒だったため、「三河一向一揆」の時には家康に背いて一揆側に与します。その後、家康に帰参してからは槍を使った優れた戦術で戦功を上げ、「徳川十六神将」に数えられました。
現代とは違って当時は信仰が重要視されていたため、主君と信仰の間で揺れる家臣たちの心情も理解できたのかもしれません。家康にとって、「三河一向一揆」は信仰の恐ろしさを知らされる戦いになったと言えます。
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本證寺は愛知県安城市野寺の碧海平野にあり、二重の堀(内堀・外堀)や土塁が巡ることなどから「城郭寺院」とも呼ばれています。
本證寺は 北の上宮寺、東の勝鬘寺とともに三河三か寺と呼ばれ、浄土真宗本願寺派(当時)(以下、一向宗とも)の有力寺院でした。
三河三か寺は三河の沖積平野(すなわち水田地帯)で農民を門徒に一種の共同体(一揆)を作っていました。
いっぽう、新興勢力の武士は洪積台地(当時は雑木林や荒れ地)に城や砦を構えていました。
三河三か寺は すでに松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を得ていました。
岡崎城に年貢を納めることを免除されていたのです。
主食のコメは当然沖積平野の水田地帯でしか取れませんから、新興勢力の武士たちは既存の一向宗に対し既存権の侵害を試みようとします。
三河一向一揆の発端には諸説ありますが、永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことが発端となったといいます(上宮寺発端説)。
不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃しました。これがのちに三河一向一揆とよばれる 家康三大危機のはじまりです。
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雌しべ
雄しべ
1560年の桶狭間の戦い後、岡崎城へと戻った家康は、三河の既存勢力を配下に置く三河の領国化政策を進めていました。しかし、この政策は三河の農民や寺院にとっては過酷な収奪と言えるものだったわけです。
一向宗徒と家康の戦いは家康の家臣をも2分する戦いになりました。たとえば、本多正信は、それまで松平氏に仕えていましたが、一向一揆の時には一揆側について、家康と敵対します。
石川康正と数正の親子は 父が一揆勢に、子が家康側について戦っています。
渡辺守綱は熱心な一向宗門徒だったため、「三河一向一揆」の時には家康に背いて一揆側に与します。その後、家康に帰参してからは槍を使った優れた戦術で戦功を上げ、「徳川十六神将」に数えられました。
現代とは違って当時は信仰が重要視されていたため、主君と信仰の間で揺れる家臣たちの心情も理解できたのかもしれません。家康にとって、「三河一向一揆」は信仰の恐ろしさを知らされる戦いになったと言えます。
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