少し前の話になるが、うちの会社の元オヤブンが中学生だか高校生だかを呼んで社会見学させたことがある。
社内報に出ていてそれで知ったわけなんだが。
で、社内報にはそれに付け加えて生徒の感想文の一部引用がいくつか載っていたわけだが・・・
これが、なんというかこう、学校の先生に「書けぃ!」と強制されてしょうがないから当たり障りのないことをその場しのぎで書いたような文章だったわけだ。
うちの広報課はそれを大喜びで
「こんな感想もらいました!!」
とでも言わんばかりに大はしゃぎで載せているわけよ。
いやいや、それかなりイタいんだけど。(^^)/☆
思えば、わたしの小中学校での感想文もそんな感じだったな~。
マジでどーでもいいことの感想文を常態的に書かされつづけていて、イヤイヤながらにしょうがないから当たり障りのないことをその場しのぎで感想文を書く日常があった。
当blogはあるいみ毎日なにかの感想文を書いているのに等しいわけで、その頃を思えばなんという変わりようかと自分でもビックリだと思う。
そもそも、なんで小中学校のときの感想文はあんなにイヤだったのだろうか?
これは明白だ。
何の感動もないのに、何も思うところもないのに、『感想文何ページ』というノルマだけ科せられていたからだ。
これは感想文だけではなく、日記でもそうであった。
では、なぜそんなに無感動だったのか?
これも明白だ。
感想文を書かなければならない元ネタが、とてもじゃないけど興味が向くような内容とはかけ離れているからだ。
仮に感想文を書かなければならない元ネタが解脱するほどつまらなかったとしよう。
というか、一般的には解脱するほどつまらなない。
少なくともわたしの中学校生活ではそうだった。
で、それを正直に感想文に書いたとしよう。
いかにそれがくだらないか、それをとつとつと書いたとしよう。
どういう結果が起きるか?
これは100%の確率で予測可能な未来だ。
わたしの出身中学なら、指導室に半日は監禁され、何発か鉄拳制裁をくらい、2時間は正座させられる。
(人を平気で毎日ぶん殴り、人に2時間も床での正座を強要させ、それでも平然としているのは、それは人としてどうなのよ?と常々思う。わたしはそんな人にはなりたくない。)
だから正直に「これはくだらないものだ」と書くヤツはいない。
皆、いかにくだらないものに対して当たり障りのない感想文を書けるかという訓練をさせられいているわけである。
その結果は一目瞭然で、見るヤツが見たらそれがその場しのぎであることは確実にわかる感想文ができあがる。
しかも全員分が。
これがまだ興味がわく内容ならまだいい。
ところが、そんなものはめったに無い。
キホン的に、児童文学推薦図書とか優良図書とか『こどもに読ませたい』的なオビがついている本とか、そいういう類のヤツは子供が読んでもクソほどつまらない。
オトナの都合で「良い子」の本を選んでいるわけだからクソつまらんのは当然だ。
そしてその反対に、子供たちに大流行したもの、例えば”まいっちんぐマチコ先生”とか”北斗の拳”とか”クレヨンしんちゃん”とかそういう類のものは、たいがいオトナ視点から見たら子供に見せたがらないものだ。
そしてそれらは「良い子」とはかけ離れており、ダーティーな側面がかなり強い。
だから北斗の拳の感想文を書く機会など存在しないのだ。
学校から与えられる読書感想文用の図書は、子供視点から見たら全てつまらない。
国語の教科書に載っているものが子供視点から見たら全てつまらないのも同様である。
だいたい当時の子供だったわたしは、本というと読書感想文用の図書や国語の教科書に載っているものしか知らなかった。
だから本というのはクソつまらないものだとずっと思っていた。
本が好きだという人の感性が1ミリも理解できなかった。
国語が大嫌いになるのも半ば当然である。
