元・日銀総裁の三重野康さんがご逝去されました。
1989年(平成元年)12月から五年間、日銀総裁をお務めになりました。
数回にわたる公定歩合引き上げなどを通じて資産インフレの沈静化に努める一方、政治家からの露骨な圧力にも揺るがない、気骨のあるセントラル・バンカーでいらっしゃいました。
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1985年(昭和60年)の9月、ニューヨークのセントラルパークに面するプラザ・ホテルで、先進5ケ国の蔵相・中央銀行総裁会議で、米ドル危機を回避するために、協調的に円高ドル安を容認するという、いわゆるプラザ合意がなされました。
ちなみに、竹下登さんが大蔵大臣として参加しています。
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プラザ合意の直後から、急激な円高が進行しました。
1970年代の石油ショックを克服して日本経済の牽引者となっていた自動車・電機・鉄鋼・工作機械などの業界が、円高という難問に直面。
円高不況を最小限に止めようとして、日銀は低金利政策と量的緩和策を実施しました。
銀行の営業現場には、毎月、実需とはかけ離れた貸出増加が求められました。
貸出目標に達しないと、『おたくの銀行の資金運用力も、大したことはありませんね』と日銀の担当者から嫌みタラタラ。
一般的な運転資金や設備資金の実需を大きく上回る過剰な流動性資金が、結果的に流れ込んだのが、株式と不動産の市場でした。
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バブル経済は、1987年(昭和62年)のNTT株の上場に象徴されます。
個人から伝統ある名門企業までが、本業での地道な稼ぎを忘れて、株式や不動産、そしてゴルフ会員権などのキャピタルゲインに酔いしれるという異常な状況となりました。
ちなみに、結婚に際して私が1985年に26百万円で購入した中古マンション。
専有面積60㎡あまりの同じ間取りの隣室が、2年後の1987年には80百万円を超える価格で取引されるという状況でしたから、その異常ぶり・過熱ぶりが若い世代の方々にも理解できるというものです。
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日経平均が38,915円に達した1989年12月、三重野さんが日銀総裁に就任されました。
三重野さんは、立て続けに公定歩合を引き上げしました。
その結果、短期プライム・レートが長期プライム ・レートを上回るということに。
30歳の融資マンであった私が、長短金利逆転という未体験ゾーンに突入しました。
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この時点で、長短金利の逆転は、融資業務の現場にいる私にとって、単なる収益性の問題、利鞘の問題でした。
長期プライム ・レート建て融資を短期プライム ・レート建てへと条件改定する交渉が私たちに課せられた主たる仕事でありました。
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1990年3月、大蔵省銀行局長から発っせられた通達で、建設・不動産・ノンバンク向け融資の規制が打ち出されました。
いわゆる三業種規制です。
この通達により、建設・不動産・ノンバンクへの追加的な資金供給に不可能となり、その結果、それまで単なる利鞘の問題であったのが、深刻な貸倒れリスクの問題へと発展しました。
そして、その三業種規制から除外された住宅金融専門会社(日本住宅金融、住総、第一住宅金融、地銀生保住宅ローンなど)に、あらゆる金融機関から不動産融資案件が次々と紹介されることになり、やがて巨額の不良債権となっていきました。
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このような、歪んだ金融状況で、富士銀行赤坂支店、住友銀行青葉台支店、東海銀行秋葉原支店などで、融資に絡む不祥事件が起きました。
このうち、東海銀行秋葉原支店での不正融資事件では、意外な展開がありました。
不正融資事件の責任をとって、日銀出身の役員が辞任しました。
この辞任に激怒したのが、当時の日銀総裁であった三重野さん。
『東海銀行は、日銀からの天下りを排除した』と憤った三重野さんは、東海銀行への日銀融資1000億円を強引に回収したのです。
その騒動は、日銀OBを東海銀行が顧問として受け入れることで決着しました。
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昨日からの新聞報道からは読み取ることは難しいのですが、誇り高きセントラル・バンカーとしての顔と、豪腕の高級官僚としての顔が三重野さんにはありました。
ともあれ、知的な豪傑が天に召されました。
