常に「わが道を行く」を信条とする者にとって、最近の検察、マスコミ、政界の動向は大いに疑問。
おいおい、おかしいんじゃないの?
ⅰ、「説明責任」が叫ばれている。一般的には悪いことではないから、誰でも言いやすいし、誰もが反対しづらい。しかし、ちょっと待てよ。
戦争の時もそうだったろうが、みんなが言う時は危ういぞよ。ちょっと、自分の頭で考えてみよう。
「説明責任」はいい、しかし、誰に、何を求めるかは問題じゃないの?
第一に求められるべきは検察の説明責任ではないのか!
何のために、どのような犯罪容疑で、国会議員を逮捕したのか、を。
小沢氏の説明責任は、この次の問題ではないのか。
権力を使って、国会議員まで逮捕した側が、その理由を国民の前に明らかにしていない。これは異常なことではないのか。
通常なら、警察でさえ、記者会見などで逮捕に至る経緯や理由を公表するのではないか。それなのに、こんな重大事態に、検察は、国民に向かって、何の説明もしていない。
おどろくべき検察の横暴である。
ⅱ、なのに、権力に対して批判的精神を堅持すべき新聞、テレビが、小沢一郎には「説明責任」を叫びながら、検察に対しては何の説明責任も求めていない。それどころか、
逆に、検察の流す情報を、大声で世間に広めている。
マスコミが、小沢一郎という時の権力者を批判するのはいい、しかし、もう一つの権力である検察の「お先棒」を担ぐのでは情けない。
マスコミの記者諸兄姉に問う。
あなたがたの記者魂はどこにいったのか?
その批判的精神は何処に?
本来、マスコミは自らの調査報道を基本としていたのではないのか?
無批判に、検察情報をスピーカーのごとく喚き立てることを恥と自覚してほしい。
本当は、検察が政治的すぎるのではないかと疑う。
「巨悪はここだ」と見込みを立て、徹底的な見込み捜査をすすめ、その包囲網造りにマスコミなどを通じて世論を誘導する。
表だって説明責任を果たさなければ、自らの行為責任も問われないということか?
ⅲ、自分の肩の上にあるのは自分の頭?!
若い時、勉強会で、私の尊敬する先生によく言われたのは、「自分の肩の上に自分の頭を」ということ。
これは、第二次大戦という未曽有の惨禍を体験したからこそ言いたかったのではないか。
無批判に社会に迎合するなかれ、と。
戦争への奔流に逆らうのが、いかに難しいか。
奔流となる前に、多くの人々が批判的精神をもって社会の健全性を守り、強めていかなければ・・・と。
小沢一郎を批判するのも結構。しかし、社会の流れに呑まれて、口うつしのように「小沢の説明責任を」などと言うだけでは、あれっ、あなたの頭は自分のモノ?・・・と疑われてしまうのではないか。
2~3日前のテレビで、ジャーナリストの江川紹子さんが言っていた。
「東京地検がすべて正しいかのように報道されているのは疑問だ」「過去にも、福島県知事の問題など、大きな問題として騒がれても、裁判など後になるにつれて、どんどん小さな問題になっていった事件が幾つもある」と。
「さすがー、江川さん」と、拍手しました。
だって、そうでしょ。時々問題になる冤罪事件、あれは警察が問題にされているが、一番の責任は検察にあるはず。検察だって間違うんですよ。
こういう風に、大勢とちょっと違う人が居てこそ民主主義が成り立つと思うのです。
ⅳ、「取り調べの全面可視化」
地方紙の一つ、山形新聞1月18日版に、次のような記事が載っていた。
石川容疑者の弁護人が「石川容疑者に対する取り調べ全過程の録音・録画(全面可視化)などを求める申し入れ書」を東京地検や法務省に送付した…と。
へたな「説明」よりもこれはいい、と思うのは私だけ?
検察庁情報の喧伝に忙しい朝日新聞などは、なぜか、この記事を掲載していないようだ。私の見過ごしでなければだが。
国民も、私も、本当のことが知りたいのだ。
ⅴ、蛇足
こんなに検察やマスコミを批判したからと言って、私を捕まえないでくださいね。
この前、つい、急いでいたのでスピードをオーバーしたかもしれません。
運転中、携帯が鳴ったので「はいはい」と、ちょっとだけ電話に出ました。だって、お客さんからの交通事故の連絡かもしれないのですから。
やっぱり、検察や警察が、国民になんの説明もなく、逮捕などを行う社会になったら怖いんですよ。
みんなで監視するというか、国民が検察や警察を統治する、それが本当の民主主義ではないのかなあ。政治権力も、国民が選挙で決めているように。