アイドルマスター 千早「恋人を射ち墜とした日」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9014697
「恋人を射ち堕とした日」という歌がある。
詳しくは知らんが、Sound Horizonという音楽ユニットの作品だ。
(上のリンクのタイトル誤字は原文のまま)
細かいことは上のを見ていただくとして・・・
要約すると、魔物化した彼氏を弓で射ち殺す彼女のおはなし。
そういうストーリー性の高い作品になっている。
以前にも当blogで別の絵をつけたMADを紹介したこともある。
この作品、見てみてどうだろうか。
いったいどこに魂がシンクロするだろうか。
ある人なら、恋人を射ち殺さねばならない悲劇のヒロインにシンクロするかもしれない。
ある人なら、魔物化したあげく死を迎える彼氏側の悲劇にシンクロするかもしれない。
ある人なら、全体を俯瞰しそこに漂う悲劇性の世界観にシンクロするかもしれない。
わたしは違う。
そこにはシンクロしない。
これは典型的な悲劇である。
しかしわたしは、そこに悲劇ではないものを見る。
極論すれば、これはある種の理想であろうとさえ思う。
まずこれを語るまえにカフカの「変身」(※1)をひっぱり出してきたい。
細かいことはそれを読んでいただくとして・・・
要約すると、巨大な虫になってしまった主人公は家族に疎まれつつしばらく暮らし、いつの間にやら死んでしまい家族に平和が訪れましたとさ、めでたしめでたし、というおはなし。
こちらも悲劇である。
化物と化した男がけっきょく死んでしまうという意味においてもよく似た話である。
とはいえ、何の救いもない点において「恋人を射ち堕とした日」よりもさらに悲劇でもある。
これの解釈については文学の好きな人たちが多くの評論を残しているのでここであえて書くようなことはしない。
さてこの2つの作品。
根本的に大きく違うところがある。
大きく違うところはいくつもある。
いくらでも挙げられるような気もする。
しかし、特に挙げたいことがある。
それは死ぬ理由についてである。
カフカの「変身」の男は何の意味もなく死んでしまった。
ある意味での自然死でもある。
当人にとってはいつの間にやら死んでしまったという感覚であろう。
「恋人を射ち堕とした日」の男はそうではない。
自らの愛する恋人に愛されながら殺されるのだ。
この違いがわかるだろうか?
よくメロドラマで出てくる題材に
「人はなんで生きるの?」
という問いかけがある。
こんなものは宗教上の理由をつけないかぎり、まともに答えなど出てくるわけがない。
自分が死んだら困る人が出るような人なら話は別かもしれないが、わたしの場合はなおさら関係なくなる。
逆にいうと、わたしはいつ死んでも良いという権利があるわけでもあるが。
人はなぜ生きるのか。
そんなもの今すぐ死ぬ理由がないから単に生きているだけの事にすぎない。
平たくいうと惰性である。
ではどうだろう。
死ぬべき理由が見つかる事はありうるのだろうか。
偶発災厄や身体機能の低下により死ぬ事には選択の余地はない。
ここで言うのはそういう意味ではない。
惰性で生きている理由を上回る死の動機はありうるだろうかという意味においてだ。
それに対する回答というのもいくつかあり得るかもしれない。
家族かだれかを守って死ぬとか。
かつての祖父や曽祖父の時代のように日本を守って死ぬとか。
人によるかもしれないが、こういうのは十分に惰性で生きている理由を上回る死の動機足り得る。
一般に何かを守るというというのは動機に値する。
しかし、それ以外の解もあり得る。
それが「恋人を射ち堕とした日」の男の死にかたではなかろうかと思うのだ。
自らの愛する恋人に愛されながら殺される。
人生の幕を下ろす日としては最高の状態なのではなかろうか。
ここでは
「命ある限り」
という言葉は通用しない。
むしろ
「ある命を使って限りなく」
とでも言っておきたい。
・・・とはいえ。
まあ、たかが生きた人間の女の子が相手ではとてもそうは思えそうにないところだが。
今日はいろんな含みを持たせて「千早に射ち堕とされた日」というタイトルにしてみた。
【※1 変身(カフカ著)】
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E8%BA%AB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB/dp/4102071016/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1260194321&sr=1-1
