『 「寛永15年の36人もの磔刑によって、白岩百姓は息の根を止められた」ように思っていました。だが、「息の根を止められた」とばかりは言えなかったのです。 』(ニュース「前回のまなぶ会報告」から)。
ご意見等、お知らせください。
『 「寛永15年の36人もの磔刑によって、白岩百姓は息の根を止められた」ように思っていました。だが、「息の根を止められた」とばかりは言えなかったのです。 』(ニュース「前回のまなぶ会報告」から)。
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毎度のことなのですが、今年も段取り良く確定申告をする、とはなりませんでした。
3月15日までに申告すべきところ、申告書づくりの準備にとりかかったのが17日の日曜日。18日の月曜日は仕事時間中も領収書類とにらめっこして、出来上がったのが18日の夜の10時ころ。
いつも遅いのに、18日ころから「遅れたら受け付けてくれないんじゃないか?」、「滞納税が取られるんじゃなかったか?」…などと心配になり(太っ腹じゃないんですよ)、19日の朝、慌てて税務署に行った次第です。
先週は3.11で石巻の大川小跡に行き、そのブログへの報告に時間がかかり、とても確定申告どころではなかったんです。
「どっちを優先して取り組むか?」となったら、自分の税金のことよりも尊い生命を奪われた子どもたちのことが先に違いないですよね。
19日、税務署はガランとしてました。
でも税務署の人が待機していて「はい」と気軽に受け取ってくれ、「延滞税が掛かるんですか?」という質問には、「追徴ではなく、還付だから掛からないよ」とやさしい(?)返事でした。
なーんだ、源泉徴収で取られすぎてたのか…?
※ これで一段落と思いきや、保険相談所の仕事が山のように溜まってました。さらに明日までには、今度の日曜の「白岩義民にまなぶ会」のニュースもつくらなくちゃ!?
Ⅰ) なぜ河川敷に小学校を建てたのか?
2度と同じような悲劇を繰り返さないために、はっきりと言わせていただきますが、大川小学校跡を歩きまわって、私が一番に強く思ったことは「津波は天災であっても、その被害がこんなにも大きくなったのは人災だ」ということです。
大川小学校は北上川の河川敷にありました。町があり、その中心に小学校がありました。集落や学校が建っていた地域は海抜1mから2m。北上川の流れとは3メートル程の高さの堤防で仕切られていただけでした。
一番不思議に思うのは、「なぜ、こんなところに学校をつくったのか!」ということです。そして、その危険なところの小学校が「地域の避難所」になっていたことです。
私が通っていた山形県寒河江市の白岩小学校と白岩中学校は山の上にありました。町は寒河江川の川沿いに発達していたのですが、学校だけは町の中ではなく山の上に造られていました。
毎日、学校まで10分~15分ほど登り、自宅からは30分近くかかったと思います。グラウンドは小・中共用で、野球のボールなどが崖下の墓地に落ちていったものです。
そんな私の経験からすれば、川沿いに、それも津波の危険を考慮すべき地域で海抜1~2mの所に小学校を建てる! あり得ないことです。なぜ山の上に建て、そこを避難所としなかったのか?
「なぜすぐに逃げなかったのか?」 「どうして裏の山に逃げずに、川の方へ避難したのか?」・・・など、いくつもの疑問があるでしょう。
しかし、まずはハード面で、なぜあんな低い所に学校を建てたのかが問題です。
そして、ソフト面では、当日の避難行動の疑問点や津波に備えた防災対策の欠如が問題になります。
危険な場所にありながら、その無防備ぶりは驚くほどです。
これらは大川小学校だけの問題と言うよりも、現代日本人が巨大リスクに眼を塞いでいるのではないかという根本的な疑問につながります。
先人たち、少なくとも第二次大戦直後までの日本人は「万一」に対する恐れを持っていたと思うのです。白岩小学校の例だけでなく、社会のすみずみに見受けられるのです。貧しかったが子どもたちの安全を大切にしてきたのではなかったでしょうか?
Ⅱ) 第2、第3の大川小学校の危機が全国各地にある!?
3.11大災害から2年、この間、被災地など各地をまわりました。
特にダムを調べてまわりました。
あなたはご存じでしたか?
3.11大地震で福島の藤沼ダムが決壊し、7人の生命が奪われ、1才の男の子が今も行方不明だということを。
「えー! 地震でダムが決壊するの?」
驚きでした。
決壊現場を、自分の目で確かめようと足を運びました。総貯水容量150万トン の比較的に小さな灌漑用ダムなのに、ダム津波となって流れた濁流は凄まじい力で襲いかかってきました。
福島だけではありませんでした。
5年前の岩手・宮城内陸地震(マグ二チュード7.2)でも、荒砥沢ダム(総貯水容量1413万トン)のすぐ上で日本で最大規模の山の大崩落が起き、危うくダムが決壊するところだったのです。ダム管理事務所の人の話では「流れ込んだ土砂によって6mのダム津波が起きた」「危なかった」ということでした。
あなたの町ではダム決壊の心配はありませんか?
