紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

言葉の魔術師

2007-02-23 23:43:24 | 読書
 末ニは言葉の魔術師である。岸本佐知子/著『ねにもつタイプ』のなかの3pあまりの「戦記」という文章を読み、つくづく恐れ入った。

 あまりに衝撃的かつ笑撃的だったので、くつろいでいる夫・H氏を捕まえ、朗読しながら爆笑する。彼にすればとても迷惑な話である。が、「ほお」と一応感心してもらえた。

 「戦記」より一部引用する。

 ××××年 六月某日 一九ニニ
 外廊下を巡回中、敵(中)一体と遭遇、我が軍武器不携行に付き、交戦には至らず。今年最初の敵出現であり・・・(以下略)

七月某日 ニニ三七
 以前より敵の秘密基地との情報のあったゴミ集積所にて、大小合わせ十余体の敵と遭遇、完全に包囲さるるも、かねて装備のジェット噴射砲にて果敢に応戦、我が軍の一方的勝利に終わる(以下略)


 このように始まるも「敵」はしぶとく、基地内洗面所上方壁面に、台所水切カゴ付近に出現しはじめる。敵を壊滅するも度重なる人的被害に反戦論が高まったり、新たなる駐屯地の模索をし、新天地に赴いたりするのだ。
 
 新天地での平穏な日々も、ついに基地内階段付近での「敵」(小)の発見にて破られる。そして運命の八月某日がやってきた。私の最も偏愛する部分である。

  鉢の陰より、恐れていた最凶最悪の敵「多足ム型」(中)一体が出現、ジェット噴射砲迫撃砲催涙弾投石機、凡そありとあらゆる武器を投入しての総力戦の末、敵を完全に沈黙せしむ。黒光りのキチン質の兜といい裏返った機体腹面のおどろおどろしき橙色といい、まさに地獄よりの使者と呼ぶに相応しく、其のおぞましさに発狂者続出、残骸処理する能わず。

 このリアルさ! 体験した者にしかわからない臨場感! 幾多の戦記物あれど、これほど共感を呼ぶ戦記物は初めてであった。

箱書きの妙味

2007-02-22 23:02:55 | ノンジャンル
 お隣さんの日本在住のアメリカ人、M氏がヤフーのオークションで骨董を売りたいんだけど、とH氏に相談を持ちかけて来た。

 M氏のおじいちゃんは、戦後しばらく日本に住んでいた事がある。彼は大の日本びいきで、そのとき日本で購入した一切合切をアメリカに持ち帰ったらしい。庭の石灯籠まで。あんなもの、どうやってアメリカまで持って帰ったのだろう??

 最近M氏がアメリカに里帰りしたとき、おじいちゃんが日本から持ち帰った一切合切を、遺産分けの機会に思い切って処分しようということになった。
 その中に浜田なんたら、という人の陶訣?iがあるんやけど、いくらぐらいの値打ちがあるものなのか、わからへん? オークションに出品するつもりなんやけど、と訊ねて来たのだ。

 浜田なんたら、という人の正式名は濱田庄司というらしい。H氏は、
「う~ん、箱に入ってへんかった?箱書きあったらどんなんかわかるし、証明になるんやけど」
「モノはアメリカの実家なので、お父さんに聞いてみるわ~。メールで写真送るように頼んどくしな~」
という答えがM氏より返って来た。

 夫が濱田庄司という人をネット検索すると、なんと昭和の人間国宝の陶潔ニである。彼の作った作品でオークションに出ているのをみたら、いかにも怪しい4桁価格の商品から何万円もする品格のあるものまで、さまざまである。

 そのうちに「やっと写真おくってきたしー」とM氏より写真貼付のメールが届いた。なかなか品格のある花瓶である。シンプルでH氏好みの風格だった。「これはかなりホンモノっぽい!」と夫婦で盛り上がる。

 そして箱書きである。憶測だが、おじいちゃんの手づくりかもしれない木の箱のサイドに、おじいちゃんの毛筆の筆跡で、大きく「はまだ」と書かれていた。その横には、やはり大きな文字で「がびん」と。個人的には、かなりお値打ちの箱書きだと思う。

絶妙なタイトル

2007-02-21 22:53:14 | 読書
 月曜の新聞広告を見て、火曜日に注文し、水曜日(本日)に入手した本の著者は「いしいひさいち氏」である。我家では「いしいひさいち師」とお呼びしても間違いないくらい、絶大な尊敬を集めている。家庭内カルトである。

 その本はタイトルを一目みて即購入決定となった。そのタイトル。それは髷ものになれなかった時代もの(現代政治史?)『近くて遠山の金さん』である。「金」にはもちろん「キム」とルビが振ってある。説明の余地もないが「金正日」の「金(キム)」である。

 それにしても「いしい師」のタイトルはいつも秀逸で、タイトルを一目見た瞬間、まるで恋に落ちたように本を引っ掴み、迷う事なくレジに向かってしまうのだ。人心を惑わす術に長けているのである。もう思うがままに、まるで鯉の群が人の気配を察して押し寄せエサをねだるように、自由自在に財布の口を開けさすのである。

 例えば夫・H氏が新婚の頃、一目惚れして大人買いしたいしい師の「ドーナツブックスいしいひさいち選集」(双葉社)のシリーズには、巻毎にテキトーにタイトルが付けられている。そのタイトルは、すべて有名な文学作品のパロディになっているのだ。

 しかし原典を知らなければ「なんのこっちゃ」なので、ミステリーの知識が皆無なH氏は、私が受けまくった「まだらの干物」の面白さがわからない。ドストエフスキーを未読の私には、彼がお気に入りの「椎茸食べた人々」の真の笑いの意味を理解していないような気がする。

