怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

実は、私は「隠れ小沢派」

2016年07月14日 | 国際・政治

今回の参院選挙で、小沢一郎が中心の「生活」の党が、比例区で106万票を得て1議席を確保した。

最後の方で滑り込んだらしい。

夜中の4時ころまでは開票速報を見ていたが、眠ってしまい、朝、眼が覚めたら1人(青木愛さん)当選していた。

社民党の福島さんの当選にもほっとしたが、実は私は比例区は「生活」に投票したのです。

私は「隠れ小沢派」なんですよ。

何でか?

戦後日本の政治家で、自民党から一時的にでも国家権力を奪ったのは小沢一郎だけだから。

もちろん、彼一人の力ではないが、彼が中心になって、2度、政権(国家の権力)を自民党から奪った。

一度は細川内閣で。

もう一度は鳩山内閣で。

そして、2度とも、朝日新聞などの「革新的マスコミ」(?)による小沢攻撃と、うまく踊らされた村山や菅直人などの裏切りによって国家の権力は自民党に奪い返された。

言い換えると、当時の社会党や民主党の村山や菅直人、野田、この3人の首相経験者は、国家とは何か、その権力の凄さを知らなかったのだし、自民党は当時の社会党委員長の村山を首相に担いでも政権にしがみつこうとした、それほどに国の権力とは何かを知り尽くしていたということ。

権力を知り尽くしている小沢だから、当時も、今回の野党4党の協力にしても、対自民党の野党協力構築に執念を燃やしていたのだと思う。

とても、ただの「旧田中派」、「金権」などのレッテルで切り捨てられるものではない。

小沢一郎に昔日の面影はない。だが、小沢には余人に代え難い何かがある。

自民党がわが世の春を謳歌している今だからこそ、打倒自民党のために、小沢一郎には舞台から去ってほしくない。

難しいだろうが…。

今回も、何とか小沢が生き延びたことを、日本の世直しのために喜ぶ。

 

「なんで、小沢などを」と言う人もいるだろう。だが、

それほどまでに日本の政治が右に動いている、だから、あまり変わらない小沢が左みたいになってしまった。

社民党が「生活」と国会内統一会派を組むという。これは、単に両党の数が減ったからだけではないと思う。

日本全体が右旋回しており、それをくい止めるためには、社民党は生活の党とも手を組まなければならないのだ。

村山政権のドタバタと、その後の社会党の転落を知る者としては感慨ひとしおというか、言いあらわせない思いがする。

 

1994年、当時の社会党村山委員長が、細川連立政権とそれに続く羽田内閣から離れ、自民党政権のシャッポになったとき、大義として掲げたのは「反小沢」だった。

だが、それは国民・大衆から支持されなかった。

社会党の急転落はここから始まった。

村山社会党は、完全に闘うべき相手を見誤っていた。

当時、居ても立ってもいられなくなった自分は、入社して8年ようやく落ち着いた会社を辞めて、その退職金200万と友人たちのカンパで市会議員選挙に立候補した。勝算もなにもない無謀な選挙だった。

地域の課題を組み上げつつも、村山自民党政権を批判し、消費税5%アップに反対した。

社会党本部からは「勝手に市議選に出馬し、村山委員長を非難している」と社会党を除名された。

今だから言うが、もし当選していたら、全国の社会党員に呼び掛けて“護憲社会党”をつくるつもりだった。

そのための立候補だったし、全国に「社会党はこれでいいのか、無名党員の会」という組織も立ちあげていた。

だが、仲間たちが手弁当で献身的に応援してくれたにもかかわらず、私の力不足で市議選に勝てなかった。

 

そのころからか、小沢一郎には不思議な連帯感を抱くようになったらしい。 

小沢一郎よ、身体を大事にしながら、もうひと働きしてほしい! 