海岸線では津波が危険です。
しかし内陸部では、山とダムの多い日本、ダム決壊の危険が大きいのです。
「第2、第3の大川小学校の危険」と私が言うのはこのことです。
それぞれに自分の足元を見つめ、巨大リスクから逃げず直視し、子どもたちをはじめ多くの人たちのあんしん・安全を考えていく。それが苦しみもがきながら、尊い生命を奪われていったこどもたちへの償いではないでしょうか。
「想定外」という言葉の虚しさ、そんなことを、あの大川小学校の子どもたちに語れるでしょうか?
私の住む山形県の村山地方には多くのダムがあります。
最大は月山の中腹に造られた寒河江ダムです。総貯水容量は1億900万トン。
この真下と言っても良い西川町に、昨年、5つの小学校を統合した西川小学校が完成しました。
驚くことに、この小学校は寒河江川の川沿いに造られました。外観だけは立派ですが、肝心の子どもたちの安全はどうなっているのでしょうか?
地震でダムが決壊したらひとたまりもないでしょう。大川小学校を上回る悲劇が起きるのでは・・・と心配でなりません。
ここだけではありません。寒河江市の醍醐小学校も寒河江川の川沿いです。立派な建物が造られ、集落の避難所になっているそうです。
山形市の東沢小学校は、蔵王山系の麓にある蔵王ダム(総貯水容量730万トン)の真下、馬見ケ崎川の川沿いです。
どうしてこんなにも安易に小学校や中学校が海沿いや川沿いにつくられているのでしょうか?
安全性よりも経済性が優先になっている? そんなことがあってはなりません。
こんな現実に眼をふさいでいませんか?
もう一度、亡くなった大川小学校の子どもたちのために、自分たちの足元から巨大リスクを見つめなおしていきませんか?
・・・・・ 3.11に思ったこと (リスクコンサル・ネット会員) 東海林正弘
昨年訪ねたときは、惨禍としか言いようのない事実に圧倒され、周りを見ることもできませんでした。今回は、少し見渡せました。
慰霊碑の前に佇みました。大川小学校の跡地をまわり歩きました。唯一の避難路だったかもしれない裏山も間近に見ました。北上川の上流や下流も車で走ってみました。
しかし、ご遺族の方の苦しみを到底理解できたわけではありません。
ただ、一番に思ったのは、亡くなった子どもたちの心情です。
水の中は、さぞ冷たかったに違いありません。
奔流となったどす黒い水にふりまわされ、どんなにか怖かったことでしょう。
何かに叩きつけられ、打ちのめされたかもしれません。
「おかあさーん!」と叫びつづけたかもしれません。
でも、声をあげることすらできなかったに違いないのです。
あなた方を救う力が、私にはなんにも無いのです。
私は無力です。
大人として恥ずかしい。
私にできることは、第2、第3の大川小学校の凄惨を起こさないように、全力を挙げて取り組むことです。
あなた方の激しい身体と心の痛みを、もう2度と繰り返してはならない。
それが、3.11地震前には何もできなかった愚かな大人の償いに違いないのです。
・・・・・ 3.11に思ったこと (リスクコンサル・ネット会員) 東海林正弘
(当日の写真などは後日、掲載します)
昨年は亘理町の慰霊祭に参加させてもらいました。
この2年間、被災地を何箇所かまわってきて、これからの自分の立ち位置というか、原点になりそうなのが大川小学校の跡地でした。
あそこに立っていると、「リスクコンサルタント」を自称してきた自分たち損保業界の者が如何に無力であったか、如何にリスクを直視していなかったか、悔まれてなりません。
そして、自分たちの足元を見つめてみると、大川小学校と同じような現実があちこちにあるのです。
第2、第3の大川小学校の子どもたちを出してはならない!
そう痛感するのです。
今年の「3.11」は石巻の大川小学校跡に行くことにしました。
どなたか一緒に行きませんか?
◆ 当日の予定は、
① 12時~13時30分、
大川小学校跡地で慰霊(式典があるかは分かりませんが、)
② 14時30分~16時、
石巻市の犠牲者追悼式に参加、献花の予定です。河北総合センター。
※ 急ですが「一緒に行こうかな」という方はご連絡ください。
ずうっと見たかったのですが、2月はメチャクチャ忙しくて行けずじまい。
このままだと、山形の片田舎では終わってしまうとの焦りが出てきて、
「えーい!」との気合で見てきました。
良かったですよ。
本とはまた違う味わいでしたが。
ミュージカルなので、映画の中の歌もよかった。
普段、無縁な生活をしている自分には脳みその中まで洗われるようだった。
ちょっと残念だったのは、日曜の夜8時25分からの上映ということもあったからか、映画館の中には観客一人(私だけ)だったこと。
怖いくらいだったなあ…。