日本では、あのヒットラーが侵略と虐殺の戦争に利用したベルリンオリンピックについて語られることは少ない。
今また、コロナとたたかい、全世界の民衆の生命をまもるために平和と友愛のオリンピック精神の発露に努めるのか、それとも、政治的野望や個人的名誉(利益も)のためにオリンピックを利用するのか、二つの道の前でたじろぎ迷っている、それが日本のオリンピック界ではないだろうか?
1936年8月、ナチスドイツの領袖ヒットラーとその信奉者たちが推し進めたベルリンオリンピックこそ、歴史に残る欺瞞と野望のオリンピックだった。オリンピックはここから大きく狂いだした。
平和の祭典のはずのベルリンオリンピックからわずか3年後、1939年9月1日、ナチスドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火ぶたを切った。
第二次世界大戦中の全世界の死者総数は5000万人とも8000万人とも言われる。
一体、ベルリンはなんのためのオリンピックだったのか?
ヨーロッパとアメリカではベルリンオリンピックボイコット運動がおこった。これはオリンピックの歴史で初めてといわれている。
しかしボイコット運動は成功しなかった。
その大きな要因はアメリカのオリンピック委員会がナチスに協力し、積極的にベルリンオリンピック推進にまわったことである。そしてその中心こそアメリカオリンピック委員会の委員長アベリー・ブランデージだった。
彼は後に国際オリンピック委員会の第5代会長を務めた。親ナチスの彼が、平和の祭典オリンピックの会長に登りつめたのだ。
なぜ彼が? 彼がオリンピックの会長にふさわしいのか?
日本に関することで言えば、ベルリンオリンピック平泳ぎの金メダリスト前畑秀子についても知っておくべきではないのか?
単に称賛されているだけのようだが、ヒットラーの野望に協力することになっていることをどう考えるのか?
当時の日本の状況ではやむをえなかったかもしれない。
だが、世界的なスポーツ選手であればこそ「政治とは無縁」ではなく、平和のためにできることをすべきだと思う。
現に世界的にはヒットラーのオリンピックに対するボイコット運動も起こっていたのだから、取り得る道はさまざまあったと思われる。。
そのときの態度は永遠に汚点としてのこるに違いない。
ギリシアから運ばれてきた「聖火リレー」は、日本国内では、あたかもオリンピックの神聖さのシンボルのように見られているが、意外や意外、あれを始めたのは残虐の極みのナチスでありヒットラーなのだ!
今こそ、日本のオリンピック選手の一人ひとりが、平和と友愛のオリンピックのために何ができるか、何をすべきか、を考えてほしい。
日本では、今までのところ、
「コロナから一人ひとりの生命を守るために私はオリンピックをボイコットする!」
「コロナから世界の子どもたちを守るためにボランティア運動に集中する‼」
というスポーツマンとスポーツウーマンが一人もいないらしい。これは余りに寂しいことではないのか??