教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

千早とスーパーアレンジ (上巻)

2009-08-30 00:05:51 | オタネタ全般
わたしはマンガが大好きだ。
わたしはアニメも大好きだ。

しかし!

同じ作品でマンガやらアニメやらゲームやら複数ある場合、あえてどれか1つしか楽しまないようにしている事が多い。
アニメ化より前からマンガを読んでいた場合にはマンガだけにすることが多いし、先にアニメから入った場合にはマンガには手をつけないことが多い。

なぜなら!

先にオリジナルを見てしまった場合、あとで別のメディアのを見ると
「○○が違うじゃねえか!!」
とツッコミたくなるし、

先にメディアミックス作品を見てしまった場合、あとでオリジナルのを見ると
「なんだよこれ、クセが強すぎるんだけど!?」
とツッコミたくなるし、

そもそもそういうツッコミを入れること自体、作品を楽しむ側の立場としてあまり良いものではないと思っているからだ。



まず、世間的に死ぬほどツッコミを入れられた某作品の例を示してみよう。


(出展 ※1)

あらためて言うほどのこともないが・・・

右:Idolm@sterの如月千早
中:Idolm@ster Xenoglossia (アニメ版) の如月千早
右:似ていると評判な某(これはついで)

どう見ても別人である。
顔だけでなく、体格も、性格も、職業も、全てにおいて全くの別人だ。
むしろ共通点を探すのが難しいくらい別人だ。

実際、千早ファンのガッカリようは尋常ではなかった。
たとえば、ご親切にもファンサービスとして72から89にバストサイズをかなり大きく増量しているが、これは完全に裏目に出てしまい、ファンからは
「大きなお世話だ」
と批判されるハメになる。

オリジナルのアイマス愛好家からボロクソにけなされた。
ボロクソにけなされるほど酷い作品でもないにもかかわらず、ボロクソにけなされた。

そして現在では完全にアンタッチャブルな存在として
「げっ、Xenoglossiaかよ・・・」
と言われたり、完全なる黒歴史として無かったことにされていたり、そんな存在として扱われる。



これはXenoglossiaだけの話ではない。
GONZOなんかもよく原作ブレーカーだなんて批判されている。
そして作り手もそれを知っていて、ときどき自嘲気味に用いているのは有名だ。

どの作品であれ、その作品が好きであればあるほど、どんどん些細な違いが気になってくる。
わたしだって違いが気になる。

とはいえ、わたしはそういった事にこだわりすぎて、それで作品全体を否定してしまうような鑑賞をしたくないのだ!

だからわたしは、同じ作品でマンガやらアニメやらゲームやら複数ある場合、あえてどれか1つしか楽しまないようにしている事が多いのだ。

そして時が過ぎ、熱狂が過ぎ、堪能し尽くし、ふと冷静になったとき、そして初めて見ようかと思うのである。

いまならば、Xenoglossiaも「有り」だと肯定的に楽しむことができる。
いまならば、Xenoglossiaの如月千早もサンライズ的なスーパーアレンジ版として満足して見ることができる。
そしていまならば、Xenoglossiaの良さを分かち合うことができるというものだ。

たとえ千早が爆乳年増でも、たとえあずさがシャキッとしていても、たとえ真が1ミリもかわいらしくなくても、それでもサンライズが良かれと思ってやったのだから、サンライズが表現しようとした良かれのところをもう1度見てみようではないか。

単にぶーぶー文句を垂れるだけなら、いつだって誰だってできる。
しかしぶーぶー文句を垂れている間は作品のおもしろさは理解できない。

ちゃんと見さえすれば、Xenoglossiaだっておもしろいのだから。



【※1 出展】

Xbox360版Idolm@sterゲーム中スクリーンショット
Idolm@ster Xenoglossia (アニメ版) 公式サイト
新世紀エヴァンゲリオンTV版第1話



(次回はアンチXenoglossia編へとつづく・・・)