紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

生活リハビリ効果?

2008-01-21 23:30:57 | ファミリー
 昨日は一日私は仕事で出ており、その間休日のH氏は、家の仕事に奔走してくれていた。
 
 家に帰ってからH氏に「おばあちゃん、どうやった? 何が一番大変やった?」と聞くも「なんも大変やなかった。ほとんど自分でしてたし」
「服は?」
「自分で全部着てたで」
「ええ?そやったの?」

で、今日は私がおばあちゃんを病院まで連れて行くことになっているので、朝からH氏に車椅子の開き方や閉じ方、ストッパーの鰍ッ方などのレクチャーを受けた。福祉関係には詳しい人なのだ。意外に彼には向いているのかもしれない。

 で、病院に出かける順序として、家から車椅子への移動、車椅子から車への移動、車から車椅子への移動、という難関が予想された。ところがである。

 お医者さんや看護士さんたち、リハビリ担当者の方から、「ウチに帰ったら、絶対転唐オないように、くれぐれも気をつけて」と言われながらやや強引に退院してきたので、慎重にゆっくりとではあるが、思い切りのよさと身軽さと的確さで、かなりスムーズにひとりで移動できるのだ。驚きである。一族の証「負けず嫌いのがんばりや」が、むくむくと顔を出して来ているのだ。

 そしてまた、リハビリ担当のお姉さんからも「この二日間、何があったの?っていうくらい、よく(からだが)動くようになってますよ!」と驚かれていた。

 退院してからは、少なくとも日中は起きているし、歩けなくても這って移動できるし、ゆっくりと安眠できるし(4人部屋だったので安眠は難しかったらしい)、好きなものが食べられるしで、歩くことができない以外は、普通の生活に戻った安堵感があるのだろう。生活すること自体がリハビリになる、というのは、老人介護のカリスマ・三好春樹さんの持論だが、まさにそうだったのだ。

 おばあちゃんいはく、「家にいることが、一番の薬や」。実感です。

*三好春樹さんは、ヘルパーの勉強を始めた友だちに彼の著作を教えていただいて以来、大好きな方です。いかにも彼らしい文章があったので、興味のある方はこちらをご覧ください。

モラルハザード

2008-01-20 22:01:33 | 読書
 カテゴリは読書だが、ペーバーではなく内田樹先生のブログである。ひさびさのスタンディング・オーベーションだった。

 タイトルは『モラルハザードの構造』1月19日の記事である。NHKの職員によるインサイダー情報による株取引で始まるモラルハザードの話だ。うっとりする展開の文章で、チカラの限り頷きながら読む。たとえばこんな箇所。

彼らは「フェア」ということの意味を根本的に誤解しているのだと思う。
おそらく、彼らは子どもの頃から一生懸命勉強して、よい学校を出て、むずかしい入社試験を受けてNHKに採用された。
その過程で彼らは自分たちは「人に倍する努力」をしてきたと考えた。
だから、当然その努力に対して「人に倍する報酬」が保障されて然るべきだと考える。
合理的だ。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。


あるいは、こんな箇所。

おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。
人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。


上記のナゾは下記で解説される。

「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。
それが「自分自身」だからである。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」というのは『マタイ伝』22章39節の有名な聖句である。
それは「あなたの隣人」は「あなた自身」だからである。
私たちは誰であれかつて幼児であり、いずれ老人となる。いつかは病を患い、傷つき、高い確率で身体や精神に障害を負う。
そのような状態の人間は「アンダーアチーブする人間」であるから、それにふさわしい社会的低位に格付けされねばならず、彼らがかりにその努力や能力にふさわしからぬ過剰な資源配分を受けていたら、それを剥奪して、オーバーアチーブしている人間に傾斜配分すべきであり、それこそが「フェアネス」だという考え方をするということは、自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児であった事実を、いずれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)「勘定に入れ忘れている」からできるのである。


 たしかに「お年寄りの生活や心身の衰えていく様子」を日々みていると、ときどき病気になって辛い思いをしていると、謙虚にならざるを得ない。どんなにエラそうなことを言ったって、自分もいつどうなるか、わかったもんじゃない。

「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。
その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくるであろう。


おお、なんとオソロシイことでしょう! でもこんなオソロシイことをする人たちを、私たちはえらく頻繁に日々目にする。しばしば嬉々として自分に呪いをかけている様子を見ると、ちょっと滑稽な気さえするのだけど。

何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである。


これって究極の子育ての目標なのかも。

一時テレビなんかで「どんなお子さんになってほしいですか?」と市井の方にインタビューをされていたら、皆判で押したように「人に迷惑をかけない人になってほしい」っていうのを見たことがある。すごくヘンな気がした。私自身は人に迷惑かけまくりに生きているので、それが一番なってほしくない状態とは、認めたくなかったのかも。

 「世の中に自分のような人間ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になる」というのが究極の道徳律で、それこそが「自分に祝福を贈る」というのは、とてもハッピーな気分になるが、

