昨日、お年玉つき年賀はがきの2等の賞品、「北海道黒毛和牛すき焼き用」がやってきたので、今日はすき焼き。おじいちゃんがいた頃にも、数回したくらい「すき焼き」を食べない家なのだったので、Kちゃんに至っては「わたし、初めて食べた」と言うくらい。
いや、彼女はホントは初めてじゃない。きっと不評なすき焼きだったのだろう。「すき焼き」とよべるレベルのものではなかったのかも。お肉のランクで味の決まる料理なのだ。
今日はさすがにご飯をおかわりして、ホクホク顔で食べていた。「この生卵との絡みが絶妙のハーモニー♪」とうっとりした表情でグルメトークをしていた。お兄ちゃんも大満足の模様。量的にもきっちりだった(お肉は500グラム)。もしか足りなかったら・・・という配慮から、スーパーですき焼き用のお肉も買い足したけれど、全くの杞憂だった。
お父さんが時間差ですき焼きに取りかかり、完食。せっかく玉うどんも買って来てもらったのに、うどんでフィニッシュを決められなかったのが、やや心残り。あしたのお昼のお楽しみにしよう。
しみじみと幸せそうな子ども達の顔を見られ、和やかで穏やかな時間を持つ事ができた。適当に味付けをしたが、やや薄めながら好評だったのも嬉しい。
そういや子どもの頃は、「すき焼き」というのは最高のおもてなしであり、御馳走だった。にぎり寿司や鰻は「話には聞いているけれど」な食べ物だったし。母親がいそいそとすき焼きの準備をしているときには、彼女の嬉しげな気配すら感じられた。東京の親戚が来た時にも定番で、母にとって叔母にあたる人は、「おいしい、おいしい。東京ではこんなお肉は食べられない」と連呼していたっけ。30年以上昔の話であるので、今は事情が違うかも。
年賀状のお年玉さまさまである。今年は郵便局に足を向けて眠れないな。
ついでながら先日書評欄でみた「世界屠畜紀行」(内澤旬子/著 解放出版社)は、なかなかよさげである。読んではいないが、妖怪アンテナのように私の中で激しく針が振れるのだ。外れるときもむろんあるけれど、直感というものはなかなかバカに出来ない、無視出来ない何かがある。
これは珍しく夫婦で「面白そう!」と意見の一致をみた本でもある。読書ジャンルがまるで違うので、希有の一致なのである。
いや、彼女はホントは初めてじゃない。きっと不評なすき焼きだったのだろう。「すき焼き」とよべるレベルのものではなかったのかも。お肉のランクで味の決まる料理なのだ。
今日はさすがにご飯をおかわりして、ホクホク顔で食べていた。「この生卵との絡みが絶妙のハーモニー♪」とうっとりした表情でグルメトークをしていた。お兄ちゃんも大満足の模様。量的にもきっちりだった(お肉は500グラム)。もしか足りなかったら・・・という配慮から、スーパーですき焼き用のお肉も買い足したけれど、全くの杞憂だった。
お父さんが時間差ですき焼きに取りかかり、完食。せっかく玉うどんも買って来てもらったのに、うどんでフィニッシュを決められなかったのが、やや心残り。あしたのお昼のお楽しみにしよう。
しみじみと幸せそうな子ども達の顔を見られ、和やかで穏やかな時間を持つ事ができた。適当に味付けをしたが、やや薄めながら好評だったのも嬉しい。
そういや子どもの頃は、「すき焼き」というのは最高のおもてなしであり、御馳走だった。にぎり寿司や鰻は「話には聞いているけれど」な食べ物だったし。母親がいそいそとすき焼きの準備をしているときには、彼女の嬉しげな気配すら感じられた。東京の親戚が来た時にも定番で、母にとって叔母にあたる人は、「おいしい、おいしい。東京ではこんなお肉は食べられない」と連呼していたっけ。30年以上昔の話であるので、今は事情が違うかも。
年賀状のお年玉さまさまである。今年は郵便局に足を向けて眠れないな。
ついでながら先日書評欄でみた「世界屠畜紀行」(内澤旬子/著 解放出版社)は、なかなかよさげである。読んではいないが、妖怪アンテナのように私の中で激しく針が振れるのだ。外れるときもむろんあるけれど、直感というものはなかなかバカに出来ない、無視出来ない何かがある。
これは珍しく夫婦で「面白そう!」と意見の一致をみた本でもある。読書ジャンルがまるで違うので、希有の一致なのである。