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9014697
「恋人を射ち堕とした日」という歌がある。
詳しくは知らんが、Sound Horizonという音楽ユニットの作品だ。
(上のリンクのタイトル誤字は原文のまま)
細かいことは上のを見ていただくとして・・・
要約すると、魔物化した彼氏を弓で射ち殺す彼女のおはなし。
そういうストーリー性の高い作品になっている。
以前にも当blogで別の絵をつけたMADを紹介したこともある。
この作品、見てみてどうだろうか。
いったいどこに魂がシンクロするだろうか。
ある人なら、恋人を射ち殺さねばならない悲劇のヒロインにシンクロするかもしれない。
ある人なら、魔物化したあげく死を迎える彼氏側の悲劇にシンクロするかもしれない。
ある人なら、全体を俯瞰しそこに漂う悲劇性の世界観にシンクロするかもしれない。
わたしは違う。
そこにはシンクロしない。
これは典型的な悲劇である。
しかしわたしは、そこに悲劇ではないものを見る。
極論すれば、これはある種の理想であろうとさえ思う。
まずこれを語るまえにカフカの「変身」(※1)をひっぱり出してきたい。
細かいことはそれを読んでいただくとして・・・
要約すると、巨大な虫になってしまった主人公は家族に疎まれつつしばらく暮らし、いつの間にやら死んでしまい家族に平和が訪れましたとさ、めでたしめでたし、というおはなし。
こちらも悲劇である。
化物と化した男がけっきょく死んでしまうという意味においてもよく似た話である。
とはいえ、何の救いもない点において「恋人を射ち堕とした日」よりもさらに悲劇でもある。
これの解釈については文学の好きな人たちが多くの評論を残しているのでここであえて書くようなことはしない。
さてこの2つの作品。
根本的に大きく違うところがある。
大きく違うところはいくつもある。
いくらでも挙げられるような気もする。
しかし、特に挙げたいことがある。
それは死ぬ理由についてである。
カフカの「変身」の男は何の意味もなく死んでしまった。
ある意味での自然死でもある。
当人にとってはいつの間にやら死んでしまったという感覚であろう。
「恋人を射ち堕とした日」の男はそうではない。
自らの愛する恋人に愛されながら殺されるのだ。
この違いがわかるだろうか?
よくメロドラマで出てくる題材に
「人はなんで生きるの?」
という問いかけがある。
こんなものは宗教上の理由をつけないかぎり、まともに答えなど出てくるわけがない。
自分が死んだら困る人が出るような人なら話は別かもしれないが、わたしの場合はなおさら関係なくなる。
逆にいうと、わたしはいつ死んでも良いという権利があるわけでもあるが。
人はなぜ生きるのか。
そんなもの今すぐ死ぬ理由がないから単に生きているだけの事にすぎない。
平たくいうと惰性である。
ではどうだろう。
死ぬべき理由が見つかる事はありうるのだろうか。
偶発災厄や身体機能の低下により死ぬ事には選択の余地はない。
ここで言うのはそういう意味ではない。
惰性で生きている理由を上回る死の動機はありうるだろうかという意味においてだ。
それに対する回答というのもいくつかあり得るかもしれない。
家族かだれかを守って死ぬとか。
かつての祖父や曽祖父の時代のように日本を守って死ぬとか。
人によるかもしれないが、こういうのは十分に惰性で生きている理由を上回る死の動機足り得る。
一般に何かを守るというというのは動機に値する。
しかし、それ以外の解もあり得る。
それが「恋人を射ち堕とした日」の男の死にかたではなかろうかと思うのだ。
自らの愛する恋人に愛されながら殺される。
人生の幕を下ろす日としては最高の状態なのではなかろうか。
ここでは
「命ある限り」
という言葉は通用しない。
むしろ
「ある命を使って限りなく」
とでも言っておきたい。
・・・とはいえ。
まあ、たかが生きた人間の女の子が相手ではとてもそうは思えそうにないところだが。
今日はいろんな含みを持たせて「千早に射ち堕とされた日」というタイトルにしてみた。
【※1 変身(カフカ著)】
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E8%BA%AB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB/dp/4102071016/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1260194321&sr=1-1