 

 

 

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小沢一郎は、なぜ袋叩きにされるのか? ・・・余談

2012年10月22日 | 国際・政治

[1] 最近の政界は、その動向にあきれはててしまいます。
新聞、テレビで、民主党がどうした、自民党がどうした・・・と報道されていると、見るのが嫌になります。テレビのニュース番組は、以前は好きでしたが、今はチャンネルを変えてしまいます。
気持ちが悪くなってしまうからです。
なぜかなあ…と思ったら、やはり、あまりに私たちの生活がおざなりにされていると感じるから。
あまりに与党や野党が、自分たちの権力争いに固執していると感じるからです。
違いますか?
    
税金で高給を払っているのに、首相とその内閣は、また国会議員は、国民のために汗をかいていますか?
     
NO! NO!
     
[2] 最近、あきれ果てた出来事の一つは、10月19日の「3党首会談決裂」というニュースです。
野田首相は何としても権力を手放したくないと。自民党や公明党は、何が何でも解散だと。
国民のための政治はどこへ行ったのでしょうか?
私たちが、こんなに生活や仕事にあえいでいるというのに。
    
私は民主党も自民党も、もう見限っていますから、呆れはしますが、驚きません。
驚いたのは新聞、テレビのマスコミ報道です。
「党首会談決裂 首相の責任感が見えぬ」(10月20日付、朝日社説のタイトル)、「3党首会談決裂、解散時期『新提案』は幻」(同日、山形新聞3面トップ見出し)、・・・いずれも、批判的には書いていますが、このヤクザまがいの権力抗争そのものを批判していないのです。
なぜ、国会と政府与党が、私たちの生活を忘れ、権力抗争に明け暮れていることを断じないのか、私には不思議でなりません。
   
これとの対比で、印象的なのは、今年7月、小沢一郎が新党結成した時の報道です。
「小沢氏の造反 大義なき権力闘争だ」、「時の政権の足を引っ張る権力闘争ばかりが目についた。」(2012年6月23日朝日新聞社説)。
「(小沢一郎の)政治家としての歩みを振り返ると、政党“破壊”と新党の歴史だ。民主党を分裂させ新党を結成すれば4度目の新党となる」(2012年7月3日付、山形新聞)。
小沢一郎の時は「権力闘争に明け暮れて」と大合唱で避難しつつ、本当の権力闘争を目の前にしては口をつぐむ…これは何なんでしょうか!

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小沢一郎は、なぜ袋叩きにされるのか? [そのⅢ]・・・(書いてる途中です)

2012年07月23日 | 国際・政治

疑問(2) 小沢一郎の25年間とは何だったのか ?

    第二幕:村山連立政権と自民党の復権

     

〈1〉 凄まじい権力への執念・・・自民党

 平成6年(1994年)6月、社会党の村山富市を首班とする自民、社会、新党さきがけの連立政権が成立した。自民党は政権に復帰するため、「水と油」の社会党、それも少数党の党首を首班とする連立政権をつくったのです。

        

   (ここからは、まだ書き込み中です)  

小沢は野党に転落。自民党の権力復帰への執念が見えた。

12月、新進党結成。海部党首、小沢幹事長に。参加議員は、事前の届け出によると、衆院議員178人、参院議員36人、合計214人であった。「自、社、さ連立政権」に対抗するため、急きょ諸党派を寄せ集めた傾向は否めなかった。政治理念や政策の一致にはほど遠かったのではないか。

「自・社・さ」のように権力を握れば求心力ができるが、権力から離れても求心力を維持するためには理念や政策の一致が不可欠になるのではないか。

● 平成7年(1995年)8月、村山内閣から橋本内閣に。自民党が名実ともに政権への復帰を果たす。

● 新進党は平成6年の結成後、政権獲得できないまま、小沢、反小沢の党内抗争が激化し、羽田孜等の離党もあって、平成9年(1997年)12月、解党へと追い詰められていった。

● 平成10年(1998年)1月、自由党を結成。小沢党首に。衆院議員42名、参院議員12名の計54名の国会議員で発足。

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小沢一郎は、なぜ袋叩きにされるのか?  [そのⅡ]

2012年07月16日 | 国際・政治

疑問(2) 小沢一郎の25年間とは何だったのか ?

        第一幕:自民党離党・・・細川連立政権樹立     

            

〈1〉 自民党の長期一党支配が崩れた!  