そういう本が大嫌いな少年少女はかなり多いだろう。
そして彼らは毎回苦しみながら読書感想文を書いているわけである。
だが仮に、たまには
「自分の好きなマンガやアニメの感想文を書いてみよ」
という宿題を与えたらどうだろう。
きっとさほど苦もなく感想文を仕上げてくるに違いない。
想いのたけを書ききれなくて、ページを超過して書いてくる者も多いだろう。
わたしのように、読書感想文の最後の1ページは「た。」で終わらせる確率が5割以上で、なおかつ99%の確率で最後の1ページは1行しか書いていないなどという、あるいみ手抜きの達人と化した者は生まれなかったに違いない。
(当時のわたしは可能なかぎり少ない情報量で可能なかぎりリソースを浪費する文章を書く達人となるべく訓練されていたのだ。最後のページは「た。」しかないのだからビルゲイツ顔負けのリソース浪費っぷりである。)
わたしのそれがひっくり返ったのは高校時代だった。
とある小説家をめざすダチがラノベをムリヤリ貸してきたことに始まる。
それは冴木忍の”星の大地”だった。
これは初めて本がおもしろいと思った記念となる本だった。
冴木忍の作品は先の例のようなダーディーなオトナのイヤがる主人公が出てくるものはない。
だが、そういった子供が読んでもおもしろい作品を図書室におき、その感想文を書かせるならば、まともな感想文もたまには出てくるであろうと推測される。
きっと、熱き魂のこもった血が通った感想文を書いてくるヤツが出てくるに違いない。
そして、ムダにリソースを浪費する文章を書く訓練をするために感想文を書くのではなく、自分のアタマの中にしまってある魂や感情を整理して文章化するための訓練として感想文を書くのだということを、生徒が書きながらに自然と理解できるであろう。
感想文というのは本来そうあるべきだと思う。
当blogもなるべくそういう記事にしたいと思いながら書いている。
毎日更新するという自分ノルマを達成するためだけにその場でとってつけたような中身のない記事を書くことは唾棄すべきことだ。
そう、当時のわたしの感想文がそうであったように。
社内報に出ていてそれで知ったわけなんだが。
で、社内報にはそれに付け加えて生徒の感想文の一部引用がいくつか載っていたわけだが・・・
これが、なんというかこう、学校の先生に「書けぃ!」と強制されてしょうがないから当たり障りのないことをその場しのぎで書いたような文章だったわけだ。
うちの広報課はそれを大喜びで
「こんな感想もらいました!!」
とでも言わんばかりに大はしゃぎで載せているわけよ。
いやいや、それかなりイタいんだけど。(^^)/☆
思えば、わたしの小中学校での感想文もそんな感じだったな~。
マジでどーでもいいことの感想文を常態的に書かされつづけていて、イヤイヤながらにしょうがないから当たり障りのないことをその場しのぎで感想文を書く日常があった。
当blogはあるいみ毎日なにかの感想文を書いているのに等しいわけで、その頃を思えばなんという変わりようかと自分でもビックリだと思う。
そもそも、なんで小中学校のときの感想文はあんなにイヤだったのだろうか?
これは明白だ。
何の感動もないのに、何も思うところもないのに、『感想文何ページ』というノルマだけ科せられていたからだ。
これは感想文だけではなく、日記でもそうであった。
では、なぜそんなに無感動だったのか?
これも明白だ。
感想文を書かなければならない元ネタが、とてもじゃないけど興味が向くような内容とはかけ離れているからだ。
仮に感想文を書かなければならない元ネタが解脱するほどつまらなかったとしよう。
というか、一般的には解脱するほどつまらなない。
少なくともわたしの中学校生活ではそうだった。
で、それを正直に感想文に書いたとしよう。
いかにそれがくだらないか、それをとつとつと書いたとしよう。
どういう結果が起きるか?
