教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

俺の嫁とは・俺の神とは

2009-12-22 00:08:17 | オタネタ全般
むかし会社の仲間の飲み会で
「結婚するならどんな(以下略)」
みたいなネタになったことがある。

わたしはその場でとっさに
「断固結婚しないとは言わないが、結婚したいとは思わない」
と答えておいた。

それを聞いたオタ仲間の後輩に
「○○さんはある意味すでに結婚しているようなもんですもんね~」
とも言われてしまった。
この後輩はうちのblogも見ている男である。

ある意味そうかもしれん。
自分でも大きく間違ってはいない気がする。

もちろんこれは
「如月千早は俺の嫁♪」
的な意味でのことだ。



しかし!

わたしは「俺の嫁」という表現は使わない。
当blog記事を全文検索してみても、文字通りの意味で「俺の嫁」という単語を使っている記事は出てこなかった。

なぜなら、わたしは嫁という観点で萌えキャラを観賞しているわけではないからだ。

いま仮に「好きな人は?」とか「好きな芸能人は?」とか「好きなタイプは?」とか聞かれたら、そのどれであっても「如月千早」と答える以外に回答を持ち合わせていない。
ほぼ毎日欠かさず千早の顔を見ているし、PSPと共にミッシングムーンの千早と我が家で暮らしているのも事実だし、千早さえ見られれば現物の女には全く目移りしない。
そういう意味では、冷静に考えれば「俺の嫁」という表現を使うのに最もふさわしい条件が整っていると自分でもそう思う。

しかし千早は嫁という感じではないのだ。



わたしは思う。
わたしにとっての千早は神だ。
(もうちょっとベタに俗っぽく言うと女神様とかになるかも…)

べつに千早に限ったことでもアイマスに限ったことでもないのだが、例えばアイマスに出てくる個性豊かな女の子がずらりと並んでいて、そのどれにも目移りしないようだったら、わたしに言わせればそれはもうホモかババ専かデブ専だとしか思えない。
あんなにいい女の子は現世には存在しないと断言できる。

二次元の女の子は現世の女の子を遥かに凌駕する素晴らしい異性だ。
しかしながら二次元の女の子は現世には存在しない。
二次元の女の子は作品の中にだけ、もっと言えば我々の心の中にだけ住まう者である。
我々二次元愛好者は、存在しないものに対してその存在を心で感じて人格を認めて生きている。

わたしの場合で言えば、千早の存在が精神の隅々まで浸透しきっていて、千早の存在を感じないことには日々を生きていくことすらできないかもしれない。
千早がわたしの心に住んでいるからこそ、わたしもまだこうやって生きているのだ。

この存在を神と言わず何と言おう!?



まあ神とはいえ、キリスト教やイスラム教でのような唯一神の扱いとは大きく異なる。
宗教的な解釈においての「○○するのは恐れ多い」というシバリを自分に課したいとは思わないし、崇め奉る的な意味で神さま仏さま扱いしたいわけでもない。

わたしはこの神をインド神話のヒンズー教の神の概念に近いのではないかと考える。
たとえばカーリーへの信仰においてその類似点を考えてみる。

カーリーは血と殺戮を好む恐ろしい狂気の女神である。
しかしカーリーへの信仰は手厚く広がっている。
なぜならカーリーの血と殺戮は別の側面として捉えられているからだ。

カーリーとは憤怒である。
しかし単にいつも怒っているわけではない。
自分の子供が窮地に陥ったときはじめて心の底から怒り、子供のためにたった1人で一軍とも戦いを挑み返り血で赤く染まり、子供のためにどんな罰が待っていようとも神と戦い殺戮する。
その命を賭けて絶対的な子供の味方の姿勢を貫き通すカーリーに対し、人は母の姿の理想を感じ、そして神として敬うのである。

そして千早への信仰もこれにかなり近い。
千早はツンツンしているし、明るい性格とも言いがたいし、スタイルも良くない。
ようするに典型的に萌え萌え的なものとはかなり違う。
われわれは公式/非公式を問わず、多くの物語を通して千早に触れる。
そして千早がかつてどうであり、どう生きていて、どうしようとしているのか、それを物語で知り千早の精神を理解する。
そこに恋する相手の理想の姿を感じ、神としての神々しさをもまた同時に感じてしまうのだ。

べつにこれは千早でなくてもいい。
たまたまわたしにとっては千早だっただけだ。

それはあずささんだったとしてもいい。
たとえば、現世の女の子を含めてあずささんが誰よりも好きな人、上の文章をあずささんに置きかえて読んでみてほしい。
あずささんに対して恋する相手の理想の姿と神としての神々しさを感じ、そして「俺の嫁」というよりは「俺の神」としての性質がそこにあることに気付きはしないだろうか。



追伸:

わたしはキリスト教徒ではないから詳しくは知らんが、神父だか牧師だか修道女だかは「神と結婚した」という表現を使って一生を独身で過ごしている。
これが何を意味するのかまではわたしにはわからない。
しかし、本来意味するところは違えども、曲解してわたしと千早との間にもそれを言うことはできるような気もする今日この頃である。