本当にお疲れ様でした。
1989年(平成元年)12月から五年間、日銀総裁をお務めになりました。
数回にわたる公定歩合引き上げなどを通じて資産インフレの沈静化に努める一方、政治家からの露骨な圧力にも揺るがない、気骨のあるセントラル・バンカーでいらっしゃいました。
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1985年(昭和60年)の9月、ニューヨークのセントラルパークに面するプラザ・ホテルで、先進5ケ国の蔵相・中央銀行総裁会議で、米ドル危機を回避するために、協調的に円高ドル安を容認するという、いわゆるプラザ合意がなされました。
ちなみに、竹下登さんが大蔵大臣として参加しています。
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プラザ合意の直後から、急激な円高が進行しました。
1970年代の石油ショックを克服して日本経済の牽引者となっていた自動車・電機・鉄鋼・工作機械などの業界が、円高という難問に直面。
円高不況を最小限に止めようとして、日銀は低金利政策と量的緩和策を実施しました。
銀行の営業現場には、毎月、実需とはかけ離れた貸出増加が求められました。
貸出目標に達しないと、『おたくの銀行の資金運用力も、大したことはありませんね』と日銀の担当者から嫌みタラタラ。
一般的な運転資金や設備資金の実需を大きく上回る過剰な流動性資金が、結果的に流れ込んだのが、株式と不動産の市場でした。
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バブル経済は、1987年(昭和62年)のNTT株の上場に象徴されます。
個人から伝統ある名門企業までが、本業での地道な稼ぎを忘れて、株式や不動産、そしてゴルフ会員権などのキャピタルゲインに酔いしれるという異常な状況となりました。
ちなみに、結婚に際して私が1985年に26百万円で購入した中古マンション。
専有面積60㎡あまりの同じ間取りの隣室が、2年後の1987年には80百万円を超える価格で取引されるという状況でしたから、その異常ぶり・過熱ぶりが若い世代の方々にも理解できるというものです。
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日経平均が38,915円に達した1989年12月、三重野さんが日銀総裁に就任されました。
三重野さんは、立て続けに公定歩合を引き上げしました。
その結果、短期プライム・レートが長期プライム ・レートを上回るということに。
30歳の融資マンであった私が、長短金利逆転という未体験ゾーンに突入しました。
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この時点で、長短金利の逆転は、融資業務の現場にいる私にとって、単なる収益性の問題、利鞘の問題でした。
長期プライム ・レート建て融資を短期プライム ・レート建てへと条件改定する交渉が私たちに課せられた主たる仕事でありました。
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1990年3月、大蔵省銀行局長から発っせられた通達で、建設・不動産・ノンバンク向け融資の規制が打ち出されました。
いわゆる三業種規制です。
この通達により、建設・不動産・ノンバンクへの追加的な資金供給に不可能となり、その結果、それまで単なる利鞘の問題であったのが、深刻な貸倒れリスクの問題へと発展しました。
そして、その三業種規制から除外された住宅金融専門会社(日本住宅金融、住総、第一住宅金融、地銀生保住宅ローンなど)に、あらゆる金融機関から不動産融資案件が次々と紹介されることになり、やがて巨額の不良債権となっていきました。
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このような、歪んだ金融状況で、富士銀行赤坂支店、住友銀行青葉台支店、東海銀行秋葉原支店などで、融資に絡む不祥事件が起きました。
このうち、東海銀行秋葉原支店での不正融資事件では、意外な展開がありました。
不正融資事件の責任をとって、日銀出身の役員が辞任しました。
この辞任に激怒したのが、当時の日銀総裁であった三重野さん。
『東海銀行は、日銀からの天下りを排除した』と憤った三重野さんは、東海銀行への日銀融資1000億円を強引に回収したのです。
その騒動は、日銀OBを東海銀行が顧問として受け入れることで決着しました。
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昨日からの新聞報道からは読み取ることは難しいのですが、誇り高きセントラル・バンカーとしての顔と、豪腕の高級官僚としての顔が三重野さんにはありました。
ともあれ、知的な豪傑が天に召されました。
本当にお疲れ様でした。