 「健康と平和」、「いかにも葡萄」、「馬力の太鼓」などのタイトルも好きだが、我家で投票すれば、「フラダンスの犬」が票を集めそうな気がする。
 夫婦間で「どれがええやろ?」と協議した結果、内容とのギャップも含めて「出前とその弟子」が『ドーナツブックス』の栄えあるナンバー1を勝ち取った。文句なく審査委員の意見の一致をみたのだ。

 「出家」を「出前」に置き換えた時点でいしい師は、燦然と輝く笑いの神様の微笑みをかいま見たのではないか、と思わせる絶妙なタイトルである。合掌

おばさんの条件

2007-02-20 21:57:26 | ノンジャンル
 今日、新聞を読んでいたら、自分が「おばさん」かどうかを知る方法がある、という投稿があった。おばさんの条件、それは「だれかれかまわず話しかける」ことらしい。

 主婦が出歩くお昼前後の時間帯に買い物をしていると、見知らぬ方から話しかけられることは、ままある。しかし、それは生活に疲れていたり、どうにも元気がでなかったりするときには、意外なくらい新鮮な風を吹き込んでくれるのだ。

 昨日、スーパーで生け花用に桃の花を買った。レジを終えてから、先に花だけ荷物を詰めるための台に置いたら、「あ、ここにだれか(忘れてはる)・・・」とお店の人に報告している50ばかりの主婦の方がいらっしゃった。
 「すみません、それ、おいてあるんです」と申し出ると「ごめんなさい、実は私もきのう、コロッケ忘れてしまって。思い出して取りに来たけど、もうなくなっていて」
 「私も」って、私は忘れたんじゃないんだって(笑) しかしながら世の中いうほど悪くないよね、と思う。こういう人が世の中に潤いをあたえるのだ。

 それから、もう3年以上前の話だが、おじいちゃんに尿取りパッドが必要になり、ドラッグストアで安売りをするときを狙って、大量に買い込んでいた。ひとつでも大変にかさばる商品なのに、2~3個買ったらカートもいっぱいになる。

 レジで計算をしてもらっている時に、となりで精算を済ませた、70才前くらいの小柄な主婦が、はっとして私をみつめていた。「介護されているんですか?」
「はあ、ほとんどおじいちゃんのお世話はおばあちゃんがしているので、買い物だけですけどね。杖があれば自分で歩けますし。」
「お若いのに・・・私もこの前まで主人の父を世話して、2ヶ月まえに看取りました。ほんとうに、大変でした。だから、あなたの気持はよーーく判ります! がんばって、くださいね!!」と手を握らんばかりに激励の言葉をいただいた。彼女はご自分の体験を甦らせたのであろう、感極まって目に光る物が。

 実際おじいちゃんのお世話は、おばあちゃんが24時間態勢でそばに待機してくださったおかげで、私はまったくしていない。薬をもらいにいったり、たまに病院に連れて行ったりするくらいだった。

 美しき誤解であるが、一期一会の出会いなので、誤解は美しいままがいい。「ありがとうございます」と彼女に合わせて感極まってみた。人にはそれぞれにドラマがあるのだ。

 おじいちゃんと最後に隣町の病院に行ったときは、お寿司屋さんに行きたいというリクエストにお応えして、病院の近くのちいさなお寿司やさんに連れて行った。そこで「うな重」を食べて、おじいちゃんは大変満足そうだった。やはり毎日家にいると、外でのご飯はうれしい。どんなに家のご飯が美味しくても。今しがた思い出した、私の中のちいさなドラマである。

田辺聖子さんと私

2007-02-19 23:47:56 | 読書
 私が初めて田辺聖子さんの本を読んだのは、高校生の頃の「文車日記」を読み古典の面白さに目覚めてしまった。もっとも、文法については結局最後まで判らずじまいだったが。「文車日記」は高校生のための古典入門としては、すでに定番だし、はずせない読み物であろう。

 ところで、私はあまり田辺聖子さんの御著書を読んでいない。おそれおおい事を言ってしまえば、自分とキャラがかぶるような気がして、のめり込めなかったような気がする。

 それでも『私本源氏』シリーズは、ちゃんと買って読んだ記憶がある。田辺さんによれば、「光源氏は京都人であるから、標準語(東京の言葉)でなく京都弁でしゃべっていたはずである」というコンセプトに沿って、京都の関西弁(大阪とは微妙に違う)をしゃべる光源氏が主人公になり、笑う笑う! 京都弁をしゃべる光源氏って、あたりまえといえばあたりまえなのに、そんなこと言われるまで誰がきづいたであろうか? もうこれだけで面白さに太鼓判である。田辺聖子さんの面目躍如たる舞台である。
 
 しかも2巻目の「春の目覚めは紫の巻」で登場する、こまっしゃくれた若紫の君が、なんともいい! 源氏の「ちいさいお姫さん」のときから自分好みに育てれば、自分にぴったりくる女性に育ち上がるはず!という邪な!?計画を迄Mしまくるのだ。

 無邪気なはずの「ちいさいお姫さん」が男女のあれこれをよーく知っていることに驚愕する源氏が、「なんでそんなこと、知ってはりますのや!?」と若紫に愕然と問うと、お姫さんは平然と「性教育です」とこともなげに言う。ここでは彼女の方が、源氏よりも3枚くらいは上手である。古典の授業で、色好みで浮気性な男にイライラしたりやきもきすることの多い女子高校生が、これでどんなに溜飲を下げただろう。

 私にとって田辺聖子さんは、だんぜん古典の人なのだ。と、言える程には読んでいないのが、ちょっと残念だったりする。