これは100%の確率で予測可能な未来だ。
わたしの出身中学なら、指導室に半日は監禁され、何発か鉄拳制裁をくらい、2時間は正座させられる。
(人を平気で毎日ぶん殴り、人に2時間も床での正座を強要させ、それでも平然としているのは、それは人としてどうなのよ?と常々思う。わたしはそんな人にはなりたくない。)
だから正直に「これはくだらないものだ」と書くヤツはいない。
皆、いかにくだらないものに対して当たり障りのない感想文を書けるかという訓練をさせられいているわけである。
その結果は一目瞭然で、見るヤツが見たらそれがその場しのぎであることは確実にわかる感想文ができあがる。
しかも全員分が。
これがまだ興味がわく内容ならまだいい。
ところが、そんなものはめったに無い。
キホン的に、児童文学推薦図書とか優良図書とか『こどもに読ませたい』的なオビがついている本とか、そいういう類のヤツは子供が読んでもクソほどつまらない。
オトナの都合で「良い子」の本を選んでいるわけだからクソつまらんのは当然だ。
そしてその反対に、子供たちに大流行したもの、例えば”まいっちんぐマチコ先生”とか”北斗の拳”とか”クレヨンしんちゃん”とかそういう類のものは、たいがいオトナ視点から見たら子供に見せたがらないものだ。
そしてそれらは「良い子」とはかけ離れており、ダーティーな側面がかなり強い。
だから北斗の拳の感想文を書く機会など存在しないのだ。
学校から与えられる読書感想文用の図書は、子供視点から見たら全てつまらない。
国語の教科書に載っているものが子供視点から見たら全てつまらないのも同様である。
だいたい当時の子供だったわたしは、本というと読書感想文用の図書や国語の教科書に載っているものしか知らなかった。
だから本というのはクソつまらないものだとずっと思っていた。
本が好きだという人の感性が1ミリも理解できなかった。
国語が大嫌いになるのも半ば当然である。
そういう本が大嫌いな少年少女はかなり多いだろう。
そして彼らは毎回苦しみながら読書感想文を書いているわけである。
だが仮に、たまには
「自分の好きなマンガやアニメの感想文を書いてみよ」
という宿題を与えたらどうだろう。
きっとさほど苦もなく感想文を仕上げてくるに違いない。
想いのたけを書ききれなくて、ページを超過して書いてくる者も多いだろう。
わたしのように、読書感想文の最後の1ページは「た。」で終わらせる確率が5割以上で、なおかつ99%の確率で最後の1ページは1行しか書いていないなどという、あるいみ手抜きの達人と化した者は生まれなかったに違いない。
(当時のわたしは可能なかぎり少ない情報量で可能なかぎりリソースを浪費する文章を書く達人となるべく訓練されていたのだ。最後のページは「た。」しかないのだからビルゲイツ顔負けのリソース浪費っぷりである。)
わたしのそれがひっくり返ったのは高校時代だった。
とある小説家をめざすダチがラノベをムリヤリ貸してきたことに始まる。
それは冴木忍の”星の大地”だった。
これは初めて本がおもしろいと思った記念となる本だった。
冴木忍の作品は先の例のようなダーディーなオトナのイヤがる主人公が出てくるものはない。
だが、そういった子供が読んでもおもしろい作品を図書室におき、その感想文を書かせるならば、まともな感想文もたまには出てくるであろうと推測される。
きっと、熱き魂のこもった血が通った感想文を書いてくるヤツが出てくるに違いない。
そして、ムダにリソースを浪費する文章を書く訓練をするために感想文を書くのではなく、自分のアタマの中にしまってある魂や感情を整理して文章化するための訓練として感想文を書くのだということを、生徒が書きながらに自然と理解できるであろう。
感想文というのは本来そうあるべきだと思う。
当blogもなるべくそういう記事にしたいと思いながら書いている。
毎日更新するという自分ノルマを達成するためだけにその場でとってつけたような中身のない記事を書くことは唾棄すべきことだ。
そう、当時のわたしの感想文がそうであったように。