 一見すると、小沢氏の「政党破壊と新党の繰り返し」は、自民党に始まり、新政党、新進党、自由党、民主党、そして今度の新党「国民の生活が第一」・・・と、マスコミの言うとおりでした。

 しかし、視点を少し変え、「政党破壊と新党」という “形態” だけでなく、その繰り返しを通して貫かれているもの、変わってきたものは何か・・・を見てみると、様相はまったく違ってきます。

 すなわち、この25年間に政治の世界で何が起こったか?

 自民党の長期一党支配が崩れたことではないでしょうか。

  「自民党は倒せない」、「日本の政治は変わらない」と諦めていた私たちに、自民党の内部から分裂が起こり、「2大政党」の政治をつくってみせたのが、この25年間だったのではないでしょうか。その大きな役割を担ってきたのが小沢一郎という政治家だったのではないでしょうか。

 しかし、後述しますが、自民党も倒れてばかりはいませんでした。

 凄まじいばかりの権力復活劇を見せつけてくれました。

      

〈2〉 第一幕: 細川連立政権の樹立と崩壊 (この節は敬称を略します)        

● 平成元年(1989年):小沢、竹下派から47歳の若さで自民党幹事長に。

● 平成4年(1992年):東京佐川急便事件により、小沢の後ろ盾であった金丸竹下派会長が派閥会長を辞任、議員も辞職。その後の竹下派内の抗争で、小渕恵三や梶山静六等に敗れ、羽田孜、渡部恒三等と「改革フォーラム21」を旗揚げ。

● 平成5年(1993年)5月:小沢一郎、著書『日本改造計画』を発表。「国際貢献」や「経済改革」と合わせて、「政権交代可能な二大政党制のための政治改革」を強調した。70万部を超えるベストセラーに。

● 平成5年(1993年)6月:小沢等の「改革フォーラム21」は野党から提出された宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党を離党。衆院議員36人、参院議員8人の計44人の国会議員で新生党を結成。党首は羽田。小沢は党代表幹事に。

不信任案可決により宮沢内閣は解散、総選挙へ。

● 7月:第40回総選挙。自民党は前回の275から223議席に減少。与党の過半数割れに。社会党は136から70議席に激減。新生党55、公明党51、日本新党(代表:細川護煕)35、新党さきがけ(代表:武村正義)13など…新党が躍進。新生党は、自民、社会に次ぐ第3党となった。

● 8月:新生党、日本新党、新党さきがけ、社会党、公明党などの8党会派で「非自民・非共産」の細川連立政権を樹立し、「政治改革」を掲げた。。

38年間続いた自民党の一党支配が崩され、「わが世の春」を謳歌してきた自民党が権力の座から追い落とされた。「自民党の政治は変わらない」と諦めていた多くの国民にとって、これは画期的なことだった。

小沢はその中心的役割を担った。

だがしかし、自民党に対抗できる政党が育ち「二大政党制」になったということではなく、あくまでも一時的な8党派の寄せ集めという脆いものであった。自民党は、復権のために、そこに楔を打ち込んできた。

 連立政権樹立後、細川政権下で、連立与党の中心である小沢と、政府の要である官房長官の武村との対立が激化したことも大きい。

● 平成6年(1994年)1月:細川連立政権のもと自民党との合意によって、小選挙区比例代表並立制導入の「政治改革法案」が成立した。

● 4月:「国民福祉税」構想の混迷などもあり、細川首相辞任。

同年4月:羽田連立政権発足。

同年4月:社会党、連立政権から離脱。羽田政権は少数与党に。

● 6月:自民党によって羽田内閣不信任案が提出される。羽田内閣は解散・総選挙を断念し、総辞職に追い込まれた。64日間の短命だった。

 ・・・・・ 長い間の自民党長期政権を倒す試みとしての反自民連立政権は、細川、羽田内閣を経て、成立から1年足らずの327日で頓挫した。

 再び自民党が政権に返り咲くが、その手法はあっと驚くものだった。 

                            ・・・・・ [そのⅢ]に続く。

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小沢一郎は、なぜ袋叩きにされるのか?  [そのⅠ]

2012年07月06日 | 国際・政治

疑問(1) 小沢一郎は権力闘争に明け暮れる「壊し屋」なのか

    

①  “反小沢”のマスコミ論調と、その今日的役割は?