世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。


こんなオソロシイことが、そのへんにゴロゴロころがっているのを見聞きするのは、心が痛む。自分で自分に呪い・・・負゚ぎ。

そのことを私たちは忘れがちなので、ここに大書するのである。

確かに「忘れがち」なのだ。せっかく内田先生が大書してくださったのだから、自分自身に呪いをかけるような愚行は慎まないとね。



母帰る。

2008-01-19 22:58:40 | ファミリー
 昨日のタイトルが『イパネマの娘』のパクリだというのは、非常に判りづらかっただろうけど、本日は日本文学のフィールドなので、まだしもかも。もちろん菊池寛の『父帰る』を受けているのである。『ちりとてちん』の週タイトルに、もろ影響を受けてしまったのだ。

 午前中は、おばあちゃんの退院、午後は介護用品の調達(準備)と家事で夫婦とも目一杯働く。私としては、もう少しリハビリを受けてから退院の方がよかったのでは?と、かなり不安で一杯だったが、晩ご飯の後、延々と話し込む親子(おばあちゃんとH氏)の様子を見ていると、H氏の決断に従ったのは、やっぱり正解だったなと確信できた。

 おばあちゃんは足の不自由な人になってしまったが、やはりいるべき人が戻ると、みんなが落ち着く。何もしなくても(利益を生み出したり、いわゆる『役に立つ』ことをする、というのと対極にいる)、そこにいるだけで充分という存在なのだ。つまりほとんど「神様」なのである。

イチビリの娘

2008-01-18 23:00:12 | ファミリー
 最近、中一の娘Kちゃんが、テノールの秋山さんがソロで歌う『千の風になって』の声真似にハマっている。

 今日も車に乗っている時ラジオから聞こえて来ると、秋山さんとデュエット??を始める。女の子だけどアルトより低音なので、「がんばったらバスも出るかも」とワンランク低めに落とし、グリークラブ風にお腹から声を出し、朗々と?歌う。私はひたすら爆笑。

 そういえば、彼女が生まれたときの産声は、お兄ちゃんのときよりオクターブ低かった。赤ちゃんで泣いていたときも、おじいちゃんから「えらい低音やな?」って言われていたっけ。

 たまに歌詞を間違える。間違えたら次のふれーずでは「♪まちがえてしまあった~~♪」とアドリブで作詞も(笑) 歌が終わった時点で、拍手喝采。続くラジオの曲も同様に歌おうとするも「さっきの歌で、チカラ使い果たしたわ~」。

 昨日の約束通り、万城目学さんの『鹿男あおによし』を買ってあげる。最初彼女がスーパーの中に入っている本屋さんに行き、探したのだが「なかったし、買わへんかったねん」。
 まさか昨日テレビドラマになった本が、ないはずないやろ、と私が見に行ったら、平積みで二山あり、京都でサイン会の案内ャbプまであった。細かい所まで目端がきく子なのに、珍しい。木を見て山を見ず、という訳か? 

 しかし本って、不思議に見落としたりするものなのだ。よく図書室利用者の方が「この辺、探したんですけど見つからなくて」というところを再度探すと、ャ鴻鰍ニみつかり「あれ?なんでかな、そこみていたのに?」という声をきくことも、しばしば。

 Kちゃんはウチに帰って、熱心に『鹿男』を読んでいた。

 明日からおばあちゃんが退院するので、またもや生活の組み替えのし直しである。やっと今の生活に慣れたところで少し残念ではあるけれど、おばあちゃんは、あれだけウチに帰りたがっているのだから、その気持を汲んでのお父さんの決断である。尊重しなくてはね。

鹿男あおによし

2008-01-17 23:35:07 | テレビ
 ついうっかりと『鹿男あおによし』の連続テレビドラマ(フジテレビ/木曜、夜10時~)の1回目を観てしまう。Kちゃんが「これ、おもしろそうやし」と新聞のテレビ欄を見てチャンネルを合わせてしまったのが運のつき。結局二人で最後までみてしまい、そのあと二人とも『睡魔と闘う地獄』に陥ってしまうはめになるのだ。

 私は、「わー、この話、面白いみたいやで。『坊ちゃん』読んでたら、もっと面白いんやけどなー」と、『坊ちゃん』との類似点を解説する。「本、面白そうやなー。買ってもいい?」と読む気満々になるKちゃん。しめしめ。「そーやなー。このセリフの間合いがちょっと違う気がするし、もしかしたら本の方が面白いかもしれへん」

 一方Kちゃんは筋書きの予想をし、「きっとこの女の子はねえ○○やで」とか、この先展開なども、あれこれ二人で考える。
 その一方「若草山って、こんなやったっけ?」「若草山に鹿はおらんかったけど、フンだけはいっぱいやった」という、リアルな奈良についての思い出話なども。

 セリフ自体の持つ重みは伝わらないけれど、奈良の悠々たる歴史を感じる空気は伝わってくる。シックなセットも好き。

 まだ始まったばかりで、入り込むことはできないけれど、来週もうっかり観てしまうのかも・・・でも視聴後の「スリーピー・ヘル」のことを考えると・・・あな、おそろし。