原発問題の出口がなかなか見えてきません。
福島の原発事故と浜岡原発の運転中止要請をきっかけに、これまで議論されなかった、いや、むしろ議論を避けてきたエネルギー政策、国防、地球温暖化、日本経済、地域コミュニティ崩壊などが複雑に絡み合う、実に難解な問題が一気に浮かび上がってきたという気がします。
加えて、居住や建築などの私権の制限、そして損害賠償など、まさに法律に基づく調整が必要となる状況において、法律を根拠としない「要請」が、きちんとした組織決定を経ずに菅首相から飛び出してきたことで、混乱に更に拍車をかけていると言わざるを得ないでしょう。
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私自身の頭の中も、決して整理されていません。
日本経済へのネガティブ・インパクトを最小限に抑えつつ、原子力発電への依存度を着実に下げていくことが国防・環境の両面で国益にかなう。
そんな漠然とした方向感を抱いてはいるのですが、「変数」が多すぎて、各論になると少しも名案は湧いてきません。
ただ、「原爆の悲劇を味わった唯一の国である日本が、こんな形で再び原子力の怖さを国際社会に警告することになろうとは…」という、虚しいような、情けないような感情だけが漂っております。
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ところで、私が中学生の頃、反戦、反権力などをテーマにしたフォーク・ソングが、学生たちの間で広く歌われていました。
「拝啓・大統領殿」「自衛隊に入ろう」「おまわりさんに捧げる歌」などに加えて、「ゲンシバクダンの歌」という曲がありました。
YouTube携帯用
YouTubeパソコン用
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原子爆弾を ひとつ
ポケットに 入れて
新宿を 歩いたら
紀伊国屋の辺りで爆発して
紀伊国屋が ぶっ飛んだ
ワイワイ 原子爆弾は怖いな
原子爆弾を ひとつ
ポケットに 入れて
池袋を 歩いたら
西武デパートの辺りで爆発して
西武デパートが ぶっ飛んだ
ワイワイ 原子爆弾は怖いな
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今となっては他愛ないパロディソングとも言えるこの歌で、音楽的にもこれといって見るべきものはありません。
でも、当時は物議を醸して放送禁止に。
放送禁止になることで、むしろハクがつくというような当時の世情もあって、私の通う中学校でも歌われていました。
ただし、先生に知れると叱られましたけれど。
もっとも、放送禁止といっても、それはレコードを流すことが禁止ということであったらしく、ラジオのスタジオ・ライブの番組では時折演奏されていたように記憶しています。
私たちも、冗談半分で替え歌を作りました。
歌詞の中の「紀伊国屋」を置き換えて、地元商店街のお店の名前、あるいはライバル中学校の名前を歌詞に入れて歌ったりして。
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「ゲンシバクダンの歌」が流れていた1969年(昭和44年)、大学にとどまらず、高校でも学園紛争が激しさを増していました。
静岡県で行われたアジア太平洋協議会(ASPAC)を阻止しようとする抗議行動に、高校生たちも参加。
中でも、掛川西高校の生徒たちが多数検挙されるという事件が起きて、社会は騒然となりました。
掛川西高校に関する記事
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実は、この掛川西高校での運動を支援しようと、都立青山高校からも数多くの生徒たちが掛川に遠征していました。
その生徒たちの取り扱い※について、青山高校でも学校と生徒たちが対立し、遂に、全学バリケード封鎖という前代未聞の紛争状態に突入していきました。
※先輩からの伝聞。
掛川で機動隊に拘束されるも高校生たちは黙秘を続けていた。
困った警察からの要請で現地に赴いた青山高校の教職員が、留置場の高校生たちに会って青高生か否かを判定するという「首実験」を行なった。

数ヶ月に及ぶ授業停止が続き、最後には機動隊が突入(冒頭の写真)。
校舎を占拠していた生徒たちは火炎ビンを投げて抵抗しましたが、最後は力ずくで排除されました。
リーダーのKさんは警察に逮捕され、その後、実刑判決を受けるという最悪の展開に。
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そんな機動隊突入の一年半後、私は青山高校に入学しました。
Kさんが最後まで立てこもったという音楽教室の天井には、火炎ビンによる焦げ跡が残り、講堂の折り畳み椅子や裏庭には「全共闘」「全闘委」といった走り書きもありました。
そんな紛争の反動から、私たちの世代は、極端に自由放任の高校生活を送ることになりました。
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あれから40年が過ぎました。
神宮球場に行く途中、現在の青高生諸君を見かけます。
彼らの屈託のない表情を見ていると、彼らと同じ年齢の青高生たちが、ヘルメット姿で校内を闊歩していた時代が幻であったかのように思えてしまいます。