 小沢氏の消費税増税法案反対と、引き続く新党結成への動きは、「高揚感ない船出」、「『軍団』溶解、たそがれ感」(2012/7/3山形新聞)…などと叩かれています。

 NHKの「NEWS WEB」は、「小沢氏にとって4回目となる新党結成。その先行きは、これまでのなかで、最も厳しいものとなりそうです」(2012/7/12)と心配しています。

 朝日新聞の「小沢嫌い」は、感情的のようにさえ見えます。

 6月23日の社説は「小沢氏の造反 大義なき権力闘争だ」と大見出しを打ち、「今回の行動は『大義なき権力闘争』にしか見えない。」、「民主党が掲げた『国民の生活が第一』の旗印は色あせた。」、「時の政権の足を引っ張る権力闘争ばかりが目についた。」、「首相の置かれた状況は厳しいが、妥協は不可能だし、すべきでもない」と煽っています(2012/6/23朝日新聞)。

 7月3日の社説は、さらに大胆に踏み込んでいます。「(小沢氏らに)除名処分を科してきっぱり決別するのが筋である。」、「そのうえで、民、自、公の3党協力の枠組みを延長国会の懸案処理に活用する。協力すべきは協力し、政治を前に進める」と民、自、公の大連立を推奨しています(2012/7/3朝日新聞)。

      

 「除名処分」云々と、報道の客観性が求められる大新聞が、はたしてここまで政治の一方に肩入れしていいものか…と、首を傾げるほどです。

 同時に注目すべきは、朝日新聞が「大連立の邪魔者は小沢だ」と見たてているということです。もし、大連立のために「小沢切り」を煽っているとすれば、朝日新聞は「大連立の露払い役」を買って出たということです。それは、戦前のマスコミ報道転落の道に通じるのではないでしょうか?

                

② 「政党破壊と新党の繰り返し」という “表面” だけの小沢批判

 確かに、小沢氏には非難されるようなことが多いのかもしれません。

 一審で無罪となったとはいえ、政治資金規正法違反事件は今なお二審で審理中の身です。またマスコミ報道を見る限りでは、小沢氏は包容力や説得力に欠ける独断的な政治家のようです。

 しかし、私たちは政治家と間近で接することはできませんから、小沢氏の人柄は分かりません。

 また、政治資金の問題にしても、あまりにも「黒に違いない」という見立てにもとづく検察の捜査やマスコミ報道が多かったのではないでしょうか。捜査報告書を偽造してまで小沢氏を裁判にかけようとした検察の偏向、それをおざなりにしか追及しないマスコミ・・・、だから、かえって真実が私たち一般人には分かりにくくなっているのです。          

 小沢一郎なる人物は、なぜこれほどまでに批判されるのか?

 にもかかわらず、なぜ「小沢軍団」と言われるほどの国会議員を集められるのか?

 小沢一郎なる人物は、分かるようで分からない。

 そこで、小沢一郎なる人物が、1989年、自民党幹事長になったところから、今日の民主党離党、「生活が第一」の党旗揚げまで、25年間の政治的軌跡を、じっくりと見直してみました。

      

 マスコミの小沢評は驚くほど画一的で、次のようなものです。

「(小沢一郎)の政治家としての歩みを振り返ると、政党 “破壊” と新党の歴史だ。民主党を分裂させ新党を結成すれば4度目の新党となる」(山形新聞2012/7/3)。そして朝日新聞のように、「権力闘争に明け暮れる小沢一郎像」が喧伝されているのです。

 しかし、事実はどうなのでしょうか?

                          ・・・・・ [そのⅡ]に続く。

? なお、書き始めたのは7月6日ですが、日常の仕事に追いまくられたり、書き直したりで、ここまでを書きあげたのは7月17日になってしまいました。そのため、7月6日よりも後のマスコミの引用などが混じってしまいました。ご容赦ください。

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