「正しく」という時、
何が正しくて、何が正しくないか?を判断せざるをえない。
子供の頃、その判断は簡単だった。
両親や学校の先生や、周りの大人の言ってる事が正しいことだから、
自分で悩むことは無かった。
自我が芽生えると、本当にそうなのか考えるようになる。
葛藤も始まる。
今すぐ私はおやつを食べたいのに
「みんなが揃うまで待とうね」と禁止されると
「嫌~!」と思う。
「どーして?いいでしょ」とふくれながら
先に一人で食べるのは、やっぱり悪いと思う。
みんな揃って食べ始めると、そんな葛藤は忘れてしまうのだけど。
その時なんとなく楽しかったら、次からは我慢できる。
ところが、みんなを待っていたら、おやつを誰かに横取りされて
とんでもなく結末が悪いと、「二度と待つもんか!」と決心する。
こうして私の価値観は、
たまたまその場で起こる偶然の出来事で、どちらかに決める。
正しいか、正しくないかは、
相手や時や場所や経過の中で、刻々と変わり続ける。
日々の経験が止まらないからだ。
つまり、
誰かと逢う事で影響を受けると、今までの価値観がガラリと変わる。
他者との関係の中で変わってゆく。
価値観が変わると行動が変わりはじめる。
行動が変わると結果が変わり始める。
「正しくあれ」は、
現在の私が信じるものに、真摯に向き合えということかもしれない。
私にとっては、少なくとも
他者と対立し、どちらがより正しいかを競うものでないことは確かだ。
何が正しくて、何が正しくないか?を判断せざるをえない。
子供の頃、その判断は簡単だった。
両親や学校の先生や、周りの大人の言ってる事が正しいことだから、
自分で悩むことは無かった。
自我が芽生えると、本当にそうなのか考えるようになる。
葛藤も始まる。
今すぐ私はおやつを食べたいのに
「みんなが揃うまで待とうね」と禁止されると
「嫌~!」と思う。
「どーして?いいでしょ」とふくれながら
先に一人で食べるのは、やっぱり悪いと思う。
みんな揃って食べ始めると、そんな葛藤は忘れてしまうのだけど。
その時なんとなく楽しかったら、次からは我慢できる。
ところが、みんなを待っていたら、おやつを誰かに横取りされて
とんでもなく結末が悪いと、「二度と待つもんか!」と決心する。
こうして私の価値観は、
たまたまその場で起こる偶然の出来事で、どちらかに決める。
正しいか、正しくないかは、
相手や時や場所や経過の中で、刻々と変わり続ける。
日々の経験が止まらないからだ。
つまり、
誰かと逢う事で影響を受けると、今までの価値観がガラリと変わる。
他者との関係の中で変わってゆく。
価値観が変わると行動が変わりはじめる。
行動が変わると結果が変わり始める。
「正しくあれ」は、
現在の私が信じるものに、真摯に向き合えということかもしれない。
私にとっては、少なくとも
他者と対立し、どちらがより正しいかを競うものでないことは確かだ。