福島の原発事故と浜岡原発の運転中止要請をきっかけに、これまで議論されなかった、いや、むしろ議論を避けてきたエネルギー政策、国防、地球温暖化、日本経済、地域コミュニティ崩壊などが複雑に絡み合う、実に難解な問題が一気に浮かび上がってきたという気がします。
加えて、居住や建築などの私権の制限、そして損害賠償など、まさに法律に基づく調整が必要となる状況において、法律を根拠としない「要請」が、きちんとした組織決定を経ずに菅首相から飛び出してきたことで、混乱に更に拍車をかけていると言わざるを得ないでしょう。
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私自身の頭の中も、決して整理されていません。
日本経済へのネガティブ・インパクトを最小限に抑えつつ、原子力発電への依存度を着実に下げていくことが国防・環境の両面で国益にかなう。
そんな漠然とした方向感を抱いてはいるのですが、「変数」が多すぎて、各論になると少しも名案は湧いてきません。
ただ、「原爆の悲劇を味わった唯一の国である日本が、こんな形で再び原子力の怖さを国際社会に警告することになろうとは…」という、虚しいような、情けないような感情だけが漂っております。
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ところで、私が中学生の頃、反戦、反権力などをテーマにしたフォーク・ソングが、学生たちの間で広く歌われていました。
「拝啓・大統領殿」「自衛隊に入ろう」「おまわりさんに捧げる歌」などに加えて、「ゲンシバクダンの歌」という曲がありました。
YouTube携帯用
YouTubeパソコン用
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原子爆弾を ひとつ
ポケットに 入れて
新宿を 歩いたら
紀伊国屋の辺りで爆発して
紀伊国屋が ぶっ飛んだ
ワイワイ 原子爆弾は怖いな
原子爆弾を ひとつ
ポケットに 入れて
池袋を 歩いたら
西武デパートの辺りで爆発して
西武デパートが ぶっ飛んだ
ワイワイ 原子爆弾は怖いな
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今となっては他愛ないパロディソングとも言えるこの歌で、音楽的にもこれといって見るべきものはありません。
でも、当時は物議を醸して放送禁止に。
放送禁止になることで、むしろハクがつくというような当時の世情もあって、私の通う中学校でも歌われていました。
ただし、先生に知れると叱られましたけれど。
もっとも、放送禁止といっても、それはレコードを流すことが禁止ということであったらしく、ラジオのスタジオ・ライブの番組では時折演奏されていたように記憶しています。
私たちも、冗談半分で替え歌を作りました。
歌詞の中の「紀伊国屋」を置き換えて、地元商店街のお店の名前、あるいはライバル中学校の名前を歌詞に入れて歌ったりして。
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「ゲンシバクダンの歌」が流れていた1969年(昭和44年)、大学にとどまらず、高校でも学園紛争が激しさを増していました。
静岡県で行われたアジア太平洋協議会(ASPAC)を阻止しようとする抗議行動に、高校生たちも参加。
中でも、掛川西高校の生徒たちが多数検挙されるという事件が起きて、社会は騒然となりました。
掛川西高校に関する記事
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実は、この掛川西高校での運動を支援しようと、都立青山高校からも数多くの生徒たちが掛川に遠征していました。
その生徒たちの取り扱い※について、青山高校でも学校と生徒たちが対立し、遂に、全学バリケード封鎖という前代未聞の紛争状態に突入していきました。
※先輩からの伝聞。
掛川で機動隊に拘束されるも高校生たちは黙秘を続けていた。
困った警察からの要請で現地に赴いた青山高校の教職員が、留置場の高校生たちに会って青高生か否かを判定するという「首実験」を行なった。

数ヶ月に及ぶ授業停止が続き、最後には機動隊が突入(冒頭の写真)。
校舎を占拠していた生徒たちは火炎ビンを投げて抵抗しましたが、最後は力ずくで排除されました。
リーダーのKさんは警察に逮捕され、その後、実刑判決を受けるという最悪の展開に。
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そんな機動隊突入の一年半後、私は青山高校に入学しました。
Kさんが最後まで立てこもったという音楽教室の天井には、火炎ビンによる焦げ跡が残り、講堂の折り畳み椅子や裏庭には「全共闘」「全闘委」といった走り書きもありました。
そんな紛争の反動から、私たちの世代は、極端に自由放任の高校生活を送ることになりました。
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あれから40年が過ぎました。
神宮球場に行く途中、現在の青高生諸君を見かけます。
彼らの屈託のない表情を見ていると、彼らと同じ年齢の青高生たちが、ヘルメット姿で校内を闊歩していた時代が幻であったかのように思えてしまいます。
